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<12・自分達の早さで>

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 ほんの少しだけ、千愛は前に付き合っていた彼氏のことを思い出していた。
 吹奏楽部の、とある演奏会の打ち上げで出会った他大学のトランぺッター。小学生の時からトランペットを吹いていたというだけあって、とにかく秀逸な腕の持ち主だったのをよく覚えている。情熱的で、好きなものを語る時はとにかくいくらでも熱弁を振るえるような人。自分が持っていないものに憧れるタイプだった千愛は、なんだかその人がとても眩しくて、カッコいいと思えたのである。
 だから、なんとなく連絡先を交換し、なんとなく誘われて一緒に遊びに行くようになり、なんとなく流れでベッドに入ったりもした。恋愛として、まあひとしきり思いつくようなことはわりと何でもやったように思う。大人になるまで処女だったんだ、と聴いてちょっと笑われたのは鼻についたけれど、まあ他に気に食わないところはなかったはずだった。ただ。
 唐突に、眼が醒めてしまったというだけで。
 この感覚をどう説明すればいいのかいまだによく分からない。初々しくも、どこかで恋に恋をしていたような気がするのだ。吹奏楽関連では話が合ったが、それ以外ではあまり趣味が合うわけでもなかった。彼は感動系の恋愛映画が好きだけれど千愛はあまり興味がなかったし、ロボットものの博物館に連れていって貰った時もずっとはしゃいでいたのは彼だけだった。千愛は彼に嫌われたら嫌だなとなんとなく思って、それとなく合わせてしまうことが多かったのである。
 そして、最終的な決定打はなんだったのか。

『千愛さ、俺と一緒にいて本当に楽しいの?』

 それが、千愛を気遣った台詞だったなら良かった。この後ろに、楽しくないなら正直に行ってほしいとか、千愛が行きたいところに行くから言ってというのであれば。でも。

『無理してますって、アピールされるの、俺としてもきつい。俺まで楽しくなくなるから、ちゃんと笑っててよ』

 なにそれ、と。そこで、今まで我慢していたものがぷっつんと来てしまったのである。自分は楽しくないと思っていたのも、彼の為だと思って我慢していたのに。彼が嫌がると思って、本当のことなど言わないで、本当の自分を押し殺していたのに。
 結局彼は、千愛のことなんかどうでも良かったのだ。ただ彼女がいます、という看板が欲しかっただけ。何で千愛が上手に笑えていないのかも理解せず、自分が楽しくないからちゃんと笑えと押しつける。まるで千愛が悪いと言わんばかり。

――ああ、ほんと。こんな奴のこと好きかもしれないなんて、思った自分が馬鹿だった!

 例え彼氏というものができても、一緒にいて楽しくなければ全く意味がない。そして、本当の自分を隠して隠して、その苦しみも理解しようとしてくれない相手と共にいる価値はない。
 だから、友達であっても、彼氏であっても、ある程度言うべきことはちゃんと言える相手と付き合おうと思うようになったのだ。友達相手ならわりと思ったことを想ったまま言えるのに、彼氏になった途端我慢一択というのはあまりにもおかしなことではないか。それで離れていくような相手なら、最初から運命の存在ではなかったというだけのこと。散々無理をした挙句、お前が悪いみたいな切り捨てられ方をするくらいなら――最初にフラレた方がずっとマシだ。

――だから、ほんと。私はちゃんとした恋ってやつの経験なんか……ほとんどない。

 もう一人、高校時代に付き合った彼氏はいたが、彼はすぐ卒業して疎遠になり自然消滅した。手も繋ぐことなく終わった恋なので、はっきり言って友達の領域を出ていなかったように思う。
 ゆえに、唯一記憶に残っている恋は、そんな苦々しいものだけ。
 自分は偉そうに、成都にアドバイスなど出来る立場ではない。それは本当のことだ。そして、成都に好きになって欲しいなんて堂々と言える立場でもない。始まりの順番が滅茶苦茶すぎるし、そもそも千愛自身この気持ちが恋なのかどうかをちゃんと把握できていないのだから。
 だって、人を。そういう意味で本気で好きになったことが、多分一度もなかったから。比較して、それで判断できる自信なんてないのだ。でも。

「ああっ!」

 映画が終わって階段を降りる時、横を歩いていた老婦人が足を滑らせたのを見た。すると成都は迷わず彼女の体を支え、転倒を阻止したのである。

「大丈夫ですか!?」
「あ、ありがとう……!」

 杖を突いている紳士と夫人の夫婦だった。子供も見るようなファンタジーもののアニメ映画を、年輩者二人で見に来るというのは珍しい。昔からあるアニメではあるし、長年二人でずっと見に来ているのかもしれなかった。夫人が転んでも、杖をついている夫ではきっと助けにはいることが出来なかったことだろう。怪我をせずに済んだ夫人と旦那は何度も何度も成都に頭を下げた。それを見て、成都も少し恥ずかしそうに眉を下げていた。

