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#26: Bitter enemies in the same boat
Lindenbaum 02
しおりを挟む勇炫のねじくれた性格は、現在は自他ともに認めるところだが、小学校低学年くらいまでは年相応の男児だった。……と、少なくとも自分ではそう認識している。
その頃にはもう周囲からは事ある毎に、跡継ぎだから、一人息子だから、と言われたものだ。それをやや鬱陶しく感じつつも、道場の人間関係も稽古の空気感もそう嫌いではなかった。頑張ったことを褒められたときには、素直に嬉しかった。父・統道は、宗家当主として師範として今と変わらず厳しかったが、勇炫には父親に対する真っ当な尊敬や情愛があった。両親のことを愛する、家族に何の不満もない、当たり前の小学生男児だった。
母親のことは、父親に増してその何十倍も大好きだった。その柔らかい目許で微笑まれ、その柔らかい声で名前を呼ばれ、その柔らかい手で頭を撫でられるのが、幼い勇炫のお気に入りだった。二人で道を歩くとき、母は勇炫を気にして何度も振り返ってくれ、勇炫も母から離れないように小走りでついてゆく。二人で連れ立っての外出は、大好きな母を独り占めできる楽しい時間だった。
幼く小さく、力の弱い勇炫の世界では、母親がすべて。幼子にとって自分だけに無償の愛を注いでくれる母親という存在が、どれほど大きな割合を占めるか。それは100%だ。いいや120%だ。
悪いことをしたら天罰ばかりを下す神様なんかよりも、ずっと親しくてもっと大切な人。神様よりも大切な人が手を伸ばせば届く距離にいる。厚かましく図々しく遠慮無く貪欲に、服の袖を握っていてもよい。何も考えずにつらいこと苦しいことを投げ出して甘えても、笑って許してくれる。
――その頃お母はんは、真っ直ぐ俺の顔を見て笑うてくれとった気がする。真っ直ぐ俺の目を見て叱ってくれとった気がする。
そんなどこの家庭にも有り触れとることが、家族の絆の証拠やったんや。
勇炫が九つか十の頃。
母親は30代前半。今と変わらず上品で穏和な女性だった。
母親に連れられて近所まで買い物に行った帰りだったと思う。それは日常のことだった。母と二人でよく出掛けていた。いつものように笑いながらいつもの道を歩き、いつものように玄関の戸を開け、ただいまと言った。
其処には、知らない女性が立っていた。靴も脱がずに玄関に立っていた。
父親は上がり框の上に立って女性と対峙していた。父親の険しい表情を見るに、子どもの目にも到底客人を出迎えている様子には見えなかった。
女性は、勇炫の母よりいくらか年若かった。大きく緩くウェーブを描くロングヘア、吊り目がちの切れ長の目許、薄い唇にはスカーレットのルージュ。口許に印象的なほくろが一点。
勇炫は、その女の顔を見て何処かで出逢ったことがあるような気がした。しかし、よく考えてみても名前が出てこなかったので知らない人だと思った。
その女性は勇炫を見るなり、駆け寄って両膝を地につけて小さな両肩を掴んだ。
「ヒカル……ッ!」
聞いたことのない名前だった。しかし、その女性は確かに勇炫の目を見詰めながらそう言った。
「ヒカルちゃん! ヒカルちゃんやろ、すぐに分かったわ、ウチにソックリやもの!」
女性は、愛おしそうに懐かしそうに、勇炫の肩を撫で、腕を撫で、頬を撫でた。
勇炫は女性を凝視して、凍結したように動けなくなった。
この女性は自分をソックリだと言うが、「ヒカル」という名前など聞いたことがないし、この女性も知らない。知らない人に似ているなんてことがあるはずがない。
「俺の息子に触るな!」
統道の怒鳴り声に、勇炫はビクッと体を跳ね上げた。
統道は女性の二の腕を掴んで乱暴に床から引き上げ、勇炫から引き離した。
幼い勇炫には、大きな父親の怒声も知らない女性の必死な形相も恐ろしかった。
「ヒカルはウチが生んだウチの子ォや。何でウチが触ったらあかんの。ウチは母親やで!」
声も出せずにいた勇炫の手を、後ろにいた母親が捕まえた。いつもの彼女と思えぬ物凄い力で手を引き、玄関から連れ出した。
勇炫は母親に手を引かれながら一瞬、突然やってきた女性のほうを振り返った。女性は統道に腕を捕まえられたまま、必死に勇炫へ手を伸ばしていた。勇炫を求めていた。
「ヒカルゥーッ!」
追い縋る女の悲鳴はこの世のものと思えないおどろおどろしさ。伸びてくる手も縋りつく眼力も、幼い勇炫には恐ろしかった。
