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<2・信念>

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 何かを理不尽と思うなら、まず自分が最初に立ち向かわねばならない。そして、自分が誰かに助けて欲しいと願うなら、まず自分が誰かを助ける勇気を持たねばならない。――そんな風に優理が思うようになったのには、当然理由がある。幼い頃、そうやって己を助けてくれた友達がいたからだ。
 昔から人より体が小さくて、今よりずっと臆病で引っ込み思案だった優理はいじめられることが多かった。ドッジボールに入っては仲間の足を引っ張るし、サッカーチームに入れてもらってはすぐ転んで泣くし、周りの空気を読んで遊ぶのもヘタクソだし。そんな少年は、ガキ大将と呼ばれるような子供達にとっては格好の的であったことだろう。幼稚園の時からことあるごとにいじめられたり、からかわれたりすることが多く、そのたびに優理は泣いてばかりいたのである。
 いじめられるのは、みんなが自分を嫌いだからなんだと諦めていた。
 自分は弱いから、ヒーローのように立ち向かうことなんかできない。だから、どんなに泣かされても我慢するしかない。叩かれて痛くても、悔しくても、そういうものなんだと受け入れるしかないのだと。実際、幼い頃の優理は自分自身のことが大嫌いだった。ヒーローのようにいじめっ子を倒す力がない、みんなより優れたところが一つもない自分なんて消えてなくなってしまえばいいのにとさえ思っていたほどだ。自分が弱いから、いじめられる。弱いことはいけないことだと、本気でそう考えていた。
 きっかけは、年中のある年のこと。
 女の子のように可愛いものが好きだった優理は、よくバッグやお道具箱にクマのキーホルダーをつけていた。御遊戯服にも、お祖母ちゃんがぬいつけてくれたクマのワッペンが。クマは、ウサギの次に好きだった。それも本物のクマではなく、デフォルメされた、女の子のアニメに出てきそうな可愛らしいクマが、だ。
 それが、いじめっ子たちの目に止まるのは必然だっただろう。彼等は優理の持っていたクマのキーホルダーの一つを奪って、園庭でやいのやいのと投げて遊び始めたのである。

『やだ、やめてよ、かえしてよお!』
『くやしかったら取り返してみろよ、ばーか!』

 それはつい少し前に、誕生日に祖母がプレゼントしてくれたものだった。クマの子スクールの最新作、水色のクマの小さな人形。しかも、胸にRの文字をつけている“クマの子ルーク”は、レアものとして有名だった。祖母は優理を喜ばせるために、方々を歩き回ってルークの人形を探してくれたのである。世界にたった一つだけの、優理の宝物だった。それをこんな形で奪われるなんてたまったものではなかったのだ。
 壊されたり、汚されたり、なくされてしまったりしたらどうしよう。彼等のルークの扱いはお世辞にも丁寧とは言えないものだった。いつもよりしつこく返してと叫ぶ優理を面白がったのか、彼等はより乱雑にキーホルダーを投げて遊び始める。先生は忙しくてこっちに気づいていない。どうしようどうしよう、とパニックになっていたまさにその時だった。

『うわあっ!?』

 一人が突き飛ばされて転んだ。別の園児が、強引に少年からルークを奪い返したのである。

『ひとのものを盗むのは、はんざいなんだぞ』

 そこに立っていたのは、自分よりも一つ年上、年長組の少年だった。幼稚園とは思えない、小学生に見えるくらい背の大きな男の子。だからだろう、ガキ大将たちもすぐに反論できずに立ち尽くしていた。圧倒的な強者を本能的に悟ったためだろう。
 しかも、突き飛ばされた少年は、同時に自分のポケットを探って悲鳴を上げる。

『おい!おまえ、おれのハンカチ!』

 年長の少年は、ルークを奪い返すと同時に、器用にも彼のポケットからハンカチを抜き取っていったのだった。返せ返せと叫ぶ彼を、少年は冷たく見下ろす。

『ひとのものをへいきで盗むのに、じぶんのは盗まれたらいやなのか。そんなのおかしいだろ』
『おかしくなんかない!あ、あいつがいつもグズでのろまだから!』
『グズでのろまなら何してもいいのかよ。じゃあ、おれにハンカチとられるお前も、グズでのろまだよな。このハンカチ、このまま外にすててももんくないよな』
『や、やめろよお!』

 ハンカチには、当時人気のヒーローがプリントされていた。きっと少年のお気に入りだったのだろう。このまま捨てられてしまったら二度と手元に戻ってこないし、きっとママには叱られる。本気で泣きそうになっている彼に、年長の少年ははっきりと言ったのだった。

『じぶんがやったことは、ぜったい返ってくるんだぞ。だから、イヤなら、ひとにはぜったいするな。おまえらがまた、だれかをイジめてたら、こんどはおれがおまえらをいじめてやるからな』
『――っ!』

 幼稚園児とは思えないほど、彼の理屈は筋が通っていた。彼が少年にハンカチを返すと、彼等が半泣きになりながら逃げていく。そして、彼は呆然と成り行きを見守っていた優理に、ルークを返してくれたのだった。

『あ、ありがと……』

 誰も助けてくれない、そう思っていた。それなのに、顔も名前も初めて認識する少年が、赤の他人である自分を助けてくれた。その経験は、優理には何よりも鮮烈で、人生観を変えるほどの出来事だったのである。
 ヒーローはいるのだと、そう思った。
 キラキラと眩しい、彼のように自分はずっとなりたかったのだと。

『おまえ、ケンカよわいんだろ』
『え?う、うん……』
『だったら、次からはちゃんとにげるんだぞ。たいせつなもの、とられるまえににげろよな。それならできるだろ』
『え、あ……』

