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Kapitel 04:狂犬
狂犬 06
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自宅マンション。
白が玄関ドアを施錠しようとしていると、背後でドサンッと音が聞こえた。振り返ると、天尊が上がり框に両手両膝を突いていた。
天尊は床板を見詰めた。木目が歪んで見え、身体が鉛のように重たい。白の心配そうな声が遠くに聞こえた。
(〝制約〟の無効化が時間切れか)
天尊が白の血液を得ることによってフルパワー状態に移行するのは限定的なものだ。意思とは関係なしに時間経過によって〝平常運転〟に復帰する。
「ティエン。大丈夫っ?」
白が天尊の隣に寄り添った。
天尊は重たい手足を引き摺るようにして緩慢な動作で体勢を変え、上がり框に腰を下ろして一息吐いた。
「アキラ――……」
呼ばれた白は、天尊の顔を見て目が合った。その瞬間、ビクッと肩を跳ねた。
天尊の眼光はとても鋭かった。普段の顔付きとはまったくの別人。これが戦いの中に在るこの人か。飄々としている印象が強い天尊が表情を変える。命を懸けて戦うとはこういうことか。
天尊は白の表情が強張ったことに気付き、頭を強く振った。ここは家だ。眼前に敵はない。狂ってしまった感覚を日常に引き戻す。
「アキラ……。怪我は無いか……?」
「ボクは何ともないよ。ティエンが守ってくれたから、どこもケガしてない」
天尊はゆっくりと白へと手を伸ばした。片方の手の平で白の頬に触れ、もう一方の手で頭を撫でた。白の無事を確認するようにグリグリと撫で回した。
天尊の手から獣の臭いがした。しかし、白は黙って受け容れた。
「それはよかった」
そう言って笑った天尊の表情は、白が初めて見るものだった。
心の底から滲み出るよな安堵した微笑。それを見て、白は泣きたい気持ちになった。汗と血で汚れて、ボロボロになって、それでも笑って「よかった」と言ってくれる。目頭が熱くて、胸が締めつけられた。
白は込み上げてきた涙が溢れ出す前に天尊の肩に額を乗せた。
現状の天尊は自分の身体を支えることさえつらかった。白の分の加重を支えきれず床の上に背中からゴロンと倒れた。天尊は「悪いな」とハハハと笑った。
白は天尊の肩に顔を埋めたまま服を握り締めた。
「ティエンが死なないでよかった……」
天尊の服を握り締める白の手は、震えていた。だから天尊は、白が自分が死ぬことを心底恐れていると思い知った。
――そうだ、俺は死んではいけないのだ。このたった一人の少女の為にでも。
誰かに生きてと望まれること。誰かに其処にいてと乞われること。生きようと命を燃やす理由は、たったそれだけで充分だ。誰かに存在を心の底から望まれることは何よりも満たされる。このような感情は初めて知る。いま初めて生きている実感がある。誰かに存在を望まれて初めて、自分の生の意義を確認する。
ただ生きる為だけに生を受けたはずがない。そのようなことの為だけに生き抜いてきたはずはない。この生に意義を――――。
天尊は、自分の上に半分乗っかっている白の肩に腕を回し、ぎゅうと抱き締めた。
弱っているとはいえ、元々天尊はとんでもなく馬鹿力だ。そのプレスは白にとっては音を上げるに充分だった。
「ティエン、いたい……ッ」
「俺に……死んでほしくないか。生きていてほしいか、アキラ」
天尊の声は決して大きくはなかった。しかし、白はなんとなく本気の問いかけだと感じた。
天尊の腕の力が弛み、白は上半身を持ち上げた。天尊の顔を覗きこむと、少々バツの悪い表情をしていた。だからやはり、本音なのだろう。
白は眉尻を引き下げ、しょうがないなあとでも言うようにフフッと笑みを零した。
