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Kapitel 14:帰

贄 01

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「な、何を莫迦げたことを……。正気ですか……? 《オプファル》は我らファがための贄。それも人間エンブラなど――……」

 麗祥リーシアンは目を見開いて声は震え、明らかに動揺した。わずかばかり蹌踉めいたように見えた。足元が危うくなるほどの衝撃に襲われた。兄の発言は容認しがたかった。冗談であってほしい。しかし、兄が本気であることは分かってしまう。幼少の頃よりずっと見てきた弟であるが故に。

「そのようなことは……何かの気の迷いです。貴男は怜悧な方だ。冷徹でもあられる。合理だ。そのようなことを本気で仰有るはずがない。ほんの一時、《オプファル》を憐れんだが故の気の迷いに決まっている……ッ」

 麗祥の気配が一瞬消えた。
 天尊ティエンゾンが気づいたときには、一足飛びにアキラの目の前に移動していた。身体の正面を白へ、背中を耀龍ヤオロンのほうへ向け、ふたりの間に割って入った。
 縁花ユェンファは麗祥の背中から敵意を察知した。耀龍を抱えてその場から飛び退いた。麗祥との距離が近すぎて白までも護る余裕はなかった。
 天尊もまた縁花同様に攻撃意思に敏感だ。白に手を伸ばして駆け寄った。

 ――《万針鳳華ツェーンタウゼントナデル

 麗祥と白を中心にして、あらゆる方向に先端を向けた〝針〟が出現した。その針は返しの無い鋭利な形状、ギラリと光る先端が、上下左右前後に無差別に発射された。
 ズドドドドドドッ!
 天尊は全身のあちこちに〝針〟を真正面から喰らって足を停めた。
 矢を射かけられた野鳥の如く無様に地べたに倒れた。向かってくる標的を撃つに効果的すぎるプログラムだった。

「グアッ……! カッ!」

 俯せた天尊は、血を吐き出した。

(何という鋭さだ。俺の《装甲パンツェルンク》を簡単に突き破りやがって! 否、そろそろ〝制約〟の無効化が時間切れか……?)

「ティエン!」と天尊の許に駆け出そうとした白の腕を、麗祥が捕まえた。
 麗祥は白を眼下に見据えて睥睨した。
 兄がすべてを擲ってでも愛した存在は、彼の目には何の変哲もない平凡な少女にしか見えなかった。事実そうだ。特異な点などひとつもない、ただの年端もゆかない少女に過ぎない。異界の住人が相手でなくても、ただの人間の大人と比較しても非力だ。
 ――このような少女に……凡愚で純真なだけの少女に、充てられでもしたのだ。貴男はこれまであまりにも過酷に生きすぎたから。

「お前は天哥々ティエンガコの《オプファル》――――天哥々ティエンガコのために約束された贄。役目を果たしてもらおう」

 白には麗祥の眼差しが無慈悲で、とても冷たく感じられた。耀龍とも天尊ともまるで異なる。人間を自分と同じ生き物だとは考えていないのだと伝わってくる。
 天尊や耀龍、縁花が特別なのだろう。かつて白を攫おうとした者たちも、人間を下位の生き物として見ていたように思える。

「それってティエンにはボクの血が必要ってこと……」

「世迷い言を。お前にそう教えたのは誰だ。お前は誰に騙された。天哥々ティエンガコか、ロンか。天哥々ティエンガコと《オプファル》が行動を共にしていると聞いて解せなかったが、ようやく腑に落ちた。事実を伏せていたわけか」

「やめろ、リー!」

 天尊は地べたから上半身を起こした。身体に刺さった〝針〟を乱暴に引き抜き、ブシュアッ、ビシュッ、と傷口が血を噴いた。

「《オプファル》の血液を得たところで一時凌ぎに過ぎぬ。《オプファル》は儀式に於いて心臓を捧げるのだ」

 やめろと、天尊が雄叫びを上げるなかで、麗祥の声はとても澄んで聞こえた。
 感情が籠もっていないからだ。冷静に事実だけを述べているからだ。白は麗祥の述べる事実に嘘偽りはないのだと自ずと理解した。