 戦うのではなく、逃げることこそ正義。逃げることは時として最大の武器になる。それを教えてくれたのも彼だ。確かに自分は弱い。でも、かけっこは少しだけ早いし、かくれんぼなら得意だ。なら、逃げる事ならできるかもしれない、と。

『あ、あの!』

 世界を変えたいなら、まず自分が勇気を持たねばならない。
 彼は弱かった自分の代わりに勇気をくれた。ならば、今度は自分の力で。

『た、たすけてくれて、ありがとう!つ、つぎは……ぼくが、たすけるよ!』

 彼を、誰かを、助けたい。
 あの時助けてくれた分、今度は自分が。
 確かにあれから無用なトラブルに巻き込まれることも増えたが、その分友達が増えたのもまた事実なのである。誰かを一生懸命助けよう、小さくても世界を変えようと足掻くのならば、その努力は必ず誰かが見ていてくれる。実際あの頃の自分より、今の自分の方が百倍は好きだった。明るい人間に、勇気のある人間になれたのではないかとそう思っている。まあ、ケンカだけは強くなれなくて、助けるといってもせいぜい誰かの腕をひっぱって逃げることしかできない人間ではあったけれど。

――うーん思い出せない。

 机の上を雑巾で拭きながら、優理は首を捻った。

――あの子、名前なんだったっけ。はあ……ちっちゃな頃って、アダ名で呼ぶから本名覚えないんだよな。

 少しでも心が弱くなったり、迷いそうになった時は彼のことを思い出すことにしている。あるいは、次は自分が誰かを助けられるようになりたいと話した時、初めて優理を褒めてくれたお祖父ちゃんのことを。ああ、あの時自分は確かに祖父に、●●って名前の子に助けてもらったんだよと話した気がするのに。彼と本格的に一緒に遊ぶようになってからは、“ヒーローくん”とアダ名で呼ぶようになってしまって、そのせいですっかり本名が記憶から抜け落ちてしまったのだ。五歳児の記憶力なんてそんなもの、と言われてしまえばそれまでなのだが。

――き?ひ?……あれ、なんだっけ下の名前……あーだめだ、むりだ。ちっとも思い出せない!

 そんな優理は、現在思いきり落書きされた机を雑巾で拭いて綺麗にしているところだった。ホームルームが始まる前にある程度綺麗にしないとまともに使えもしない。幸い絵の具と油性ペンが中心で、絵の具部分は塗れ雑巾で拭けば大体落ちるものだったが――問題は油性ペン部分だ。触っても服につかないだけマシだしだが、これではかなりみっともない。
 とりあえず前の状態はスマホで撮影したので、あとで先生に相談するとしよう。なんせ、机は正確には自分の私物ではなく、学校の備品だからである。

――暫くは、貴重品は身に着けて持ち歩いた方がいいな。教科書関連に何かされたら諦めるしかないけど。

 まさか、こんな小学生レベルのいじめをやられるとは思っていなかった。タイミングから見て、十中八九鮫島るりはたちの仕業だろう。どこかに呼び出されてボコられるとばかり思っていたのに――そこは女子が主導しているからこそ、なのだろうか。男のいじめより、陰湿な方向に向かうことが多いと聞いたことがある。まあ、男であっても物を壊したり汚したりなんてことは珍しくないのだが。
 ちらり、と顔を上げた先には、心配そうにこちらを見る者達、見て見ぬふりをする者達、それから面白そうにこちらを伺うるりはの視線。相変わらずその隣には、まるで騎士のように雉本光が控えている。自分がこれで心折れるかどうかを試しているといったところか。

――悪いけど、こういうのもう結構慣れてるんだよなあ。つか、器物破損に行くと警察沙汰になりやすいんだけど、そういうのわかってないあたり馬鹿な連中だ。

 何だか、逆に不憫になってしまう。人をそうやって追い詰めて、傷つけて、それで思い通りにならないと満足できない。今までどれだけ人生が不幸だったのだろう。親ガチャに失敗したのか、友達ガチャに失敗したのか、それとも生まれつき性根が腐っていたのか。――一番最後のは、よっぽどのことでもない限りそうそうありえない、と個人的には信じているのだけれど。

「そ、園部君……!」

 多分、勇気を振り絞ったのだろう。空一が、青ざめた顔で声をかけてきた。

「ごめん、僕のせいで。て、手伝うよ……」
「ありがと、でも大丈夫」

 例の二人が見ている。犯人がわかりきっている。その状況で、優理に声をかけるのがどれほどの覚悟が必要だったか。
 その気持ちだけで、優理には十分すぎるほどだった。
 いじめを見て見ぬ振りをする人間も同罪だ、と言う人がいる。でも自分が当事者になってみればわかるはずだ。いじめられている人間を助けたら、自分もいじめられるかもしれない。その恐怖に打ち勝つのは並大抵のことではないということを。
 彼もまた、何かを変えようと頑張ってくれている。だとしたら、自分にはそれ以上のことなど何もないのだ。

――僕の気持ちは、ちゃんと誰かに届いてる。だから、こんなことに負けたりなんかするもんか。

 その後。十分休みや昼休みに、他の友人達にも謝罪を受けた。やはりと言うべきか、るりはのグループが犯人であることに大半のクラスメートがわかっていて、でも彼女の悪名を知っていて何も手出しができなかったんだろう。まったく、まだ半月ほどとはいえクラスのこの状況に気づいていなかったなんて我ながら情けないことだと思う。
 無理や無茶をするつもりはない。それでも、どうにかして彼等を止められないだろうか。悶々と優理が考えていた、まさにその時のことだった。

『今日の放課後、話をしましょうか』

 誰に電話番号を聞いたのやら。あのるりはから、LINEでメッセージが来たのである。

『逃げるんじゃないわよ。ちょっと面白い人質を用意してるんだから』
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