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<18・作家、真田孝之介>

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 アルベリクの十字架、という作品は、真田孝之介の著作の中でもかなり古い方に該当する。というのも、晩年の真田孝之介は殆どファンタジーやサスペンスばかり書いていたので、ファンタジーまで手を広げていた時期がそこまで長いわけではないからだ。
 といっても、アルベリクの十字架の初版本が発行されてから、僅か三十年ばかりしか経過していない。にもかかわらずその付喪神としてアルベリク達が意思を持つようになったのは、ひとえに真田孝之介の特別な力によるところが大きかった。
 彼はファンから、“顕現の魔術師”と呼ばれていた。
 それは夜、眠る前に彼の本を読むと、高い確率で夢の中に彼の物語のキャラクター達が登場するからとされている。読者が夢に見るほどのその高い描写力、表現力。それを湛えた呼称が、そのまま彼の作家としてのあり方となったのだ。彼自身はあくまで普通の人間に過ぎなかったが、自らが扱った物語や道具に心を吹き込むことだけは天才的に上手かったのである。その一点のみ、彼は伝説的な魔術師達にも劣らぬ才能を持っていたと言っても過言ではない。
 彼が大切に扱った物語や道具達は、僅かな年月を経ただけで付喪神として意思を持ち、具現化されるようになるのである。読者の夢の中にその登場人物が出てくるのも、ひとえにその付喪神達の影響が大きいのだろう。
 アルベリクもまた、その一人。
 物語の特性を反映して、付喪神の形もまた主役三人に分裂したが。根本的な自分達の意思は、三人でしっかり共有されたものとなっていた。
 自分達の望みは二つだけ。愛する作者である真田孝之介の幸福と、自分達の物語が一人でも多くの人々の記憶に残ること、それだけである。
 大切に大切に描かれた文学だからこそ、アルベリク達はキャラクターの姿を借りて付喪神になることができたのだ。その作者を、愛おしく思わない理由などどこにもないのである。
 そして彼は自らが顕現させた付喪神に限定して、姿を見ることも話をすることもできる人間だった。執筆が沸詰まった時、どうにも人との感性が合わなかったりコミュニケーションがうまく取れなくて苦労した時、よくアルベリクは彼の話し相手になっていたものである。

『プロット通りに行くのであれば、美沙子は一刻も早く恋人を探したいわけだからな。脇目もふらずトンネルを通っていくのが正解なんだ。私もそのつもりでいたんだが、直前で気づいてしまった。ここで、美沙子が脇道で逃げていく人影を目撃して、興味を持ってくれた方が後々の伏線として都合が良いということをな』

 真っ暗な部屋に、ランプ一つ灯して。彼は原稿用紙の前でうんうんと唸りながら相談してきたことがあった。珍しくもない光景であり、アルベリクにとっては敬愛するべき作者に頼って貰える大切な時間でもある。

『だが、問題は焦っているはずの美沙子の眼を、どうすればトンネルを通る最短ルート以外に向けられるということなんだ。多少引っかかったくらいでは、彼女は足を止めないだろう。トンネルを一刻も早く通って村へ行き、恋人を探しに行くことしか考えられないに違いない。……物語に合わせた整合性の取れない行動をさせるというのが私は大嫌いなんだ、キャラクターを蔑ろにしている気がする。しかし一度、ここで伏線を張る必要性に気づいてしまった以上、どうしてもここから先の文章が続かなくなってしまって困っているのだ』

 彼の目の前の原稿用紙には、“とにかく一刻も早く卓人さんを探さなければ、と美沙子は走り出していた。”と書かれたところで終わっている。彼女は電話を受けて隣町の家を飛び出し、山の中を無我夢中で走ってトンネルを通り、恋人がいなくなったという村へ行かなければいけないというシーンなのである。恋人である卓人が、自分を捨てて突然消えるなど有り得ない。彼女からすれば、一刻も早く真実を確かめに行きたい場面であるはずだ。
 幸い、時間帯はまだ昼の明るい時刻。山の中であっても視界は良好であるし、彼女が逃げていく人影を目撃することは可能だろう。問題は逃げていく人物がいても、彼女がそれに興味を持たなければ視界に入らないし、追いかけていくようなことも絶対にしないであろうということだ。