ビシャンッ。――と玄関の引き戸が閉まった。
勇炫は、聞いたことのない名前を叫びながら自分を求める見知らぬ女と隔絶されてホッと安堵した。そして、自分の手を握る母親の手が震えていることに気づいた。
お母はん、大丈夫? 勇炫が母親を気遣って声をかけようとしたところ、玄関戸の向こうから荒々しい会話が聞こえてきた。
「ウチは正真正銘ヒカルの母親や! ウチにこんな真似してアンタそれでも人間か!」
「何が母親や! 今更どのツラ下げて……ッ」
「アンタこそよう堂々とあの子の父親面でけるな! 嫁はんいてて平気で余所の女に子ども生ませるような男のクセに。しかも金払うて子ども買うようなクズが真っ当な親なわけあれへんやろーッ!」
「言えたッ義理か……!」
パシィンッ。
「ウチを……ウチの顔を殴った……⁉ 鬼ィッ!」
「どっちが鬼や! 自分の子ォ金で売ったんはお前やろ。とっとと帰れ! 二度と姿現すなッ」
「お腹痛めて生んだ子ォほんまにお金で売る母親なんかおるか! アンタが金だけ置いてウチから奪ってったんやんか! 返してや! ヒカルをウチに返してぇえッ!」
利発な頭は否応なしにすべてを理解させる。屋敷の使用人が時偶、自分に気の毒そうな視線を向ける訳も、大好きな母親に似ていないとよく言われる訳も、然程気にしていなかった些細な事実が腑に落ちる。ピースが独りでに歩き出して嵌まるべきところへピタリと嵌まる。残念なジグソーの出来上がりはもう想像できる。今の今まで、思ってもみなかった画だけれど。
ガラガラガラ、ガラガラガラ。――今まで当然だと、当たり前だと、有り触れていると思っていたものが崩れ落ちてゆく。
「ごめんねえ……堪忍え……勇炫はん」
「何で謝るん……? お母はん」
母親はしゃがみ込んで顔を伏せた。嗚咽混じりの声。泣いているのだとすぐに分かった。
泣かないで、と励ましたかったが、差し出した勇炫の手もふるふると震えていた。
「恐かったねえ勇炫はん。もう大丈夫……もう大丈夫やから」
母親は勇炫を抱き締めた。
手も、声も、肩も、カタカタと音を立てるくらいに震えていた。母はこの日が来るのをずっと恐れていたのかもしれない。いつ訪れるか知れない約束の日にずっと怯えながら、毎日あのように優しく微笑んでくれていたのか。
「急に知らん人いててビックリしはったなあ、勇炫はん。安心しとおくれやす。大丈夫よ。お母はんが勇炫はんをどこにも行かせへんさかい。勇炫はん……勇炫はん……」
母親は何度も言い聞かせるように「勇炫」と繰り返した。お前は勇炫以外の何者でもないと、お前はヒカルではないと、何度も何度も繰り返した。
勇炫が大好きな母親の言を否定するはずがなかった。
「うん。ボク、あんな人知れへんよ」
――俺は大好きなお母はんから引き離されたくなかった。大切なお母はんにもっとずっと愛されときたかった。せやかさい俺は、自分可愛さに血の繋がった実の母親を見捨てたんや。
子が母から引き離される恐怖と、母が子を奪われる恐怖と、どちらが底無しに暗くて孤独で絶望的なのだろう。
先に奪ったのはどちらだ。二度と得難いものを手放したのはどちらだ。
§ § § § §
勇炫の母は息子のすぐ近くまでやって来て、手に触れようとして已めた。年頃の息子に、友人の前でベタベタと触れるのは控えたほうがよいだろうと、そういう気配りの行き届いた人だ。
「勇炫はんは賢くて無理しはるから、お母はんは心配よ」
母親は少々困ったような表情で微笑んだ。
ほなね、と言って横を通り過ぎた母親を、勇炫は目で追った。長い髪をまとめ上げてうなじを晒す母親の後ろ姿を見送った。
「あなた」
それは母親から父親への呼び名。
勇炫は自分の背後に父親がいるのだなと察した。
「オウ。来たんか」
「そろそろ終わる頃やと思いまして。生徒さんたちのお昼の手配、できてますえ」
母親はやや足早に統道に歩み寄った。
両親の間に今も愛情があるのかは、勇炫は知らない。あのようなことが起こる前から、我が子の前で恋人同士のように睦まじい姿など見せるタイプではなかった。夫婦喧嘩どころか激しい言い争いをしている場面さえ見たことがない。ただハッキリしているのは、母親は献身的に尽くす人間である。最低最悪の裏切りをした夫にも、血の繋がりのない子にも、呪いの言葉を吐いたことはない。少なくとも勇炫にはそのような素振りは唯の一度も見せなかった。何故、自分を裏切った男を甲斐甲斐しく尽くせるのか、憎い二人の間に生まれた他人の子どもを愛せるのか、勇炫にはとんと理解ができなかった。
