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Kapitel 08:古時計
古時計 04
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お下げに引っ詰めていた少女の髪は、背中の中頃まで美しく伸びた。このように身綺麗にできるようになったのは、屋敷に勤める側から使用人に世話をされる立場へとなったからだ。
少女は屋敷の主人に見初められて妻となった。愛する主人との間に新しい生命を授かった。優しい夫とまだ見ぬ愛しい我が子、立派な屋敷、豊かな暮らし、紺碧の海と白浜のある美しい景観。山間の故郷にいた頃、友人とたわいもなく夢想した人生が、遠く離れたこの土地で叶った。
「どうしても私が行かねばならない仕事だが、身重の君をひとりにするのは心配だ」
「屋敷のみながよくしてくれます。ご心配なく、旦那様」
「なるべく急いで帰るからね。無理をするんじゃあないよ」
「はい、はい。お早くお帰りください、旦那様」
美しい黒髪の妻は、夫を送り出してからは私室で過ごした。
私室が一番落ち着ける場所だ。屋敷のなかを彷徨いて、大奥様――夫の母親――義理の母と、鉢合わせるのは気まずい。
義母は、自分が夫と結婚してからも子どもを授かってからも変わらず寡黙で、何を考えているのか推し量ることができない。ただ、好かれてはいない直感はある。
屋敷に来たばかりの頃は、垢抜けない田舎者程度にしか思われていなかっただろう。しかし、夫と恋仲になってからは向けられる視線が鋭くなったように感じた。義母から話しかけられることも、こちらから話しかけて相手にされることもないから、本当の胸の内は分からない。
ぼーん。ぼーん。ぼーん。――振り子時計の音が、食事の時間を知らせた。
黒髪の妻は、私室から食堂へと向かうことにした。
勿論、言えば使用人が食事を私室まで運んでくれる。しかし、自分も元は同じ身分。仕事を増やしたり、手を煩わせたり、極力したくはなかった。それに、食事の時間さえも避けてしまえば、義母と顔を合わせる機会はほとんどなくなってしまう。会話が無いとしても、同じ屋敷に住まう家族でありながら、縁が無くなってしまうのはあんまりだと思った。
黒髪の妻は、大きくなったお腹を気にしながら手すりに掴まって階段を降りた。ひとりで立ち歩けない病人でもあるまいし、使用人を呼んで支えてもらうのは気が引けた。
背後からやって来た誰かが手首を掴んだ。使用人に見つかり、またひとりで動いて、と叱られて支えられるのだろうと思った。
どん。――何者かに背中を突かれた。
黒髪の妻は階段から足を踏み外した。
キャァァアアアーーッ‼
劈くような悲鳴を上げ、階段に全身を強かに打ちつけながら一階まで転落した。
(痛い……痛い……お腹……私のお腹……私の赤ちゃん――……)
薄れていく意識のなか、どうにか階段の踊り場を見上げた。
見覚えのある使用人が、能面のように真っ白い顔面で涙を流していた。あれはよく義母の世話をしている者だと、気を失いそうになりながら思った。
「ああ……ああ……。許してください奥様。こんな恐ろしいこと……。大奥様の言い付けで仕方なく……! 逆らえないんです。私が仕送りできなくなったら里の家族が……ッ」
――知らない、知らない、知らない。そんなの私に関係ない。私のこの子に関係ない。
屋敷に帰った夫は、大層気の毒そうな顔をしてこう言った。
「君が無事でよかったよ。子どもは残念だったけれど、また作ればいい。私も君も若いのだから。次はきっと大丈夫さ」
――違うッ! わたしもこの子も、貴男に守ってほしかった。
守ると言ったくせに、何もしてくれない。この子を殺したのはあの女だと分かっているのに、何もしてくれない。愛していると言うばかりの卑怯者。それしかできない無能な弱虫。私の為に、私と我が子の為に、鬼にもなれない小心者。この裏切り者‼
黒髪の妻は、ここに至って夫の本性を思い知った。優しいだけの性根に絶望した。それを愛おしく思った自分の愚かさに吐き気を催した。自分の生活はすべてが錯覚だったのだと思い知った。夫婦の愛情など幻だ。一瞬にして消え失せて憎悪へと転換する。
黒髪の妻に残されたのは、小さな壺ひとつのみだった。自分の身体のなかから出て来たはずの小さな生命の形は、白い小壺に収められていた。
母になれなかった女は、真っ暗な海に向かって歩いた。
――どうして私がこんな思いをしなくちゃいけないの。一生懸命に生きて、働いて、あの人を好きになって、子どもを持ちたいと思っただけなのに。
どうして私をあんな目で見るの。家族になったのに、本当の母親のように接しようと思ったのに、一度だって笑いかけてくれたことさえない。私が憎くて自分の孫さえも消し去りたいなんて、あんなもの鬼だわ。この世の鬼よ。どんなに綺麗な恰好をして気取っても、心の中は醜い鬼婆。何であんなものがこの世に生きていられるの。私の子どもは殺されてしまったのに。
許さない。絶対に許さない。あの鬼婆も、何もしてくれない夫も、私を突き飛ばした女も、みんなみんなみんな死んでしまえェエエッ!
