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Kapitel 02:日常

日常 08

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 アキラたちはなんとか妊娠疑惑を否定して惣菜屋を後にした。噂好きのおばさま方が面白半分であることないこと広めないでいてくれたらいいけれど、残念ながら人の口に戸は立てられない。
 白は商店街を進みながら天尊ティエンゾンを見上げた。

「ウワサされてるってティエン、一人で商店街に来てるの?」

「散歩がてらな」

 天尊は足を停めた。商店街に軒を連ねる店のひとつを指差した。
 その店構えは、店先に人が立つではなく、腰より上くらいの位置に決して大きくはない窓があるのみ。看板は色落ちしてところどころに錆が浮いて見える。看板には「TOBACCO」の文字。

「通り掛かったついでに買って帰るか」

 天尊が煙草屋へと方向転換し、白と銀太ギンタもその後に続いた。
 天尊は窓の前に立って「ん?」と小首を傾げた。店番として店内に座していたのは、見覚えのない青年だった。

「いつもはバアさんなのに今日は若い男だ」

 青年は店の前に誰か立ったことにすぐに気付き、窓をガラッと横に開いた。その目線は如何にも喫煙しそうな年頃の男性ではなく、女子中学生のほうに向いていた。

「アキラちゃん久し振りだねー」

 白も「こんにちは」と挨拶を返し、天尊は不思議そうに眉を顰めた。煙草を吸わない白が何故、煙草屋の店番と顔見知りなのだ。

「知り合いか?」と天尊。

「たいせーおなじガッコだぞ」

「戴星くんとは幼馴染み、みたいな。年は離れてるけど。ボクも戴星くんも小さい頃からずっとこの辺りに住んでて、学校も同じだから。戴星くんはいま大学生だよ」

 戴星[タイセー]は天尊にペコッと小さく会釈した。それから「アキラちゃん、アキラちゃん」と白を手招きした。
 白が招かれるままに窓に顔を近づけ、戴星は首を伸ばして耳打ちする。

「このガイジンさん誰。どういう知り合い?」

 天尊はジッと戴星を見下ろした。耳打ちしてもこれだけ近距離にいれば話の内容は聞こえてくる。

「遠い親戚……デス」

「えっ。アキラちゃんちって海外の血入ってるの? アキラちゃんも疋堂ヒキドーさんも見えないなあ」

 戴星がへーっと感心したような声を漏らし、白は苦笑いを浮かべた。
 虎子のようにあからさまに嫌疑をかけられても居心地が悪いが、素直に信じられると別の意味で心苦しいものがある。
 疋堂さんとは、白と銀太の父親。父親も白や銀太も海の向こうの血統が入っているとは思えない顔立ちなのだから、戴星が「見えない」と言うのは当たり前だ。

「商店街、工事中なの?」

 嘘を吐くのが心苦しい白は、話を逸らす為にとにかく目に入ったトラックを指差した。長らくシャッターが下りたままになっている空きテナントの前に一台のトラックが停車中。トラックの荷台から人が乗るカゴ付きの梯子が伸び、商店街の天井アーチに到達している。

「ああ、いま修繕中なんだ。これは照明の取り替え工事。もう古いから、あちこち錆びたり壊れたり。俺の所為もあるかなあ~と思わないでもないけど」

「何で戴星くんの所為なの?」

「子どもの頃は、友だちとあの照明にボールぶつけたりシャッターに激突して曲げたりしたから。よく怒られたなー」

「何でそんなことするの??」

「小中学生の男子なんて大体バカだからねー」

 戴星と談笑中の白の上に不意にフッと影が覆い被さった。天尊が白の背後から腕を伸ばし、窓の横に手を突いていた。店内にいる戴星を見下ろした。

「タバコをくれ」

「あっ、ハイ。どれにしましょ」

 戴星は天尊を見上げて無遠慮にジロジロと観察してしまった。
 自分が椅子に座っていることを加味してもかなりの長身。服の上からでも分かるガッチリとした体格は一般人とは思えない。極め付きは、年齢に不相応な総白髪。このような風貌の男が女子中学生と行動を共にしているのは、率直に言って奇異だ。
 どれにしましょう、と言った割には戴星はボーッと天尊を見詰めるばかり。天尊は素っ気なく「何だ」と言い放った。

