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#26: Bitter enemies in the same boat
Tiger is deaf to all. 02
しおりを挟む――7年前、おとんとおかんが死んだ。戸建ての屋根の上を這うような低い月の夜やった。
7年前のあの夜、俺が何をしたか? 俺は何もしてへん。したくてもでけへんかった。何もでけへん普通のガキやった。せやから、おとんとおかんを助けられへんかった。
父の従兄弟である攘之内に幼少期に引き取られ「親っさん」と呼んで心から慕う虎宗にも、実の父母の記憶はある。父の顔も母の顔も今でもハッキリと思い出すことができる。どのような人であったかもしっかりと心に残っている。
父も母も優しかった。父は寡黙な質で母もお喋りなほうではなく静かな家だったが、二人とも家族三人でいるときはよく笑っていた。両親ともに穏やかな性格であり、叱られた記憶がほとんどないくらいだ。大凡よい思い出しか持ち合わせていない。
7年前のあの夜、予期せぬ永遠の別れとなったあの夜を迎えるまで、至極当たり前の少年のように、虎宗にとっての親はあの二人だった。尊敬すべき師範を素直に「師範」と呼んでいた。
ドスッドスッ!
虎宗の硬い拳が男の身体にめり込む度に、ギュウギュウに砂が詰まったずた袋を殴るような鈍い音がした。
ずた袋は鉄球のような拳を叩き込まれる度にか細い呻きを漏らした。悶絶以外の言葉も吐いていたが、虎宗の耳には届かなかった。
虎宗はずた袋と化した男から手を離し、程よい間合いを取る為に軽く突き飛ばした。男は突き飛ばされた勢いで蹌踉めきながら虎宗から二、三歩離れた。
虎宗は片足を軸にグルリッと回転して男に背を向けた。思い切り上半身を捻り、遠心力と加速をつけて蹴りを繰り出した。
ボドォッ! と、虎宗の鋭い蹴りが男の鳩尾に真面にめり込んだ。男の身体は腹からくの字にひしゃげ、前のめりに傾いた。最早意識は無いと思われた。
虎宗は足先を高く持ち上げた。頭を差し出す体勢になった男の頭部に、刀を振り下ろすように踵を打ちつけた。
ガッキィンッ!
男は畳の上に叩き付けられるように俯せに突っ伏した。
虎宗の感情は揺れなかった。彼の未熟さに激昂するでなく己の優位に陶酔するでなく、ただただ意識は冷ややかに冴え渡り、脳内は月夜の如く静まり返った。野次や喧噪もない静かな晩、自分の鼓動すら響いてこない。
畳に倒れ込んだ男は、反撃してくる素振りはなかった。身動ぎ一つしなかった。虎宗は男に追い打ちをかけようと拳を握った。
突然、禮が視界に躍り出てきた。虎宗に向かって両手を広げ、その表情は少し青かった。一瞬何が起こったのか分からなかった。幻かもしれない。しかし、拳は従順にピタリと停止した。
「も、もうこの人……〝参った〟て言うてるよ……」
禮は虎宗としっかりと目線を合わせてそう告げた。
「まいっ……した。……すんまへ……たしゅっ…………」
禮は、背後から消え入りそうな声が聞こえてきて、眉間に皺を刻んだ。
弱々しい声だが、試合を注視していた者には聞こえた。男はもうずっと前から何度も何度も怯えきった声で、眼差しで、顔色で、降伏していた。
禮が独断で試合に飛び込んで中断させたのではない。審判は勝敗を宣言したが虎宗には届かなかったのだ。プライドをすべて懸けて勝利を希求したはずなのに。
「禮ちゃん……?」
「っ……! ~~~……!」
禮はしきりに口をパクパクと動かすが喉から声が出ていなかった。妙な真似をする、と虎宗は思った。そのように青い顔をして一体全体どうしたというのだ。
一刻遅れて、否、違う。妙なのは自分のほうだ、と気がついた。
――あかん。禮ちゃんが何言うてるのかぜんぜん聞こえへん。
声も風も、何も聞こえへん。誰か俺に何か言うてくれ。誰か俺の傍におってくれ。
俺は――――。
ガゴォンッ!