「それはもう言ったよ……〝当たり前だよ〟」
白の返答は、天尊の期待通りだった。何度訊いても何度でも同じ答をくれる。馬鹿にしたり煩わしそうにしたりせずに、いくらでもきりのない問答に付き合ってくれる。白ならそうしてれると疑いなく信じられる。それが堪らなく嬉しく、胸が満たされる。
白も天尊と顔を見合わせて笑い合えることが嬉しかった。ほんの少し前まで死ぬかもしれないと、もう天尊にも銀太にも会えなくなると覚悟を決めたのに。天尊が生きていてよかった。二人で家に帰ってこられてよかった。
「うわッ!」と銀太の声が聞こえた。
天尊は床に仰向けになったまま声のほうを見た。逆さまになった銀太が廊下を駆けてきた。
「ティエンちだらけだ! どうしたんだッ」
銀太は天尊の周囲を右往左往してさまざまな角度から覗きこむ。白は天尊の上から退き、心配で慌てる銀太をまあまあと宥める。
天尊は床に寝そべったまま何度か拳を握ったり開いたりしてみた。
(〝制約〟を無効化した恩恵だな。毒はそんなに残っていない。《オプファル》様々だ、まったく。守ってやると大見得を切って、結局はアキラがいなければあんな劣等種族に苦戦するとは情けない)
それからむくりと上半身を起こした。
「風呂に入る」
「え?」と白と銀太は声を揃えた。
「水を入れ替えて風呂湧かせ」
「そんなにケガしてるのにお風呂なんて大丈夫なの? 傷によくないんじゃ……。また血が出ちゃうよ」
白は医療の心得はないが、素人目にも天尊は大怪我だ。両足両腕や肩のみならず腹部からも出血し、白い装束は流血で赤に染まった。天尊が只の人間であったならすぐさま救急車を呼ぶ。
「風呂で体に残っている毒を抜いてくる」
「毒って?」
「アイツらの牙か爪か、毒が仕込んであったらしい。どうも体がしっくりこない」
天尊がケロリと放言し、白は顔を蒼くした。
「そーゆーことは早く言ってよ! ティエン平気そうにしてるからッ……」
「平気ではないが、泣き言を言うほどでもない」
「泣き言じゃなくて体調不良はちゃんと申告しなさい!」
§ § § § §
翌日。
昼寝というにはまだ早い時間帯。
天尊はリビングのソファで眠っていた。白は銀太を幼稚園に送っていった。家に戻るまでの間、ソファで寛ごうと横になりいつの間にか眠りに落ちてしまった。昨日の内に毒は洗い流した。自前の回復力の高さで傷は塞がった。しかし、疲労はいくらか肉体に残っていた。
天尊はパチッと瞼を開いた。意識は完全に覚醒したが視界は真っ白だ。顔を顰めて手の平で庇を作った。直射日光が真面に顔面に当たっている。
「眩しいな……」
「カーテン閉めよっか」
不意に視界の外から声がした。天尊はガバッと勢いよく上半身を起こした。
白はベランダに近づいてカーテンを閉めた。それから天尊のほうに戻ってきて、カーペットの上に座ってテレビのほうに顔を向けた。
「いつからいた」
「ここに? 30分くらい前からテレビ観てるけど」
天尊は自分の太腿の上に頬杖を突いて白の横顔をジッと凝視する。
熟睡しているようでも気配を感じたら覚醒するのはほとんど習性のようなものだ。白にはそれが通用しないのが少々面白くなかった。
(一度ならず二度までも。この俺が何でアキラの気配には気付かない。……まるっきり警戒していないのか。当然だな、する必要が無い。ここは居心地がいいだけだ)
天尊はまたソファにゴロンと寝転がった。白は天尊のほうを振り向いた。
「ソファじゃ熟睡できないでしょ。部屋で寝たら?」
「もう眠らない。横になっているだけだ」
「やっぱり動くのつらいんじゃないの。無理しないで」
白は天尊の左肩を指差した。
「ああ、腕か? 鎖骨が割れたみたいだが二、三日もすれば問題なく動くだろう」