「アキラちゃんとゼンゼン似てないっスねー。背が高くて海外モデルみたいでカッコイイなーと思って……ハハハ。俺は馬司マツカサ戴星タイセーです。ここ、俺のばーちゃんがやっててマツカサ商店っていうんで、今後ともよろしくお願いします」

「俺は天尊ティエンゾンだ」

「ティエンゾンさん……は、此国の言葉むちゃくちゃ上手いっスね」

「ほかの言語がいいか。英語か、中国語か、ロシア語か」

「イエ、このままでお願いしますッ」

「いいからタバコをくれ。俺はタバコを買いに来たんだ」

 白は天尊のやや乱暴なくらい素っ気ない言い方が引っ掛かった。戴星が天尊から指定された煙草の銘柄の用意を始めると、「ちょっと」と天尊の腕を引っ張って窓口から少し引き離した。

「なんか、態度悪くない?」

「初対面の相手には警戒して当然だ」

「初対面だけど、ボクの幼馴染みって紹介したでしょ。戴星くんは警戒しなくても大丈夫だからもう変な態度やめてよ」

 天尊は白から目を逸らして何か一思案したあと、不本意そうに「分かった」と言った。
 うわあ? ――突然頭上で大声が聞こえた。
 白は反射的に声のしたほう、天井を見上げた。視界に飛びこんできたのは、真上から落下するセードつきの巨大な照明。

「銀太! ティエン!」

 白は咄嗟に銀太と天尊を突き飛ばした。が、銀太の身体は動かせても天尊はビクともしなかった。
 天尊は白の腕を捕まえてグインッと自分のほうへ引き寄せた。白を片腕に抱き、落下してくる照明を視界の真ん中に据えた。
 ガゴォオンッ!
 頭上に直撃する寸前、天尊の拳が照明のセードにめりこんだ。
 セードはぐにゃりと変形し、巨大な照明は圧倒的パワーによって薙ぎ払われた。大きな衝撃音を立ててコンクリートに激突し、部品を飛び散らせて大破した。
 一瞬の悲鳴ののち、一帯は静まり返った。誰しも何が起こったのか理解するのに一拍以上の間が必要だった。ガラン、ガラン、ガラガラ、とセードや照明の部品が転がる音だけが商店街に響いた。

 天尊は何事も無かったかのような顔で拳を解いて手をブラブラと振った。膝を折って視線の位置を下げ、白の顔を真正面から覗きこんだ。

「莫迦。危ないから俺の前に出るな」

 白はホッと安堵すると同時にハッとして天尊の手に飛びついた。

「ティエン、手っ……」

「これくらいは何ともない」

 白は心配そうに天尊の手の平や甲をペタペタと触り回した。化け物と素手で格闘を繰り広げていた男が、これくらいのことを遣って退けたとて、不思議は無いだろうに。
 天尊は心配そうな白の顔を見て、この人間の娘は本気で自分を案じているのだと察した。

(コイツ、あの瞬間、俺を助けようとした。俺のほうが自分よりも何倍も丈夫で強いことを知っているのに。何より、俺が死んでも何の損もないはずだ。リスクを冒す意味が無い。それでもアキラは俺を――……なんだ、この生き物は)

 天尊は計算高い男だ。損得勘定を第一に考えている。リターンが望めなければ、リスクも損も負いたくはない。自分だけが損をするのは大嫌いだ。故に、白の行動は理解不能だった。

「ウ、ウソだろ……あんなデカイもん、素手で……」

 戴星はポカンと口を開けた間の抜けた顔で天尊を見詰めた。
 数秒後、ようやくハッと正気を取り戻し、窓から身を乗り出して天尊を指差した。

「素手でこんなことできるなんて絶対フツーじゃない! な、何者?」

 天尊は少々ムッとした。スッと立ち上がって俯瞰気味に戴星を睨んだ。

「貴様、結構な口をきくじゃないか。こっちは被害者だぞ。訴えて勝つぞこの野郎ッ!」

 白はまあまあと天尊を宥めた。
 あのようなものが降ってきて天尊が怒る気持ちはよく分かる。当たり前の人間に直撃したなら死んでもおかしくはない。

「アキラちゃん! こ、この人ホント何者ッ?」

 戴星は白と天尊の間で落ち着きなく視線をキョロキョロさせて明らかに取り乱していた。
 ティエンは……、と白は天尊を見上げて嘆息を漏らした。
 ――さて、何と言って戴星を誤魔化そうか。

