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<22・そして、水底から>

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 自分は、捨てられた道具であったのかもしれない――。
 チョコはそんな貴美華とアルベリクのやり取りを、茫然とした気持ちで聞いていた。信じられない信じたくない、それ以前の問題なのである。たった今の今まで、その想定が一切なかった己に心底驚いたのだ。
 記憶はない。それでも、ずっと誰かに大切にされてきた道具であることを、疑ったことなどなかった。きっとテディベアか何かであったのだろうとは言われている。絵本を読み聞かせて貰えるような、名前をつけてもらえるような存在。小さな女の子か何かの、大切な友達であったのだろうと自分でもそう思っていた。だからだろうか。記憶が戻らないことを不安に思いつつも――取り戻すことに恐怖や躊躇いが一切なかったのは。
 思い出せる時が必ず来ることを、信じてやまなかった。
 思い出せた記憶が幸せなものであることを、疑っていなかった。
 自分が粗雑に扱われた道具であるなど、全く考えもしなかった。
 粗末に扱われたからこそ強い意思を持ったのかもしれないなんて、想像さえもしていなかったのだ。

――僕は、ゴミ捨て場に捨てられていたの?だから、簡単に久遠とかいう人に拾われて……付喪神化させられることになった、の?

 ぐるぐる、どろどろとした思考が頭を巡る。ほんの、記憶の欠片のようなものの中。自分を大切に抱いてくれていた誰かの腕があったような気がしたのだ。自分に向けられる、優しい声があったのだと。その全ての感覚が、もしや幻であったとでもいうのか。あるいはそれらが遠い遠い過去のもので、捨てられる直前まで自分はどこまでも粗末に扱われていたと、それを忘れているだけであったと、そういうことが本当にあるのだろうか。
 純也に手を引かれて歩いているうちに、気づけばチョコは貴美華と純也と共に佐藤家の庭まで出てきていた。先ほどはまっすぐ玄関に入ってしまったので庭の方はちらっと見ただけであったがゆえ気づかなかったが。確かに、首吊りが行われた木の奥の方に、石で囲われた小さな池のようなものがある。
 ただし、そこは長年手入れされていないせいで雑草や水草が生え、苔むして酷い有様と化していた。近づくとぷん、と水臭い臭いが立ち込めている。放置されていた金魚の水槽のような臭い――なんてことを思ったということは、自分は金魚を飼うような家庭に生活していたのだろうか。

「瘴気が酷いな……此処らへんで真田孝之介は殺されたってんだから、当然と言えば当然か」

 やや顔を顰めながら、周囲を検分する貴美華。

「足跡の類は消えちまってるな。まあ何回も雨降ってるんだろうし、仕方ないだろ。煙草の吸殻とかは庭にも落ちてないあたり、不良どもも無意識に庭に近づくのは避けてたっぽいな。まあ、ちょっと感覚が鋭いやつなら、ここで何が行われていたのか本能的に察知できるんだろうけど」
「近づいても大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫だと思う。残っているのはほぼほぼ、儀式の残りカスだけだ。真田孝之介の霊も、その奥方の霊もいない。……奥方の方は成仏しただけなのかもしれないけどな。真田孝之介の霊はやっぱり久遠に拉致されて、そのまま戻ってきてないってことで間違いないだろ。使役霊にされて、そのまま付喪神を作り出すために物語を書かされてるんだろうな……」
「酷い……」

 久遠正貴という男は、やはり下衆の極みであるという認識で間違いなさそうだ。人を、自分の都合で惨殺するだけに留まらず。死んだ後の魂さえも持ち逃げして、自分のところでコキ使おうとは。これでは、アルベリク達が無念に思い、怒りと憎しみを募らせるのも無理ないことである。
 そんな計画を完遂させるわけにはいかない。チョコ自身、その計画があったからこそ付喪神として意思を持てた存在であるとしても、だ。だから何がなんでもチョコの本体を見つけ出して確保し、記憶を取り戻し、チョコが何故久遠正貴の意思を跳ね返すことができたのかを知る必要があるのは間違いないことなのだが。

――怖い。

 ぶるり、とチョコは体を震わせた。

――本体が見つかって、記憶を取り戻せた時。僕は、今までの僕でいられるのかな。

 人は誰しも、真実を知りたいと願いながら――本当に望むのは“自分が知りたい真実”でしかないものだ。己が望んだものとかけ離れた真実が目の前に晒された時、それを真正面から受け止められるほどの勇気と強さを持つ者はそうそういない。大抵は、必死になってその真実を否定する材料を探そうとするのである。こんなものはデタラメだ、誰かが自分を騙そうとしているに決まっているのだと、そう叫びながら。
 ありのままの真実を知って、前に進むこと。それを、己が一番に求めていたはずにも関わらず。

――僕は、そんな強い存在なんかじゃない。自分が望みもしない真実が目の前に現れた時、それを受け入れられる勇気なんかない。だって。

 怖い。そう思うことの何がいけないというのか。
 自分は帰る家があり、待っていてくれる人がいる。そう思っていたから、記憶がない不安を押し殺すことができていたのに。もしそれが単なる自分の思い込みなら。本当は、もう自分には待っていてくれる人も帰る家もなかったのだとしたら。
 自分は、一体何処に行けばいい。独りぼっちで、誰からも愛されず、何者にもなることができずに。