「骨が、割れてた……?」
白は目を丸くして指先をぷるぷると震わせた。
「大したことじゃない。傷自体はもうだいぶいい。おそらく〝制約〟が無効化されたからだ。一時的に再生力が上がるらしい」
(骨が割れたのにもう動けるなんて、やっぱり血を飲んだときのティエンは、いつもよりももっと異常だ。だけど、そんなに急に治って体に負担とかあるんじゃ……。ティエン、今日怠そうにしてるし)
白が何も言わずにジーッと見詰めていると、その視線に気づいた天尊は心配するなとでも言うように白の頭をポンポンと撫でた。
「アキラは痛むところはないか? 具合は悪くないか?」
「そういえば昨日は頭痛がひどかったなー。今日は何ともないけど」
「やはり具合が悪いんじゃないか」
「今日は何ともないんだってば。それこそ大したことじゃないよ。いつの間にか治ってたし」
「アキラはもっと自分を大事にしろ。アキラに何かあるとギンタが心配する。あんな小さいのに死ぬほど心配なんかさせたくないだろう」
「うん。気をつける」
よもや実際に大怪我を負った人物から自分を大事にしろと叱られるとは。天尊は冗談ではなく本気で言っているに違いない。可笑しくなった白は、アハハと笑った。
「ねぇ。ティエンはどうして」
天尊は「ん?」と白の頭から手を退かした。
「ティエンはそんなに強いのにどうして――……自分が嫌いなの?」
それは予想外の質問だった。天尊の瞳孔がやや大きくなった。
――「俺はケダモノじゃない」
あのときの天尊の言葉は、とても否定的に聞こえた。窮地の自身を鼓舞しているわけではない。ああはなりたくないと、願望のようなものが見え隠れする。
「血を飲むのはそんなにダメなこと、なの? 自分のことが嫌いになるくらい」
「目的もなく生きて何になる。ただ生きる為だけに生き延びる、自分が生き残る為だけに他人を食らう、そんなのはケダモノだ。俺はケダモノじみた真似はしたくない」
天尊の声がワントーン低くなり、白は少しギクッとした。触れられたくない話題に触れてしまったのだろう。
白の血液を糧にすることによって能力値が爆発的に上昇することは明白だが、天尊はそうすることに対して徹底的に回避的だ。その行為は、思う存分下種と罵った奴らと同等にまで自身を貶めることにつながるからだ。自身が卑下する存在にまで成り下がり、そうまでして生き延びて何になる。あのようなものに成り果て、生を得た意義などあるものか。
「やっぱり……ティエンは自分が嫌いなの?」
「好きではないな。自分以外になれるもんならなってみたいもんだ。だが、そんなことは不可能だ。俺は俺として生きていくしかない」
自分として生きていくしかないことを、自分として生を受けたことを、自分が此処に在ることを、天尊が苦役のように語るのが白には憐れに思えた。天尊はやはり自分自身が嫌いなのだ。何故そうなってしまったのかは分からないけれど、そうあることがとても哀しかった。
――キミは、あんなに強くて、あんなにも綺麗なのに。
「ボクはティエンがティエンで良かったと思ってるよ」
天尊は白の声に引かれるように視線を動かした。
「あの日ボクが見つけたのがティエンで良かった、一緒に暮らす人がティエンで良かった、ここにいるのがティエンで良かったって、思ってるよ」
嘘だと否定してしまうのは簡単なのに、天尊は黙って聞いていた。
聞いていたかった。自分を受け容れて、自分でさえ嫌いな自分を肯定してくれる声を。
こんなのは甘えだと自分でも分かっている。自分よりも幼くて脆い存在に甘えるなどまったく以て情けない。恰好がつかない。プライドは何処へ行った。しかし、この空間ではそれも許されている。白の声音も、表情も、とても柔らかく、優しい。いと慈しみ深き乙女。