「それを以て〝制約〟は破棄され、我らファの血族は本領に復す。つまり天哥々ティエンガコに本当に必要なのは、お前の命なのだ」

 ――「他者の生き血を啜る存在に成り下がるのは、最悪と言っていい選択肢だ。クソみたいな化け物になった気分だ」――

 かつて天尊が零した一言が、白の脳裏を巡った。
 あの言葉の本当の意味をようやく理解した。あれは天尊の本音だ。


「テッメェエエッ! リーィイ‼ ただじゃおかねェッ!」

 ドドンッ! ドンドンッ! バチバチバチィッ!
 天尊が怒号を上げ、空から雷が降り注いだ。何本も何本も降ってきては地に突き刺さった。
 天尊が白に隠していた最大の秘密。白と共に暮らす限り決して口にしないと、偽り続けようと心に決めた。さもなければ白の傍にいることはできない。白に愛されることなど有り得ない。これまで培ってきた時間も信頼も関係性も、白から際限なく齎される優しさや安らぎも、天尊が手に入れた何もかもを失う。
 天尊はブシャアッと乱暴に〝針〟を引き抜いた。傷口から血を垂れ流すことにも構わずに一気に地面から立ち上がった。
 ズドドォンッ! ――麗祥のすぐ傍に一際大きな稲妻が落ちた。
 麗祥は顔を顰めた。これは威嚇の意ではない。直撃すればすぐさま戦闘不能。天尊の明確な殺意だ。逆鱗に触れた。天尊の双肩から憤怒の焔が立ち上っているように見えた。

「大丈夫だよ、ティエン。そんなに怒らないで」

 白はいつもと変わらず穏やかな声だった。バカだなあとでも言うように微笑んだ。命を捧げよと突きつけられた年端もゆかない少女とは思えない。天尊にとっても麗祥にとっても予想外だった。

「こんなことを聞いたくらいでボクはショックを受けたりなんかしない。ティエンをキライになったりしない。怖がったりしない」

 麗祥は白の腕を引いて自分のほうに向かせた。

「私が言ったことを理解していないのか。それとも偽りだとでも?」

「ティエンのこと、信じてるから」

 白は麗祥の目を見てハッキリと言葉にした。
 それから天尊のほうへ顔を向け、勇気づけるようにニッコリと微笑んだ。

「ボクを好きだって言ってくれたこと、ボクと銀太の傍にいてくれるって言ったこと、ボクたちを守ってくれること、だからボクを傷つけたりしないこと……全部信じてる」

 白は天尊を心から信頼している。おそらくは、天尊自身以上に。天尊が真実何者であるか知らず、問わず、求めない。否、知ったとしてもきっと信じ続ける。
 その身を贄とする因業を負う天尊を許してくれる。欲しいものをすべて与えてくれる。もっともっとと飢える心を満たしてくれる。
 ――嗚呼、愛しい愛しい、際限なく与える者よ。傍にいてもよいと、愛してもよいと、許してくれてありがとう。
 ならば俺は、奪われることを許さない。お前がくれるすべてのものを全身全霊を懸けて取り返そう。

「返せ、リー。それは俺のモンだ」

 天尊は麗祥に向かって腕を伸ばし、胸を張って堂々と言明した。

 白の耳に聞き取れない言葉の羅列が聞こえた。声の主は麗祥だ。
 呪文のような歌謡のような音声に耳を澄ませるうちに、徐々に麗祥に握られた腕が熱を持ってきた。

「熱ッ。何これ……?」

 白は自分の腕に目を落としてギョッとした。
 麗祥が触れる手から青黒い紋様のようなものが広がり、手の甲から肘の辺りまで這っていた。この紋様が這う皮膚が熱を発し、段々と温度が上がっているようだ。

「これは時限発動型の法紋。指定した時間が経過すると法紋から高出力のエネルギーが一気に放出される。人間エンブラの身ではその出力に耐えられず手首は破裂する」

 麗祥は感情の篭もらない抑揚の無い声でそう告げた。彼は人間を傷つけることに何の良心の呵責も無かった。
 否、わずかだが感情はある。おそらくは、嫌悪だ。己の矜持を懸けた任務の遂行を邪魔する障碍への、兄に弟を横に置いて選び取らせる存在への、嫌悪だ。

人間エンブラといえども両の手首を吹き飛ばしたくらいでは死にはしまい。お前は生きてさえいれば、《オプファル》としての価値がある。お前と天哥々ティエンガコをアスガルトへの連行したのちプログラムを解除してやる」

 ザザザッ。――突如として耀龍ヤオロンが白の背後に飛びこんだ。
 耀龍は麗祥の手を白の腕から払い除け、白を抱え上げて後方へ跳んだ。
 麗祥は咄嗟に腰に残っていた剣に手をかけた。