ボーン。ボーン。ボーン。
白はパチッと目を覚ました。
同時に視界いっぱいに銀太の顔があった。白はまたソファに横になって眠っていた。
「アキラー。おきてー」
「あ……。二人ともお風呂上がったんだ」
銀太の後ろに天尊の顔も見えた。二人して白の顔を覗きこんでいた。
白はソファの座面から上半身を起こした。銀太の頭に触れると髪の毛が濡れていた。
「銀太。ちゃんと髪拭かなきゃ。体あったまった?」
「あついー」
「ジュースを飲みますか、銀太くん。御兄様は何になさいます?」と虎子。
「何でもいい」
天尊は虎子にそう答えてから、白のほうへ視線を戻した。
白が銀太に注ぐ視線はいつも通り優しい。しかし、少々浮かない表情に見えた。
「何だ、その顔は。具合でも悪いのか」
「イヤ、今うたた寝してるときにちょっと恐い夢みちゃって」
天尊は意外そうな表情をしたあと、フハッと笑った。
「アキラでも夢が恐いなんて思うんだな」
「どういう意味」
天尊は、大人びた白が夢を恐がるなど、年相応なところもあるものだと可愛らしく感じた。
白は天尊から頭をぐりぐりと撫でられる意味が分からず、首を傾げた。
使用人が銀太にはジュース、天尊にはミネラルウォーターを用意してくれた。二人がソファに座って喉を潤し、白は銀太の髪の毛をタオルで拭いてやった。
そうこうしている間に、浴室の準備が整い、白と虎子の入浴の順番となった。
虎子は護衛・国頭と何やら話している。白は虎子に近づいて、どうしたのかと尋ねた。
「使用人と護衛が一人ずつ、体調を崩したので配置などの調整を」
「二人も? 風邪とか流行ってる?」
「だとよいのですけれど。この土地の水質や土壌の検査などは済んでいるのでしょう。国頭」
「はい。事前の調査では何ら問題ありません」
それならここで考えてもしょうがないね、と白は虎子の手を取った。
「お風呂、ボクたちの番だって」
「そうですわね。入りましょう」
虎子が白と談話室から出て行こうとすると、使用人から御嬢様と引き留められた。
「甲斐の若様からディナーへのお誘いのお電話がございまして」
それまで機嫌のよかった虎子の顔面から笑みが消失した。決して使用人が悪いわけではないけれど。虎子が嫌がることは分かっているが、甲斐の若様からの連絡を伝えないわけにもいかない。
「断りなさい」
「しかし、若様直々のお電話でございます」
「構いません。断りなさい」
「若様があまりに熱心にお誘いくださるので、メードたちはこれ以上断るのは心苦しいと申しております」
「でしたら電話線を引き抜きなさい💢」
虎子はツンと放言し、白の手を引いて談話室から出て行った。
困り果てた使用人は、国頭さん……、と助けを求めた。長年の御嬢様専属護衛・国頭であっても、不機嫌な虎子へ取り入ることは難しい。しかし、使用人からの要請を無碍にすることもできない。国頭は、甲斐の若様への断りを入れるのは自分がやるからと引き受けた。
白と虎子はまず、二階の寝室へ向かった。白たちの荷物は寝室にある。そこで着替えなど入浴の準備をする。
二人は二階へと続く大きな階段へと差し掛かった。踊り場に海側を向いた木枠の大窓。あそこからも、絵画のような白浜の景観が臨めるだろう。
白は踊り場を見上げて一瞬足を停め、虎子が口を開く。
「白の体調は大丈夫ですか?」
「ボク? 何ともないけど」
「別荘に着いてから疲れが出ている様子です。使用人たちが体調を崩した件もありますから、心配です」
虎子の表情は心配そうだった。白は安心させようと笑顔を作った。
「ごめんごめん。本当に何ともないよ。移動でちょっと疲れちゃったのはあるかもだけど、体調が悪いわけじゃないから安心して。居眠りしちゃうのは、普段から寝不足なのかも」
白は申し訳なさそうに眉尻を下げ、虎子の手を引いて階段を上り始めた。
