ベスティエンⅡ【改訂版】

花閂

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#19:Warrior

March the marionettes. 02

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 禮は正面を向き直った。
 大振りの動作で殴り掛かってきた男のパンチを回避し、太腿をスパァンッと蹴り飛ばした。男が瞬間走った痛みに反射的に怯んでいる隙に、顔面に向かって肘を突き出した。ガキィンッ、と男の鼻先に強かに肘がヒットし、仰け反りつつ後退した。
 禮は左脚を軸としてその場で一回転し、遠心力を乗せて右脚を繰り出した。
 バキャアンッ!

「げあぁっ……!」

 男は背中から廊下に転倒し、動かなくなった。
 仲間をやられて頭に血が上った男たちは、標的を禮に絞った。禮は迫り来る敵を間髪入れることなく巧みに迎撃した。
 彼等も荒事には慣れている。殴ることも殴られることもそれなりに経験してきた。しかしながら、何の心得もない常人の攻撃程度では速度も威力も禮の脅威とはなり得なかった。反対に、彼等の目には禮の姿はコマ落ちのようだった。回避の瞬間、攻撃の瞬間、動作の要所を視認することができない。眼前まで迫っても消える拳や蹴りによって気がついたときには迎撃されていた。掴み合っての殴り合いや力任せの乱戦には慣れている。しかしながら、少女はそれすらもさせてはくれなかった。
 尋常ではなく強い――――それが禮の評価として正しかった。

「なんちゅう足癖の悪い女や!」

 攻撃を鼻っ柱に喰らった男は、片膝を突いて禮を睨んだ。手の平で鼻孔を押さえたが指の間から血液が溢れ出た。
 楽観的に見れば、多勢に無勢の窮地も切り抜けられそうだった。男たちは次々と迎え撃たれ、或いは倒れ、或いは跪き、禮が優勢であるように見えた。
 しかしながら杏は、いつ禮が傷付いてしまうかという緊張に耐えられなかった。それほど剛胆で俊敏でどれほど技のキレが常人離れしていようとも、肉体は少女なのだ。一度でも真面に攻撃を喰らえば無傷では済まない。守られている現実ですら悔しくてしょうがないのに、自分が巻き込んだ事態によって禮が傷付いてしまうなど、耐えられない。

「やめえ! アンタ等その子が誰か分かってんの! 《荒菱館の近江》のオンナやで‼」

 杏は居ても立ってもいられず有りっ丈の大声を絞り出した。
 杏は禮自身よりも暴君の寵姫であることの価値と意味を知っている。それが矛とも盾ともなり得るものであると。
 《荒菱館の近江》――――荒菱館高校を絶対的に統治する暴君の名は、校内のみならず街中に広く知れ渡っている。この街最強と目され、刃向かう勢力とは徹底的に対抗し、冷厳に峻烈に他を圧倒する。無論、彼等のような人種がその名前を知らないはずがなかった。
 その名前を聞いた途端、男たちの動きが停止した。しかしながら禮の拳は急停止できず、油断した男の鳩尾みぞおちにドッボォッとめり込んだ。

「このックソ女……!」

 男は腹部を押さえて苦悶しながらしゃがみ込んだ。
 將は禮を振り返り「お前が⁉」と驚愕の表情を見せた。勿論、禮は否定しなかった。

「禮は近江さんのオンナや! 禮に手ぇ出すっちゅうことは近江さんを敵に回すっちゅうことや! アンタ等全員ブッ殺されるでッ!」

 杏は肩を怒らせて息巻いた。緋色の一団が縫い付けられたように停止し、ここが好機だと思った。

「《荒菱館の近江》がここににいてるやて⁉」

「《荒菱館の近江》って言ったら総長と……」

 男たちは顔を見合わせてにわかにざわめいて分かりやすく動揺した。
 副総長は「へえ」と落ち着いた声を漏らした。金属バットを杖にして斜めに立ち、その斜角の視界で禮を頭の天辺から足の爪先までじっくりと観察した。