「いつからそんなサディストになったんだよ、リー!」

 麗祥が抜いた刃がギラリと光って耀龍を追った。
 カキィンッ! ――麗祥の追撃を迎え撃ったのは縁花。腕で白刃を受けて弾き返した。
 縁花は耀龍と同じ方向へ後退した。
 ゴオォッ! ――麗祥が宙で腕を振ると火球が発生した。
 車輪のように回転して接地した。高速で地面を這って縁花たちのほうへ突進した。
 縁花は向かい来る火球に向かって片手を突き出した。

 ――《方形牆壁クブス

 火球が障害物に衝突し、激しく火柱を上げて消失した。
 障害物――麗祥は火球が衝突した瞬間、牆壁を目視した。縁花と耀龍、白たちを中心としてサイコロ状に覆う牆壁。三人は外部からの攻撃を遮断する筺のなかに閉じ籠もった。
 耀龍は白を地面に降ろして座らせた。白のセーターとシャツを捲り上げて腕に描かれた紋様をまじまじと観察する。

「持続型の多面物理牆壁……。流石に並の侍従ではないな」

 麗祥は縁花を睨んで疎ましそうな表情を見せた。
 しかしながら、すぐに平静を取り戻し、剣を腰元の鞘へと戻した。耀龍が得手の牆壁の維持を縁花に任せてまで何をしようとしているのか、考えるべくもなく明白だった。

「解析しようというのか、ロン。よかろう、できるものならやってみるがよい。限られた時間のなかで私のプログラムを解析することが、お前にできるならな」

 麗祥は不敵に笑んだ。
 白は不安げな眼差しを耀龍に向けた。

「大丈夫、何とかするから……。オレが何とかするッ」

 耀龍は強く断言したが、明らかに焦燥があった。表情を作る余裕もなく、眼球は忙しなく動き、白の耳では聞き取れない文字列を唱う。
 麗祥が自信家なのではない。制限時間のなかで初見のプログラムを解析するなど、彼らの常識では困難を極めることだった。
 麗祥は勝ち誇った表情で天尊のほうへ向き直った。

「この娘を愛しいと仰有るのなら、私と共にアスガルトへ御帰還願えますね、天哥々ティエンガコ

 ――ブツンッ。
 天尊の脳内で何かが音を立てて壊れた。

「……殺すッ」

 ザワッ、と麗祥は妙な感覚に襲われた。
 天尊から未だかつて感じたことがない気配を感じた。天尊の存在感や重圧感が格段に跳ね上がり、皮膚がぞわっと粟立つ。これが天尊が正真正銘の敵に向ける、混じり気のない純粋な攻撃意思だ。
 ズドォオンッ! ――麗祥の目の前で稲妻が炸裂した。
 麗祥はハッとした。気圧されて完全に虚を突かれた。あらかじめ牆壁を用意しておかなければ間違いなく直撃していた。
 さらに驚いたのは稲妻の威力が上がったことだ。《万針鳳華》の針を受けて体力もネェベルも消耗しているはずなのに。
 麗祥は天尊を凝視して苦々しい気色になった。

「ネェベルの異常上昇……! また《邪視ブゼルブリク》の封が不安定になっているのか」

 ズドンズドンッ! ズダァンッ! ――天尊は稲妻を振りまきながら麗祥に突進した。
 天尊を食い止めなければいけないと思った麗祥は、自分の正面に牆壁を何層にも張り巡らせた。

 ――《重層牆壁ドッペル

 天尊は一番外側の牆壁にぶち当たって足を停めた。腰を入れて拳を大きく振りかぶった。歯を食い縛って全力で肩を振り抜いた。
 ガッキィンッ! ――天尊の拳は牆壁を突き破った。
 間髪入れずに反対側の拳を握り、また牆壁を叩き割った。進んでは牆壁を割り、割っては進行するを繰り返す。

「《装甲パンツェルンク》で強化した拳で牆壁を破壊するなど、なんて無茶を……!」

 天尊の行動は彼らの常識に則っても理解しがたかった。
 バリン、バリン、といとも容易く牆壁を破る音。麗祥は眉間に皺を刻んで唇を噛んだ。相手が規格外の強敵といえども、ここで退くわけにはいかなかった。
 バリィンッ!
 最後の一枚を突き破った直後、天尊の視界は光に呑みこまれた。眩さに瞬間的に顔を顰めた。

