ベスティエンⅡ【改訂版】

花閂

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#12:Bill to pay for the laziness

Real intention of the tyrant 02

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 レイは兎にも角にも保健室を飛び出し、当てもなく走っていた。東棟の校舎裏を駆け抜けている最中、ふと体育館の出入り口が施錠されていないことに気付いた。追われるウサギが巣穴に逃げ込むが如く、体育館の中へ飛び込んだ。
 ダァンッ!
 体育館は丁度授業が入っておらず、人気ひとけが無かった。伽藍堂の体育館内に渋撥シブハツの豪快な足音が幾重か響き渡った。
 体育館内に人気が無いということはとどのつまり、禮の姿も無かった。渋撥と美作ミマサカは、シンと静まり返った体育館内の一階のコートや二階のギャラリーまで隅々まで見回した。

「あれー? 体育館に入ってったの見えたんやけどなー」

 次はかくれんぼかな、などと美作は冗談を言い、肩を竦めた。愛煙家である彼は、禮を追いかけ回して校舎内を動き回り既に草臥れていた。

「美作、お前もう付いてこんでええぞ。元から付いてこいなんざ言うてへん」

 渋撥は美作のほうなど一瞥もせず、相変わらず体育館内を執念深く観察しながら放言した。
 美作は鼻の頭を指先でポリッと掻いて「そりゃあまぁそーですケド」と零した。

(ここまで来たら結末見たいっちゅうか、これ以上こじれられてもええ予感がせえへんからなー。近江オーミさん、さっきからレイちゃんに話ある言うてはるけど何の話なんや。浮気の言い訳なんか何言うても焼け石に水やで。謝り倒すしかないんちゃう。せやけど近江さんが頭下げてるとこなんか想像でけへんしな。ちゅうか言い訳にしろ頭下げるにしろ、今までそんなんしたことないんちゃうか)

 近江オーミ渋撥シブハツ荒菱館コーリョーカン高校に君臨する不動の暴君。彼が白と言えば黒いものも白となり、是と言ったなら非と言う者は誰もいはしない。彼には弁明も謝罪も不要。此処が学内であるか否かなど関係ない。彼が荒菱館高校の生徒であるか否かなど関係ない。譬え美作が知る以前、荒菱館高校入学前の渋撥を想定してみても、誰かに向けて頭を垂れている姿など想像ができなかった。美作の想像力が足りないのではない。そのような姿を描かせないほどに渋撥の存在は圧倒的だった。
 渋撥が決して得意ではないだろう弁明を懸命にしているシーンを見てみたいような見たくないような……。

「近江さん、レイちゃん捕まえたら何て言い訳しはるつもりなんですか」

「誰が言い訳なんかするか」

 え、と美作は素早く渋撥に聞き返した。

「せやけど浮気……」

「してへん言うてるやろ」

「そうは言わはっても、あの一年が近江さんがオンナと歩いてるとこレイちゃんも見た言うてましたやんか。何か説明せんことにはレイちゃんのキゲン直らへんでっせ」

「ワケがある」

 渋撥は美作を振り返らずキッパリと断言した。

「ワケ?」

「せやけどお前には言いたない」

 渋撥はそう言うと、体育館の或る一点にキッと視点を合わせた。それは引き戸が閉じられた体育用具入れ。深く息を吸い込み、肺を膨らませた。

「禮ィイーーーッ‼ 用具入れンなかはゴキブリおんぞーッ‼」

 突然鼓膜に飛び込んできた大音量に、美作は表情を歪めた。渋撥はその日本人離れした体格に見合って肺活量も並ではない。まるで獣の咆哮だ。
 ……バタバタバタバタバタッ。バターンッ!
 体育館壇上の脇にある体育用具入れの引き戸が勢いよく開き、中から黒い人影が飛び出してきた。

