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#26: Bitter enemies in the same boat
Hydrangea under the watery sky 02✤
しおりを挟む道場に一人の青年が現れた。
その姿を見るや、宗家の人間たちは俄にざわめいた。青年は彼等の動揺など気にも留めず笑顔を湛え、明るい色をした髪の毛を軽やかに揺らして歩を進めた。
相模道場師範・攘之内の前で足を停めてスッと頭を下げた。再び頭を上げたとき、肩や髪、睫毛の先に雨露を纏わせた、紫陽花のような佇まいの佳人が嫣然と微笑んだ。
「お久し振りです、相模師範」
勇炫、と攘之内は溜息混じりに名前を呼んだ。
「俺は久し振りで当たり前や。お前、自分んちにもよう顔出してへんやろ。あんま御無沙汰しとるとお母はん心配しはるで」
「一人暮らし始めると何かと忙しゅうて」
勇炫は攘之内との会話を早々に切り上げて禮のほうへ顔を向けた。
攘之内の隣に立っていた禮は、久し振り、と勇炫と挨拶を交わした。
「禮ちゃん。ケガして試合に出られへんよになってしもたらしいやん。突然近江サンの名前聞いたときはほんま驚いたで」
ウチも驚いたよ、と禮が言おうと思った矢先、統道が「勇炫」と口を開いた。
勇炫は、統道が予想通り不機嫌な表情をしていて、満足そうに目を細めた。
「何しに来た」
「応援」
「俺が何遍言うても稽古には来えへん、試合にも絶対出えへん言い張ったヤツがよう顔出せたもんやな」
「なんぼ俺でも大の男に頭下げて頼まれたら突っぱねられへん」
勇炫は冗談っぽくフフッと笑みを溢した。
「頭下げた? ……誰がや」
「石和」
それを聞いた途端、統道の表情が俄に険しくなった。
勇炫にとっては予想通りの反応だった。この父は、愚息の登場だけでも気に食わなかっただろう。その上、自分が目をかけて信頼を寄せて師範代を任せている男が愚息に対して頼み込んだなど、面白くないことこの上ないに違いない。
「昔から馴染みの石和が頭下げて頼むんや。顔出すだけでええさかい来てください、てな。無下にはでけへん」
統道の表情はみるみる険しさを増していった。両手の拳を握り込み、仇敵のように勇炫を睨んだ。一触即発、いつ爆発してもおかしくないと、その場の誰もが察知していた。
ガシッ、とある瞬間、攘之内が統道の腕を掴んだ。
攘之内が「勇炫」と声をかけると「はい。相模師範」と存外素直な返事が返ってきた。勇炫は統道の険難な表情とは対照的に涼しい笑顔。父親の機嫌を損ねさせて小気味よかった。
「禮も今日ばっかりは応援や。よかったらあっこで一緒しといてくれへんか」
攘之内は勇炫に背を向けたまま言った。それはあっちへ行っていろ、という意味だった。
勇炫は快く了承した。激情家である父親を刺激する材料などいくらでもあるが、此処は攘之内の顔を立てることにした。
攘之内は、勇炫と禮が離れていった気配を察して統道から手を離した。
「何ちゅうツラしとんねん統道。試合直前に自分の弟子でも息子でも張っ倒すつもりか」
統道はそのような真似をしかねないくらいに子どものように不貞腐れた顔をしていた。この男は、何事も思うようにゆかなくては、自分の儘にならなくては、気の済まない性分だった。昔からそうだ。歳を重ねても一向に変わらない。
「ええ加減我慢っちゅうモンを覚えぇ。物事は、完璧に自分の書いた筋書き通りにはならへん。自分のことも儘ならん。喩え自分の息子でも自分以外のモンなら尚更や」
青い畳の上に引かれた、真四角の白い線。それは境界線。其処は武人しか立ち入ることの許されぬ聖域。
聖域には総勢十人のもののふが並びいる。五つの頭と五つの頭が向き合い、張り詰めた空気が充満する其処は現代の戦場と呼んでもよい。戦場――――武人が己の武技を極限まで出し合うことを許された数少ない聖域。
宗家の者たちは、何度も見覚えがあるはずの相模の門弟たちを目にして、微かに動揺した。互いの門下の精鋭が居並ぶはずの聖域に、腰に白い帯を巻いた男が立っていたからだ。それは初心者の証だ。
「相模の大将、まさか……」
「ここをどこだと思っている。宗家を舐めてるのか」
「大将が〝白〟なんか前代未聞だぞ……!」
