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第131話 それはすこし未来のお話
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~結婚10年後のとある一日~
※クライブ視点
すっかり夜も更けたので入浴を終え、主寝室である自分の部屋から続き間となっている妻の部屋へと足を踏み入れた。
妻は僕が入ってきたことに気づいてはいるが、どうやらそれどころではないらしい。長ソファーに座ったまま振り返ることもなく、テーブルの上にあるホットミルクに向き合っている。
正確には、ホットミルクに注ぐブランデーの瓶と睨めっこをしている。
あまり酒には強くない体質なので、呑みすぎると二日酔いになるのだ。けれどほろ酔い気分を味わいたい欲と戦っているのだと思われる。どれだけ注ぐかを真剣に悩んでいる。
その様に呆れる反面、こんなことまで真剣に向き合う様を愛しくも思う。
隣に腰を下ろしかけ、ふと彼女の長く伸びた髪の先がまだ濡れていることに気づいた。今も入浴時に人の手を借りることを好まず一人で済ますため、どうせまたおざなりに拭いたに違いない。風邪を引かせるわけにはいかないので踵を返して浴室から乾いたタオルを持ってきて、改めて隣に腰を下ろした。まだアルトは悩んでいるので、勝手に髪を掬い上げてタオルで水気を取っていく。
それに気づいて、ようやく深い青の瞳に慄きを滲ませて僕を見た。
「クライブ。旦那様に髪を拭かせておいて自分は飲酒しようとしているだなんて、私が悪女のようです」
「誰もそんなことでアルトを悪女だとは思いません。僕が好きでしているだけなのでお気になさらず」
アルトの悪女の定義はどうなっているのだろう。髪を拭くぐらい大したことではない。元々シークヴァルド殿下の乳兄弟として、幼い頃は侍従として動いていた。案外面倒臭がり屋な面のあるシークの濡れ髪を拭いてやったことは数知れず。おかげで気づけば世話をする、という行為が今も染みついている。
それに今はなにより、隙あらば触れたい下心というものが少なからずある。
「仕事から疲れて帰ってきた旦那様をこき使うなんて、私はいったい何様でしょう」
「お姫様ですね」
間髪入れずに答えると、アルトの眉尻が呆れを滲ませて下がる。
「元、ですよ。もう姫と呼ばれるような年でもありません」
「いくつになっても、僕にとってはお姫様ですよ」
これから年を重ねて皺の深いお婆さんになったとしても、それは変わらない。
本心から告げた言葉に対し、アルトが狼狽えて目を泳がせた。結婚して十年も経っているのだから慣れてくれてもいいはずだが、口説き文句を受け止めきれずに照れている時の癖だ。最終的に聞かなかったことにするつもりか、無言でホットミルクにブランデーを傾けていた。
ただ、ちょっと勢いが良すぎたせいで量が明らかに多い。液体はカップの淵ぎりぎりまで入っている。これはもうホットミルクではなく、ブランデーのミルク割りと言っていい。
「さすがに入れすぎでは?」
「今日は冷え込むので、温まるにはこれぐらいが良いのです」
動揺して手元が狂った自分を認めたくないのか、そんな言い訳を口にする。
僕としては飲酒を禁じているわけではないが、飲み過ぎれば後で当人が困るのは目に見えている。仕方なく、数口飲んだところでその手からカップを奪った。「あ!」という批難の声を聞き流して残りを飲み干す。
そんな僕を見て、これを週に一度の楽しみにしているアルトに恨みがましい目を向けられた。
「クライブ、呑み過ぎです。私はまだ二口しか飲めてないです」
「あなたにはそれで十分だ」
「まだ体が温まってません」
不服を示して唇を引き結ばれてしまう。カップを置いてから、拗ねてしまったのを宥めるために軽く唇を触れ合わせた。
ムッとしていたくせに、すぐに絆されて目を瞑る様が可愛いと思う。その姿に胸の奥、体の芯まで熱が灯るのは多分酒のせいではない。しばらく唇の柔らかさを堪能してから、微かに離して誘いをかけた。
「お酒なんかに頼らなくても、僕があたためてあげます」
睫毛すら触れ合いそうな距離で深い青い瞳を見つめれば、一瞬で目元が朱に染まる。