「軍人さんなんだって」

「軍人さん?」

 天尊は腕組みをして首を傾げた。この場でそれを言って何になるというのだろう。
 数秒後、戴星がポンッと手を打った。

「…………。ああ、だからか」

 何が「だからか」なのか、白にも天尊にも皆目見当が付かなかった。しかし、戴星が何故か納得したのは伝わった。

「単純な男だな」

「戴星くん以外には通用しないよ」

 指を指されて化け物扱いをされて憤慨した天尊も、戴星があまりにも単純で許せた。白が先ほど「戴星くんは警戒しなくても大丈夫」と評した意味がなんとなく分かった。この程度で誤魔化せるから、警戒する必要もないわけだ。

 その後、工事作業者が慌てて駆けつけてきて、これでもかというほど丁重に謝られた。天尊が戴星に向かって「訴えるぞ」と叫んだからさぞかし肝を冷やしたに違いない。
 天尊はこのくらい平謝りされて当然だと踏ん反り返っていたが、白はあまりにもペコペコと低頭されて申し訳ない気持ちになり、足早にその場から立ち去った。


 白たちは日が傾きかけた道を三人並んで歩いて帰った。荷物はすべて天尊が引き受け、白は銀太と手を繋いでいた。

「もう無茶しないでよ。あんなの降ってきて、一瞬ティエンが死んじゃうかと思った」

「それはこっちの台詞だ。俺はあれくらいはどうということはない。アキラが俺を庇う必要はない」

「ティエン。がしゃーんってスゴかったな」

 銀太からの素直な賛辞。天尊はそうだろうとうんうんと頷いた。

「確かに、ティエンは大抵のことが平気なんだろうけど。それでも、やっぱり心配はするよ」

「…………。アキラに心配されるほどヤワじゃない」

 天尊は素っ気なく言ったが、本音では少し嬉しかった。自分の能力を知っているはずの白が、銀太にするのと同じように心配してくれることが、銀太にするのと同じように自分を守ろうとしてくれたことが、確かに嬉しい。
 自分のような屈強な男を、やがていなくなる赤の他人を、損得勘定など関係無しに後先を考えず、身を挺して守ってくれようとする、白の莫迦みたいな優しさが、自分でも不可解なくらい嬉しい。

「アキラがどうしても心配だというなら今後は気を付けてやらんでもない」

「なんでティエンはエラそーなんだ?」

「偉いだろう。今日一番働いているのは俺だ。病院に付き添ってやって、照明を吹っ飛ばしてやって、俺がいたから買い物もサービスしてくれた。今も荷物を持ってやっている」

 銀太に指摘された天尊は、何を言うとばかりに胸を張って言明した。
 銀太と張り合う天尊のほうが、白よりも子どものようだった。

「ハイハイ。ティエンが一番偉いよ。どーしても心配だからこれからは無茶しないでください、ティエンさーん」

「ティエンさーーん♪」

「オイ。心から言ってないだろ、お前たち」

 白と銀太が子どもらしい高い笑声を上げ、それを見ている天尊の口許も自然と綻んだ。
 自然と顔面の筋肉が緩むなど、どれくらい振りだろう。自分はそんなにも長い間、作り笑いか嫌みったらしい笑い方しかしていなかったかと気付かされた。
 本気で居心地がよいと思い始めている。食い物や居場所。還る家がある温かさ。心配される気恥ずかしさ。自分以外の者を想う思い遣り。分け隔て無く降り注ぐ優しさ。これまで不要だと切り捨ててきたもののすべてが、此処に在るような気がして。

 ――俺みたいなものがいつまで此処にいていいんだろうか。

 自分でもゾッとするほど厚かましい思考回路を意識的にストップ。
 そのようなことはできるはずがない。希望に絶望は付き物だ。期待して叶わず、苦味を味あわされるのはもう懲り懲りだ。
 嗚呼、きっとこの少女の所為だ。これまでの人生に、このような者はただの一人もいなかった。今まで出逢ってきた誰よりも優しく純粋な異界の少女が、馬鹿げた白昼夢を見せる。
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