「やっぱりか」と副総長が独り言を零したのは、杏の想定外だった。

「見たことある顔やと思たで。そうや、その顔や。お前は《荒菱館の近江》のオンナや」

「思い出してくれんでええよ」

 禮が素っ気なく放言し、副総長はカカカカ、と声を上げて笑った。彼は禮がそうであると知っても驚いた素振りもなく、寧ろすでに禮を知っている風だった。

「アホッ杏! ほなその子連れてさっさと逃げえ!」

 血相を変えた將に突き飛ばされ、杏は眉を顰めた。將が一段と焦燥した理由も、副総長と禮がまったく知らない風でもない理由も、杏には何も分からなかった。

「前に言うたやろ、赤菟馬と荒菱館はソリが合わんて!」

「聞いたことはあるけど、それどーゆー意味……」

「総長と近江はハナから敵同士や! 近江のオンナなんか言うたら、俺のことなんか関係ナシにッ……!」

「將ォーーーッ!」

 杏は將の言葉を遮って叫んだ。
 將は背後に気配を感じた。振り返ると、自分に飛びかかるように副総長が金属バットを振り上げていた。それを回避するには気付くのが遅すぎた。
 バキィインッ!

「がっはぁッ……!」

 金属バットを脳天に叩き付けられ、視界いっぱいに火花が散った。
 踏んでいるはずの床が揺れる。踏み留まらなければと力を入れるほど床は撓み、目に見える世界は歪んだ。天も地も失って、真っ暗闇へと突き落とされた。

「ショッ……將ッ! 將ォッ‼ 將ぉーーっ‼」

 杏が大声で呼んでも床に突っ伏した將はピクリとも動かなかった。今すぐ近くに行って揺り起こさなくてはと思った。そうしないと二度と目を覚まさないような恐怖に襲われた。
 將の許へ駆け寄ろうとした杏の長い金髪を、一人の男が捕まえた。杏は、ぐいんっと髪を後方に引っ張られて「あうっ!」と声を上げた。
 禮が体の向きを杏のほうへ変えると、それを見越していた副総長が進路を金属バットで遮った。

「離せッ! 離せクソボケ!」

 杏は頭を振り手足をバタバタと動かして必死に藻掻いたが、あれよあれよという間に両腕を捕まえられてしまった。

「裏切り者追い掛けとったら、ついでにとんでもないエモノが出てきたで」

 副総長は金属バットの先端を禮に突きつけた。それはすでに標的はすり替わっていることを意味していた。
 禮は、將と杏が敵の手に落ち、自身の置かれた立場を一瞬にして理解した。拳を開き、構えを解き、両腕を下ろした。

「度胸がある上に頭もええ嬢ちゃんや」

「禮、アンタは逃げて! アンタの足なら逃げれるやろッ」

 杏の言う通り、禮一人なら目の前の男に一発を喰らわせ、行く手を阻む者を撃沈し、颯爽と走り去ることもできただろう。しかしながら禮はそうしなかった。それはできない相談だった。禮が杏や將を見捨てて自分一人だけ逃れることなどできようはずもなかった。

「その頭なら言わんでも分かっとるやろけど、將とこの女助けたかったら大人しく付いてこい」

「ウチが言うこときいたら二人とも無事で帰してくれんの」

「さぁな。ソレはウチの総長が決めはることや」

 副総長は禮に突きつけていた金属バットを下ろした。
 禮に抵抗する気がないことは態度から悟った。禮単身であったならその高い能力は警戒すべきだが、こうして意識のない男とか弱い女を掌中に収めているだけで自由を奪うことができる。攻略することに難はない。