虎宗は突然何者かによって後頭部をぶん殴られた。
首から上を激しく揺さぶられたが、流石に気絶はしなかった。ゆっくりと首を回して背後を振り返った。
「早よ退けや。お前の出番とうに終わってんねん、ハゲ」
音が、聞こえた。
巨躯の三白眼に見下ろされて憎らしい台詞を浴びせられた。騒然とする周囲のざわめきも、畳に倒れている男の啜り泣きのような呻きも、禮の声も聞こえる。音のある世界、此処は現実なのだとゆっくりと染み渡る。
「いつまで出番延ばそうとしてんねん。さっさと退け」
渋撥はいまだに物を言わない虎宗に続け様に悪態を浴びせた。
虎宗は言い返しはせず、ふうと小さな息を吐いて渋撥にクルリと背を向けた。倒れている男の傍にしゃがみ込むと、男は蚊の鳴くような声で「ヒッ」と悲鳴を上げた。いまだ自力で立ち上がることはできない様子だ。
すぐに係の者によって担架が運ばれてきた。虎宗は男を担架に乗せる手助けをした。この頃にはもう、頭脳はしなければならないことを判断できるくらいに落ち着きを取り戻していた。
男は担架に運ばれていって退場した。虎宗も退場しようと歩き出した。渋撥の言う通り出番は終えたのだ。進行方向には禮と渋撥が立っていた。
禮ちゃん――、と虎宗は禮の隣を擦り抜けるとき、渋撥に聞こえないくらい小さな声で呼びかけた。
禮が目線を向けると、虎宗はこちらを見ずに口を小さく動かした。
「俺は何もしてへんで……」
何のことを言っているのか、禮には分からなかった。
ただ、懺悔や告解の匂いがした。此処は懺悔室や教会ではないのに、厳粛な匂いがスンと鼻を突く。
勇炫曰く神懸かり的である禮の瞳には、視界を横切っていく虎宗の横顔は磔を待つ咎人のように映った。
統道は虎宗たちの副将戦の決着を見て、フゥン、と小さく零した。感嘆混じりではあったが純粋に感心している風でもない。思うところあるのだろうなと、攘之内は勘付いた。
攘之内は虎宗の背中を真っ直ぐに見詰めていた。虎宗は僅かに肩を上下させて息を弾ませている。筋肉が盛り上がった逞しい背中――――今尚黒い霧が立ち上る、マルスの背。
「どうしたんや、お前んトコの虎宗は。あんな興奮するなんか珍しい」
案の上の言及。攘之内は腕組みをして嘆息を漏らした。
同じ副将を務める者とはいえ、天才師範代と評される虎宗と宗家の一門弟では実力差は明白。攘之内や統道ともなれば、始まる前から勝敗は分かっていたようなものだ。圧倒的な格差があるのだから、虎宗は如何様にしても勝つことができた。しかしながら、結果は完膚なきまでに叩きのめした。一切の加減も慈悲もなく、徹底的に、闘争心を削ぐまでに。
「トラはまだ若い。真剣になりすぎてやり過ぎることもあるやろ。お前ンとこの門下生、スマンかったな。道場に戻ったら言うて聞かす」
「イヤ、試合中のことや。気にするこたない。ウチのモンが、気に障ることでも言うたんかもしれへんしな」
「せやからや。多少挑発されたからて、乗っかるのは褒められたモンちゃう」
「人間誰しも引鉄っちゅうもんがある。天才師範代も例に漏れずな。お前が虎宗を引き取ったのは、その引鉄引かさんよに教育する為かと思うとったが」
「みくびんな」と攘之内は素早く反論した。
「俺がトラの親代わりになったんはそんなことの為ちゃう」
「ほな同情か、剛拳への義理立てか」
「純粋にトラが可愛かったからやとは思われへんのか」
攘之内は眉間に皺を刻み、ハーッと溜息を吐いた。
可愛いだと、と統道はハッと鼻先で笑い飛ばした。自分に起こり得ない現象は冗談と同義だ。可愛いなどと思うわけがない、あの能登虎宗を。
