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 結局、流されるまま真紀と一緒に三度目の転移を実行してしまった。本当にこれでいいのか、という不安はあったものの――同じだけ、このままの世界にいる方がまずいという気持ちがあったのである。
 今はまだ、どうしても立ち向かわない困難や、大きな試練などは起きていない。ただ不思議な宗教じみた政党が政権を取ったり、消費税が馬鹿高くなって滅茶苦茶不安、という程度のものである。だが、これから先はどうなるかわからないのだ。自分の本当の世界でもない場所のために苦労したり努力を強いられたり、なんてのは唯奈にはごめんだった。きっとそれは、真紀も同じであったことだろう。
 そのまま家に帰っても、親や家に変わったところはなかった。前の時もそうだったが、ひょっとしたら異世界転移はブロックに乗って呪文を唱えたその瞬間に起きているわけではないのかもしれない。あるいは、その時々でタイミングが異なるのだろうか。
 少なくとも今までは、変化が見えたのは朝起きてからのことだった。だから。

「んん……」

 翌朝、家が妙に騒がしくて叩き起こされる羽目になったのも。きっとその影響が正しく出た結果、ではあるのだろう。

「うう、何……煩いよママ……」

 もう七時になってしまったのだろうか、と手元のスマホを見て確認する。しっかり充電されている愛機が示す時間は、本来の起床時間よりずっと早い時間だった。唯奈は腹立たしくなり、文句の一つも言おうと寝ぼけ眼で自室のドアを開ける。朝ごはんを作らなければいけない母が早く起きるのは普通だし、早く家を出なければいけない父が朝起きているのも仕方ないことなのだろう。しかし、唯奈は違うのだ。七時まで起こすことなくほっといてほしいのに、どうして配慮してくれないのか。
 それとも何か、そんな大きな問題でも起きたのか。

「あ、唯ちゃん」

 その母は、不機嫌そうな唯奈に謝る気配もなく、むしろそれさえ思いつかない様子で、慌てたように上着を羽織っていた。
 唯奈は首を傾げる。確かに今日はちょっと涼しい日だが、母のそれは最後にいつ着たのかもわからぬ紫色のよそ行き服だった。化粧もばっちりしているし、髪も整えている。まるで、今すぐどこかに出かけなければいけない様子だ。

「悪いけど、お母さん今から出かけてくるから。今日の朝ごはん作ってないけど、お冷ご飯でもチンして適当に食べていって」
「え、え?何で?何で朝ごはんないの?」
「急いで行かなきゃいけないところがあるから、時間ないの。ゴミ出しもお願いね。じゃあ」
「ちょ、ちょっと!」

 あんまりだ、そう思って声をかけるも、母は問答無用でそのまま玄関から出て行ってしまった。唯奈はポカン、として彼女の背中を見送るしかない。

「ええ、嘘でしょ……」

 我が家の朝ごはんは、母の手作りのトーストか白ご飯に味噌汁と決まっているのに、今日はそのどっちもないだなんてあんまりだ。唯奈は自分で料理が殆どできなかった。自分でやるより母がやる方がずっと美味しいし手際がいいので、学ぶ気がなくなったのである。自分が不器用であることなどとうの昔にわかっていること。どうせ出来るようにもならないことを、無理に努力したって疲れるだけではないか。ましてや平日の昼など、自分のことをするだけでていっぱいである。朝ごはん作りのようなことなんてやる暇があるはずもないというのに。
 それでも、母が作ってくれなかった以上、自力でなんとかするしかないのが現実である。唯奈はしぶしぶ、冷凍ごはんをレンジでチンして、ふりかけをかけて食べることにした。冷凍食品があればおかずになると思ったが、あいにくフライパンで調理しなくていい冷凍食品の類が殆ど切れているらしい。何でこういう時に限って買っておかないのだろう。というか、娘の朝食より大事な用事なんか、この世にあるのだろうか。

――わけわかんない……。はあ、なんか、今回の世界も幸先悪いなあ。

 その予感は、的中した。
 その日の通学班は、明らかに人数が少なくなっていたのである。エレベーターホールに降りてきたのは、水依以外では瑠々、陸々の兄弟だけだった。
 どういうことなのか尋ねた唯奈に、水依が言った言葉は一つである。

「徳田君達の家……大変なことになってて、とても学校行ける状態やないんやって。……うちもようわからんけど、深く訊かん方がええ空気やで。唯ちゃんも、ツッコまんとき」

 その顔は、初めて見るほど険しいものだった。そして彼女の服は昨日と同じもので――少々、嫌な臭いがしていた。まるで昨晩お風呂に入ることができなかったかのように。



 ***



 外に出た唯奈が、一番最初に驚いたものは――町の中心に、巨大なお城のような建物が立っていたことである。真ん中に丸い大時計が据えられ、周辺が青く突き立った水晶体で覆われていた。現代の、それも東京区内と考えるならばあまりに場違いな建物である。しかもそれが、駅のすぐ近くの商業地域にでかでかと聳えているのだ。
 あれは何、と尋ねようとして唯奈は水依に口を塞がれた。見れば、通学路では異様な光景が続いているのである。何人もの人々が道路に膝をつき、両手を胸の前で合わせてぶつぶつと何かを唱えているのだった。それも、あの結晶のようなお城の方を向いて、だ。
 唯奈は気づいた。彼らが皆、体のどこかに“紫”を身に纏っているということに。紫色の数珠、紫色のスカート、紫色の髪飾り、紫色のスカーフ――年輩者が多かったが、中には若者や子供もいる。前の世界で見かけた、政権を握ったというヤバそうな宗教団体のイメージカラーではないか――そう思い当たり、ぞっとした。

