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#05:Sign of Recurrence
Falling of love
しおりを挟む私立石楠女学院中学校。
神秘の花を冠する、戦前に開校した由緒正しい女子校。幼稚園から大学まで一貫教育を敷いている。現在も名家の子女が多く在籍し、国内外の場の如何を問わず、誇り高く教養があり美しく淑やかな完璧なレディとなるため日夜勤勉に励んでいる。無論、近隣では抜群の知名度を誇る御嬢様学校である。
もうそろそろ昼休みが終わろうかという時分、禮は自分の席から窓の外をぼんやりと眺めていた。
「禮。ぼおってしてどうしたん?」
隣の席から夜子が声をかけたが、反応が無かった。
「次の授業、小テストやるてこの前先生言うてはったやろ。ちゃんと準備してきた?」
「ん。いや……」
本当に話の内容を理解して受け答えをしているのか怪しいリアクション。本日の禮は朝からずっとこんな感じだ。禮は学校ではいつも快活であり、これは明らかにおかしい。
「また何かしたんちゃう?」
禮から応答は無くても夜子は話を続けた。教科書やペンケースを机の上に出し、次の時限の準備をしながら話しを続けた。
よくよく言い聞かせても禮がきかないのはいつものこと。それならばきくようになるまで諫め続けるのを厭わないほどに根気強い性格だった。
「また無茶して男はんとケンカでもしたんちゃうの。なんぼ禮が並の男はんより強いいうても何があるか分からへん。大怪我してからじゃ遅いえ」
「無茶、かあ……」
禮は窓の外を眺めながらポツリと零した。
「無茶するいう意味が、ちょっと分かったかも」
夜子は授業の準備をする手をピタリと止めた。
「やっぱりケンカしたんやね」
禮は小さな声で「ゴメンね」と言い、ゆっくりと夜子のほうへ顔を向けた。
夜子は椅子に座り直し、体ごと禮のほうへ向き直った。禮の両頬に手を添えて顔を近付けじっと観察する。
「元気おへんけど、怪我はしてへんの?」
「ん。してへんよ」
夜子は、禮とは同い年の幼馴染みであるのに幾分大人びていた。禮は夜子を信用し頼り切っていて、少し甘えたい気分になる。聞き分けの悪い禮に怒りもせず何度も同じことを言い聞かせてくれる夜子はまるで母親か姉のようだ。
夜子は温度も言葉も声も雰囲気も本当に優しい。禮には無いものを持っている。夜子自身そのようなことは考えていないだろうが、無いものを分け与えてくれる。分け与えて大事にしてくれる。その分、返さなければいけないのにいつも貰ってばかりだ。
夜子はいつも心配してくれているのに、傍らに寄り添ってくれるのに、安心させてあげようなど思ったことがなかった。当然のように受け取るばかりで、ありがとうという気持ちを返すことも忘れていた。
「今まで心配させてゴメンね」
禮から溢れ出たしおらしい言葉に、夜子は一瞬驚いた顔を見せ、すぐにフフフと笑って両頬をぐりぐりと撫でた。
「ケンカしてしもたもんはしゃあないさかい、怪我がないなら許したげる。せやけど今日は本当に元気がおへんえ。ケンカして、何かあった?」
「ケンカには……なってへんのかも」
初めての喧嘩での敗北は、無残なものだった。桜花の如く華と散るではなく、路傍の石の如く見捨てられた。歯牙に掛ける価値のない、獲物にすら相応しくない取るに足らない餌として捨て置かれたのだ。
口惜しいと食い下がる気概も湧いてこないほど、明確な力の差を見せ付けられた。
「ケンカにもならへんで、ウチ負けたんよ。負ける前に勝たれへんて思ってしもて。こんなこと初めてやから、昨日からずっと変な感じ……」
「変な感じ?」
「こんな気分になるの初めてやのに、名前も知らんし、どんな人なんかも知らんし、そんな人にこんな気分にさせられて……ん~? あれ? 何言うてるのか自分でも分からへん~~て、昨日からずっとモヤモヤする」
勝敗について悔しさはないはずなのに、ずっとあの顔が頭から離れない。言葉も動きも眼光も何もかも、少しも褪色することなく頭の中をぐるぐると巡る。沸き上がってくるのは憤怒や後悔ではなく、静かな昂揚。何かにドンドンッと胸の上をノックされている感じ。
「その男はんのこと好きになった?」
禮は目を大きく見開き「え~~っ⁉」と大声を上げた。ぷるぷるぷるっと頭を左右に振って頬に添えられた夜子の手を払い、椅子から立ち上がってまた大きな声で「何で⁉」と尋ねた。
夜子は口許を手で隠し、少々困ったような表情で笑った。
