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#20:Home sweet home
流血と盾 02
しおりを挟む渋撥は途轍もないエネルギーに貫かれたのを感じた。たった一発なのに鉄球を撃ち込まれたように重たい――――単純な打撃とは異なる〝力〟。背から胸へ分厚い筋肉を貫通してゆき、内臓を押し退けて体内をひっちゃかめっちゃかにされた。生温かいものが猛烈に喉を突いた。
渋撥は禮に覆い被さるようにして床に倒れ込んだ。禮から顔を背けて真っ赤な液体を口から吐き出した。
ビチャッ、と自分の顔の横に血溜まりができたのを目にして、禮は青ざめた。
渋撥は床に肘と手の平を突き、ぐぐぐと上半身を持ち上げた。
「ほぅ……。身体張って盾になる根性くらいはあるようやな」
「禮の……盾になる覚悟ならなんぼでも」
渋撥は立ち上がって攘之内のほうへ向き直り、口許をグイッと拭った。盛大な一撃を喰らっても眼力は一切削がれていなかった。
禮は渋撥と攘之内との間に割って入った。
「お父はんもうやめて! トラちゃんとケンカしてハッちゃんかてまだダメージが残ってるんやからッ」
「万全な状態のときのほうが珍しい。何かが起こるときは大抵、泣きっ面に蜂や」
「これ以上やるならウチかて――」
禮は父親の言い草にカチンと来た。身構えようとした一刹那、コツン、と額に攘之内の拳が置かれた。攘之内は禮の行動を先読みしていた。この娘ならば敵う見込みのない相手にも恐れずに挑む。そうしたのは父親である自分だ。
「はああッ!」と攘之内が気合いを吐いた瞬間、禮の視界に火花が飛んだ。
「あっ……かはっ」
禮は失神して膝から崩れ落ちた。
「禮⁉」と渋撥は禮を抱き留めて顔を覗き込んだ。瞼を閉じて反応がなく、すぐに意識を取り戻す気配はなかった。
(禮を簡単に……)
渋撥の知る限りでは、禮の敏捷性、機動力の高さは飛び抜けている。その禮に回避もさせないとは驚嘆だ。
攘之内はチョイチョイと虎宗を手招きした。虎宗が寄ってくると禮を連れていくように指示した。虎宗は禮を抱きかかえて壁際まで運んでいった。
攘之内は、名残惜しそうに禮を見送る渋撥に対し「オイオイ」と声をかけた。
「心配すんな。ちょっと気ィ失うとるだけや。コイツ抜きで男同士の話続けよか」
攘之内の言う男同士の話とは、言を俟たず、拳で語るものだ。痛みと汗と流血を伴うが、渋撥は否とは言わなかった。
ガッ、ゴスッ、ドスッ、と硬いものがぶつかり合う衝撃音が何度も何度もしばらくの間続いた。攘之内も渋撥も、遠慮無く殴り合った。痛みや興奮は虚飾を剥ぎ取って本性を露見させる。二人は互いに腹の内を探り合い、見せ合った。自身がどういった人物であるか言葉で形容するより、本性を見せ合うほうが手っ取り早かった。
ある瞬間で、攘之内と渋撥はほぼ同時に動きを停めた。
渋撥は床に片膝を突いて肩で息をしていた。攘之内は仁王立ちになりその様を眼下に見据えていた。
――禮の意識がなくてよかった。
プライドの高い渋撥はそのようなことを考えていた。意識も思考もまだまだハッキリしている。心も挫かれてはいない。敗北を認めるつもりはない。しかしながら、両足で立っている相手を前に膝を突かされているシーンは充分に無様だ。
「頑丈さはまあまあやな」
攘之内は吐き捨てるように言った。文字通りの賞賛とは思えなかった。取り立てて述べるにはその程度しかないという風だった。
「成る程、盾になる程度やったら使えるかもしれへん。せやけど俺の娘を大事にでけるか言うたら信用でけへん。お前みたあな殴り方するヤツは、壊すほうが得意やろ。何かを守る為にその頭と力、使おうと思たことあるか」
――コイツ、さっき自分のパンチが俺に効かへんかったとき、笑うとった。
攘之内は渋撥の一挙手一投足を見逃さなかった。それは嫌な兆候だ。意識的にか無意識かなどは関係ない。そういう人物は後先なんか考えられずに兎にも角にも窮地に飛び込む。目的の為なら、自身の欲の為なら、何を齎すか、何を残すか、などとは考えない。喪失も獲得すらも、何も厭わない破綻した思考回路の持ち主だ。
何かを守ろうとしたことがあるかと問われれば――――渋撥が最初に何かを守ろうと思ったのは子どもの頃。思うだけ、覚悟があるだけで、腕力も知恵も無い。できることなど何もなかった。目の前の女たった一人、泣き止ませて繋ぎとめることさえもできなかった。