「アレをカワエエと思うのはお前やからや。同じ相模の男やからや。アレは鬼子や。一歩踏み間違えたら人間やめるのなんざ簡単な話や」
統道の目線は、攘之内と会話しながらも虎宗に固定されていた。虎宗の背中から立ち上る黒い霧状の靄は、統道にも見えていた。
禍々しい黒い霧を纏った、鋼の拳を持つマルスの化身。守るべき秩序を失すれば、武の道を踏み外せば、最早善良な人ではない。
攘之内は人知れず奥歯を噛み締めた。慣れた苦い味がした。
――トラ。俺は苦しい。どうしようもなく苦しい。
ゴーを、お前の親父を、俺の右腕を、喪くしたあの七年前の夜からずっと苦しさは続いとる。せやけど俺はもう慣れた。この苦しさと一緒に生きてく腹は決めた。
お前はまだ苦しいままなんやな、トラ。
図体ばかり大きくて少々赤みがかった重たい月。無気力な月が、低く低くより低く、近所の屋根に見え隠れして沈みながら浮いていた。
7年前のあの晩は、そのような薄気味悪い晩だった。
副将戦の動揺も落ち着きかけ、間もなく大将戦が始まろうかという頃合い。
相模の門弟たちは試合場の縁近くに整列して立っており、渋撥は普段通り億劫そうに片脚に体重を乗せて斜めに立っていた。
オイ、と兄弟子が渋撥の腕を引っ張った。
「近江。真っ直ぐシャンと立て」
「師範ごっつい顔でこっち睨んではんで」
渋撥はあからさまにうざったそうな顔をした。それから虎宗を親指で指した。
「俺やのォてコイツ睨んではんのとちゃうか」
兄弟子たちは、その歯に衣着せぬ物言いに表情を変えた。
虎宗の完膚無き試合は、同門の彼等にも触れにくい話題となった。如何に実戦主義の備前金剛内の試合とは言え、審判の制止を無視して戦い続けたのはやり過ぎだ。虎宗は実力差に溺れて面白半分にそのようなことをする人物ではないことはよく知っている。そうまでしたのだから何かしら理由があるのだと推測する。しかし、その理由までは彼等に知る由がなかった。
「触れにくいとこをマトモに突くなアホッ。気まずいやろッ」
「何が気まずいねん」
「クッ、羨ましい鈍感さ……!」
渋撥はケロリとしていた。兄弟子は脱力した。
「物には限度っちゅうモンがあるんや。やり過ぎはあかんやろ」
兄弟子は虎宗に聞こえないように配慮して小声で渋撥に告げた。
「アイツ、息しとったで。死んでへん。何がマズイねん」
お前マジか……、と兄弟子たちは唖然とした。
渋撥の堂々とした態度を見るに、死んでなければそれでよい、と本心から考えているようだ。
殺してはいけないなどというのは、子どもでも解る最低限の倫理だ。彼等の倫理観はもっと高等なものだ。裸の拳で殴り合って血反吐を吐く手合わせといえども、超えてはいけないラインは存在する。
渋撥は人並みの倫理観を持ち合わせないが故に、試合に於ける荒々しい所業について虎宗を追及しなかった。大志朗にはそれが少し嬉しかった。あの所業は大志朗の感覚でもやり過ぎだった。しかし、物心ついたときから最も親しい友として責めることはしたくなかった。
大志朗は渋撥の肩にポンと手を置いた。
「渋撥……お前、腹の中ではトラのこと認めてるやろ」
「はあ?」と渋撥はすぐさま反応した。
「殺したいと思ったことしかあれへん」
「し~ぶ~は~つ~」
ん? と渋撥は或ることが引っかかった。
「そう言えばお前いつから呼び捨てにしてんねん、ラクダマツゲ2号」
「今頃か! ちゅうかその変なアダ名やめろや。俺は大志朗やッ」
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