「滅多なこと言わない方がええ。わかっとるやろ」

 水依は小声でそう告げた。外で、あのお城モドキについて話題にしてはいけないということを、唯奈は嫌でも理解させられたのである。
 そして、学校へ。学校の前にも、あの紫服の信者達が必死でビラらしきものを配り、拡声器で何かを呼びかけている。明らかにやかましい有様なのに、校門の前で生徒達に挨拶する先生達がそれを注意する様子はない。むしろ、時折信者の人たちに声をかけて、お礼を言っているような始末だ。

「ありがとうございます、“逢姫おうひ様の使徒”の皆様!皆様のおかげで、我々は今日を無事に迎えることができました。本当にありがとうございます!」

――な、何それ……?

 頭のハゲた、見慣れた三年の学年主任の先生が、ペコペコと信者の人たちに頭を下げている。
 一体、何がどうなっているのだろう。不気味に思いつつ、その唯奈達はその脇をすり抜けて学校の敷地に入っていったのである。



 ***



「逢姫様の使徒……っていう宗教団体なんだって。そいつらが立てた政党が国民労働平和党って。党の名前だけ聞くとそこまでヤバくなさそうなんだけど、宗教の教義っていうの?それはちょっと……アレみたいでさ」

 集合時間の都合もあってか、基本的に真紀の方が唯奈よりも早く教室に来ている。その真紀は、唯奈よりも友達が多くて情報収集能力も高い。唯奈の顔を見るなり、彼女はやや暗い顔でそう告げた。

「とにかく、オウヒ様?とかなんとかいう女神さまだけが絶対だと信じているというか。他の神様は絶対に認めないし、オウヒ様とやらを信じない人間は人間ではなく悪魔の手先である!みたいな過激な宗教らしいみたいなんだよね……」
「ええ、何それ怖い」
「でもって、誰が信者かわからないし、信者じゃない人間やアンチはその……いきなり逮捕されたりすることとかあるらしくて。今日もさ、この時間の割に人が少ないと思わない?」

 言われてみればその通りだった。そろそろ八時半になるというのに、教室にいる生徒は随分疎らである。そして、来ている生徒の中には妙に顔色の悪い者や、中には泣いている女の子もいる有様ではないか。何かあったのは明白である。
 そういえば、朝の通学班でも、妙に子供達の姿が少なかった。水依は何かを知っていたようだが、ただ深く追求しない方がいい、ということを繰り返すばかりてあった。――あれはまさか、その宗教団体とやらに身内が連れ去られたとか、そういう理由だったとでもいうのか?

『急いで行かなきゃいけないところがあるから、時間ないの。ゴミ出しもお願いね。じゃあ』

――まさか、ママも?

 明らかに焦っている様子だった母。もしや、父に何かがあったとでもいうのだろうか。だから、唯奈の朝ごはんも作らずに出て行ったのか?
 段々血の気が引いてくる唯奈。トドメが、真紀が告げた言葉である。

「……都筑先生も。逮捕されたって聞いた。それも今朝。みんな、大騒ぎしてるみたい」
「嘘……」
「ねえ、唯奈。これってさ。あたし達……間違えたってことだよね?来る世界を、来ていい世界を間違えちゃったんだ。だってあたし達が来たかった異世界って、こんなんじゃない。そうでしょ?」

 彼女は引きつり笑いを浮かべて、一枚のメモを取り出した。そこには、テレポートブロックを利用する際に使う呪文によく似た、別の呪文が記されている。

「嫌な予感したから、昨日の夜のうちにこういうのみんなにLANEで聴いて調べてた。こういう呪文もあるんだって。テレポートブロックで異世界に行く呪文ではあるんだけど、今までの呪文とはちょっと違う。……今までとは“違う方向”に飛べる呪文らしいんだよ。これ使って飛んだら、もしかしたら上手くいくかも。こんなわけわかんないんじゃない、もっと良い世界にきっと行けると思うんだ。だからさ……」

 これ試してみようよ、と真紀は言った。唯奈は動揺する。こんなはちゃめちゃな世界にいたくないというのは同意するし、できればもっと良い世界に移りたい気持ちはある。だが、果たしてもう一度テレポートブロックを試して大丈夫なのだろうか。それも、今までとは違う呪文だ。以前より、さらに悪い世界に飛んでしまわない保証が何処にあるというのだろう。
 これ以上嫌なものを見たくないという気持ち。それでも、こんなよくわからない世界で生きるのは嫌だという気持ち。唯奈が動揺し、言葉に詰まった時だった。

「やってくれたな、馬鹿どもが」

 はっとして振り向いた先。いつからそこにいたのだろう。冷たい目をした聖也が、そこに立っていた。

「俺はちゃんと警告した筈だぜ。もう二度とあのブロックを使うなってな。それなのに……何アホなことしてくれてんだ?ああ?」
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