母親の行動原理が理解できない。何故そんなにも優しいのですか、お母さん。
「勇炫、どこに行く気や。そんなロクでもないのとつるんで。この穀潰しが」
統道から引き留められた勇炫は、背後を振り返った。その目には嫌悪と侮蔑が入り混じっていた。
「アンタと一緒におるより随分楽しいで」
「アンタて誰に言うとんじゃコラ。親に向こうて言う台詞か」
「親、なァ……。ガキは親選べへんさかいな」
勇炫は小馬鹿にしたようにフフッと嘲笑を漏らした。
「このッ……!」
「あなたッ」
勇炫の母は、息子に向かおうとした統道の腕に必死にしがみついた。
――ああ、お母はんは今日も優しいな。大好きやで、お母はん。
どれほど母親を慕っても、この身にはその血の一滴も流れていない。子どもと金銭を引き換えにする女と、妻以外の女に子ども生ませる男の血しか、流れていない。今日も今も一分一秒も、下種の血で出来ているこの身を呪う。
勇炫は自分自身が嫌いで仕方がなかった。綺麗と羨まれる顔面も、切れ者と褒められる頭脳も、流石は宗家次期当主と評される才覚も、嫌いで嫌いで仕方がない。父親に対するのと同じくらいに自身を嫌悪している。内側は卑怯で卑屈で小賢しくて陰険。外側は大好きな母親には少しも似ておらず、大嫌いなあの女にソックリ。このような自分自身に価値など見出せようはずがなかった。
生まれながらにして穢れている。汚い、醜い。無価値な、最低の人間。
「なァ親父、何で俺にこだわるんや。言うこときけへんし稽古は出えへんし勝手に家おん出て、アンタにしたら面倒でしゃあないやろ。アンタの言う通り、俺は穀潰しの親不孝者や」
好意的なムードでないにしろ、勇炫のほうから父親へ問いかけるなど珍しいことだった。
母親は統道から手を離した。統道は努めて気を落ち着かせ、背広の襟を正した。
「俺の息子やからや。お前が、俺の跡を継がせる、たった一人の息子やからや」
統道は大きな声で言明した。
勇炫は不出来な自分を、この世にたった一人の息子だと、家督を継がせる掛け替えのない我が子だと、そう声高に宣言されても何も感じなかった。なんて無味乾燥なのだろう。
「そうか。アンタにとっての俺の価値は、やっぱりそんなモンか」
もしかしたら、父親は勇炫が自分では見つけられない価値を知っているから固執するのではないかと思って尋ねてみた。あの日に無くしてしまった〝勇炫〟の価値を、知っているなら教えてほしい。
大嫌いな父親は再確認させてくれた。やはり〝勇炫〟には金で買える商品程度の価値しかない。家督を継がせる為に金で買った自分の複製品。
周囲の人間は正直者だ。ずっと真実を言い聞かせていた。跡継ぎだから、一人息子だから、それがすべて。それ以上を期待するなんて莫迦なことをした。
今更この程度で傷つきはしない。勇炫は両親にクルリと背を向けた。
「オイ、勝手にどこ行くんや勇炫。お前もソイツみたあなろくでなしになるつもりか。お前は宗家の跡取り――」
「親父。そんなセリフ、俺のツレに二度と言うな」
勇炫は統道の言葉を遮って仇敵の如く睨みつけた。ライトブラウンの長い前髪の間から怜悧な瞳がギラリと光った。
「ああ、そうや。俺、アンタの言うロクデナシになりたいんや。そのほうが、よっぽどマシな生き方や」
父親が期待する備前勇炫なんざクソ食らえ。大嫌いな父親の複製品であることも、宗家の跡取りであることも、この顔も体も血液も、忌々しい、大嫌いだ、反吐が出る。持って生まれたものはすべて捨ててしまいたい。
お前は自分で思っているよりもいいヤツだ、と言ってくれた。自分のことが大嫌いで仕方がないのに、自分でさえ無価値な下衆だと値付けしたのに、それでも傍にいていいと許してくれた。この人をロクデナシと言うのなら、喜んでロクデナシになる。
生まれて初めて自分で見つけて、自分の手で掴んだもの――仲間、希望、目指すべき光――手放したりするものか。持って生まれたものすべてと引き替えにして惜しくない。
血の柵のように永遠には繋がっていないことを悲観したりしない。いつもいつも、手を伸ばして、言葉を交わして、気持ちを大切にして、想い合っていれば地球上何処にいたってリンクする。芳しい淡黄色の小花を散らす、尊く逞しいリンデンバウム。
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