「あ、レイちゃん」

 美作は禮を指差した。
 禮は余程慌てたのか肩を上下させ、やや涙目でキッと渋撥を睨んだ。大のゴキブリ嫌いであるから取り乱すのは当然だった。

「近江さん、用具入れンなかでジー見たことあるんでっか」

「イヤ、知らん」

 渋撥はキッパリと言い切った。でしょうね、と美作は苦笑した。

「ハ、ハッちゃんのウソつきー!」

 禮のバッシングなど何処吹く風。渋撥は無表情だった。追われているこの情況下で引っかかるほうが正直すぎる。よく言えば純粋無垢。恐るべし性善説の純粋培養。

「俺が行く。レイが逃げてきたら捕まえろ、美作」

 渋撥は美作命令し、禮に向かって足を踏み出した。体でとめろという意味だろうが、禮の進行を阻止した場合に蹴られるのは嫌だなあ、などと美作が思っても命令を拒否をする権利など無いことは分かり切っていた。
 渋撥がズンズンと近付いてきて、禮はドキッとした。キョロキョロと辺りを見回したが出入り口があるのは体育館の下座であり、自分がいる壇上側には外へ通じる逃げ道は無い。追い詰められたと実感すると急激に身体が萎縮した。

「俺は話がある言うてるやろ。何で逃げんねんお前は」

「き、聞きたないから」

 渋撥の声がもう近い。禮は顔を上げずにとにかく言い返した。
 何も言わなくてよい。真実なんて知りたくない。あなたの言葉を受け止める勇気はまだ無い。真実を知る心の準備はできていなくても、真実は目の前に差し迫っており、真実は誤魔化しようがなく、逃げ道はもうない。欲しくない真実を押し付けられるのは拷問だ。わたしはあなたの前ではとんでもなく臆病だ。

「お前、ホンマに俺が浮気しとると思うとんのか」

「だってハッちゃん、ウチに何も言わんでよくガッコ休んでたんやろ。電話かけても出えへんし……っ」

レイかて何も聞かんかったやんけ」

「ウソ、ついたクセに……っ」

 違う、こういう風に言いたかったのではない。もっと賢そうな言葉を選んで、もっと大人みたいな態度でいたかったのに。追い詰められた禮は何も上手くできなかった。単に渋撥を責める言葉が出てきた。自分でも稚拙だと思う。

「浮気してへん言うてたのに……」

「してへん」

「女の人といてるとこ、見たもん」

 ガツッ、と渋撥は禮のセーラーの襟を捕まえた。
 渋撥の力で握り締められてしまえば、禮が力尽くで振り払うことは不可能だ。禮は観念したようにようやく顔を上げ、渋撥と目と目とを合わせた。渋撥の両目は真っ直ぐに自分を見ていた。

レイが何見たか知らんけど、俺はしてへん言うてるやろ」

 お前が見たくなかった俺よりも、いま目の前の俺を信じろと言われている気分だった。何も考えず何も案じず、盲目になって愚かになって信じたい。けれど――――。
 禮が渋撥から顔を背けかけたとき、トンと胸の真ん中に何かを押し付けられた。
 禮はゆっくりと自分の胸元に目を落とした。渋撥が小さな箱を禮に突き付けていた。

「やる」

 禮が反射的に両手を出し、渋撥は揃えられた掌の上にその箱を置いてやった。禮の小さな掌にも収まる程度の正方形の小箱。黒地のベルベットに覆われて、崩れた流麗なローマ字の金字の刺繍が施されていた。
 何故これを渡されたのか分からない禮は、渋撥へと視線を引き戻した。禮はまだ少し泣きそうな顔をしており、渋撥はほんの少しだけ申し訳なさそうな表情をしてセーラーの襟から手を放した。