「だからティエンが死ぬのは嫌だよ。絶対に死なないで、ティエン」
「……ああ、死なん」
天尊は目を伏せて噛み締めるように言った。独り言のような決意表明だった。
胸の奥に熱を感じる。この熱の正体はきっと、生きようと息吹く命だ。人は命を燃やしながら生きるものだ。だから、熱い。こんなにも強く、生きなければならないと思わされたのは初めてだ。
白はソファの上に顎を置き、下から天尊の顔を窺った。
「ボクの所為でケガさせちゃって、ゴメンね」
「アキラの所為じゃないんだ。アキラが謝ることじゃない」
「でも」
「俺に感謝しているか?」
「勿論」
白はコクコクッと頷いた。
天尊は白の顎を捕まえてクリッと自分のほうへ向かせて固定した。
「ごめんと言われるのは気分が良くない。感謝しているなら言うべき言葉は別にあるだろう」
白は顔を固定されたままプッと噴き出した。
臆面もなく真正面から礼を要求する厚顔さ。自分を嫌いだと卑下する天尊を見るよりも何倍もよかった。
「守ってくれてありがとう」
天尊はその言葉を聞くとクハッと破顔し、白の頭をわしゃわしゃと撫でた。
此処にいて何かを満たされる度に、ハッと微睡みから覚醒するように、同じ思考が脳裏を過る。
――俺みたいなものがいつまで此処にいていいんだろうか。
天尊は長いこと軍人として生きてきた。戦闘を生業として、糧を得る術として生きてきた。何度も命を懸け、時に命を奪い、死にかけ、死を齎した。この家で過ごす毎日のように穏やかで優しい生活は、稀な時間だ。
此処は微睡みにいるように居心地がよい。夢みたいな現実、所謂ぬるま湯のようなものにどっぷりと浸かり、体が、心が、離れがたくなっていることを自覚する。
如何に離れがたくとも、何事にも終わりはある。手放しに夢を見ていられるほど莫迦じゃない。そのときがいつか必ずやってくることは弁えている。
それ故に、もう少し、もう少し、と〝最後〟を先延ばしにする。泡沫の夢と知りつつしがみつく、聞き分けの悪い大人の所業。
白が玄関ドアを施錠しようとしていると、背後でドサンッと音が聞こえた。振り返ると、天尊が上がり框に両手両膝を突いていた。
天尊は床板を見詰めた。木目が歪んで見え、身体が鉛のように重たい。白の心配そうな声が遠くに聞こえた。
(〝制約〟の無効化が時間切れか)
天尊が白の血液を得ることによってフルパワー状態に移行するのは限定的なものだ。意思とは関係なしに時間経過によって〝平常運転〟に復帰する。
「ティエン。大丈夫っ?」
白が天尊の隣に寄り添った。
天尊は重たい手足を引き摺るようにして緩慢な動作で体勢を変え、上がり框に腰を下ろして一息吐いた。
「アキラ――……」
呼ばれた白は、天尊の顔を見て目が合った。その瞬間、ビクッと肩を跳ねた。
天尊の眼光はとても鋭かった。普段の顔付きとはまったくの別人。これが戦いの中に在るこの人か。飄々としている印象が強い天尊が表情を変える。命を懸けて戦うとはこういうことか。
天尊は白の表情が強張ったことに気付き、頭を強く振った。ここは家だ。眼前に敵はない。狂ってしまった感覚を日常に引き戻す。
「アキラ……。怪我は無いか……?」
「ボクは何ともないよ。ティエンが守ってくれたから、どこもケガしてない」
天尊はゆっくりと白へと手を伸ばした。片方の手の平で白の頬に触れ、もう一方の手で頭を撫でた。白の無事を確認するようにグリグリと撫で回した。
天尊の手から獣の臭いがした。しかし、白は黙って受け容れた。
「それはよかった」
そう言って笑った天尊の表情は、白が初めて見るものだった。
心の底から滲み出るよな安堵した微笑。それを見て、白は泣きたい気持ちになった。汗と血で汚れて、ボロボロになって、それでも笑って「よかった」と言ってくれる。目頭が熱くて、胸が締めつけられた。