「だってその男はんのこと気になってしゃあないんやろ? 今までにそんなこと一遍もおへんかったやないの。一人の男はんのことが気になってしゃあないのは、好きになり始めなんかもしれんねえ」
「でも……一回しか会うたことないしっ」
「男はんを好きになるのに、回数や理由なんて関係おへんえ。自分が好きやと思えばそれが本当やないの」
「せやけど、あの人のこと考えると何か胸がモヤモヤすんの。気持ち悪いんよ。ドキドキとかとちゃうんよ。恋とかとはちゃうんちゃうかなあ? 夜ちゃんは好きな人のコト考えて気持ち悪くなったりするん?」
「そらなるえ」
夜子はあっさりと答えて自分の胸に手を当てた。
「勿論ドキドキもするけど、見てないとこでは何してはるか分からへんのやからモヤモヤすることもあるえ。ドキドキにしろモヤモヤにしろ、自分のことも儘にならへんのが恋なんやろね」
禮は突然電池が切れたようにストンと椅子に座った。しゅんと肩を落として小さくなる。
「せやけどウチ……どうせ嫌われてるし」
(あらあら。ほんまに恋なんやねえ)
夜子は項垂れている禮の肩をポンポンと撫でた。
「一遍しか会うたことあれへんのに何でそう言い切れるん」
「初対面で蹴りかかってくるよな女、好きになる物好きいてへんよ……」
「そんなことしたん?」
「うん……した」
禮の姿は、叱られて元気をなくしている小さな子どものようだった。夜子は子どもをあやす母親のように一定のリズムでポン、ポン、ポン、と肩を撫でる。
「してしもたもんをくよくよ考えても仕方おへん。ほんまに考えなあかんのは禮の気持ち。禮はどうしたいん?」
「どうって?」
「一遍しか会うたことあれへんのやから、これから先一遍も会わへんこともでけるやろね。禮がそうしたいならそれもええよ、そのモヤモヤは禮のものやから。せやけど、それがほんまに自分のしたいことなんか、ようよう考えて。悔いの残る恋なんかしたらあかんよ」
禮は俯いたまま瞼を閉じてみた。そうしてみても、夜子が言っているものがどういうものなのか想像が付かなかった。だって恋などしたことがない。このような気持ちを味わったことなどない。世の中では誰も彼もみんな、このような複雑怪奇な感情を当たり前に受け止めているのだとしたら、自分がとても幼稚に感じた。夜子が実年齢の割りに大人びているからではなく、自分がひどく子どもっぽい人間であるように感じた。
子どもだ。他者の気持ちにも、自分の気持ちにも気付けない。痛みを知らんぷりして、何も大切にできない。悪魔みたいな子どもだ。
目を瞑っていると、自然とあの男の顔が浮かんできた。思えば、呆れ顔しか見ることができなかったな。圧倒的な実力差を見せ付けたあとでさえ、余裕の笑みや皮肉の笑みも見せなかった。ただ呆れたような、どうでもよさそうな、無関心な目。あの男にとって自分は路傍の石に過ぎない。ちょっと蹴飛ばせば視界から消えて無くなる、些細な存在でしかない。
何故かチクリと胸が痛い――――。そうだ、痛みとはこういう感覚。
§§§§§
まだ日暮れの時分でもないのに、一瞬にして目を惹き付けられた。
天壇青の制服が見るも鮮やかだった。僅かに顎を動かすだけで柔らかな黒髪が光沢を放つ。少女の花のかんばせは愛らしく、あどけなさがまだ残っていた。此方を向いた檳榔子黒の双眸は、今日も綺麗だった。
渋撥はその存在に気付いても足を停めなかった。少女の瞳は真っ直ぐに自分だけを見ていて、目を離すことは許されなかった。磁石が引き合うように、二人の間の距離は無音で刻々と縮まり縮まり、ほぼ同時にピタリと停まった。
「お前……」
先に声を漏らしたのは渋撥のほう。本当に一瞬だけバツの悪そうな表情をした。思わず声をかけてしまったのは彼自身にとっても予想外だったのかも知れない。
此処は昨日と同じ場所。中学生と高校生、名門校と底辺校、二人の接点は一つもなく、禮が渋撥を捕まえるには此処で待ち伏せるしか宛てがなかった。
「ほ~~。ちゃんと見たらほんまにこの前のカワエエ子やな」
鶴榮が渋撥の横から言った。禮が視線を渋撥へ固定しているのをいいことに上から下までマジマジと観察する。
(明るいトコで間近で見たら同じ顔やな。何で別人に見えたんやろか)
鶴榮は脳内で街角の美少女と暗闇の悪魔とを照らし合わせてみた。人相そのものは同一人物である事実を認識できたが、今だ以て素直には受け容れがたい。
「何しに来よった。何遍来ても女と殴り合いなんぞせえへんで」
渋撥は低い声で威圧的に言い放った。
禮は口を開くことができなかった。やはりその視線は、威圧的で、無関心で冷たかった。相変わらずその辺の無機質でも見るかのような視線。この男にとって関心が無いというその点に於いては路傍の石と自分は同等なのだと思い知らされる。この男にとっては自分はそれほどまでに無価値なのだ。