「これなに?」

「指輪。やる」

 渋撥が強く握り締めすぎてしまった所為でセーラーの襟に皺が残っていた。彼は手の甲でトントンと払うようにして皺を伸ばしてやった。

「なんで急に指輪……?」

「急にっちゅうか今頃やな」

 渋撥はバツが悪そうに少しだけ、笑った。

「俺はレイみたいな女と付き合うたことあれへんさかいな。どういう付き合い方したらええか正直いまだによう知らん。せやけどまあ……こういうことしたら、喜ぶんやろ」

 何をどうしたらよく分からないくせに、懸命に考えたのか。何をしても謝罪や弁明など必要としない、大抵のことは命令するだけで事足りる、碌な反抗もされたこともない、そのような男が、たった一人の女を喜ばせる為に頭を悩ませたのか。
 渋撥の口許を吊り上げるだけの下手くそな笑みを見て、禮は居ても立ってもいられなくなった。格好を付けるばかりの彼が、バツが悪そうにしているのは絶対に嘘ではない。
 一言ありがとうと言うより何より、禮は渋撥に抱きついた。嬉しくて嬉しくて、感謝の言葉よりも先に行動してしまうのが禮らしい。言葉を発しようとすると涙が出てきた。
 さっきまで何を言っても逃げ出されていたから、渋撥の口からはふうと安堵が一息漏れた。

「何で泣くねんお前は。喜べよ」

 渋撥の大きな手が頭の上に乗っかってぐしぐしと撫で回され、禮はさらに声まで漏らして泣き出した。涙混じりのありがとうはよく聞き取れなかったが、渋撥は何処か満足げに禮の頭を優しく撫でていた。


   §§§§§


 翌日。一年B組。
 禮の前の席にはアンズが陣取っていた。渋撥と乱闘した面々も禮の席の周辺に集まっていた。体を張ったのだから、事態が収拾したというのなら事の顛末を知る権利くらいあるだろう。
 杏は、渋撥から逃げ回った結末を禮から報告されて上機嫌だった。彼女は禮だけの味方であり、渋撥が浮気をしていようとしていまいと、禮さえ健やかならばそれでよいのだ。

「へー、ほな浮気してへんかったんやな、近江さん。しかも指輪プレゼントしはるなんか、意外とカレシっぽいことしはるやん」

 杏は禮の左手首を掴み、その薬指にキラキラと光るシルバーリングに顔を近付けてマジマジと眺めた。
 禮は気恥ずかしそうに「えへへ」とはにかんだ。

「ハッちゃんコレ買うてくれる為にバイトしてたさかい、たまにガッコ休んでたんやって」

「ほな結局、カラオケんとき近江さんと一緒に歩いてた女は何やったんや?」

「ハッちゃんのバイト先の事務のお姉さん。バイトの終わりの時間が重なったら駅まで一緒に行ったりしてたんやって」

 杏は「ふ~ん」と受け容れたが、男子生徒諸君は釈然としない顔をしていた。正直、突ける箇所などいくらでもある言い訳だと思った。
 虎徹コテツは、自分の席に尻を乗せて腕組みをしている由仁ユニに「どう思う?」と尋ねた。

「う~~ん、グレーゾーンやろ」

レイが納得しとるんやからもう放っといたれ」

 幸島コージマは嬉しそうにしている禮に水を差したくはなかった。

「俺等ただの殴られ損やんけ」

 大鰐オーワニは椅子に深く凭れ掛かりブスッとして放言した。その顔には大きな青痣。無論、渋撥に殴られた痕だ。

「そう言うなよ。みんな平等に殴られてんだろ」

「お前は顔だけしっかり守っとるやんけッ」

 どう器用に立ち回ったのか、脩一シューイチの顔は無傷だった。彼以外の幸島も虎徹も由仁も顔が腫れ上がっているというのに、本当に自分の顔面には努力を惜しまない男だ。
 禮は申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。