白は込み上げてきた涙が溢れ出す前に天尊の肩に額を乗せた。
現状の天尊は自分の身体を支えることさえつらかった。白の分の加重を支えきれず床の上に背中からゴロンと倒れた。天尊は「悪いな」とハハハと笑った。
白は天尊の肩に顔を埋めたまま服を握り締めた。
「ティエンが死なないでよかった……」
天尊の服を握り締める白の手は、震えていた。だから天尊は、白が自分が死ぬことを心底恐れていると思い知った。
――そうだ、俺は死んではいけないのだ。このたった一人の少女の為にでも。
誰かに生きてと望まれること。誰かに其処にいてと乞われること。生きようと命を燃やす理由は、たったそれだけで充分だ。誰かに存在を心の底から望まれることは何よりも満たされる。このような感情は初めて知る。いま初めて生きている実感がある。誰かに存在を望まれて初めて、自分の生の意義を確認する。
ただ生きる為だけに生を受けたはずがない。そのようなことの為だけに生き抜いてきたはずはない。この生に意義を――――。
天尊は、自分の上に半分乗っかっている白の肩に腕を回し、ぎゅうと抱き締めた。
弱っているとはいえ、元々天尊はとんでもなく馬鹿力だ。そのプレスは白にとっては音を上げるに充分だった。
「ティエン、いたい……ッ」
「俺に……死んでほしくないか。生きていてほしいか、アキラ」
天尊の声は決して大きくはなかった。しかし、白はなんとなく本気の問いかけだと感じた。
天尊の腕の力が弛み、白は上半身を持ち上げた。天尊の顔を覗きこむと、少々バツの悪い表情をしていた。だからやはり、本音なのだろう。
白は眉尻を引き下げ、しょうがないなあとでも言うようにフフッと笑みを零した。
「それはもう言ったよ……〝当たり前だよ〟」
白の返答は、天尊の期待通りだった。何度訊いても何度でも同じ答をくれる。馬鹿にしたり煩わしそうにしたりせずに、いくらでもきりのない問答に付き合ってくれる。白ならそうしてれると疑いなく信じられる。それが堪らなく嬉しく、胸が満たされる。
白も天尊と顔を見合わせて笑い合えることが嬉しかった。ほんの少し前まで死ぬかもしれないと、もう天尊にも銀太にも会えなくなると覚悟を決めたのに。天尊が生きていてよかった。二人で家に帰ってこられてよかった。
「うわッ!」と銀太の声が聞こえた。
天尊は床に仰向けになったまま声のほうを見た。逆さまになった銀太が廊下を駆けてきた。
「ティエンちだらけだ! どうしたんだッ」
銀太は天尊の周囲を右往左往してさまざまな角度から覗きこむ。白は天尊の上から退き、心配で慌てる銀太をまあまあと宥める。
天尊は床に寝そべったまま何度か拳を握ったり開いたりしてみた。
(〝制約〟を無効化した恩恵だな。毒はそんなに残っていない。《オプファル》様々だ、まったく。守ってやると大見得を切って、結局はアキラがいなければあんな劣等種族に苦戦するとは情けない)
それからむくりと上半身を起こした。
「風呂に入る」
「え?」と白と銀太は声を揃えた。
「水を入れ替えて風呂湧かせ」
「そんなにケガしてるのにお風呂なんて大丈夫なの? 傷によくないんじゃ……。また血が出ちゃうよ」
白は医療の心得はないが、素人目にも天尊は大怪我だ。両足両腕や肩のみならず腹部からも出血し、白い装束は流血で赤に染まった。天尊が只の人間であったならすぐさま救急車を呼ぶ。
「風呂で体に残っている毒を抜いてくる」
「毒って?」
「アイツらの牙か爪か、毒が仕込んであったらしい。どうも体がしっくりこない」
天尊がケロリと放言し、白は顔を蒼くした。
「そーゆーことは早く言ってよ! ティエン平気そうにしてるからッ……」
「平気ではないが、泣き言を言うほどでもない」
「泣き言じゃなくて体調不良はちゃんと申告しなさい!」