「……薄らだが。チョコの霊力を池の中から感じる。他の霊力と混じり合っちまってて、判別しづらいが。もっと近くにいけばわかるようになると思う」

 よし、と貴美華は言うと。そのままスーツのジャケットを脱いで、財布や携帯の類が入ったバックを下ろした。ハンカチティッシュの類はそのまま抜き出してバックの中にしまう。彼女が靴を脱ぐところまでを、チョコはえ、え?と戸惑いながらその光景を見ていた。

「き、貴美華さん?何して」
「え?いやだって……お前の本体を救出しないと」
「救出しないと、って」

 まさか、この汚い池の中に入ろうというのか。チョコは絶句した。そこまで深い池であるようには見えないし生き物がいるようにも見えないが、だからといってこんな水草だらけ苔だらけの池が綺麗であるはずがない。髪も体も服も間違いなくどろどろになってしまうだろう。いや、水着とシャワーがすぐ傍にあったって普通は遠慮したいと思うはずだ。

「大丈夫だ。ここそんなに深くないみたいだし、ちょっとセンサー働かせて浚えばすぐ見つかる。心配すんな、これでも泳ぎは得意だから、そういう意味でも溺れる心配はない!」

 そういう問題じゃない。チョコは口をぱくぱくさせた。あっけにとられすぎて、まさかの展開すぎて何も言えない。慌てて純也を見るも、彼は呆れた顔で貴美華を見るだけだった。そして。

「びしょ濡れの格好で相談所まで帰る気ですか?……まったくもう、最悪俺が着替え取ってくるしかないっていうのにー」

 完全に、その前提で話をしている。呆れつつも、止める様子がない。

――……何で?

 そうこうしているうちに、貴美華は軽くストレッチをして、水の中に入ってしまった。いくら残暑厳しい季節であり、水がそんなに冷たくないといっても。汚いことにはなんら変わりないというのに。

――何で、そこまでしてくれるの?僕は、昨日出会ったばかりの……人間でさえない存在なのに。貴美華さんと純也さんにとっては、ただのお客さん……うん、お金ももらわないんだから、厄介になってる存在でしかないはずなのに。

 貴美華は最初は浅瀬でじゃぶじゃぶとやっていたが、すぐにそこには目当てのものがないと気づいてもと奥へと入っていった。躊躇う様子もなく、彼女の腰のあたりまでが緑色に濁った水の中へと沈んでしまう。とても、二十そこそこの女性がやるような行動だとは思えない。それも、スーツを着たままの状態で、だ。

「何で」
「ん?」
「貴美華さんは、何でここまで……」

 もし本当に水の中にチョコの本体があったとしたら。例え綺麗な状態で投げ込まれたのだとしても――到底使い物にならなくなっているのは間違いないことだろう。電子機器の類なら確実に壊れているだろうし、ぬいぐるみなどの布系の製品ならばたっぷり汚い水を吸い込んでしまってシミが取れなくなっていてもおかしくない。
 ようするに、拾ってもらったところで、もう一度綺麗な状態に戻すことはきっと絶望的だろう。元の持ち主のことを思い出しても、その持ち主に捨てられたわけではなかったとしても――その人物にチョコを返せるなんて希望は、既に殆どないと言っても過言ではなかった。
 それこそ、密閉されたビニール袋にでも入っていれば話は別だが、付喪神を殺しあわせて融合させようなんて考えている人間が、一つ一つの道具にそこまでの敬意を払うとは到底思えない。
 つまり救出されたところで、チョコが貴美華に全く感謝しない可能性さえあるというのに。

「僕、昨日出会ったばっかりだし。ずっと迷惑しか、かけてないし。……そこまでして助けてもらっても、何も恩返しとかできないのに……」

 思わずチョコが茫然と呟くと。ぽん、とその頭に、優しい手が置かれた。純也がすっかり慣れた手つきでチョコの頭を撫でながら、それはね、と続けた。

「貴美華さんが、大嫌いなことと関係してるかな」
「大嫌いなこと?」
「貴美華さんは、“心”が蔑ろにされるのが一番嫌だから。……チョコの心も、チョコが信じてる誰かの心も、目の前にあるなら絶対ほっとけないんですよ。口は悪いし酒癖は悪いし職場はすぐ散らかすし事務仕事はすぐ俺に放り投げるしで困った人だけど……なんだかんだでいっつも、人のために一生懸命だから。誰かのために一生懸命になれない自分は絶対嫌だって思ってるから。……そんな貴美華さんだから、俺は成仏もしないで此処にいるんです。出来る限り長く、そばで助けてあげたいって思うから」

 慈しむような眼で、じゃぶじゃぶと池を浚う貴美華の背を見つめる純也。何故彼が、貴美華の無茶な行動を止めないのか、ようやくチョコにも理解できた気がした。
 それが、信頼だからだ。
 貴美華というヒーローが、誰かのために全力で戦って、そして自分なりの勝利を掴むことを。純也はいつもそばで、誰より信じているからなのだ。

――信頼……。僕にも、いたのかな。そんな人が……。

「あ!」

 突然、貴美華の全身が池の中に沈んで見えなくなった。もしかして水の中の穴にでもハマったのか、とチョコが焦った次の瞬間。彼女は池の中からざばりと頭を出してこっちを向き、叫んだのである。

「チョコ、あった!あったぞ、これだ。この子が……お前の本体だろ!?」

 貴美華の手には。青いジャケットを着た茶色のテディベアが、しっかりと握られていたのだ。
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