「クライブはそういうことを一体どこで教わってくるのですか……っ」
アルトの狼狽える様が可愛くて、日々口説き文句を考えていることは格好悪いので黙っておきたいところだ。けれど羞恥を紛らわせるための憎まれ口とは反対に、睨みつけてくる目元の艶っぽさにやられているのは僕の方だったりする。
腕の中に引き寄せた体を抱き上げようとしたところで、しかし、無粋にも扉をノックされる音が響いた。
「……」
「……」
お互いに顔を見合わせ、一瞬目だけで会話する。こんな時間に遠慮なく訪れる相手は、一人しか思いつかない。
「夜分遅くに申し訳ありません、奥様。クリストファー様が、お一人でお休みはされたくないと仰られておりまして……」
案の定、扉越しのくぐもった侍女の声が困惑と申し訳なさを滲ませて訴えてくる。……ああ、うん。そうだと思っていた。
諦めて立ち上がった。僅かに嘆息が零れそうになるのを噛み殺して扉を開く。出てきた僕を見て侍女が慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、旦那様」
「いや、かまわない」
けして彼女のせいではない。
視線を下げていけば、小さな頭が目に入った。癖のない明るい金髪はアルト譲りで、涙目で見上げてくる瞳は僕と同じ緑。顔立ちも幼い頃の僕に似ている。ただ引き結ばれた唇はアルトそっくりだ。
その足元には、すっかり老猫となったロシアンⅡ世が乳母の如き貫録を漂わせて付き添っていた。それだけならまだいいが、ロシアンⅡ世の子であるもう2匹の猫も引き連れてきていた。4歳になった一人息子が生まれるより数年前に生まれた猫達だ。兄弟のような仲の良さで育っているので無碍にも出来ず、おかげで場が一気に賑やかになる。
「とうさま」
訴えかけるように見つめられ、伸びてきた手がぎゅっと服の裾を握りしめる。
どうやらこれで、大人だけの時間は完全に終わりを告げたと言っていい。
結婚6年目にして、奇跡的に授かった我が子である。出産時には母子ともに死の淵を渡りかけたが、なんとか乗り越えてここにいる存在だ。伸ばされる手を拒否するわけがない。むしろ小さな手が伸ばされることに頬が緩む。
「おいで、クリス」
侍女を下がらせ、まだ小さな息子を腕の中に抱え上げた。部屋に戻れば、当然のように猫までもが入ってくる。
「いらっしゃい、クリス」
クリスに柔らかく微笑みかけたアルトの姿を目に留めて、クリスが嬉しそうに「かあさま」と呼ぶ。母の顔を見て安心したのか、抱き上げた体から力が抜けて少し重さが増した。
「今夜は父様と母様と一緒に寝てくれるのですね。ロシアンⅡ世、クリストファーを連れてきてくれてありがとう。タローとハナコもご苦労様」
挨拶代わりの頭突きをしてくる猫達を撫でてからアルトも立ち上がる。乳母はいるがアルトが見ていることも多かったので、こうして三人で寝ることも珍しくない。
三人で眠るならばアルトのベッドでは狭いので、続き間となっている僕の寝室へと向かう。ロシアンⅡ世は両親が揃っているのならば役目を果たしたとばかりに、そのままアルトのベッドの上で過ごすようだ。もう二匹は付いてきてしまったが、各々好きなところでくつろぎ始める。
アルト、クリス、僕の順でベッドに横たわれば、息子はうとうとして既に半分夢の中だ。
これなら一人寝できたんじゃないのか……。
「こうやって一緒に眠ってくれるのも、今の内だけですから。あと5年もすれば頼んでも一緒に眠ってくれなくなります」
「それはそうですが」
「今だけの貴重な期間限定特別イベントですよ」
「……とくべついべんと」
すこしだけ切ない気持ちを抱えていた僕の心情を感じ取ったのか、アルトが小さく笑って茶化した。寝入る邪魔にならないよう小さく囁く内容はちょっと何を言っているのか理解しかねるものの、息子は両親の声というだけで安心するようだ。むずがることもない。
その間も、とん、とん、と優しく小さな胸を叩く手が眠りへと誘う。そうやって息子の面倒をみる今のアルトは『母』の顔をして見えた。
ふと、子どもを授かったと聞かされた時の彼女の姿を思い出す。
――ちゃんと愛せるだろうか。
――自分に『母親』が出来るだろうか。
歓喜するのと同じぐらい不安も覚えていた。自身が母との関係が上手くいっていなかったせいで、恐怖に近い不安を抱いて震えるほど蒼褪めていた。