応援に来た宗家の門弟たちから口さがない評判が聞こえてくる。禮は居づらい気持ちになった。本来最も熟練者が務めるはずの大将が無段など、莫迦にされていると受け取られても無理はない。
「ごめん……」
「別に俺に謝ることあれへんで。白で当然やもんなあアハハ」
勇炫が笑い飛ばしてくれて、禮は少々気が楽になった。
それにしても、と勇炫は禮の顔をジッと見詰めた。禮は大きな目でパチパチとまじろぎをした。
「《荒菱館の近江》もカノジョの為なら結構何でもするねんな。もうちょおドライな人間かと思とったケド」
禮はピンと来ていないキョトンとした表情。勇炫は小首を傾げた。
「禮ちゃんが近江サンに試合に出るよう強請ったんやろ」
「ハッちゃんに頼んだのはトラちゃんやよ」
勇炫はアハハと破顔した。
「あの《荒菱館の近江》がヤローに頼まれたくらいでこんなモンに出るかいな。特別のお気に入りに強請られるか、相応の見返りがあるか……。ま、要は自分のゴキゲン次第っちゅうこっちゃ。ああいう男はな、他人が自分の言うことをきくのは当たり前。自分の思うよにならんことはこの世にあれへんと思てるんやから」
禮は勇炫の横顔をじっと見詰めた。渋撥の話をしている振りをして別の誰かを思い浮かべているような気がした。
作り物のように美麗な横顔。機嫌が良いのは見て取れる。しかし、その笑みは清々しくはない。瞳の奥底、眼球を通り抜けたそのまた向こう、心と呼ばれる部分に在るのは、きっと純然たる歓喜ではない。愉悦とか悦楽とか、少し歪んだ笑顔のカタチ。
「……ねえ、勇ちゃん」
「ん?」
「勇ちゃんは統道のおっちゃんのこと、キライ?」
「何で?」と勇炫が聞き返した。
「理由はあれへんけど、そーゆー風に見えるから」
「やっぱ禮ちゃんは〝目〟がええなー」
勇炫は綺麗な顔面を鼻先が触れそうなほどめいいっぱい近付け、禮の黒い瞳を覗き込んだ。表情では変わらず笑みを作っていたが、その目は笑ってはいなかった。怜悧な眼光を向けて何らかの正体を暴こうとする。
しかし、禮には裏の意図などない。そう思ったから口にしただけ、単純なものだ。俗物的な思惑や欺瞞など介在しない、純真だ。言い換えれば、神懸かりだ。
勇炫は昔から、禮にほんの少し特別な思いを抱いていた。思慕ではない。寧ろ、畏怖に近い。
この少女の持つ檳榔子黒の瞳は、心の最奥を見透かすのではないか。霊感や直感といった、洗練された第六感が見せるヴィジョンを持っているのではないか。
「そやで。俺は親父がこの世で一番大嫌いや」
「一番?」
「一番」
「そっか……」
禮は大仰に反応しなかった。
勇炫が父親との確執を吐露すると、同門のしがらみを持つ者は大抵、気まずそうにしたり批判したりするのに、禮にはそれがなかった。勇炫はそれを時に面白がったり疎ましがったりするものなのだけれど。
「理由、訊かへんねんな」
「きいたらあかんかなと思て」
「禮ちゃんはええ子やな」
勇炫はまたアハハと声を出して笑った。宗家の人間の前では作り笑顔をする癖がついたのに、この昔馴染みの少女の前では、自分でも不思議と自然な笑顔が漏れる。
「俺に跡を継がそうとするからや」
勇炫はあっさりと理由を教えてくれた。禮は少々吃驚した表情を見せた。
「勇ちゃんは、統道のおっちゃんの跡を継ぎたないの? 宗家の当主やのに。何で?」
勇炫は唇の前に人差し指を立て、しー、と合図した。
「……そこは秘密?」
「うん」
「分かった」
禮は小さくコクンと頷いた。
実の父親を疎んでいることについても、宗家の家督を拒むことについても、勇炫を責めるつもりなど毛頭なかった。理由や原因が分からないのに一方的に責めることはしたくない。彼は本音を装うことが多い人物ではあるが、昔から攻撃されたことも忌避されたことも一度もなかった。
聖域――畳の上の白線の四角――試合場の真ん中では、男たちが向き合って整列していた。それぞれ五人ずつ、十人の男たちは一礼して散開した。それから陣地へと引き返していった。
大志朗がふと視線を巡らせると、顔面を突き合わせている禮と勇炫が目に入った。「オイ、トラ」と、自分よりも先を歩く虎宗に声をかけた。
虎宗は大志朗のほうを振り返らなかった。
「宗家のボンが禮ちゃんと一緒に……」
「大志朗。もう、試合にだけ集中せえ」