 ――《徹砲ゲシュツ

 ドゥンッ!
 天尊の眼前で放たれた砲撃。
 眩しい。目が潰れそうなほどに。この光は、圧倒的質量で以て直線上に位置する障害物を薙ぎ払う。
 しかしながら、天尊は回避しようとしなかった。
 己の拳を信じて命じる。岩塊なれ、鋼鐵なれ、神鎚なれ。
 今なら何でもできる。欲すれば欲するだけ強さは手に入る。信じれば信じたものを実現できる。
 ドンッ!
 天尊に直撃した光砲は軌道を曲げた。天尊の拳は、木々を薙ぎ払う威力を持つエネルギー体をねじ曲げ果せた。

 麗祥は目を見開き声を失した。
 ようやく声と思考を取り戻したのは、ゆうに数秒後だった。

「なッ! 《徹砲ゲシュツ》を曲げッ……⁉」

 信じられない光景に身体が震えた。動悸が激しくなり額から汗が噴き出した。
 何だ、目の前で何が起こっている。この光景は現実か。自分と兄との力の差は、理解できないほどのものであったのか。否、目の前にいるこの男は、本当に自分の知っている兄か。容姿だけそのままに中身は化け物にそっくり入れ替わってしまったのではないか。

「……クハッ。カカカカカカカッ」

 天尊は茫然とした麗祥を見下ろして噴き出して笑った。
 何が可笑しい。何が愉快だ。驚愕の余り呆けているこの顔か、思いのままに絶大な力を揮えるからか。麗祥は血と汗と埃に塗れた空気を心底疎ましく思っているというのに、傷だらけのその身体で何故笑える。
 最早、自分とは異なる生き物のようだ。半分は同じ血を得た兄弟だというのに、かけ離れた存在であるかのように感じる。
 麗祥は天尊に恐怖を感じ始めた。この恐怖心、これこそが戦場で敵を震え上がらせた、神鎚を携えた悪魔の片鱗。

「何ビビってんだ」

 麗祥は視界が不意に翳ってハッとした。天尊の手の平が眼前に迫っていた。

「俺はお前を殺すっつってんだ、お前が俺を殺したって構わねェ。ビビってるヒマなんかねェぞ。生き残りたくねェのか」

「あ……天哥々ティエンガコッ……」

 恐い。その声音も、姿形も、言い回しも、仕草も、確かに天尊のものなのに存在感が異なる。まるで生まれて初めて怪物と邂逅したかのようだ。
 気圧されて畏縮してしまった麗祥は、天尊の手を弾き返すことができなかった。天尊は指を広げて麗祥のヘルメットを真正面から捕まえた。
 バキンッ! ――天尊の指がヘルメットにめりこんだ。
 そのまま力を強めると、バリバリバリッと激しい音を立てて亀裂が拡がった。

「グアアアアアアーッ!」

 麗祥は地面に膝を突いて叫んだ。
 額を押し倒され傾倒する世界。ヘルメットが圧壊する音が鼓膜を突く。自分の心臓が肋骨を叩く振動を感じる。静かなような喧しいような刹那のなかで、惹きつけられるように指の間から兄の姿を見た。
 愉快そうに大きく吊り上がった口、剥き出しになった白い鬼歯、鋭い眼から仄かに零れる紫。その不気味な光を見たとき、絶望的に確信した。嗚呼、これは最早兄ではない、と。

 バッキバリバリバリィッ!
 豪快な破壊音を上げ、麗祥のヘルメットは完全に破砕された。
 天尊は麗祥の頭部からヘルメットの残骸を剥ぎ取り、ガシャンッと地面に放った。

「これで〝起動予約〟は使えんなァ」

 天尊は、自分の前に両膝を突いた麗祥に向かって人差し指と中指を揃えて突き出した。
 ズドンッ! ――天尊の指先から発射された光線が麗祥の肩を撃ち抜いた。

「ツアァッ!」と麗祥は苦痛の声を上げた。
 光線が貫通した肩口を押さえて背を丸め、痛みを堪えて身を震わせた。どれほど強く握り締めてもどぷどぷと噴き出す生温かさ。この痛み、この感触が、戦うということ。誰かを攻撃し、傷つけ、憎まれるということ。兄は幼い頃から厳しかったが、憎まれるのは初めてだ。

「俺に楯突いて充分に後悔できたか」

「悔いなどありません……」

「貴男と戦闘になったときから、貴男に殺される覚悟は……できています」

 責務を果たすのは当然だ。兄たちは皆、そうしてきた。優秀な兄たちに恥じぬよう、自分の何を犠牲にしても悔いはない。
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