それでも出来ることなら産んでほしい、と願ってしまったのは僕のエゴだ。元々出産に耐えうる体ではなかったので、出産時に死の淵を彷徨っているときは本当に後悔したが、それを乗り越えて今こうして二人が目の前にいてくれる。
最初はアルトもぎこちない部分もあったけれど、今となっては当時の不安の影はない。愛しげに見つめる瞳は言葉で告げる以上に愛情が溢れている。
穏やかで、優しく、幸福であるとその姿は雄弁に語る。
「……思ったより、あっという間におやすみですね」
すぐに、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえてきた。侍女が困って連れてくるほど寝ぐずりしていただろうに、本当にあっという間だった。
「今日クリスは頑張って、シェリー様とリリー様とセシル様を守っていましたから。昼間の興奮が今になってぶり返したのでしょう」
「昼間に何かあったのですか?」
聞き慣れた愛称はシークと皇太子妃との御子だ。御年6歳と5歳の皇女、そして3歳の皇子である。今日の昼間は皇太子妃殿下とその子供達と共にお茶会をすると聞いていたので、その時だろう。
「中庭に現れたトカゲと必死に対峙していました。半泣きでしたが、かっこよかったです」
「トカゲと」
「ええ、掌ほどの大きさの。ちゃんと撃退したのですよ」
その光景を思い出しているのか、アルトは堪えきれずに小さく笑みを零す。微笑ましく、そして誇らしいと言いたげな顔に釣られて僕まで口元が緩んだ。
「それは将来有望ですね」
「明日、起きたら褒めてあげてください」
「それはもちろん」
頷いて、明日の約束を交わす。
その時のアルトの表情は、目を三日月形に細めてとても嬉しそうに見えた。
これはほんの些細な約束だ。けれどそれは当たり前に平穏で幸せな明日が来ると思えるからこそ、交わせる約束。
それがどれほどかけがえなく、幸福なことであるのか。彼女が今も噛み締めているのがわかる。
何気ない日常が続くことを。明日が来ると信じられる一日を。そしてそれが、出来るだけ幸せであるように。
そんな日々を守ることを、今日も僕は密かに胸に誓うんだ。
※クライブ視点
すっかり夜も更けたので入浴を終え、主寝室である自分の部屋から続き間となっている妻の部屋へと足を踏み入れた。
妻は僕が入ってきたことに気づいてはいるが、どうやらそれどころではないらしい。長ソファーに座ったまま振り返ることもなく、テーブルの上にあるホットミルクに向き合っている。
正確には、ホットミルクに注ぐブランデーの瓶と睨めっこをしている。
あまり酒には強くない体質なので、呑みすぎると二日酔いになるのだ。けれどほろ酔い気分を味わいたい欲と戦っているのだと思われる。どれだけ注ぐかを真剣に悩んでいる。
その様に呆れる反面、こんなことまで真剣に向き合う様を愛しくも思う。
隣に腰を下ろしかけ、ふと彼女の長く伸びた髪の先がまだ濡れていることに気づいた。今も入浴時に人の手を借りることを好まず一人で済ますため、どうせまたおざなりに拭いたに違いない。風邪を引かせるわけにはいかないので踵を返して浴室から乾いたタオルを持ってきて、改めて隣に腰を下ろした。まだアルトは悩んでいるので、勝手に髪を掬い上げてタオルで水気を取っていく。
それに気づいて、ようやく深い青の瞳に慄きを滲ませて僕を見た。
「クライブ。旦那様に髪を拭かせておいて自分は飲酒しようとしているだなんて、私が悪女のようです」
「誰もそんなことでアルトを悪女だとは思いません。僕が好きでしているだけなのでお気になさらず」
アルトの悪女の定義はどうなっているのだろう。髪を拭くぐらい大したことではない。元々シークヴァルド殿下の乳兄弟として、幼い頃は侍従として動いていた。案外面倒臭がり屋な面のあるシークの濡れ髪を拭いてやったことは数知れず。おかげで気づけば世話をする、という行為が今も染みついている。
それに今はなにより、隙あらば触れたい下心というものが少なからずある。
「仕事から疲れて帰ってきた旦那様をこき使うなんて、私はいったい何様でしょう」
「お姫様ですね」
間髪入れずに答えると、アルトの眉尻が呆れを滲ませて下がる。