「せやかて俺にもお前の価値は分かるで。近江にとって、お前ほど価値のある女はいてへん」

 禮は無言で正面に立っている男から視線を逸らした。
 ずっと予感はあった。凶兆は見えていた。願わくば、わたしの持てる力で災禍を祓わんことを。


 緋色の死神の使徒たちが、禮たちを連れ去ったあと。
 鞠子マリコが廊下の曲がり角で、一人で打ち震えていた。お手洗いに行って自分のシートへと戻る途中、禮と杏が連れ去られる場面を偶然にも目撃してしまった。

「あ、あぁ……どうしよ……。禮が……」

 その顔面は蒼白だった。全身を鳥肌が覆っているのに、額からは汗が流れ落ちた。学校行事の最中、見たこともない集団に取り囲まれて連れて行かれる事態が只事ではないことくらい分かる。杏は離せ離せと喚いていたし、禮の表情はいつになく緊張していた。
 誰もいなくなった廊下はシンと静まり返り、冷房はさほど効いていないはずなのに冷気が漂っていた。


  § § § § §


 レイアンズ、それから頭部を強打されて意識を喪失したショーは、能楽堂から港湾地区へと連行された。
 外国籍船や貨物船などが荷揚げする大型倉庫が建ち並ぶ港湾地区一帯は、交通量の多い大通りからは離れ、昼間であってもたまに数人の釣り人が通り掛かるだけで歩行者は皆無といっても良い。空き倉庫の一つが、彼等の塒だった。
 此処に連れてこられるまでに禮も杏も無駄な抵抗はしなかった。女二人では意識のない將を連れて逃亡することは到底できそうにない。今はただ冷静さを失せぬよう努めた。隙を窺って逃げるにせよ戦うにせよ、周囲の環境や情況を把握することは肝要だ。
 空き倉庫の内部は伽藍堂。人数の割には勿体ないくらいの広さだった。

「オイ。ソイツはその辺に転がしとけ」

 副総長がそう指示し、將を二人掛かりで運搬してきた男たちは、將の体を地べたにドサッと投げ捨てた。かなり乱暴に落とされたのに將は意識を取り戻さなかった。俯せに転がったまま、ピクリとも動かなかった。
 副総長はふと金髪の少女と目が合った。険しい表情でジロリと睨まれた。好かれているなどと期待してはいないが、今にも噛みつきそうな視線だった。

「足癖の悪い女に目付きの悪い女とは。ロクなオナゴがいてへんな、荒菱館コーリョーカンは」

「そっちこそロクな男いてへんやん。たった一人を大勢で追い回すクセに」

 杏は直ぐさま言い返した。近くにいた男の一人がチイッと舌打ちをした。

「生意気な女やのォ。誰に向こうて口利いてるか分かってんのか。この人は赤菟馬セキトバの副総長やで」

「たかが赤菟馬の副総長が何様やねん。女人質に取るような卑怯モンの集まりが」

「このクソアマッ……」

 杏は自分よりも一回りは上背がある男に威嚇されても少しも怯まなかった。
 男はカッとなって杏に掴み掛かろうとしたが、副総長がその肩に手を置いて制止した。男は女相手にムキになるなと諫められ、口惜しそうにチイッ、チイッ、と何度も舌打ちをした。
 副総長は「進め」と禮の背中を突いた。

 禮と杏は倉庫の真ん中を進んでいった。
 倉庫の角に人間の背よりも高く土塁が積み上げられていた。その脇を通って土塁の壁の向こう側を見ると、またもや緋色の特攻服を纏った男たちがいた。男たちが左右に割れ、古い簡易ベッドが一つ見えた。
 一人の男がベッドに腰掛けていた。その男に向かって副総長が「大塔さん」と呼びかけた。
 杏はその名前に聞き覚えがあった。かつて恋人同士だった頃、將から何度も聞いたことがあるし、それ以外の場所でも耳にする機会はあった。
 この男こそが、將が会いたがっていた赤菟馬の総長――――大塔ダイトー轍弥テツヤだ。