「せっかく招待してくれたのにゴメンね。お風呂上がったら、みんなでゲームでもする?」
「ご無理をなさらないでくださいね」
「してないよ」
虎子は、ふう、と嘆息を漏らした。
「白は無自覚に無理をなさるから心配ですわ」
「そんなことないよ」
「ほら、無自覚」
白は冗談のようにアハッと笑った。
虎子は真剣だから少々面白くなかった。
「以祇のことにしたって、我慢なさらず嫌いなら嫌いとハッキリ仰有ってよろしいのですよ」
(ティエンにも言われたなー)
白は胸中で苦笑した。
「白の言動により、お父様や親類の方々のお仕事や生活に不都合が生じるのではと案じることはありません。以祇は自分勝手で押し付けがましい男ですが、女性に袖にされたからといって嫌がらせをするような、まだそこまでは性根が腐っていません。それに、もしそのようなことになるなら、わたくしが白を守ります。お友だちですから」
虎子の本気のトーンだと、白は察知した。虎子と以祇の不仲は瞭然だが、自分の為に決定的に対立するのは回避したい。あの二人が衝突したら困る人間は数え切れない。
「甲斐先輩のことは、ホントにキライとかじゃないよ。むしろ、苦手だと思っちゃって悪いなと」
疋堂家は一般家庭だ。甲斐家に対抗する手段など持ち得ない。以祇がその気になれば、不利益を与えることなど容易い。逆に、便宜を図ることも自在だ。白は父親や親類縁者を豊かにすることも、やりようによっては可能だ。しかし、白は以祇を利用しようなどとは考えない。
「本当に、白はお人好しですこと」
浴室。
ピカピカの藍白のタイルに、檜風呂の浴槽。高い天井に裸電球。暖色がかった照明に照らし出されてレトロな雰囲気だった。
歴史ある屋敷の割に古びてなく綺麗で、銀太と天尊のあとの入浴なのに砂粒ひとつ残っていないのは、ひとえに使用人たちの働きの賜物だ。
浴槽は白の自宅の浴室全体よりも広いくらいだ。白と虎子が一緒に浸かってもかなり余裕があった。
「おっきなお風呂いいね~。ココは毎日これより大きなお風呂に入ってるんでしょ」
「いつでも泊まりにいらしてくださいな」
虎子はウフフと笑った。白なら毎日お泊まり会をしてもよいくらいだ。
白は檜の浴槽の縁に後頭部を置いて手足を伸ばした。心地良い湯の温度に浸って瞼を閉じた。
ふと、先ほどの階段の風景が脳裏に浮かんだ。
(さっきの階段、何となく見覚えがあるような……)
何処で見たんだっけと考えた。木造の景色は自宅ではないのは確実だ。校舎の何処かなら有り得る。ガラスハウス然り、新しい建物と歴史ある建物が混在している環境だ。しかし、すぐさま思い当たるものはなかった。
夢に見た光景がフラッシュした。階段から見上げた踊り場、玄関のサイズ感、振り子時計の鐘の音、視野の端々をかすめた屋敷の一角、白浜の景観や潮騒――――これらはすべて夢で見たものに似ていた。
白はパチッと瞼を開いた。
「あれ、もしかして……子どもの骨なんじゃない……?」
少女は屋敷の主人に見初められて妻となった。愛する主人との間に新しい生命を授かった。優しい夫とまだ見ぬ愛しい我が子、立派な屋敷、豊かな暮らし、紺碧の海と白浜のある美しい景観。山間の故郷にいた頃、友人とたわいもなく夢想した人生が、遠く離れたこの土地で叶った。
「どうしても私が行かねばならない仕事だが、身重の君をひとりにするのは心配だ」
「屋敷のみながよくしてくれます。ご心配なく、旦那様」
「なるべく急いで帰るからね。無理をするんじゃあないよ」
「はい、はい。お早くお帰りください、旦那様」
美しい黒髪の妻は、夫を送り出してからは私室で過ごした。
私室が一番落ち着ける場所だ。屋敷のなかを彷徨いて、大奥様――夫の母親――義理の母と、鉢合わせるのは気まずい。
