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<16・大人には大人の事情>

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 どんな障害があってもこの恋を貫く――とか。少女漫画や、壮大なファンタジー漫画ならよく見かけるセリフである。が、現実においてそこまで凄い覚悟を決められる人間は、そう多いものではないのではないか。
 ただ、好きになったから傍に居たい。
 あるいは一緒にいて居心地がいいからそうしたい。
 具体的にどこが好きで、どこが魅力で、どういうところが譲れなくてそうなるのかとか。そんな複雑で具体的なことまで考えて、恋に落ちる人間はそういないのではないか。
 千愛もそれは同じだ。ビジョンがないと言われてしまえばそれまでかもしれないが、まだ恋に溺れて幸せに浸っていたい段階であると言えばいいだろうか。障害のある恋であるのは分かっていたので、未だに職場には成都との関係を隠してはいたものの、裏を返せば秘密にしておけばそう大きなトラブルもないだろうとタカを括っていたのである。
 実際、少し仕事で彼と話すだけで女性たちを中心に視線を浴びることはあったものの、現状嫌がらせレベルには至っていなかった。成都の元カレである惣介の問題もあったから尚更である。大学時代の先輩と後輩、そして仕事仲間。職場でそれを踏み越えるような話をしなければ、きっと当面は大丈夫だと思っていた。それこそ、今すぐ結婚したいとまで焦っていたわけではないがゆえに。
 はっきりバレているのは、華乃くらいのものだ。

「ここ153と146が番号飛んでるけどあってる?」

 千愛と成都の初デートから、さらに約一ヶ月後。隣の席に座る華乃に千愛は声をかけた。明日FAXする分の請求書をまとめて、あとは送り先順に並べ替えれば今日の仕事は終わりである。打ち込んだ請求書を全て印刷して、ちゃんと揃っているかの確認。基本は請求書担当の千愛と華乃で行うことが殆どだ。

「あってるあってる。その二つは打ち間違いで削除した番号だから」

 パソコンの画面と照合しつつ、華乃が言う。

「修正するためには一枚データまるっと削除しないといけないの、なんとかならんのかしらね。番号飛んでるのが削除したせいなのか、印刷ミスなのかわかりゃしない」
「たまにデータの送信ミスとか、コピー機の中で詰まってましたってオチもあるし?」
「そーそー。というか、うちのコピー機詰まること多すぎるし、まだインク残ってるのにインク足りませんエラーすぐ出すし、あれなんとかならんのかしら。インクボックス振って戻すとエラー解消するとかいつの時代の機械だっつの」
「ヒント、ボロい」
「それはヒントじゃなくてただの答えー」

 しょうもないやり取りをしつつ、請求書を取引先順に並べ替えていく。今年はサバ缶の大口取引先が見つかった、と営業が盛り上がっていたのを思い出す。うちで取り扱っているカジモトのサバ缶は美味しい反面少し割高だ。売れればかなりの利益が期待できる反面、いい取引先が見つかるまで苦労したという話を聞いている。
 取引先を見つけられたのは、成都の功績だと先輩が褒めていた。彼のプレゼンが非常に高い好感度を得たということらしい。あれだけの資料をよく纏めたよ、しかも喋りもうまいし!と若手の同性を滅多に褒めない営業部長が絶賛していた。よほど彼は見込みがあるらしかった。

――成都も頑張ってるし、私も頑張らないとなー。

 まあ自分には、彼と同じ営業の仕事は出来ないだろうけど。そんなことを考えつつ、請求書を確認していく。当の本人はまだ会社に戻ってきていなかった。期待されている半分勉強半分で、先輩たちの商談に同行することが増えているらしい。土曜日に出勤する日もあるかも、と少し前から謝られていたが、千愛は気にしていなかった。プライベートで会える機会が減るのは残念だが、それだけ彼が認められているということ。仕事仲間としても恋人としても、こんなに嬉しいことはない。
 社内恋愛というものは賛否両論あるだろうが、お互いの仕事について理解しやすいというのはきっといいことなのだろう。突然忙しくなった理由も説明しやすいし、理解して貰いやすい。同じ仕事を頑張っているからこそ分かる苦労もあるというもの。勿論、結婚するとなった時は、片方が仕事をやめる選択肢も考える必要があるのだろうが。

「うし、終了~」

 私は請求書をクリップで止めると、鍵のかかるデスクの中に仕舞う。

「今日は定時で帰れそうだね、華乃!飲みにいく?」
「あー、やめとこうかな。冷蔵庫空っぽだから買い物して帰らないといけないし」
「あ、うちもそうだった。スーパー寄らなきゃ……」

 お互い未婚だが、交わす会話はどこか主婦じみている。どちらも家族と同居していないから、嫌でも自炊しないといけないのだ。一人暮らしがこんなに面倒だとは思わなかった、というのが千愛の本音である。まあ、その代わり部屋を好き勝手に散らかしまくっても夜更ししても叱ってくる親はいないわけたが。

――どうすっかなぁ。……キャベツ今日までに使い切らないといけないけど使い道……もういっそキャベツチャーハンでいいかなぁ。ウインナーも古いの残ってたし。でもそれはそれとして牛乳とか明日の朝食べるパンとかもないから買いに行かないと……。

 つらつらそんなことを思っていた時だ。

「あのさ、千愛」

 ファイルを片付けていた華乃が、やや小声で声をかけてきた。

「本気なのよね?彼のこと」
「…………」

 初デートの後に、華乃には全てを話している(というかバレたからやむなく話したという方が正しい)。千愛の友人として、自分達の関係を応援してくれると言ってくれた華乃。今の所他の誰にも話さないでいてくれているようで、それは非常に助かっているのだが。

