ベスティエンⅢ【改訂版】

花閂

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#30: Sparrow the Ripper

Go gunning for rabbits. 03

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 北棟校舎・廊下。
 アンズは休み時間にお手洗いへ行って用を済ませて身嗜みをチェックした。教室へ戻るルートを一人で歩いていた。
 しょっちゅうレイのクラスの禮と行動しているが、教室内に話をする友人がいないわけではない。虎徹コテツのような熱烈ではないにしろ、それなりに取り巻きのような連中はいる。それでも女子生徒はクラスにたった一人なのだから、単独行動は必然的に多くなる。お手洗いなどその最たるものだ。

「ド金髪の〝ウサギちゃん〟発見」

 金髪、と言われて自然に自分のことだと思った。杏は足を停めて声のほうを振り返った。
 知らない声だと思ったら、やはり知らない人物だった。男が三人、杏に向かってヒラヒラと手を振りながら近づいてきた。

(ウサギちゃん? アホちゃうコイツ等)

 杏は目線をフイッと外して教室の方角へ歩き出した。校内でナンパをするような男たちの相手をしてやる気分ではなかった。暇ならば考えてやらなくもないが、あまり授業をサボると禮から叱られてしまう。
 男たちは小走りに駆け寄ってきて、立ち去ろうとした杏の腕を無遠慮に捕まえた。

「〝ウサギちゃん〟ゲーット♪」

 無視されても引き下がらず直接身体に触れるなど質の悪い部類だ。杏は男たちをキッと睨みつけた。

「急に何やの。離してんか。もう授業始まるねんけど」

「ハハハハッ。こんな真ッキンキンでもマジメに授業出るんだ。やっぱ女のコは違うわ」

「女はニオイからして違うもんな。お前たちみたいにムサくねー」

「こんだけ男だらけのとこで早速〝ウサギちゃん〟に巡り会うとは、俺たち日頃の行いがいいよな」

 男は笑いながら杏の腕をグイッと引っ張って壁のほうへ追い遣った。
 人の事情や気持ちはお構いなしで訳の分からないお喋りを続ける男たちの態度に、杏はイライラしてきた。

「女、女て何やねんな。アンタ等童貞?」

 これでようやく男たちの談笑がピタリと已んだ。

「所構わずがっついとるくらいやもんな。なんぼ焦りまくりでもTPOくらい考えたほうがえーよ。童貞丸出し。ダッサ」

 杏の視界の外で何かがヒュッと空を切る音がした。
 パシンッ。――男は杏の頬を平手で叩いた。

「つっ……!」

 杏は咄嗟に自由なほうの腕で撲たれた頬を覆った。
 その手もすぐに捕まえられ、両の手首を無理矢理壁に貼りつけられた。

「俺たちにあんまナメた口利かねーほうがいいぞ。自分が今からどうなるか分かってねーだろ」

「ウサギ狩り解禁なんやで❤」

 杏は男たちのにやついた目許をいくら見つめても言っている意味は分からなかった。顔も知らない連中にこのような真似をされる心当たりはない。ただ、本能的にこの情況にザワッと危機感を抱いた。

「ワケ分からんこと言うなッ……離せボケ!」

 どぼっ! ――杏は自分を押さえつけている男の股間を思いきり蹴りあげた。
 男から「ギエッ」と野太い悲鳴が上がった。

「コイツッ……何しやがんだクソ女ァッ」

 バジィンッ!
 杏の両手が自由になったのは一瞬に過ぎなかった。ほかの男から先程よりも強い力で頬を撲たれた。すぐにまた腕を捕まえられた。痛いほどの力で握りしめられ、振りはらうことができなかった。

「オイ、引きずり倒せ! 早い者勝ちだッ」

 杏は全力で藻掻いて抵抗したが床に引きたおされた。三人がかりで腕や足を押さえつけられては少女の腕力では引っくり返しようがない。
 男の一人が杏の上に跨がった。

「上から退けや! ぶっ殺すで!」

 杏は男に乗られた状態でも威勢を失わなかった。すぐに男から手でガッと乱暴に口を塞がれた。
 赤子のようにねじ伏せられ、咆えることも封じられ、この情況を覆すなど到底不可能だった。視界を無数の腕が行き交う。まるで鉄鎖だ。非力な身では何処にも行けないことを思い知らせる。
 弱い。なんと弱い。非力で、ひ弱で、懦弱。おまけに蒙昧で浅学。

 ――――「杏もここじゃあ自分が弱いモンやっちゅうことは分かってるやろ」

「無事に三年間過ごしたかったら自分の身は自分で守れ。俺はお前まで守ったる義理はあれへんさかいな」

「自分の身は自分で守ってかなあかんのに、やたらめったら敵作るよな真似すんな」――――

 様々な言葉が脳裏を巡った。どれもそんなことは分かっていると決めつけた言葉だった。
 暴力がものを言う小さな檻の世界で、自身が弱者だとしても誰を敵に回しても恐ろしくないのは本当だ。暴力や恐怖に折れない心を持っている。しかし、心の強さに比して肉体はなんと脆い。この脆弱な肉体に鞏固な心の十分の一でも力が宿ればよいのに。このような脆弱な殻を捨て去って何も感じない鎧が欲しい。
 何故、神様は魂に見合った肉体を、肉体に見合った魂を、授けて下さらないのだろうか。


「痛ァッ! クソ、爪で切られた。暴れんなっつーの」

「お前ちゃんと足押さえとけよ! ジタバタされてやりにきィだろッ」

「ホンマにここでやるのかよ。どっか連れ込んだほうがいんじゃね」

「そんな悠長なこと言ってっと先輩に横取りされンだろ。狩りは早い者勝ちだ」

 男たちは杏の身体に好き勝手に手を這わせた。
 杏は必死に声を上げようとしたが口を塞がれているから「んーッんーッ」とくぐもった声が微かに漏れ出るだけだった。両手首両足を押さえつけられ抵抗も儘ならず、熱を持った手が肌の上を這う感触に嫌悪が走った。

「杏ーーーッ‼」

 突然、よく知っている声が聞こえ、杏は目を見開いた。

(へー!)