§ § § § §
翌日。
昼寝というにはまだ早い時間帯。
天尊はリビングのソファで眠っていた。白は銀太を幼稚園に送っていった。家に戻るまでの間、ソファで寛ごうと横になりいつの間にか眠りに落ちてしまった。昨日の内に毒は洗い流した。自前の回復力の高さで傷は塞がった。しかし、疲労はいくらか肉体に残っていた。
天尊はパチッと瞼を開いた。意識は完全に覚醒したが視界は真っ白だ。顔を顰めて手の平で庇を作った。直射日光が真面に顔面に当たっている。
「眩しいな……」
「カーテン閉めよっか」
不意に視界の外から声がした。天尊はガバッと勢いよく上半身を起こした。
白はベランダに近づいてカーテンを閉めた。それから天尊のほうに戻ってきて、カーペットの上に座ってテレビのほうに顔を向けた。
「いつからいた」
「ここに? 30分くらい前からテレビ観てるけど」
天尊は自分の太腿の上に頬杖を突いて白の横顔をジッと凝視する。
熟睡しているようでも気配を感じたら覚醒するのはほとんど習性のようなものだ。白にはそれが通用しないのが少々面白くなかった。
(一度ならず二度までも。この俺が何でアキラの気配には気付かない。……まるっきり警戒していないのか。当然だな、する必要が無い。ここは居心地がいいだけだ)
天尊はまたソファにゴロンと寝転がった。白は天尊のほうを振り向いた。
「ソファじゃ熟睡できないでしょ。部屋で寝たら?」
「もう眠らない。横になっているだけだ」
「やっぱり動くのつらいんじゃないの。無理しないで」
白は天尊の左肩を指差した。
「ああ、腕か? 鎖骨が割れたみたいだが二、三日もすれば問題なく動くだろう」
「骨が、割れてた……?」
白は目を丸くして指先をぷるぷると震わせた。
「大したことじゃない。傷自体はもうだいぶいい。おそらく〝制約〟が無効化されたからだ。一時的に再生力が上がるらしい」
(骨が割れたのにもう動けるなんて、やっぱり血を飲んだときのティエンは、いつもよりももっと異常だ。だけど、そんなに急に治って体に負担とかあるんじゃ……。ティエン、今日怠そうにしてるし)
白が何も言わずにジーッと見詰めていると、その視線に気づいた天尊は心配するなとでも言うように白の頭をポンポンと撫でた。
「アキラは痛むところはないか? 具合は悪くないか?」
「そういえば昨日は頭痛がひどかったなー。今日は何ともないけど」
「やはり具合が悪いんじゃないか」
「今日は何ともないんだってば。それこそ大したことじゃないよ。いつの間にか治ってたし」
「アキラはもっと自分を大事にしろ。アキラに何かあるとギンタが心配する。あんな小さいのに死ぬほど心配なんかさせたくないだろう」
「うん。気をつける」
よもや実際に大怪我を負った人物から自分を大事にしろと叱られるとは。天尊は冗談ではなく本気で言っているに違いない。可笑しくなった白は、アハハと笑った。
「ねぇ。ティエンはどうして」
天尊は「ん?」と白の頭から手を退かした。
「ティエンはそんなに強いのにどうして――……自分が嫌いなの?」
それは予想外の質問だった。天尊の瞳孔がやや大きくなった。
――「俺はケダモノじゃない」
あのときの天尊の言葉は、とても否定的に聞こえた。窮地の自身を鼓舞しているわけではない。ああはなりたくないと、願望のようなものが見え隠れする。
「血を飲むのはそんなにダメなこと、なの? 自分のことが嫌いになるくらい」
「目的もなく生きて何になる。ただ生きる為だけに生き延びる、自分が生き残る為だけに他人を食らう、そんなのはケダモノだ。俺はケダモノじみた真似はしたくない」
天尊の声がワントーン低くなり、白は少しギクッとした。触れられたくない話題に触れてしまったのだろう。