「さっき電話で話した、近江のオンナ連れてきました」

 副総長は禮のセーラー服の襟を掴み、グイッと引っ張って数歩歩かせた。戦利品を見せびらかすように大塔の前に差し出した。
 パンッ、と禮は副総長の手を払い落とした。そして背筋をスッと伸ばして自分の意思で真っ直ぐに大塔を見た。
 大塔はベッドに腰掛けたまま禮を黙って見詰めた。ゆうに数十秒間、二人は視線をかち合わせていた。互いに腹の中では何を思ってか、逸らそうとはしなかった。

「ああ、せや。確かにこの女が近江のオンナや」

 大塔は口の端を釣り上げてニヤリと笑った。ベッドから立ち上がり、禮のほうへ大きな歩幅で近付いた。此処は伽藍の空間であり、誰も彼も大塔の一挙手一投足に神経を張り巡らせて押し黙り、カツン、カツン、と一歩一歩の靴音がやけに大きく響いた。
 大塔は禮の真ん前までやってきた。互いの爪先があと数センチでぶつかりそうだ。
 禮は微塵も揺らがなかった。傍で見守っている杏のほうが緊張して手に汗を握った。

「確か……レイ、やったか」

 杏は大きく目を見開いた。まさか大塔の口から禮の名前が出てくるとは思わなかった。この街きっての過激派の暴走族・赤菟馬の総長と、女子校育ちの御嬢様とが既知という事実は、杏の頭を混乱させた。

「覚えてくれてへんでええのに」

「あははははははっ」

 禮が少々不愉快そうに放言し、大塔は吹き出して背を丸めて笑った。緋色の男たちが沈黙して見守る中、大塔だけが声を上げて愉快そうだった。
 一頻り気が済むと、禮の顎を人差し指でクイッと上方に押し上げた。

「相変わらずカワエエ顔やな禮。近江には勿体ない嬢ちゃんやで。キラキラキラキラ、キレエな目ぇして」

 禮は視界の端でシュッと何かが動いたことを察知した。
 パシィンッ、と大塔は禮の頬を平手で叩いた。

「相変わらず癇に障る女や」

 大塔の顔面から笑みは消失し、ギラリと刺すような視線で禮を睨んだ。

「禮に何すんねんコラァッ!」

 頭に血が上った杏は大塔に向かって叫んだ。
 ダンッ。
 突然大塔が禮の足の甲を踏みつけた。地を這う蟻を擂り潰すように爪先を動かしてグリグリと踏み潰した。

「お前の足癖の悪さはよう覚えてんで」

 禮は声を上げなかった。若干表情を歪めながらも痛みに耐えた。人質を取られ大勢に囲まれても、大塔に屈するつもりなど毛頭なかった。
 大塔は禮の足から自分の足を退かし、クルリと背を向けた。再びベッドの上に腰を下ろした。
 手下の一人がすかさず縛っておきますか、と尋ねた。大塔は足を組んで頬杖を突き、禮の表情を下から眺めた。頬を仄かに赤く晴らされ、踏みつけられても、泣きもせず弱音も吐かない。その様を見て如何にもこの女らしいと思うほどには、禮の性情を把握していた。

「いいや。ドーセ人質押さえられとる情況じゃこの女はよう動けん。そーゆー女や」

 さて、と大塔は副総長に視線を送った。副総長はその意図をすぐに読み取った。寧ろ、こうなることを想定して禮を確保した。

「折角こんなええモン手に入れたんやし、近江にもちゃんと教えたらなあかんなァ。お前の女、俺んトコいてるけどどうする? ……ってな」

 自ら事態を露呈させ、敢えて《荒菱館の近江》を挑発する敵対的姿勢。全面に表明された敵意と悪意。將が言った通り、大塔は《荒菱館の近江》を憎悪している。それどころか禮個人への嫌悪もある。
 杏は、己のしたことを悔いた。大塔ダイトー轍弥テツヤは禮に災禍を齎す死神だ。その手が届かないように、その目に触れないように、隠すべきだったのだ。

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