しかしながら、今なら盾となり守ることができる。人並みより恵まれた体格も腕力もその為に授けられたとさえ思う。失いたくなければ、何があってもこの手で、この身で、全身全霊で以て守らなければならないことは、とうに思い知った。どのような想いをしても守れることは幸いだ。己の無能と無力を嘆くしかないなどという最低の人生を歩まずに済む。
「俺ァ、親っさんが気に入るよなでけた人間ちゃう……。せやけど、俺みたいなアホでも、何があっても禮を守らなあかんっちゅうことだけは分かってます。禮の為なら俺みたあなのの命、何も惜しくない」
渋撥の眼、あの男と同じ三白眼に、迷いはなかった。恐れや憂いも存在しない。ただただ、強い意志だけが其処には在った。
この男が命を懸けるというのなら、きっと本当に命を捨てる。その頑健な肉体と強大な暴力を以てすれば、成る程、大抵の困難から女一人を守り果せることはできるのかも知れない。しかしながら、幸福にしてやれるかというとやはり破滅と紙一重だ。
自分の愛する娘は何故この男を選んだのだろうかと、苦々しい。平凡な男ならよかった。強くなくともよかった。当たり前の男でよかった。お前に優しく、お前を愛して、お前を守って、お前と人並みの幸福を築ける男であれば――――。
攘之内は観念したかのように長い長い嘆息を漏らした。
「…………。盾になるの已めたなったらいつでも言えや。そのときは、俺がきっちりケジメつけたる」
「――――オスッ」
§ § § § §
相模家、客間。
一枚板の応接テーブルを攘之内が真っ二つにしてしまった為、急遽別の部屋のテーブルと入れ替えた。攘之内と撥香は、先ほどより外周が一回り小さくなった木製のテーブルで日本茶を啜る。負傷者一名、失神一名だというのに流石に経験豊富な大人は落ち着いたものだ。
渋撥は縁側に胡座を掻いて座し、いまだ意識を取り戻さない禮をじっと観察していた。しこたま殴られて絆創膏だらけの顔面だったが、自身のことよりも禮のほうが気懸かりだった。
禮は座布団を枕にして畳の上に横たえられていた。風通しのよいところに寝かせていれば勝手に目を覚ますだろうとのことだったが、渋撥はいまいち信じ切ることができなかった。禮の身に何が起こって失神したのか、いまだに分からない。
渋撥が禮へ手を伸ばしかけたとき「オイ」と虎宗が声を出した。
虎宗は横たえられた禮を挟んで渋撥とは対面に正座していた。まるで番犬のように渋撥を監視していた。
「ここには親っさんがいはるんやで。親っさんの許しなく指一本でも禮ちゃんに触ったら、その指叩き折るで」
「チッ」と渋撥は舌打ちして手を引っ込めた。
「禮はほんまに大丈夫なんやろな」
「お前、目ェちゃんと見えてるんか」
「あァッ?」
「親っさんは禮ちゃんを殴ったわけちゃう。瞬発力で衝撃だけを内部に透す。衝撃で脳が揺れる。軽い脳震盪みたあなもんや。痕も何もあれへんやろ」
虎宗は指先で禮の前髪を避けて額を見せた。確かに傷一つ無い白くて丸っこい額だった。それから、昼寝中のようにすよすよとよく眠っている禮の額を手の平でグリグリと撫でた。
「お前は堂々と禮に触るンか💢」
「俺は兄貴やからな」
「言うてて虚しないか」
渋撥と虎宗は禮を間に挟んで睨み合い、静かに火花を散らした。
「ん~~」と禮が微かな声を漏らした。渋撥と虎宗が見守るなか、無意識に身動ぎし猫のように背を丸めた。バサリと音が聞こえなそうなほど濃くて長い睫毛が、花開くようにゆっくりと動いた。虎宗のほうを向いて寝惚け眼で気怠げに上半身を起こした。
「気分は?」と虎宗が尋ねた。
「平気」と禮は額を押さえた。一瞬あとにハッとしてキョロキョロと周囲を見回した。
「ハッちゃんは?」
禮は背後に人の気配を感じて振り返った。渋撥の顔面を見て、すぐに表情を変えた。
「……顔、ヒドイね」
よもや生まれついての生まれついての人相のことではあるまい。今更顔面の造形について言及するなら交際に至っていない。渋撥の顔面は絆創膏だらけ。その隙間から殴打された痣が覗いた。
禮は攘之内をキッと睨んだ。自分が見ていない間に渋撥が自分の父親からどれほど殴られたのだろうと想像すると怒りが沸いてきた。
「お父はん~~💢 ハッちゃんダメージあるさかい殴るのやめて言うたのに」
「そうは言うてもソイツも本気出したやんけ」
「お父はんが嗾けるからやろっ」