「みんなハッちゃんが乱暴でごめんね。あとでちゃんと謝ってて言うとくね」

「イヤいい! いいからっ! マジでやめてくれ💦」

 脩一は慌てて手を横に振った。これ以上王様の不興を買うのは御免被る。

「なにが謝ってて言うとくね、や。昨日まで半分死んどったクセに浮かれた電波出しくさって」

 大鰐はケッと吐き捨て、禮からプイッと顔を逸らした。
 脩一は前の席から大鰐の肩を小突いた。

「丸く収まったんだからいいじゃん。レイと近江さんがモメるとまた被害食うぞ。お前、仲のいいカップル見たら理由なく憎むタイプか」

「うるせッ」



 同日。中庭にて。
 晴天の下、渋撥はベンチに大股開きに座って紫煙を燻らせていた。昨日学校中を走り回ったお陰で、ゆっくりと気を落ち着けて呑む煙は美味いものだと再認識させられた。
 渋撥の隣では美作が同じように煙草を銜えていた。蒼天を流れる白雲を眺めながら、ただただ煙を肺に入れ口から出すという時間を過ごした。
 こう言うたらあれですけど、と美作は灰皿に煙草の灰を落としつつ話し始めた。

「近江さんがオンナに指輪買うたるなんか予想してまへんでしたわ」

 それはそうだろう。渋撥自身、そのようなこと考えたこともなかった。
 渋撥はフーッと紫煙を吐き出した。

ツルが」

「鶴さんが?」

「カレシらしいことしたれ言うてやかましいさかいな」

 自分をよく知る人物に忠告された通り素直に実行するなど格好が付かない部分もある。しかしながら、彼は恐らく自分よりも自分のことをよく識っている。禮のこともよく知っている、よく見ている。自分の見ていない部分まで、自分が気づくことができない部分まで、きっとつぶさに目を配っている。鈍感で不完全な自分よりも遥かに彼のほうが真面だ。故に、彼の忠告は最適解なのだ。
 渋撥は、禮の為にしてやれることはそう多くないと考える。本音を言えば、理解してやることさえ満足にはできない。何かをしてやりたいと思っても、何をすれば喜ばすことができるのかよく分からない。正解を導き出すことができない。きっと間違える。
 不甲斐ない。お前だけがこんなにも己を不甲斐ないと思い知らす。お前の幸せは、俺の力だけじゃどうにもならない。そんな俺でもしてやれることが一つでも増えるのであれば、ほんの少しの不格好など呑み込んで実行してやる。

「俺にそんなん期待されてもどうしたらええかよう分からん。せやけど、ツルが言うっちゅうことは、そうしたったほうがレイにはええっちゅうことやろ」

 美作はうんうんと頷いた。

「サスガは鶴さん。そりゃあしたったほうがええですやろな。レイちゃんは俺等みたいなんとはちゃうし。せやけど指輪買うたる為にバイトして浮気を疑われるなんか本末転倒でしたなー」

 渋撥は美作の足を蹴飛ばした。元はといえばその疑念を生じさせたのはお前と曜至ではないのか。
 苦笑いで誤魔化そうとしていた美作は、何かに気付いて「あ」と零した。

「もしかして、あのとき近江さんがマキちゃんに掴みかかったのて、図星指されたから――」

 美作が冗談交じりに話を振ると三白眼が自分に固定されており、瞬時に表情が凍り付いた。

「……何でもナイデス」

 渋撥は煙草を唇から離し、灰皿に押し付けて火を消した。灰皿の穴のなかに煙草を落とし、スッと立ち上がった。

「ツケを払うとるだけや」

「ツケ……?」


 俺が支払わなあかんツケは多分、ごっつデカイ。俺が今まで好き勝手してきたツケや。俺が支払わなあかん。後悔してもしゃあないし、後悔する気もあれへん。なんぼぎょうさんあっても背負う覚悟はある。
 禮に釣り合わへんとか、相応しくないとか、俺が一番分かってんねん。何をどこまでやったらそうなれるんかも分からん。せやけど俺は男やから意地がある。ツケを払いきって、何もかんも背負いきったる。
 俺はどうしょうもない阿呆やけど、禮の為ならガラやないことでもやったる。禮が笑うなら、何でもやったる。

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