「変わってないね、そういうとこ」

 階段を降りながら、千愛は言う。

「超カッコよかった。まさにヒーローマンってかんじ」

 ヒーローマンというのは、今日見た映画のタイトルである。いつもテストは0点、遅刻してばかりのいじめられっ子の少年が、世界の危機の時だけは勇気を振り絞ってヒーローマンに変身し、世界を救うという子供向けのアニメである。しかし、昔からテーマが奥深く、環境問題などと向き合うシーンも多く、大人でも楽しめるジャンルとして知られているのだった。
 あれもこれもできないと、出来ないことばかり数えなくていい。たった一つだけ、本当に大切なものを守る時だけ勇気を出して立ち上がることができればそれでいい。――そんなヒーローマンの相棒ロボットの言葉に共感し、心揺さぶられた人は多いことだろう。俺、小さな頃からこのアニメが好きなんです、と成都が言ってきた時ちょっと感動してしまったものだ。千愛も好きなアニメだったからというだけではない。子供の頃の、純粋な気持ちを忘れない人なんだなと実感することができたから。

「そんな大層なものじゃないですけど、梅澤先輩にそう言って貰えると嬉しくなっちゃいますね」

 成都は少し頬を染めて言う。

「俺はずっと、ヒーローマンになりたかった子供で、でもずっとなれない自分を後悔してたから。大人になって、少しでもそれに近づけてるなら嬉しいなと思います。そりゃ、迷惑がられたり、おせっかいだって怒られることもありますけど。それでも……あの時ああすればよかった、って後でずーっと後悔し続けるのはもう嫌だから。って、ようするに自分のためでしかないんですけどね」
「私はそういう人の方が信頼できるな。誰かのためにやってあげました、って言う人は押しつけがましいし、続かないと思うもん。自分のためだから、って割り切って誰かのために何かを出来る人の方が、ずっとヒーローらしいって思うよ。……私もそうなりたいなあ」
「何言ってるんですか」

 はは、と彼は笑い声を上げた。

「梅澤先輩は、もう俺にとってヒーローですよ?……あ、女性だからヒロイン?何にせよ、悩んでた俺のことを助けてくれたのは先輩なんですから」

 何で、そんなこっぱずかしいことが平気で言えるのやら。照れた顔を見られたくなくて、思わず“もおっ!”と背中をぽんぽんと叩いてしまった。

「な、何でかな!ヒーローよりヒロインって言われる方が恥ずかしいぞ!私、少女マンガのヒロインみたいに可愛くないし!」
「少女マンガあんまり読んだことないですけど、先輩の方が俺はいいです!」
「もおおおおおおおおおおおお!」

 ああ、恋愛ってきっとこうなんだ。その時千愛は心からそう思ったのだ。一緒にいて、楽しい。一緒に行って、ラクな気持ちでいられる。それから一緒にいて、ちょっと軽く何かを話すたびに新しい発見があって胸が躍る。ドキドキして、もっとこの人のことを知りたいと思うのだ。
 はっきり言って、自分が成都のどこに魅かれたのかと言われるとうまく答えられる気がしない。流されているだけじゃないのと言われたらそれも否定はできないし、いいところと言われるとちょっと多すぎて挙げきれない気しかしないからだ。
 イケメンとはいえ、多分一般的に女性が思い描く“理想の男性像”とは少し違うだろう。強引にお姫様を浚ってくれるタイプでは断じてない。ぐいぐいと押してきてくれる恋をするような人でもなければ、男らしくて勇ましいタイプと言われるとそれもかなり違うとは思う。
 でも、千愛にはとっては。そんなイケイケな彼氏より、成都の方がいいと思うのだ。一生懸命千愛を分かってくれようとする。千愛も彼のことがもっと分かりたいと思う。だから傍にいるればいるだけ、もっと近いところに行きたい、居続けたいと願うのだ。
 照れ隠しもかねてその右手を握れば、恥ずかしそうに握り返してくれる指先が熱い。多分それは、夏のせいじゃない。

「れ、レストランの予約、もうすぐだったよね!」

 誤魔化すように、千愛は声を上げた。

「お昼のサンドイッチも凄く美味しかったけど、夜も楽しみだな!映画の話もいっぱいしたいし、ゆっくりご飯食べよ!」
「そうですね」



『本音言うとね。あたしはあんたと橘君は結構お似合いだと思うんだけど。……友達としては止めるしかないっていうかね。あんたがいい奴だって、わかってるからなんだけどね』



 一瞬、華乃の忠告が頭の中を過っていった。やめておけ、と言われたのは確かに覚えているし、彼女が何でそう言ったのかも大体予想はついている。でも。

――華乃、マジでごめん。

 残念ながら、引き返すのはもうとっくに遅い。
 引き返したくもないと思ってしまっている。例え、これから誰かさんにまた嫌がらせを受けることがあったとしても。

「……その、梅澤先輩」

 成都の。指に絡む力が、少しだけ強くなった。

「もし、先輩が良かったら。……食事したら今日、俺の家に来ませんか。俺、一人暮らしだから……」

 それは、奥手な彼なりの精一杯以上に精一杯のアピールなのだろう。嫌だったらそう言ってくれていい、というのが透けている。
 ゆえに、千愛は。

「じゃあ、一つだけ、条件」

 思うのだ。明日が日曜日で、本当に良かったと。

「そろそろその、梅澤先輩ってのやめない?……私も、橘君じゃなくて……成都君って、そう呼びたいんだけど」

 少し駆け足なところもあるかもしれないけど。
 恋の速度なんてきっと、人それぞれでいいはずだから。
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