「元、ですよ。もう姫と呼ばれるような年でもありません」
「いくつになっても、僕にとってはお姫様ですよ」
これから年を重ねて皺の深いお婆さんになったとしても、それは変わらない。
本心から告げた言葉に対し、アルトが狼狽えて目を泳がせた。結婚して十年も経っているのだから慣れてくれてもいいはずだが、口説き文句を受け止めきれずに照れている時の癖だ。最終的に聞かなかったことにするつもりか、無言でホットミルクにブランデーを傾けていた。
ただ、ちょっと勢いが良すぎたせいで量が明らかに多い。液体はカップの淵ぎりぎりまで入っている。これはもうホットミルクではなく、ブランデーのミルク割りと言っていい。
「さすがに入れすぎでは?」
「今日は冷え込むので、温まるにはこれぐらいが良いのです」
動揺して手元が狂った自分を認めたくないのか、そんな言い訳を口にする。
僕としては飲酒を禁じているわけではないが、飲み過ぎれば後で当人が困るのは目に見えている。仕方なく、数口飲んだところでその手からカップを奪った。「あ!」という批難の声を聞き流して残りを飲み干す。
そんな僕を見て、これを週に一度の楽しみにしているアルトに恨みがましい目を向けられた。
「クライブ、呑み過ぎです。私はまだ二口しか飲めてないです」
「あなたにはそれで十分だ」
「まだ体が温まってません」
不服を示して唇を引き結ばれてしまう。カップを置いてから、拗ねてしまったのを宥めるために軽く唇を触れ合わせた。
ムッとしていたくせに、すぐに絆されて目を瞑る様が可愛いと思う。その姿に胸の奥、体の芯まで熱が灯るのは多分酒のせいではない。しばらく唇の柔らかさを堪能してから、微かに離して誘いをかけた。
「お酒なんかに頼らなくても、僕があたためてあげます」
睫毛すら触れ合いそうな距離で深い青い瞳を見つめれば、一瞬で目元が朱に染まる。
「クライブはそういうことを一体どこで教わってくるのですか……っ」
アルトの狼狽える様が可愛くて、日々口説き文句を考えていることは格好悪いので黙っておきたいところだ。けれど羞恥を紛らわせるための憎まれ口とは反対に、睨みつけてくる目元の艶っぽさにやられているのは僕の方だったりする。
腕の中に引き寄せた体を抱き上げようとしたところで、しかし、無粋にも扉をノックされる音が響いた。
「……」
「……」
お互いに顔を見合わせ、一瞬目だけで会話する。こんな時間に遠慮なく訪れる相手は、一人しか思いつかない。
「夜分遅くに申し訳ありません、奥様。クリストファー様が、お一人でお休みはされたくないと仰られておりまして……」
案の定、扉越しのくぐもった侍女の声が困惑と申し訳なさを滲ませて訴えてくる。……ああ、うん。そうだと思っていた。
諦めて立ち上がった。僅かに嘆息が零れそうになるのを噛み殺して扉を開く。出てきた僕を見て侍女が慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、旦那様」
「いや、かまわない」
けして彼女のせいではない。
視線を下げていけば、小さな頭が目に入った。癖のない明るい金髪はアルト譲りで、涙目で見上げてくる瞳は僕と同じ緑。顔立ちも幼い頃の僕に似ている。ただ引き結ばれた唇はアルトそっくりだ。
その足元には、すっかり老猫となったロシアンⅡ世が乳母の如き貫録を漂わせて付き添っていた。それだけならまだいいが、ロシアンⅡ世の子であるもう2匹の猫も引き連れてきていた。4歳になった一人息子が生まれるより数年前に生まれた猫達だ。兄弟のような仲の良さで育っているので無碍にも出来ず、おかげで場が一気に賑やかになる。
「とうさま」
訴えかけるように見つめられ、伸びてきた手がぎゅっと服の裾を握りしめる。
どうやらこれで、大人だけの時間は完全に終わりを告げたと言っていい。
結婚6年目にして、奇跡的に授かった我が子である。出産時には母子ともに死の淵を渡りかけたが、なんとか乗り越えてここにいる存在だ。伸ばされる手を拒否するわけがない。むしろ小さな手が伸ばされることに頬が緩む。
「おいで、クリス」
侍女を下がらせ、まだ小さな息子を腕の中に抱え上げた。部屋に戻れば、当然のように猫までもが入ってくる。
「いらっしゃい、クリス」