何故かチクリと胸が痛い――――。
渋撥は痺れを切らし、付き合いきれないという不愉快そうな表情で禮から視線を逸らした。
「用が無いんやったら去ね」
そう渋撥が放言した瞬間、禮の口から「あ」とか細い声が漏れた。禮の何か言いたげな表情を目にして、この場を去ろうと思った渋撥の足も思わず停まってしまった。
渋撥が怪訝そうによくよく観察すると、禮の唇は少し震えていた。
(胸、いた……)
禮にとって、渋撥が創り出した空間は茨の牢。不躾に、無遠慮に、投げ掛けられる言葉、視線、雰囲気、すべてが痛い。痛くて呼吸も上手くできない。たった一言の言葉を紡ぎ出すのも困難。肉体を撲たれる痛みになんて慣れているはずなのに、この男が与える痛みは自分でも手が届かない奥の奥を突き刺す。深く突き刺すのに貫かず、心臓を抉るのだ。
痛くて痛くて、痛みが恐いなんて初めて。それなのにどうして、好きだと思ってしまったのだろう――――。
「……好き」
小さな声でやっと言葉にした。聞き間違えだなんて思わせないくらいもっとはっきりと伝えたかったのに、これが精一杯。
「ウチ……アンタが好き」
渋撥は何も言わず禮の瞳を見詰めた。見詰めることだけしかできなかった。驚愕のあまり瞬間的に言語能力が消失した。
渋撥の視界の真ん中で、少女のかんばせは不安げに変化した。街角で偶然目にした美少女とも、暗闇に顕現した悪魔とも、どちらとも異なる表情だった。少女の瞳に映り込んだ自分の姿がゆらりと歪み、その瞳がやや潤んでいることに気付いた。緊張が限界に近い禮はヒュッと短い息継ぎをした。その拍子に泣き出してしまうのではないかと思った。
「オイ。……オイオイッ」
鶴榮が肘でドンドンと渋撥を突いた。
「何とか言うたれやっ。お前、いま告白されたの分かってるか?」
鶴榮に急かされた渋撥は鼻の頭に皺を寄せた。いくら何でもそれくらいは分かっている。予想もしていなかったから呆気にとられていただけだ。
「お前、自分で何言いよんか分かっとんか」
渋撥は相も変わらず乱暴に言い放ち、鶴榮は額を押さえた。
禮は生唾を嚥下して、コクンと頷いた。
「ウチ、アンタが好き」
「俺が好きやったら何や。俺のオンナになるっちゅうんか。どういう意味か分かって言うてんのか、ジャリが」
「わ、分かってるよ。……たぶん」
「何がたぶんや。付き合ってられん。男と女はママゴトちゃうぞ。俺はジャリとママゴトするほど暇ちゃうねん」
鶴榮は渋撥の横顔をじーっと凝視する。人並みの常識や思い遣りなどはないとは知っているが、自分に告白してきた可憐な少女をよくもまあ真顔で無碍にできるものだ。
(コイツようそんなこと平気でポンポン言えるな。少しは可哀想とか思わんのか。ほんまろくでもないな)
「ママゴトとか遊びやのォてウチ、ほんまにアンタが好きやの」
禮は一世一代の覚悟を決めたような目をするから、渋撥はそれをハッと鼻で笑い飛ばしてやった。真っ直ぐに向かってくる禮の強情さは少々彼の癇に障った。
渋撥はぬっと禮へ手を伸ばし、小さな頭を片手で捕まえた。
「ジャリが一丁前の口利くなや。去ね」
無情に言い放ち、渋撥はグイッと突き放すように禮の頭を離した。隣で聞いていた鶴榮がギョッとするくらい酷い言葉を投げかけ、クルリと禮に背を向けた。
「オイ、撥っ」
渋撥は鶴榮が呼び止めるのも聞かず、ズンズンと歩を進めていく。鶴榮は禮と渋撥の背中と視線をキョロキョロと何往復かさせ、禮のほうを気にしつつも渋撥の後を追った。
渋撥と鶴榮が見えなくなってしまったあとも、禮は一歩も動けずにいた。あれは恐らく、生まれてきて初めて聞く、最も酷い言葉だ。引き留めるために手を伸ばしたり立ちはだかったりすればよかったと今頃になって思考が追い付いてきた。あのような言葉に撃ち抜かれて咄嗟に何かできるはずがない。
想いを告げた達成感と開放感、そこへ躙り寄るように後から後から追ってくる絶望感。色々な感情が一気に噴き出してきて、それを抱えきれず体は脱力感に襲われた。このまま蹲ってしまいたい。このまま倒れ込んでしまいたい。
自分の言葉や存在なんて、あの人には何の価値もない。折角振り絞った一生分の勇気なんて無駄。無駄なものを抱えすぎているからこんなにも胸が苦しいんだ。
心臓が破れて血を流す代わりに、涙が堰を切って流れ落ちた。
「うあぁーー……」
ウチの初恋は、これ以上ないくらいこっぴどくフラれてしもた。
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