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<25・勇者の行軍>
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薄緑色のマンション――その名を、“ロイヤルコーポ翠子”。新築の頃は公開緑地と駐車場を兼ね備えた、安価でありながらピカピカの綺麗なマンションであったのだろうと思われる。純也にホームページを見せてもらったので貴美華も知っているのだ。写真に写っているマンションと、今自分達の目の前にあるマンションがあまりにもかけ離れた姿をしているということは。
「……このマンション、まだ十年も過ぎてないはずなのに……ボロボロだ。管理されてないからか」
貴美華はスマホ画面とマンションを交互に見ながら呟く。
「話が本当なら、今は誰も住んでない、んだったよな?でもってここも例のごとく事故物件ですよ、と」
「そうですね。事故物件を検索できるアプリがあるんですけど、このマンションも見事に引っかかってきます。まあ、翠子住宅地そのものが事故物件の密集地帯なんですけど」
「まあそうでしょうな!」
ぴぴぴ、と純也がアプリを起動させて画面を見せてくれた。貴美華とチョコは仲良くその画面を覗き込む。
ロイヤルコーポ翠子。管理人が常に駐在しているわけではなく、オートロックがあるわけでもないという面でセキュリティが万全なわけではなかったが、広い駐車場と日あたりの良さなどの立地が売りで、かつ安価ということで大々的に売り出されたマンションであったようだ。
ところが、住民たちが次々入居して半数以上の部屋が埋まったところで、まずその駐車場でいきなり事故が起きた。男の子が遊んでいることに気づかず、住人の一人が駐車場に車を入れるべくバックしてしまい、そのまま後ろから幼児を轢き殺してしまったのだという。しかも、その死に方が相当凄惨なものだったようだ。ゆっくりとした速度で縁石とタイヤの間に挟まれてしまった幼児は即死できず、長い間に踏み潰される激痛に泣き叫んでいたのだという。しかも運転手は、パニックになってずっとアクセルから足を離すことができなかったのだそうだ。
何が恐ろしいって、その運転手。高齢ドライバーだったからうっかり踏み間違えたというわけでもなければ、ただの後方不注意でもなかったということなのである。彼は駐車場に車を入れようとした時、目の前に突然血だらけの女が降ってくるのを目撃したというのだ。それを避けようと焦って、後ろの確認をしっかりせずにバックさせてしまい、子供を轢いてしまったのだという。
翠子住宅は、元は旧翠子団地だ。自殺者もそこそこの数出ているとされている。降ってきた女というのも同じく団地で飛び降りて死んだ女なのかもしれなかった。降ってくる最中から血まみれだったというのが少々気になるところではあるが。
加えて、駐車場の事故を皮切りにトラブルが続出した。
立ち入り禁止にしてあったはずの屋上から、一人暮らしの男性が飛び降りて自殺。
母親が出かけている数分の間に、六階のベランダから女の子が転落して死亡。
さらに一人暮らしの女性の家には強盗が押し入り、彼女をマンションの一階まで何度も切りつけながら追い詰めた挙句、駐輪場でメッタ刺しにして殺害。財布を奪って逃げたその強盗も、マンションの前で車に撥ねられて死ぬという事態に陥った。マンションが完成してから僅か数年の間に、恐ろしい数の人が次から次へと亡くなる結果となっているのである。ここに、無関係かどうかわからない高齢者の孤独死なども含めると――その数は、ふた桁以上に上るのではないかとされているのだ。
当然、そのような不審な事故や事件が立て続けに起きるようなマンション、何か曰くつきではないかと疑う者が出るのも当然のことである。住民達は波が引くようにいなくなっていった。管理人も、初代管理人が事故で半身不随になってから求人を出しても誰も応募してこなくなったらしく、結果マンションは住人も管理人もいない状態で長らく放置されることになってしまったのである。
不動産会社は、この幽霊のようになってしまったマンションをどうするべきかと心底頭を悩ませている状況であるらしい。なるほど、住む人間も管理する人間もいなくなった建物というものはここまで魂を抜かれたような状態になってしまうのか、と感心させられるほどの有様だった。溜まっている瘴気も、随分と密度が濃く澱んだものである。
「長居しない方が良さそうだな」
一階から、八階。下から上へとゆっくり見上げながら、貴美華は唸った。