白の血液を糧にすることによって能力値が爆発的に上昇することは明白だが、天尊はそうすることに対して徹底的に回避的だ。その行為は、思う存分下種と罵った奴らと同等にまで自身を貶めることにつながるからだ。自身が卑下する存在にまで成り下がり、そうまでして生き延びて何になる。あのようなものに成り果て、生を得た意義などあるものか。
「やっぱり……ティエンは自分が嫌いなの?」
「好きではないな。自分以外になれるもんならなってみたいもんだ。だが、そんなことは不可能だ。俺は俺として生きていくしかない」
自分として生きていくしかないことを、自分として生を受けたことを、自分が此処に在ることを、天尊が苦役のように語るのが白には憐れに思えた。天尊はやはり自分自身が嫌いなのだ。何故そうなってしまったのかは分からないけれど、そうあることがとても哀しかった。
――キミは、あんなに強くて、あんなにも綺麗なのに。
「ボクはティエンがティエンで良かったと思ってるよ」
天尊は白の声に引かれるように視線を動かした。
「あの日ボクが見つけたのがティエンで良かった、一緒に暮らす人がティエンで良かった、ここにいるのがティエンで良かったって、思ってるよ」
嘘だと否定してしまうのは簡単なのに、天尊は黙って聞いていた。
聞いていたかった。自分を受け容れて、自分でさえ嫌いな自分を肯定してくれる声を。
こんなのは甘えだと自分でも分かっている。自分よりも幼くて脆い存在に甘えるなどまったく以て情けない。恰好がつかない。プライドは何処へ行った。しかし、この空間ではそれも許されている。白の声音も、表情も、とても柔らかく、優しい。いと慈しみ深き乙女。
「だからティエンが死ぬのは嫌だよ。絶対に死なないで、ティエン」
「……ああ、死なん」
天尊は目を伏せて噛み締めるように言った。独り言のような決意表明だった。
胸の奥に熱を感じる。この熱の正体はきっと、生きようと息吹く命だ。人は命を燃やしながら生きるものだ。だから、熱い。こんなにも強く、生きなければならないと思わされたのは初めてだ。
白はソファの上に顎を置き、下から天尊の顔を窺った。
「ボクの所為でケガさせちゃって、ゴメンね」
「アキラの所為じゃないんだ。アキラが謝ることじゃない」
「でも」
「俺に感謝しているか?」
「勿論」
白はコクコクッと頷いた。
天尊は白の顎を捕まえてクリッと自分のほうへ向かせて固定した。
「ごめんと言われるのは気分が良くない。感謝しているなら言うべき言葉は別にあるだろう」
白は顔を固定されたままプッと噴き出した。
臆面もなく真正面から礼を要求する厚顔さ。自分を嫌いだと卑下する天尊を見るよりも何倍もよかった。
「守ってくれてありがとう」
天尊はその言葉を聞くとクハッと破顔し、白の頭をわしゃわしゃと撫でた。
此処にいて何かを満たされる度に、ハッと微睡みから覚醒するように、同じ思考が脳裏を過る。
――俺みたいなものがいつまで此処にいていいんだろうか。
天尊は長いこと軍人として生きてきた。戦闘を生業として、糧を得る術として生きてきた。何度も命を懸け、時に命を奪い、死にかけ、死を齎した。この家で過ごす毎日のように穏やかで優しい生活は、稀な時間だ。
此処は微睡みにいるように居心地がよい。夢みたいな現実、所謂ぬるま湯のようなものにどっぷりと浸かり、体が、心が、離れがたくなっていることを自覚する。
如何に離れがたくとも、何事にも終わりはある。手放しに夢を見ていられるほど莫迦じゃない。そのときがいつか必ずやってくることは弁えている。
それ故に、もう少し、もう少し、と〝最後〟を先延ばしにする。泡沫の夢と知りつつしがみつく、聞き分けの悪い大人の所業。
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