攘之内は反論しながらも苦笑した。自分なりに正当な理由があるとは言え、愛娘から責められるのはつらい。
渋撥は禮の二の腕を捕まえ、自分のほうに振り返らせた。
「禮。ええねん」
渋撥は禮に言い聞かせるように静かに言った。何かを納得した様子だった。気が済んだような、吹っ切れたような、怒りなど微塵もなかった。
バシッ、と虎宗が渋撥の手の甲を撲った。触るなと警告しただろうが、と睨みつけてきた。
「渋撥」と攘之内が呼んだ。
「勘違いせんどけよ。俺は断じて、娘の恋人としてお前を認めたわけちゃうからな。その頑丈さと根性に免じて、お前っちゅう男がおることくらいは覚えといたる」
「オス」
禮は、渋撥から返事があったことに少々驚いた。渋撥が頭から命じられて素直に云と言うとは思ってもみなかった。
「くれぐれもッ、俺の娘に妙なことしたら承知せえへんからなッ」
ドンッ、と攘之内はテーブルを叩いた。
虎宗は横目で渋撥に批判的な視線をジーッと向けた。渋撥は口を横一文字に噤んでいた。此処で黙ってしまうところが、見掛けによらず正直だ。
禮だけがピンときていなかった。
「妙なことって?」
「そりゃあー、ジョーが心配するんやからセックス――」
「ハッカ‼」
攘之内と渋撥の声が重なった。撥香の言は明け透けすぎる。父親と恋人としては、世間知らずの箱入り娘には直接的な話題はまだ聞かせたくはなかった。
そこまで口走ったなら本題を言ってしまったようなものだ。流石に禮も理解して顔面がカーッと真っ赤になり、耳の先まで赤くなった。
これは何もしていないな、と攘之内と虎宗は確信を得た。
渋撥はギロッと撥香を睨みつけ、撥香は「おっと」と口を手で押さえた。
「禮。ハッカの言うことはマトモに聞くな。アレはロクな大人ちゃう」
「何ソレひどい~」と撥香の不満そうな声が聞こえてきたが無視。
禮はソロリと顔を上げて渋撥と目を合わせた。まだ頬は仄かに赤かった。
事実、渋撥は禮とはまだ撥香の言うような段階に至ってはいないが、弱った表情の黒い瞳に見詰められ責められている気分だった。何も罪を犯していないのに罪悪感とは如何なる現象か。
渋撥は、撥香によって険しい表情をさせられた所為か、顔面に貼った絆創膏がめくれて剥がれかかっていた。禮はめくれた絆創膏に人差し指をピトッと添えた。
「自分でやったさかいよう貼れてへん」
「ウチがやり直したげる」
禮は、渋撥が不完全な恰好をしているのがなんだか可笑しくなってフフッと笑ってしまった。
渋撥が自力で手当てをした際のものであろう、縁側に救急箱が置いてあった。禮は救急箱を引き寄せた。この家で育ったのだから怪我をするのも手当をするのも慣れっこだ。
ペリッ、ペリッ、と渋撥は撓んだり皺になったりしている絆創膏を禮によって一枚ずつ剥がれながら、勝ち誇ったように目線を虎宗に向けた。此処が如何に番犬の領域とは言え、禮のほうから触れる分には何も文句は言えまい。
「禮はどうもないか」
「ウチは痛いとこあれへんよ。ウチよりハッちゃんのほうがケガ多いやん」
絆創膏を剥いで顔面の皮膚が見える面積が広くなり、余計痣が酷く見えた。
禮は救急箱の蓋を開け、消毒液やガーゼを取り出した。皮膚が擦り切れている箇所にスプレーの消毒を吹きかける最中、ふと渋撥の三白眼と目が合ってしまった。虹彩が小さいから目立ちにくいが、セキレイの無い貴石のような深い緑――――まるで翠玉だ。
禮は手当の手を停めて渋撥の三白眼を遠慮無く注視する。光の加減や見間違えなどではない。改めて観察すると、自分や虎宗のような黒い瞳とはまったく異なる光を放っている。物珍しさではなく、純粋にただただ綺麗だと思った。ずっと見ていたくなるほど。
「ハッちゃんの目、ミドリなんやね。こんなマジマジと見たことあれへんから気付かへんかった」
禮は、惹きつけられるように見入ってしまったことが気恥ずかしくてエヘヘと笑った。
虎宗はそれを聞いてピンときた。
(これは、本番どころか接近戦もロクにしてへんな。《荒菱館の近江》も禮ちゃんにはそう簡単に手を出せへんか)
渋撥は虎宗がフッと微かに嘲弄したのを聞き逃さなかった。小馬鹿にされたのは間違いない。
渋撥には不吉な予感があった。兄を自称する狡猾な鉄面皮から、いつボロを出すかとやり損なうかと虎視眈々と隙を狙われ、気が抜けない関係がこれからも続くのではないかと。
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