「此処こそ、地縛霊の温床だ。……これ、何か内部構造に問題があるんじゃないか?地下か支柱に、呪物でも埋まってるとしか思えないんだけども」
「というと?」
「普通、死んだ人間の霊ってのは、未練でもない限りそのまま成仏していくもんなんだよ。まあ、天国やら極楽やらなんてものが本当にあるかどうかわからないから、“成仏”って言い方が実際正しいのかはわからないんだけど。未練がなくなって、かつ誰かに囚われているわけではない幽霊はどこか別の場所に行くってのが死者の仕組みなんだ。この世にとどまっている霊があるとしたら、それには当然なんらかの理由があるってことなんだよな」
「未練があって成仏しようにもできないか、何かに捕まったってことですね?まあ、使役霊になるのも広義の意味では後者になるのかな」
「そうだな。……このマンション、未練がない霊も成仏できないで“捕まってる”ように見えるんだよ」
貴美華の目には、一階から八階まで、うぞうぞと蠢く霊達の影がはっきりと見えていた。その大半は、目的もなくうろうろしているだけで特に害がある様子ではない。中には死んだことが悔やんでも悔やみきれず、その場に地縛霊として留まり、その悔しさを生きている人間にぶつけてやろうなどという悪霊になってしまった存在も混じってはいるようだが。
「……マンションに捕まってるのが、マンションで死んだ霊だけじゃなさそうってのがな。マンションが立つ前にこの土地で死んだ霊なのか、あるいは他の翠子住宅や旧翠子団地時代に死んだ霊まで引き寄せてるってことなのか。なるほど、アルベースの狼が悪巧みをするためのアジトにしたくなるのも頷ける。これだけ瘴気が溜まってたら、アテられて恨みつらみを増幅させる付喪神が多くてもおかしくないだろ」
八階、なんて逃げにくそうな高い場所にアジトを構えているのも、何か理由があるに違いない。貴美華は開いた状態で固定されたままの自動ドアをくぐると、そのままエレベーターホールへ踏み出した。落ち葉や泥が溜まり、錆だらけになったポストがずらずらと並んでいる。一部は溢れそうになったチラシの類を突っ込まれて、パンパンに戸を膨れ上がらせていた。今は誰も住んでいないなら入口そのものを閉鎖しておけばいいものを、と思うものの、不動産屋としてはまだ売りたい気持ちがあるからそのままにしてあるのだろうか。
これでは下見に来た客達も、部屋を見るより前に住む気を無くしてしまう有様ではなかろうか。本当に売るつもりなら、なんとかお祓いと掃除は済ませておかなければお話にならないのにと思う。それとも不動産屋の上層部には、未だ頑固に霊も呪いも信じておらず、偶然だと突っぱねている人間がいるのだろうか。
「エレベーター、動いてるんです?八階ですよね?」
純也がエレベーターの中を覗き込みながら言う。
「俺はともかく、貴美華さんとチョコ君は、八階まで階段で上るのはキツいような気が……あ、でもなんか無理そう」
「気づいたか、純也」
はああ、と貴美華はため息をついた。
確かにエレベーターはまだ電気が通っているし、動いてもいるようだ。だが――“そこ”から漏れてくる空気は到底無視できるものではないのである。
一階に止まったままのエレベーター。時折パチパチと電気を瞬かせる箱の中からは、異様な気配が漂ってきているのだ。純也は自分ほど見えてはいないだろうが、それでもなんとなく察知したのだろう。
天井の窓が、小さく開いている。
その隙間からこちらをじっと覗いている血走った目玉があるのだ。恐らく、エレベーターに生きた人間が乗り込んだ直後、なんらかの楽しくない悪戯を仕掛けてくれるのは想像に難くないことだろう。エレベーターのドアに人を挟んでこようとするのか、ロープを切って突き落とそうとするのか、あるいは少しばかり中を揺らして怖がらせる程度で済ませてくれるのかはわからないが。
「まあいいさ。八階まで階段で行こう。体力には自信がある、なんとかなるさ。それに、選択肢は他にないみたいだしな」
「げ」
チョコは心底嫌そうな声を上げた。一階の居住エリアの方から、ぺたん、ぺたんと歩いてくる足音がするのである。物質としてきちんと具現化されている――幽霊ではなく付喪神であることは明白だった。しかも厄介なことに、その後ろにはその存在が集めたのであろう怨霊の集団が、ぞろぞろと群れをなしているではないか。
こちらにゆっくり歩いてくるのは、全身ズブ濡れのTシャツ姿の老婆だった。その手には、鋭い鏡の破片らしきものを握っている。緩慢に上がる顔は濡れているのみならず、般若のように目を血走らせて怒りも露にしているではないか。どうやら水に関わる付喪神であり、相当人間への怒り憎しみを増幅させられた存在であるのは間違いないらしい。