義母は、自分が夫と結婚してからも子どもを授かってからも変わらず寡黙で、何を考えているのか推し量ることができない。ただ、好かれてはいない直感はある。
屋敷に来たばかりの頃は、垢抜けない田舎者程度にしか思われていなかっただろう。しかし、夫と恋仲になってからは向けられる視線が鋭くなったように感じた。義母から話しかけられることも、こちらから話しかけて相手にされることもないから、本当の胸の内は分からない。
ぼーん。ぼーん。ぼーん。――振り子時計の音が、食事の時間を知らせた。
黒髪の妻は、私室から食堂へと向かうことにした。
勿論、言えば使用人が食事を私室まで運んでくれる。しかし、自分も元は同じ身分。仕事を増やしたり、手を煩わせたり、極力したくはなかった。それに、食事の時間さえも避けてしまえば、義母と顔を合わせる機会はほとんどなくなってしまう。会話が無いとしても、同じ屋敷に住まう家族でありながら、縁が無くなってしまうのはあんまりだと思った。
黒髪の妻は、大きくなったお腹を気にしながら手すりに掴まって階段を降りた。ひとりで立ち歩けない病人でもあるまいし、使用人を呼んで支えてもらうのは気が引けた。
背後からやって来た誰かが手首を掴んだ。使用人に見つかり、またひとりで動いて、と叱られて支えられるのだろうと思った。
どん。――何者かに背中を突かれた。
黒髪の妻は階段から足を踏み外した。
キャァァアアアーーッ‼
劈くような悲鳴を上げ、階段に全身を強かに打ちつけながら一階まで転落した。
(痛い……痛い……お腹……私のお腹……私の赤ちゃん――……)
薄れていく意識のなか、どうにか階段の踊り場を見上げた。
見覚えのある使用人が、能面のように真っ白い顔面で涙を流していた。あれはよく義母の世話をしている者だと、気を失いそうになりながら思った。
「ああ……ああ……。許してください奥様。こんな恐ろしいこと……。大奥様の言い付けで仕方なく……! 逆らえないんです。私が仕送りできなくなったら里の家族が……ッ」
――知らない、知らない、知らない。そんなの私に関係ない。私のこの子に関係ない。
屋敷に帰った夫は、大層気の毒そうな顔をしてこう言った。
「君が無事でよかったよ。子どもは残念だったけれど、また作ればいい。私も君も若いのだから。次はきっと大丈夫さ」
――違うッ! わたしもこの子も、貴男に守ってほしかった。
守ると言ったくせに、何もしてくれない。この子を殺したのはあの女だと分かっているのに、何もしてくれない。愛していると言うばかりの卑怯者。それしかできない無能な弱虫。私の為に、私と我が子の為に、鬼にもなれない小心者。この裏切り者‼
黒髪の妻は、ここに至って夫の本性を思い知った。優しいだけの性根に絶望した。それを愛おしく思った自分の愚かさに吐き気を催した。自分の生活はすべてが錯覚だったのだと思い知った。夫婦の愛情など幻だ。一瞬にして消え失せて憎悪へと転換する。
黒髪の妻に残されたのは、小さな壺ひとつのみだった。自分の身体のなかから出て来たはずの小さな生命の形は、白い小壺に収められていた。
母になれなかった女は、真っ暗な海に向かって歩いた。
――どうして私がこんな思いをしなくちゃいけないの。一生懸命に生きて、働いて、あの人を好きになって、子どもを持ちたいと思っただけなのに。
どうして私をあんな目で見るの。家族になったのに、本当の母親のように接しようと思ったのに、一度だって笑いかけてくれたことさえない。私が憎くて自分の孫さえも消し去りたいなんて、あんなもの鬼だわ。この世の鬼よ。どんなに綺麗な恰好をして気取っても、心の中は醜い鬼婆。何であんなものがこの世に生きていられるの。私の子どもは殺されてしまったのに。
許さない。絶対に許さない。あの鬼婆も、何もしてくれない夫も、私を突き飛ばした女も、みんなみんなみんな死んでしまえェエエッ!