『アルベリク、ドロテ、イレネー。私を手助けしてくれないだろうか。こういう時、彼女が違和感なく足を止める理由とは、一体何だと思う?』

 真田孝之介は基本的に筆が早い人物であったが(ざっくりとしたプロットだけで書き始めることができ、かつリアルタイムで推敲していくことが可能であるからだろう)。一度スランプに入ってしまうと、どうしようもなくずぶずぶと沼に浸かってしまうことでも知られていた。
 その時彼が書いていたサスペンスホラーは“七つ村の鬼人”というもので、よりにもよって雑誌への連載作品だった。つまり、毎月のように締切が存在するのである。文芸アロマの締切まで既に十日と迫っているのだ。幸い今書いているのはその日の掲載分の終盤部分なので、ここさえ書き上げれば締切に充分間に合わせられるはずなのだが――ここでこれ以上詰まってしまうと、恐ろしく長いスランプに陥るであろうことをアルベリクは経験上よく知っていたのである。
 とにかくアイデアを出し、この局面を切り抜けなければ。三兄弟は愛する作者のために、必死で話し合ったのだった。

『そうだ!こういうのはどう?逃げていく人影が、恋人に見えるんだよ!探してた恋人と見間違えたっていうなら、彼女が追いかけていく理由にもなるんじゃない!?』

 その時アイデアを出してくれたのは、末弟のイレネーだった。ぴょこぴょこと小さな体で跳ねながら言う彼に、その手があったか!と孝之介も眼を輝かせたものである。

『確かに、それならば違和感がないな!何故犯人が卓人によく似た服装に変装していたのか、などはこじつける必要があるが……いや、犯人の動機を考えるならばそれもおかしくはない。ありがとうイレネー、これで続きが書けそうだ!』

 イレネーの頭を撫でながら微笑む孝之介。それを見て満足そうなイレネーと、自分も撫でて!とむくれるドロテ。それを微笑ましい気持ちで見つめるアルベリク。紛れもない、あれこそが何物にも代え難い幸福な時間であったことだろう。
 孝之介は、この社会に大きな不満を抱いていた。
 そもそも彼が作家になろうと思ったきっかけの一つが、彼自身が一般的な社会人としてやっていける性質ではなかったというのが大きい。何度も会社勤めをするものの、そのたびに上司との折り合いが悪くてクビになる。次の仕事を探そうと頑張ってもなかなか面接が通らない。社会に迎合し、歯車の一部となり、自分の本心を抑えて生きることに苦悩するような人物であったのだ。
 だが彼は、とても理性的な人物であった。この社会に己が迎合できない状況を、けして社会のせいにしてはならぬと分かっていたのだ。それが人間として忘れてはいけない境界線を守り、この世界で生きていくということなのだ、と。
 ゆえに怒りや苛立ちは全て創作に向けられた。ぐつぐつと煮えたぎる世界への怒り、不安、何よりも強い己への苛立ちと孤独。それらを詰め込んだ彼の創作は、同じような苦しみを抱える人々にこそ受け入れられ、共感され、評価されるようになっていったのである。彼は創作の中でなら、己がどんな強大な正義にも負けない、自由な存在になれることを理解していたのだ。
 共感を呼ぶ物語を描きながらも、自らの人としてのあるべき姿を頑なに守りきろうとするその姿勢をアルベリクは心の底から尊敬していた。彼は自らの弱さも愚かさも、正しく理解する強さを持っていたのだ。同時に、どれほど冷たい社会とスランプに悩むことがあっても、自らが産みだした物語と付喪神達への愛だけはけして忘れることがなかった。そんな彼の描く物語を、未来永劫見守り続けること。それが、アルベリク達にとっては代え難い幸福であり、望みであったのである。
 それが崩れたのは、あの男が現れてからだ。
 最初は一枚のファンレターだった。久遠正貴。宗教団体・ローズマリーの楽園の幹部であったその男は、孝之介の著書に感銘を受けたと長ったらしい手紙をよこしたのである。それは自分も、孝之介と一緒に読んだのでよく覚えていた。彼は孝之介の当時の出版物の大半をがっつりと読み込み、具体的かつ詳細な称賛を何枚も何枚も書いてよこしたのである。これほどまでに熱烈なファンがついたのは、有名作家であるとはいえ孝之介にとっても初めてのことだったのだろう。インターネットに明るくなかった孝之介は、ネット上の評判はあまり見ることがなかった。手紙で、これほどの密度を書いてよこしてくれるファンがいようとは。内気な孝之介がどれほど喜んでいたのかは想像に難くない。
 暫く手紙のやり取りをした後で、久遠正貴が都内に住んでいることを知り、孝之介は彼を家に招くようになるのである。彼が宗教団体の幹部であるということに関しては、孝之介もさほど気に留めていなかったようだ。昨今は宗教にアレルギーを持つ日本人も少なくないが、彼はむしろ宗教の考え方というものに非常に興味を持っていたフシがある。創作のネタとしても有用と考えていたのだろう。むしろ彼が大きな宗教団体の幹部であるからこそ、そちらに関しても話を聞きたいと考えていたのかもしれない。