「チョコ、本当に良かったのか?相談所が安全とは言い切れなかったけどさ、ラスボスのダンジョンまで一緒についてくることはなかったと思うぜ?どうやらお前は狙われてるみたいだし……あのテのお出迎えはここから先どんどん増えるぞ」
言外に、今ここで逃げても咎めないぞと言う貴美華。しかしチョコは“大丈夫”と首を振った。
「怖い気持ち、ないわけじゃないけど。……でも、僕も戦うって決めたから。僕やアルベリクさん達と同じような思いをする付喪神を増やしちゃいけない。僕だって、久遠の野望を止めたいんだ」
「戦えるんだな?」
「戦うよ、意地でも!」
付喪神として正しい力を取り戻したチョコは、当然普通の人間にはできないことが出来るようになっている。とはいえ、付喪神になった存在に“何が特別にできるようになるのか”はその存在の記憶とイメージ力、霊力に大きく依存することになるのだ。
チョコは、自分の元主であった“ミサキちゃん”との記憶を糧にして戦うと宣言した。ミサキちゃんがよくチョコとしてくれた遊びを応用して、敵を打ち倒す力にするのだと。
ミサキという少女は、チョコによく絵本を読み聞かせてくれ、一緒にクレヨンや色鉛筆でお絵かきをさせてくれていたのだそうだ。ゆえに、チョコは。
「出てきて、キツネさん!」
本体を入れているリュックに一緒に入れた、クレヨンとスケッチブックを取り出すと。そこに素早く、狐の絵を描き始めた。チョコが描き終えた狐はスケッチブックの中からぐぐぐぐ、と盛り上がり、彼が描いたデフォルメタッチの絵柄で現実に具現化される。
クレヨンで描かれた黄色い狐はコオオオン!と甲高く鳴くと、そのまま付喪神の老婆と怨霊の集団に向かって果敢に飛びかかっていった。
「僕が大好きだった絵本のキャラクターなんだ。仲良しのウサギさんを守るために、キツネさんはどこまでも勇敢に戦うんだよ!」
「すごいなチョコ!」
「へっへーん!」
チョコの力は、スケッチブックに描いた絵本のキャラクターを具現化させ、それに応じた力を発揮させるというもの。道具が必要な上に、描くまでのタイムラグがあるが。使い方次第ではどこまでも万能であり、攻守ともに使える非常に有効な技能である。これが、本当の自分を取り戻したチョコの真価というわけだ。
「今のうちだ、行くぞ!」
付喪神と怨霊達が、チョコの狐に翻弄されて足止めをくらっている今がチャンスだ。貴美華は純也とチョコとともに、八階へ向けて階段を駆け上り始めたのである。
「……このマンション、まだ十年も過ぎてないはずなのに……ボロボロだ。管理されてないからか」
貴美華はスマホ画面とマンションを交互に見ながら呟く。
「話が本当なら、今は誰も住んでない、んだったよな?でもってここも例のごとく事故物件ですよ、と」
「そうですね。事故物件を検索できるアプリがあるんですけど、このマンションも見事に引っかかってきます。まあ、翠子住宅地そのものが事故物件の密集地帯なんですけど」
「まあそうでしょうな!」
ぴぴぴ、と純也がアプリを起動させて画面を見せてくれた。貴美華とチョコは仲良くその画面を覗き込む。
ロイヤルコーポ翠子。管理人が常に駐在しているわけではなく、オートロックがあるわけでもないという面でセキュリティが万全なわけではなかったが、広い駐車場と日あたりの良さなどの立地が売りで、かつ安価ということで大々的に売り出されたマンションであったようだ。
ところが、住民たちが次々入居して半数以上の部屋が埋まったところで、まずその駐車場でいきなり事故が起きた。男の子が遊んでいることに気づかず、住人の一人が駐車場に車を入れるべくバックしてしまい、そのまま後ろから幼児を轢き殺してしまったのだという。しかも、その死に方が相当凄惨なものだったようだ。ゆっくりとした速度で縁石とタイヤの間に挟まれてしまった幼児は即死できず、長い間に踏み潰される激痛に泣き叫んでいたのだという。しかも運転手は、パニックになってずっとアクセルから足を離すことができなかったのだそうだ。
何が恐ろしいって、その運転手。高齢ドライバーだったからうっかり踏み間違えたというわけでもなければ、ただの後方不注意でもなかったということなのである。彼は駐車場に車を入れようとした時、目の前に突然血だらけの女が降ってくるのを目撃したというのだ。それを避けようと焦って、後ろの確認をしっかりせずにバックさせてしまい、子供を轢いてしまったのだという。
