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Kapitel 08:古時計

古時計 06

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 談話室。
 ボーン、ボーン、と振り子時計は一定のリズムを刻んで狂ったように鳴り続けた。
 バァンッ。――天尊ティエンゾンはドアを蹴破った。
 そこはまるで信仰の祭壇のようだった。
 灯りのない真っ暗な部屋で、使用人や護衛たちが蹲るようにして振り子時計に向かってこうべを垂れていた。ブツブツブツ、と呪文のような念仏のような、謝罪の言葉の輪唱。振り子時計の鐘の音と、高低入り混じった輪唱が、不気味に響き渡る。

「……何だこれは」

 天尊は眉根を寄せた。何が起こっているのか、この現象は何であるのか、即座には理解ができなかった。
 カチャ、と振り子時計から物音がした。ゆっくりとガラス窓が開いた。
 振り子が振れる空間は、奈落の底へ続くような暗闇だった。狭い箱のような空間であるはずなのに、底が見えない。そこから蠢くものが這い出てきた。長い女の黒髪が、うねりながら床の上を這い回って長く長く広がってゆく。
 足を取られてはまずい。天尊は浮上しようとした。その瞬間、クラリと眩暈に襲われた。ドタッと床に四肢をつき、強烈な眠気であると気づいた。意識を手放しそうになるほどの睡魔に、必死に抵抗した。

(一体何が起こっている。ミズガルズの化け物如きが、俺の〝壁〟を無効化できるだと)

 黒髪が天尊の許に届いた。濡れた女の髪が、腕や足に女の髪が辿り着いて巻きついた。眠気は強烈だが、幻覚の類いではない。皮膚の上を髪の毛が這い回る感触は確かだ。
 何かが妙だ。攻撃を受けている感覚とは異なる。天尊が知る摂理や物理法則に従わない。それ故に、プログラムを以てして阻むことができない。
 ――まるで、まったく異なる法則やルールのような強制力。

 ボフッ。――床についた手の平の指の間から炎が生じた。
 ボッ、ボッ、ボッ、と何度も焔が噴き、天尊を包みこんで纏わり付いた髪の毛を焼き切った。ボトボトボトッと燃え滓が床に落ちた。

「俺が……この俺が……ッ、ミズガルズの化け物如きに後れを取るかッ」

 天尊は尊大な男だ。有能な人物だ。強大で圧倒的な能力を誇っている。ミズガルズに存在するものなど、総じて取るに足らないものであるはずだ。そのようなものと対峙して四肢をつかされるなど屈辱だった。
 天尊はドンッと床を蹴り、一足飛びに振り子時計に辿り着いた。
 やはり、振り子が振れる空洞には底が見えなかった。何処に続いているか知れない、ともすれば地獄につながっていそうな空洞に吹きこむ風は、生温かくて磯の香りに似ていた。
 天尊は空洞の闇の中に腕を突っこんだ。夥しい量の毛髪が腕を絡め取ろうとしたが、触れた先から火がついて燃えだした。
 腕を引き抜いたとき、手に人の頭蓋骨を掴んでいた。力任せに乱暴に引き摺り出したのは、皮膚もないのに髪の毛を湛えた髑髏されこうべの骸。思考も感情も読めない眼球のない窪み、それなのに嗤っているようだった。
 これが何であるか、何者であるか、何の故にこのようなことをしでかしたか、すべてどうでもよい。滅すべき敵である、その事実だけが最も重要だ。

 ――「ごめんなさい。殺さないで。ママ」

 少女の苦悶の声が、天尊の耳に残っていた。
 分け隔てなく絶えず慈愛を降らせる誰よりも優しい少女に苦しみを与えたことが、何より許せなかった。

「アキラに変な夢見せやがったのはテメエかコラァ。消し炭にして擂り潰しやるァッ‼」

 怒号と共に、火焔と稲妻が爆ぜた。


 屋敷外・トレーラー内。
 使用人と護衛の全員が寝泊まりするには別荘の部屋数は不足だった。護衛人員は屋敷の傍に大型トレーラーを数台横付けし、そこを休憩と宿泊場所とした。シャワーもベッドも完備されている特別製のトレーラーだ。
 真夜中過ぎの時分、虎子トラコ専属護衛の国頭クニガミは、トレーラーに備え付けの簡易ベッドで仮眠を取っていた。いかに屈強な彼であっても24時間稼働することはできない。
 しかしながら、仮眠中、部下に叩き起こされる羽目になった。部下は深刻な面持ちで、屋敷内部と連絡が取れないと告げた。

「……で、最後の定時連絡からどれくらい経過した」

「はい。屋敷内との定時連絡が途切れてからおよそ――」

 バリィインッ!
 屋敷の方角から爆発音が聞こえ、国頭はトレーラーから飛び出した。
 そこで国頭が見たものは、屋敷の一角で燃え盛る真っ赤な炎だった。濛々と黒い煙が天へと昇ってゆく。

「虎子御嬢様ーッ!」

 国頭は、万が一の為に備えておいた消火用バケツを引っくり返して頭から水を被った。ほかの者に、消防に連絡することや消火活動、屋敷内にいる者を救出するよう指示を出し、いの一番に屋敷の中に飛びこんだ。

 国頭は玄関に飛びこんですぐに天尊と出会した。
 天尊は肩の上に銀太を担ぎ、両脇に白と虎子を抱えていた。三人とも意識がない様子だった。
 国頭に続いたほかの護衛の者たちは、屋敷内に残された者を探しに方々に散っていった。護衛はよく訓練されている。ここから先は、国頭による逐一の指示がなくとも事前に決めておいた救出プランの通りに行動する。
 国頭は天尊の腕から虎子を受け取って両腕で抱えた。

「安心しろ。死んではいない。目を覚ますかどうかは分からんが」

「それはどういうッ……」

 天尊は国頭の横を擦り抜けた。屋敷が燃えている只中で、いつ崩落するか分からないのに話しこむつもりはない。
 国頭も急いで屋敷の外へと虎子を運び出した。

 天尊は、国頭からトレーラーに乗りこむように言われた。
 簡易ベッドのひとつに白と銀太を横たえた。二人とも、爆発音にも、担ぎ上げられたことにも、目を覚まさない。虎子も同様だ。自然な睡眠とは思えない。恐らく、振り子時計の化け物が関係しているのだろう。
 天尊は険しい顔つきで白を覗きこみ、肩を揺すった。白はすぐには目を覚まさなかったが、少々大きく揺さ振るとようやく声を漏らした。

「アキラ、アキラ」

「ん……ティエン……?」

 白がうっすらと瞼を開けてホッとした。目覚めるかどうか分からないと国頭に言ったのは冗談ではなかった。強力な睡魔は天尊の知る理屈の埒外だ。覚醒させる方法の正解は分からない。

「どうか、した……?」

「何もない。恐い夢を、みてはいないか」

「……うん」

「そうか。まだ朝には時間がある。もう少し眠っていろ」

 天尊は白の目の上に手の平を柔らかく置いた。
 じきに白から細い寝息が聞こえてきた。天尊は白の顔から手を退かし、その寝顔に目を落とした。頬に赤みが差す、安らかな表情に安堵した。
 ――どうか、優しいお前に幸福な夢が訪れますように。
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