クリスに柔らかく微笑みかけたアルトの姿を目に留めて、クリスが嬉しそうに「かあさま」と呼ぶ。母の顔を見て安心したのか、抱き上げた体から力が抜けて少し重さが増した。
「今夜は父様と母様と一緒に寝てくれるのですね。ロシアンⅡ世、クリストファーを連れてきてくれてありがとう。タローとハナコもご苦労様」
挨拶代わりの頭突きをしてくる猫達を撫でてからアルトも立ち上がる。乳母はいるがアルトが見ていることも多かったので、こうして三人で寝ることも珍しくない。
三人で眠るならばアルトのベッドでは狭いので、続き間となっている僕の寝室へと向かう。ロシアンⅡ世は両親が揃っているのならば役目を果たしたとばかりに、そのままアルトのベッドの上で過ごすようだ。もう二匹は付いてきてしまったが、各々好きなところでくつろぎ始める。
アルト、クリス、僕の順でベッドに横たわれば、息子はうとうとして既に半分夢の中だ。
これなら一人寝できたんじゃないのか……。
「こうやって一緒に眠ってくれるのも、今の内だけですから。あと5年もすれば頼んでも一緒に眠ってくれなくなります」
「それはそうですが」
「今だけの貴重な期間限定特別イベントですよ」
「……とくべついべんと」
すこしだけ切ない気持ちを抱えていた僕の心情を感じ取ったのか、アルトが小さく笑って茶化した。寝入る邪魔にならないよう小さく囁く内容はちょっと何を言っているのか理解しかねるものの、息子は両親の声というだけで安心するようだ。むずがることもない。
その間も、とん、とん、と優しく小さな胸を叩く手が眠りへと誘う。そうやって息子の面倒をみる今のアルトは『母』の顔をして見えた。
ふと、子どもを授かったと聞かされた時の彼女の姿を思い出す。
――ちゃんと愛せるだろうか。
――自分に『母親』が出来るだろうか。
歓喜するのと同じぐらい不安も覚えていた。自身が母との関係が上手くいっていなかったせいで、恐怖に近い不安を抱いて震えるほど蒼褪めていた。
それでも出来ることなら産んでほしい、と願ってしまったのは僕のエゴだ。元々出産に耐えうる体ではなかったので、出産時に死の淵を彷徨っているときは本当に後悔したが、それを乗り越えて今こうして二人が目の前にいてくれる。
最初はアルトもぎこちない部分もあったけれど、今となっては当時の不安の影はない。愛しげに見つめる瞳は言葉で告げる以上に愛情が溢れている。
穏やかで、優しく、幸福であるとその姿は雄弁に語る。
「……思ったより、あっという間におやすみですね」
すぐに、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえてきた。侍女が困って連れてくるほど寝ぐずりしていただろうに、本当にあっという間だった。
「今日クリスは頑張って、シェリー様とリリー様とセシル様を守っていましたから。昼間の興奮が今になってぶり返したのでしょう」
「昼間に何かあったのですか?」
聞き慣れた愛称はシークと皇太子妃との御子だ。御年6歳と5歳の皇女、そして3歳の皇子である。今日の昼間は皇太子妃殿下とその子供達と共にお茶会をすると聞いていたので、その時だろう。
「中庭に現れたトカゲと必死に対峙していました。半泣きでしたが、かっこよかったです」
「トカゲと」
「ええ、掌ほどの大きさの。ちゃんと撃退したのですよ」
その光景を思い出しているのか、アルトは堪えきれずに小さく笑みを零す。微笑ましく、そして誇らしいと言いたげな顔に釣られて僕まで口元が緩んだ。
「それは将来有望ですね」
「明日、起きたら褒めてあげてください」
「それはもちろん」
頷いて、明日の約束を交わす。
その時のアルトの表情は、目を三日月形に細めてとても嬉しそうに見えた。
これはほんの些細な約束だ。けれどそれは当たり前に平穏で幸せな明日が来ると思えるからこそ、交わせる約束。
それがどれほどかけがえなく、幸福なことであるのか。彼女が今も噛み締めているのがわかる。
何気ない日常が続くことを。明日が来ると信じられる一日を。そしてそれが、出来るだけ幸せであるように。
そんな日々を守ることを、今日も僕は密かに胸に誓うんだ。
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