翠子住宅は、元は旧翠子団地だ。自殺者もそこそこの数出ているとされている。降ってきた女というのも同じく団地で飛び降りて死んだ女なのかもしれなかった。降ってくる最中から血まみれだったというのが少々気になるところではあるが。
加えて、駐車場の事故を皮切りにトラブルが続出した。
立ち入り禁止にしてあったはずの屋上から、一人暮らしの男性が飛び降りて自殺。
母親が出かけている数分の間に、六階のベランダから女の子が転落して死亡。
さらに一人暮らしの女性の家には強盗が押し入り、彼女をマンションの一階まで何度も切りつけながら追い詰めた挙句、駐輪場でメッタ刺しにして殺害。財布を奪って逃げたその強盗も、マンションの前で車に撥ねられて死ぬという事態に陥った。マンションが完成してから僅か数年の間に、恐ろしい数の人が次から次へと亡くなる結果となっているのである。ここに、無関係かどうかわからない高齢者の孤独死なども含めると――その数は、ふた桁以上に上るのではないかとされているのだ。
当然、そのような不審な事故や事件が立て続けに起きるようなマンション、何か曰くつきではないかと疑う者が出るのも当然のことである。住民達は波が引くようにいなくなっていった。管理人も、初代管理人が事故で半身不随になってから求人を出しても誰も応募してこなくなったらしく、結果マンションは住人も管理人もいない状態で長らく放置されることになってしまったのである。
不動産会社は、この幽霊のようになってしまったマンションをどうするべきかと心底頭を悩ませている状況であるらしい。なるほど、住む人間も管理する人間もいなくなった建物というものはここまで魂を抜かれたような状態になってしまうのか、と感心させられるほどの有様だった。溜まっている瘴気も、随分と密度が濃く澱んだものである。
「長居しない方が良さそうだな」
一階から、八階。下から上へとゆっくり見上げながら、貴美華は唸った。
「此処こそ、地縛霊の温床だ。……これ、何か内部構造に問題があるんじゃないか?地下か支柱に、呪物でも埋まってるとしか思えないんだけども」
「というと?」
「普通、死んだ人間の霊ってのは、未練でもない限りそのまま成仏していくもんなんだよ。まあ、天国やら極楽やらなんてものが本当にあるかどうかわからないから、“成仏”って言い方が実際正しいのかはわからないんだけど。未練がなくなって、かつ誰かに囚われているわけではない幽霊はどこか別の場所に行くってのが死者の仕組みなんだ。この世にとどまっている霊があるとしたら、それには当然なんらかの理由があるってことなんだよな」
「未練があって成仏しようにもできないか、何かに捕まったってことですね?まあ、使役霊になるのも広義の意味では後者になるのかな」
「そうだな。……このマンション、未練がない霊も成仏できないで“捕まってる”ように見えるんだよ」
貴美華の目には、一階から八階まで、うぞうぞと蠢く霊達の影がはっきりと見えていた。その大半は、目的もなくうろうろしているだけで特に害がある様子ではない。中には死んだことが悔やんでも悔やみきれず、その場に地縛霊として留まり、その悔しさを生きている人間にぶつけてやろうなどという悪霊になってしまった存在も混じってはいるようだが。
「……マンションに捕まってるのが、マンションで死んだ霊だけじゃなさそうってのがな。マンションが立つ前にこの土地で死んだ霊なのか、あるいは他の翠子住宅や旧翠子団地時代に死んだ霊まで引き寄せてるってことなのか。なるほど、アルベースの狼が悪巧みをするためのアジトにしたくなるのも頷ける。これだけ瘴気が溜まってたら、アテられて恨みつらみを増幅させる付喪神が多くてもおかしくないだろ」
八階、なんて逃げにくそうな高い場所にアジトを構えているのも、何か理由があるに違いない。貴美華は開いた状態で固定されたままの自動ドアをくぐると、そのままエレベーターホールへ踏み出した。落ち葉や泥が溜まり、錆だらけになったポストがずらずらと並んでいる。一部は溢れそうになったチラシの類を突っ込まれて、パンパンに戸を膨れ上がらせていた。今は誰も住んでいないなら入口そのものを閉鎖しておけばいいものを、と思うものの、不動産屋としてはまだ売りたい気持ちがあるからそのままにしてあるのだろうか。
これでは下見に来た客達も、部屋を見るより前に住む気を無くしてしまう有様ではなかろうか。本当に売るつもりなら、なんとかお祓いと掃除は済ませておかなければお話にならないのにと思う。それとも不動産屋の上層部には、未だ頑固に霊も呪いも信じておらず、偶然だと突っぱねている人間がいるのだろうか。
「エレベーター、動いてるんです?八階ですよね?」