 ドガッ!
 杏に跨っていた男は、何者かに背中を蹴飛ばされて床の上に転がった。
 壁になるものが消えて杏の視界はパッと開けた。その瞬間、目映い金髪が目に入った。

(えッ⁉)

 其処にいたのはタイラではなく美作ミマサカだった。
 一息吐く間もなく続け様に残りの男たちの顔面を殴り飛ばした。

「何ナメた真似さらしとんねん」

 美作は床に這いつくばった男たちに向かって珍しくドスの利いた低い声で放言した。目許には冷気すら漂う。普段の温厚さとはまるで別人だった。
 男たちは反撃する暇もなかった。否、もしあったとしてもできなかった。彼等は叛意を示すことさえ不可能だ。目の前にいるのは荒菱館コーリョーカンの序列二位の男だ。殴られた顔面を手で覆ってこうべを垂れ、これ以上気分を害さぬよう目を合わせないようにするのが精一杯だった。
 自由になった杏は、急いで下着をずり上げた。そして美作の背中を半ば茫然と見上げた。
 其処にある背中は見紛おうことなき美作だが、内心信じられなかった。名前を呼ばれたとき、完全に平だと思った。平の声にしか聞こえなかった。美作から今まで一度たりとも「杏」と呼んでもらったことはない。助けに来てくれたことを、名前を呼んでもらえたことを、場違いに喜んでしまう。

ジュンさん……」

「大丈夫か、アンちゃん」

 振り返った美作は、いつも通りだった。呼び方も、距離感も。
 杏は期待を裏切られて声を失した。名前を呼ばれて距離が近づいたと勘違いした。このようなことに傷付いている場合ではないと、救出してもらった礼を伝えなくてはならないと、頭では分かっているのに心は馬鹿みたいに正直だった。

「杏!」

 また平の声が聞こえた。先ほどと同じように呼び捨て。呼び捨てにしてよいと許した覚えはないのに、昔からの知り合いのように、兄弟姉妹か幼馴染みのように、無遠慮にがさつに「杏」と呼び捨てにする声。
 恋しくなんかない。頼りたくなんかない。会いたくない。
 ――泣きだしそうな気分のときにアイツと顔を合わせたくない。アイツだけには弱味を見せたくない。

「オイ、杏!」

 平は猛然と杏に駆け寄った。その肩をむんずと掴んで乱暴に揺さぶった。
 杏は平の顔を見上げた。この声だ。男たちに組み敷かれ容易くねじ伏せられ、己の非力を思い知る失望感の中で、聞こえたのはこの声だ。

「杏ッ‼」

「へー……」

「大丈夫やったら返事ぐらいせえアホ!」

 恋しくなんかない。頼りたくなんかない。会いたくない。憎たらしい。気に食わない。泣きそうなときや折れてしまいそうなときに限って、目の前に現れるから憎らしくて堪らない。

「アホ言うなアホ……」

 杏の声は弱々しく、微かに震えていた。
 平はこのような杏をはじめて見た。ビックリして反射的に杏の肩から手を退けた。このような傷ついた顔をされたらかける言葉が見つからなかった。

大鰐オーワニタイラ

 美作から名前を呼ばれ、平は振り返った。
 美作は平と杏に背を向けて廊下の先を見ていた。

「アンちゃんのことはお前に任せてええな」

「ハァッ⁉」

「ええな」

 平はムッとして美作の背中を睨みつけた。最初から杏を助けるつもりはあったが頭ごなしに命令されるのが気に食わなかった。

「俺はアンタの舎弟でも使いっぱでも――」

「別に俺の敵でもええ。お前は禮ちゃんやアンちゃんの味方や。自分がなんぼ痛い目に遭うても絶対に二人を見捨てへん。何があっても絶対に仲間を裏切らへん。お前はそーゆー男や」

 平はそのようなことを言われたのは初めてだった。だから一瞬呆気に取られてしまった。

「何を……根拠に」

「根拠は俺がそう信じとるからや」

 美作は肩越しに平と目線を合わせた。
 平は思わず押しだまった。美作の目から、一分の疑念もなく信頼を託されたと理解してしまった。そしてゴクリと生唾を嚥下した。
 駆け引きも、交換条件も、損得勘定もない、純然たる信頼。このような大きな期待をかけられたこともなければ、重大な責務を任されたこともなかった。胸の奥がズシリと重たくなった感じがした。
 美作は平に一方的に信頼と重責を預けた。直感と経験によって、大鰐オーワニタイラは自身の責務を放棄する人物ではないと見抜いていた。
 見こんだ通り、平は美作から託されたものを拒まなかった。

「美作さん……は、どこに?」

「キイチロを――――スズメ麒一郎キイチローを見つけ出す」

「見つけて、その後は?」

「……俺は荒菱館の№2や。近江オーミさんの敵は、俺が潰す」

 敬愛し心酔し崇拝する暴君の隣に立つと決めたときから、何を犠牲にしても厭わない覚悟を背負った。今まで先延ばしになっていた犠牲を支払うときが来ただけだ。ツケの精算は望むところだ。拒みも疎みも忘れもしない。
 約束の時――――それが永久の訣別であったとしても、弾倉に弾を詰め、その瞬間を粛々と受け容れるだけだ。
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