ボーン。ボーン。ボーン。
白はパチッと目を覚ました。
同時に視界いっぱいに銀太の顔があった。白はまたソファに横になって眠っていた。
「アキラー。おきてー」
「あ……。二人ともお風呂上がったんだ」
銀太の後ろに天尊の顔も見えた。二人して白の顔を覗きこんでいた。
白はソファの座面から上半身を起こした。銀太の頭に触れると髪の毛が濡れていた。
「銀太。ちゃんと髪拭かなきゃ。体あったまった?」
「あついー」
「ジュースを飲みますか、銀太くん。御兄様は何になさいます?」と虎子。
「何でもいい」
天尊は虎子にそう答えてから、白のほうへ視線を戻した。
白が銀太に注ぐ視線はいつも通り優しい。しかし、少々浮かない表情に見えた。
「何だ、その顔は。具合でも悪いのか」
「イヤ、今うたた寝してるときにちょっと恐い夢みちゃって」
天尊は意外そうな表情をしたあと、フハッと笑った。
「アキラでも夢が恐いなんて思うんだな」
「どういう意味」
天尊は、大人びた白が夢を恐がるなど、年相応なところもあるものだと可愛らしく感じた。
白は天尊から頭をぐりぐりと撫でられる意味が分からず、首を傾げた。
使用人が銀太にはジュース、天尊にはミネラルウォーターを用意してくれた。二人がソファに座って喉を潤し、白は銀太の髪の毛をタオルで拭いてやった。
そうこうしている間に、浴室の準備が整い、白と虎子の入浴の順番となった。
虎子は護衛・国頭と何やら話している。白は虎子に近づいて、どうしたのかと尋ねた。
「使用人と護衛が一人ずつ、体調を崩したので配置などの調整を」
「二人も? 風邪とか流行ってる?」
「だとよいのですけれど。この土地の水質や土壌の検査などは済んでいるのでしょう。国頭」
「はい。事前の調査では何ら問題ありません」
それならここで考えてもしょうがないね、と白は虎子の手を取った。
「お風呂、ボクたちの番だって」
「そうですわね。入りましょう」
虎子が白と談話室から出て行こうとすると、使用人から御嬢様と引き留められた。
「甲斐の若様からディナーへのお誘いのお電話がございまして」
それまで機嫌のよかった虎子の顔面から笑みが消失した。決して使用人が悪いわけではないけれど。虎子が嫌がることは分かっているが、甲斐の若様からの連絡を伝えないわけにもいかない。
「断りなさい」
「しかし、若様直々のお電話でございます」
「構いません。断りなさい」
「若様があまりに熱心にお誘いくださるので、メードたちはこれ以上断るのは心苦しいと申しております」
「でしたら電話線を引き抜きなさい💢」
虎子はツンと放言し、白の手を引いて談話室から出て行った。
困り果てた使用人は、国頭さん……、と助けを求めた。長年の御嬢様専属護衛・国頭であっても、不機嫌な虎子へ取り入ることは難しい。しかし、使用人からの要請を無碍にすることもできない。国頭は、甲斐の若様への断りを入れるのは自分がやるからと引き受けた。
白と虎子はまず、二階の寝室へ向かった。白たちの荷物は寝室にある。そこで着替えなど入浴の準備をする。
二人は二階へと続く大きな階段へと差し掛かった。踊り場に海側を向いた木枠の大窓。あそこからも、絵画のような白浜の景観が臨めるだろう。
白は踊り場を見上げて一瞬足を停め、虎子が口を開く。
「白の体調は大丈夫ですか?」
「ボク? 何ともないけど」