純也がエレベーターの中を覗き込みながら言う。
「俺はともかく、貴美華さんとチョコ君は、八階まで階段で上るのはキツいような気が……あ、でもなんか無理そう」
「気づいたか、純也」
はああ、と貴美華はため息をついた。
確かにエレベーターはまだ電気が通っているし、動いてもいるようだ。だが――“そこ”から漏れてくる空気は到底無視できるものではないのである。
一階に止まったままのエレベーター。時折パチパチと電気を瞬かせる箱の中からは、異様な気配が漂ってきているのだ。純也は自分ほど見えてはいないだろうが、それでもなんとなく察知したのだろう。
天井の窓が、小さく開いている。
その隙間からこちらをじっと覗いている血走った目玉があるのだ。恐らく、エレベーターに生きた人間が乗り込んだ直後、なんらかの楽しくない悪戯を仕掛けてくれるのは想像に難くないことだろう。エレベーターのドアに人を挟んでこようとするのか、ロープを切って突き落とそうとするのか、あるいは少しばかり中を揺らして怖がらせる程度で済ませてくれるのかはわからないが。
「まあいいさ。八階まで階段で行こう。体力には自信がある、なんとかなるさ。それに、選択肢は他にないみたいだしな」
「げ」
チョコは心底嫌そうな声を上げた。一階の居住エリアの方から、ぺたん、ぺたんと歩いてくる足音がするのである。物質としてきちんと具現化されている――幽霊ではなく付喪神であることは明白だった。しかも厄介なことに、その後ろにはその存在が集めたのであろう怨霊の集団が、ぞろぞろと群れをなしているではないか。
こちらにゆっくり歩いてくるのは、全身ズブ濡れのTシャツ姿の老婆だった。その手には、鋭い鏡の破片らしきものを握っている。緩慢に上がる顔は濡れているのみならず、般若のように目を血走らせて怒りも露にしているではないか。どうやら水に関わる付喪神であり、相当人間への怒り憎しみを増幅させられた存在であるのは間違いないらしい。
「チョコ、本当に良かったのか?相談所が安全とは言い切れなかったけどさ、ラスボスのダンジョンまで一緒についてくることはなかったと思うぜ?どうやらお前は狙われてるみたいだし……あのテのお出迎えはここから先どんどん増えるぞ」
言外に、今ここで逃げても咎めないぞと言う貴美華。しかしチョコは“大丈夫”と首を振った。
「怖い気持ち、ないわけじゃないけど。……でも、僕も戦うって決めたから。僕やアルベリクさん達と同じような思いをする付喪神を増やしちゃいけない。僕だって、久遠の野望を止めたいんだ」
「戦えるんだな?」
「戦うよ、意地でも!」
付喪神として正しい力を取り戻したチョコは、当然普通の人間にはできないことが出来るようになっている。とはいえ、付喪神になった存在に“何が特別にできるようになるのか”はその存在の記憶とイメージ力、霊力に大きく依存することになるのだ。
チョコは、自分の元主であった“ミサキちゃん”との記憶を糧にして戦うと宣言した。ミサキちゃんがよくチョコとしてくれた遊びを応用して、敵を打ち倒す力にするのだと。
ミサキという少女は、チョコによく絵本を読み聞かせてくれ、一緒にクレヨンや色鉛筆でお絵かきをさせてくれていたのだそうだ。ゆえに、チョコは。
「出てきて、キツネさん!」
本体を入れているリュックに一緒に入れた、クレヨンとスケッチブックを取り出すと。そこに素早く、狐の絵を描き始めた。チョコが描き終えた狐はスケッチブックの中からぐぐぐぐ、と盛り上がり、彼が描いたデフォルメタッチの絵柄で現実に具現化される。
クレヨンで描かれた黄色い狐はコオオオン!と甲高く鳴くと、そのまま付喪神の老婆と怨霊の集団に向かって果敢に飛びかかっていった。
「僕が大好きだった絵本のキャラクターなんだ。仲良しのウサギさんを守るために、キツネさんはどこまでも勇敢に戦うんだよ!」
「すごいなチョコ!」
「へっへーん!」
チョコの力は、スケッチブックに描いた絵本のキャラクターを具現化させ、それに応じた力を発揮させるというもの。道具が必要な上に、描くまでのタイムラグがあるが。使い方次第ではどこまでも万能であり、攻守ともに使える非常に有効な技能である。これが、本当の自分を取り戻したチョコの真価というわけだ。
「今のうちだ、行くぞ!」
付喪神と怨霊達が、チョコの狐に翻弄されて足止めをくらっている今がチャンスだ。貴美華は純也とチョコとともに、八階へ向けて階段を駆け上り始めたのである。
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