虎宗が禮の名前を出しても聞く耳を持たないのは珍しい。それ故に、大志朗は虎宗が放つ緊迫感を感じ取らずにはいられなかった。
大志朗は自陣に戻るなり、先鋒と次鋒を務める門弟二人に近付いた。
「今日の試合、絶対に負けられへん」
「押忍」
門弟たちは神妙な面持ちでコクッと頷いた。
大志朗は自分の背中の方角にいる渋撥を、目も向けずクイッと親指で指した。
「俺は正直、アイツにはぜんッぜん期待してへんねん」
「近江ですか」
「師範代はアイツを買うとる。せやけど俺はガタイだけの大木と思てる。昨日今日門下生になったニワカ拳法でどうにかなるほど宗家は甘ない。分かっとるやろけど、俺と師範代で二勝、どうしてもあと一つ必要や。禮ちゃんがいてへん以上、お前等二人で踏ん張れよ」
「お嬢の代わりっちゅうのは、正直俺等には荷が重いスけど……」
バシンッ、と大志朗は門弟の腕をしたたか撲った。
荷が重いとか気が引けるとか、試合前の武術家の気概としては控えめすぎる。自分と師範代やお嬢との実力差を把握しているということは、力量を正確に見積もれているということではあるけれども。
「なに弱気になってんねん。禮ちゃんになれ、言うてんとちゃう。何が何でも勝ってこい言うてんねん。こっから先は弱気なんか一時も見せるな。自分が勝つことだけ考えぇ」
「オ、押忍ッ」
門弟たちは威勢のよい返事をした。
戦場とは無慈悲だ。明々白々な白黒の線引きだ。如何に覚悟を決しようと必ずしも叶うわけではない。努力が結実すると運命付けられているわけではない。畢竟、相模の先鋒・次鋒は宗家に敗退を喫した。
程なくして、中堅である大志朗に出番が回ってきた。
やれやれと一息吐いた大志朗の耳に、渋撥がハッと鼻で笑ったのが聞こえた。
「俺より期待しとった割りには頼りにならんヤツ等やのォ。俺が大木ならアイツ等は小枝か」
「聞こえとったか」
大志朗は気負った風もなくフッと微笑んだ。すでに二敗してもう後がないというのに切羽詰まった感もない。
「こりゃあいよいよお前にも期待せなあかんようなってしもたな」
「俺の前にお前やろ。お前が負けたら話にならん」
「俺にはまー……期待しといてええで」
大志朗は腰を持ち上げた。帯を握って左右に引き、パンッパンッと締め直した。
彼は敗北した門弟たちを責めもしなければ罵りもしなかった。よくやったと称讃を惜しまなかった。渋撥より期待していたのは本心だが、過度に落胆して見せたりなどしなかった。
己の筋書き通りに事が運ばぬのが人生なら、己の我ばかりが罷り通らぬのが戦だ。
大志朗は試合場の中央に立ち、宗家の門弟と対峙した。
「今回はやりにくい女の相手をしなくて済むと思ったら、今度は優男かよ」
真正面にいる男は大志朗と目が合うなりハッと嘲弄した。男は小馬鹿にした表情だった。
「あの能登が戻って来たとはいえ相模の人材不足は深刻だな。能登一人いなくなっただけで、実の娘を師範代にするしかなかった上に、試合にまで駆り出すんだからな。女相手に本気を出すわけにもいかないこっちの身にもなってほしいもんだ」
相模の面々を随分と見知った口を利くなと思ったら成る程、親善試合で何度か見掛けたことがある顔だった。禮と何度か対戦したことがある男だと、大志朗は記憶している。
「禮ちゃんの相手はやりにくい、か……。あの子の実力が分からへんかァ」
大志朗は嘆息を漏らした。
「師範は禮ちゃんを腕前だけの師範代や言わはる。つまり、師範代に充分な実力はあるっちゅうことや。そもそも宗家の中堅程度、なんぼムキになっても禮ちゃんの相手になるか、格下」
「このッ……調子に乗るなよ」
男は、大志朗から挑発されて分かりやすく表情を一変させた。
先に挑発したのはそちらのほうだったはずだが。台詞も脳天も何ともお粗末だ。この程度の男から禮のことや道場のことをとやかく言われるのは腹に据えかねた。
「そっちこそウチのお嬢を好き放題言いくさって調子に乗りすぎなんじゃボケ」
大志朗は男に対して構え、鋭利な眼光で射竦めた。
「ハナから様子見なんかしたらへん。期待してええて大口叩いた以上、手こずりでもしたらカッコ付けへんでな」
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