『初めまして、真田孝之介先生!先生にこうして実際お会いすることができて、私は本当に、本当に感激しております!世界広しといえど、私ほど幸福なファンは他にはいないことでしょう……!』

 中年くらいの年齢に見えたが、久遠正貴はとても身なりが上品で穏やかな人物だった。
 孝之介に会う時は必ずスーツを着用し、やや白髪が混じり始めた髭も髪もしっかりと整えていつも気品ある佇まいを保っている。挨拶や土産に関してもマナーが良かったし、話の内容も実に知的で興味深いものだった。宗教団体の幹部というからには勧誘でもされることになるかと思いきやそんなこともなく、せいぜい彼がその絡みで頼んできたことと言えば“同じ組織の友人達も今度は連れてきていいだろうか”といったことくらいであったのである。
 彼を通して、孝之介はローズマリーの楽園に所属する多くの信者達という友人を得ることとなった。
 久遠正貴の友人達は老若男女バラエティに富んでいたため話題も豊富で、閉鎖的な空間でばかり過ごしがちな孝之介にはこれ以上ない刺激になったことだろう。
 特に孝之介が、久遠と話していて共感を覚えたことが――あの“付喪神融合計画”という物語についてである。久遠は、孝之介があのエンディングに納得していないことを見抜いていた。本当は悪の主人公が計画を完遂させて終わる物語にしたかったのではないか?きっと先生ならば芯の一本通った悪を描ききりたいと思っていたのではないか?彼がそう告げた時孝之介は涙を滲ませて感激していた。やっと自分の、誰にも言えなかった望みを理解してくれる人間が現れたのだ、と。

――久遠正貴はきっと、あの方の人生の友となってくれるはず。私はあの時は、確かにそう信じていた。しかし。

 孝之介も、自分達も――全く気づいていなかったのである。久遠が自分達に近づいてきた本当の目的がなんであるのかということを。
 彼は知っていたのだ、孝之介の“顕現の魔術師”としての才能を。彼が産みだした多くの付喪神達、つまりアルベリク達の存在を。

――ああ、どうしてあの時気づくことができなかった!この社会は冷たく、この世界はあまりにも先生にとって生きづらいもの。そんなこと、わかりきっていたというのに!

 やがて、あの瞬間が訪れることになってしまうのである。
 自分たちにとって最大の悲劇――真田孝之介という、偉大な作家の死が。
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