「別荘に着いてから疲れが出ている様子です。使用人たちが体調を崩した件もありますから、心配です」
虎子の表情は心配そうだった。白は安心させようと笑顔を作った。
「ごめんごめん。本当に何ともないよ。移動でちょっと疲れちゃったのはあるかもだけど、体調が悪いわけじゃないから安心して。居眠りしちゃうのは、普段から寝不足なのかも」
白は申し訳なさそうに眉尻を下げ、虎子の手を引いて階段を上り始めた。
「せっかく招待してくれたのにゴメンね。お風呂上がったら、みんなでゲームでもする?」
「ご無理をなさらないでくださいね」
「してないよ」
虎子は、ふう、と嘆息を漏らした。
「白は無自覚に無理をなさるから心配ですわ」
「そんなことないよ」
「ほら、無自覚」
白は冗談のようにアハッと笑った。
虎子は真剣だから少々面白くなかった。
「以祇のことにしたって、我慢なさらず嫌いなら嫌いとハッキリ仰有ってよろしいのですよ」
(ティエンにも言われたなー)
白は胸中で苦笑した。
「白の言動により、お父様や親類の方々のお仕事や生活に不都合が生じるのではと案じることはありません。以祇は自分勝手で押し付けがましい男ですが、女性に袖にされたからといって嫌がらせをするような、まだそこまでは性根が腐っていません。それに、もしそのようなことになるなら、わたくしが白を守ります。お友だちですから」
虎子の本気のトーンだと、白は察知した。虎子と以祇の不仲は瞭然だが、自分の為に決定的に対立するのは回避したい。あの二人が衝突したら困る人間は数え切れない。
「甲斐先輩のことは、ホントにキライとかじゃないよ。むしろ、苦手だと思っちゃって悪いなと」
疋堂家は一般家庭だ。甲斐家に対抗する手段など持ち得ない。以祇がその気になれば、不利益を与えることなど容易い。逆に、便宜を図ることも自在だ。白は父親や親類縁者を豊かにすることも、やりようによっては可能だ。しかし、白は以祇を利用しようなどとは考えない。
「本当に、白はお人好しですこと」
浴室。
ピカピカの藍白のタイルに、檜風呂の浴槽。高い天井に裸電球。暖色がかった照明に照らし出されてレトロな雰囲気だった。
歴史ある屋敷の割に古びてなく綺麗で、銀太と天尊のあとの入浴なのに砂粒ひとつ残っていないのは、ひとえに使用人たちの働きの賜物だ。
浴槽は白の自宅の浴室全体よりも広いくらいだ。白と虎子が一緒に浸かってもかなり余裕があった。
「おっきなお風呂いいね~。ココは毎日これより大きなお風呂に入ってるんでしょ」
「いつでも泊まりにいらしてくださいな」
虎子はウフフと笑った。白なら毎日お泊まり会をしてもよいくらいだ。
白は檜の浴槽の縁に後頭部を置いて手足を伸ばした。心地良い湯の温度に浸って瞼を閉じた。
ふと、先ほどの階段の風景が脳裏に浮かんだ。
(さっきの階段、何となく見覚えがあるような……)
何処で見たんだっけと考えた。木造の景色は自宅ではないのは確実だ。校舎の何処かなら有り得る。ガラスハウス然り、新しい建物と歴史ある建物が混在している環境だ。しかし、すぐさま思い当たるものはなかった。
夢に見た光景がフラッシュした。階段から見上げた踊り場、玄関のサイズ感、振り子時計の鐘の音、視野の端々をかすめた屋敷の一角、白浜の景観や潮騒――――これらはすべて夢で見たものに似ていた。
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