「本気なら、相応の覚悟した方がいいかも。総務部のあいつ、最近ほんと荒れてること多いみたいだから、多分あいつにもバレてるわよ」
「……隠してるんだけどな」
「女の嫉妬も怖いけど、男の嫉妬も別方向で怖いから。そんなに好きなら、ちゃんと繋ぎ止めておけば良かったのにね。愛想尽かされる前に」

 ほんとそれ、と千愛は思う。そして、惣介が成都に対してあまり誠実な態度を取ってこなかった理由もなんとなく想像はついている。あの男のこと、きっと慢心していたのだろう。成都のことを本気でわかっているのは自分だけ、相手もそう思っているはず。だから離れることなんかあるわけがない、と。
 そんなはずが無いというのに。
 自分のことを本気で理解しようとしてくれる相手でなければ、向こうだって理解したいなんて思えないというのに。

「……本気で好き、だとは思う」

 パソコンのデータを見るフリをしながら、ぼそりと千愛は呟いた。

「でもさ。……覚悟って言われても、難しいよ。そんなのがなかったら、恋ってしちゃいけないのかな」
「駄目じゃないわよ。でも、覚悟もなしに側にいる選択をして、それで何か大きな失敗をしたら。きっと後悔するし、自分を恨んでも恨みきれない結果になるでしょってこと。子供ならナニやっても許されるとは思わないけど、あんたらは大人なんだからより責任があるわけよ。自分の人生と一緒に、相手の人生を連れて行く責任がね。結婚を少しでも見据えてるなら、先の先までちゃんと考えなさいよね、逃げずに」
「……うん」
「ま、気が重いのはわかるんだけどさ」

 華乃が言うことは、きっと正しい。それくらいは千愛にだってわかっている。本気でいつか結婚を考えるなら、後悔しないようにちゃんと相手のことや、相手の家族や環境を知っていく必要があるだろう。そして、その結果伴う多くの変化も。

――そうだよね。

 ちらり、と。今は空っぽの、成都の席を見た。

――ただの恋なら自由でも。……結婚となれば、ハナシは別なんだ。

 そんな当たり前のことに、やっと思い至るのだ。もういい年の大人だというのに。



 ***



 結局、定時まで成都は戻ってこなかった。今日は直帰なのかな、と千愛は思いながらビルの階段を降りていく。営業マンなら珍しいことではない。ホワイトボードには確かに、商談が長引くようなら直帰することもあると書いてあったからきっとそうなったのだろう。

――惣菜なんか買うかなあ。チャーハンは作らないといけないんだろうけど、それ以外がメンドイ……。

 ああ、成都と同棲したい、とつらつら思う。初デートの翌日に食べさせてもらった唐揚げは絶品だった。なんであんな短時間で揚げられるのかさっぱりわからない。マジで嫁に来て欲しい系男子である――千愛の方の女子力が低すぎてちょっと申し訳ない気持ちにもなるけれど。

――もういっそチャーハンも作りたくない。インスタントラーメンの上に炒めたキャベツ乗っけてお茶濁すかー?……すんごい量になりそう。

 それと惣菜を一品買いたいが、今月はちょっと食費に使いすぎてしまっている感もある。なるべく安いものを買うか諦めるか、スーパーの特売コーナーを見て検討しようと決める。賞味期限が迫ってきたものには値引きシールを貼ってもらえることもあるし、タイミング次第では安く買うことも可能なはずだ。
 そんなことを考えながら玄関を出た時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくることになる。

「お前さあ、もっと後先考えろって」
「!」

 独特の、跳ね上がるようなイントネーション。間違えるはずがない。あの忌々しい、蓮見惣介の声だ。駐車場の方からだ、と千愛は思わずビルの裏手を覗き込む。そして、気付いた。惣介と――もう一人。今日は会社に帰ってきてないと思っていたその人が話し込んでいることに。

「わざわざ直帰申請したあとで会社まで来いって、なんの用件かと思ったらそれですか」

 うんざりしたような、成都の声。ふたりとも千愛には気づいていないようだった。

「あの人は俺の大学時代の先輩で、それ以上でもそれ以下でもないですよ。そもそも他の誰かと付き合ったところで、もう貴方には関係ないでしょう?」

 成都の言葉に、惣介は嘲るように笑った。

「バレバレなのにシラ切ってんじゃねーよ。それに、関係ないわけあるか。別れるなんて俺は了承した覚えないし?」
「了承されてなくても、俺はそう決めたんです。……もう、貴方とは終わりにしたい。俺の心がもう貴方にないことは、貴方だってわかってるでしょう。だから……」
「無理だって」

 じり、と彼が一歩前に進み出る。強気な態度を保っていた成都が、少し怯んで後退したのが分かった。ここからでは彼の顔まではっきり見ることは出来ない。それでもどこか、青ざめているように感じるのは気の所為なのか。

「無理だってば。お前は俺しかないって。俺から離れられるわけねーんだって。よくもまあ、俺にそんなデカイクチ叩けるもんだよなぁ。俺がいなくちゃなーんもできねークセに」

 謎の自信に満ち溢れた男は。せせら笑うように成都に顔を近づけ、忌まわしい言葉を吐くのだ。

「お前には、俺しかないんだよ、だって」

 次の瞬間、彼は乱暴に成都の髪を掴んでいた。小さく上がる悲鳴。何すんだ、と千愛がぎょっとする前で、惣介の言葉が続いた。

「お前が俺を忘れられるわけない。カラダも、ココロも、俺ナシじゃいられないはずなんだからよぉ」
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