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第118話 98 名前を呼んで

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 既にマルシェは店を開く人達が多く行き交っていた。
 昼間よりマシだけど、人の合間を縫って探すのは一苦労。なんとか昨夜騒ぎが起こったあたりまで来て探すものの、目的の物は見当たらない。誰かが気づかず蹴とばしてしまっていたら、石畳の床をどこまでも転がっていきそう。
 時間ギリギリまで粘って探してみたけれど、期待に反して琥珀色のペンは見当たらなかった。

(探しきれてないだけかもだし……また後で見に来よう)

 これ以上は仕事に遅刻してしまう。
 名残惜しい気持ちを振り切り、家への道を急いだ。その間も胸の奥に引っかかったものがあって、何度も足を止めて引き返したい衝動に駆られる。
 そのせいか、ついでに足も痛めていたのもあって思ったより時間が掛かってしまった。慌てて厨房に置いてあるコップに花を入れて部屋に上がる。自室の扉に手を掛けたところで、隣室から出てきたリズに出くわした。

「あれ、どこか行ってたの? そろそろ仕事行く時間だけど……お花買って来てたの?」

 昨夜あんなことがあったというのに、朝から花を買いに行く精神的余裕などあるわけがない。リズもそう思ったのか、不思議そうに質問されてしまった。

「ちょっと落とし物を探しに行ったら、ちょうどロイに会って貰ったんだ」
「ロイに? 花を?」

 アンバーの目がびっくり眼になった。
 いくらリズの友人とはいえ、ロイが売り物の花を寄越すのは意外だったのだろう。リズもよく花を貰っているとはいえ、あれは翌日売るには厳しい花である。
 だが私の手にあるのは瑞々しく咲いた花。まじまじとそれを見て、不意にリズが真剣な顔つきになった。

(あっ、何か誤解されてる!? もしかして今の私、当て馬ポジション!?)

 そんなのじゃないから! でもリズが元気になった御礼に貰った、というのはロイもバラされたくはないと思う。いや、言った方がリズもロイの恋心をやっと自覚するんじゃ……?

「アル、あのね」

 ぐるぐると頭の中で思考が高速で回っていたところで、リズが私の手をしかと掴んだ。

「ロイは口も悪いし、気も聞かないところもあるけど、でも、すごくいい子よ。優しいところもいっぱいあるの」
「う、うん?」

 知ってる。というか、私が思っていた反応と違う反応が返ってきた!?
 リズが内側から滲み出ているような笑顔を向けてくる。嫉妬して顔を強張らせるとか、ロイへの独占欲を自覚して動揺する、とかじゃない。目を三日月形に細め、とても微笑ましげである。

「出来ればロイのこと、ちゃんと考えてあげてほしいな」
「たぶんリズが想像していることと全く違うよ!?」

 なぜ自分に対する気持ちには鈍いくせに、他人の恋愛には敏感に察した感じになってるのかな!?
 全然外れだけれども!

「これは昨日、リズのこと守った御礼にって貰ったんだよ。それだけだから。変な意味じゃないから!」
「そうなの……?」

 反射的に畳みかけるように言えば、リズが不審気に眉を顰めた。違うの、と残念そうですらある。

(ロイ、大変残念ながらあなたの恋はとても前途多難かもしれない……)

 さすがに同情が湧いてくる。ロイはあんなにリズを大切にしているのに、まさか好きな子が友人に自分を薦めているなんて考えもしないでしょう。気の毒すぎる。

「でもロイって結構かっこいい方だと思うんだけど。ちょっといいなって思ったり、しない?」
「しません。それに私は好きな人が、」

 いるから、とうっかり言いかけて咄嗟に口を噤んだ。
 しまった、と思っても遅い。
 恐る恐るリズを見れば、目を大きく瞠っている。その手の話題に敏感な年頃の乙女らしく、やたらキラキラと目の輝きが増していく。すぐさまその場から逃げたいのに、リズの手は私を掴んだままで逃げられない。

「好きな人いるの? どんな人!?」
「……」
「ちょっとだけ! ちょっとだけでいいから聞かせて! 私ね、実はその、初恋もまだなの。そういうの、憧れてるの。どんなところを好きになるのかわからなくて、出来れば教えてほしくて……っ」

 黙秘を通したかったけど、恥ずかしそうに頬を赤らめて縋られたら絆されてしまった。
 リズの年齢で初恋がまだな人は少ない方じゃないかな。焦りもあるだろうし、世間一般の恋愛事情が気になるのかもしれない。

(私も世間一般とは程遠いと思うけど……)

 しかし改めてどんな人かと問われても。
 私のことを最初は殺そうとした人です。とは、とてもじゃないけど言えない。

「言葉にするのは難しいのだけど」

 これまでのことを思い返しても、あのファーストインパクトから好きになるまでを考えると、我ながら首を捻りたくなる。
 私のことよく荷物のように扱う人だし。私を男だと思っていたはずなのに手も早いし。寝起きも悪くて節操なかったし。
 なぜか駄目なところばかり思いついてしまう!

(でも、守ってくれてた)

 ずっと騙していた私は憎まれて糾弾されても、突き放されても、それこそ排除されてたっておかしくなかったのに。
 ずっと気遣うような眼差しを向けてくれていたことを、ちゃんと知っている。助けてくれた手を、今も覚えている。
 クライブの、どこに惹かれたのか―― 

「約束を、守ってくれる人だったから」

 交わした約束は二つ。
 どんな時でも兄を最優先で守ること。
 それと私が本当に困って助けを求めたら、一度だけでいいから応じること。

(結局、一度だけじゃなくて何度も助けられてしまったけど)

「……でももう会える人じゃないから、叶わないのだけど」

 出来るだけ明るく口にしたけれど、ギリギリと胸の奥が引き絞られるように痛んだ。笑って終わらせたつもりだったのに、リズがぐっと息を呑んで私の手をぎゅっと握り締める。

「あの、ごめん。言わせてごめんなさい」

 心底申し訳なさそうな声を絞り出すから、今度こそちゃんと微かに笑んで緩く首を横に振る。
 いつかは自分の気持ちに区切りをつけなければならない事なのだ。
 ……今はまだ忘れることなんて、考えられそうにないけれど。

「――リズ! アル! もういかないと遅刻するわよ!」

 その時、階下からマリーさんの声が聞こえてきた。
 思った以上に長話をしていたようで、随分と時間が経ってしまっていたことに気づく。慌てて部屋に花を置き、リズに続いて階段を駆け下りた。足が痛いのは必死に気にしないフリをした。連続欠勤に続いて遅刻なんて、とてもじゃないけど許されない。


 だからすっかり忘れていたのだ。化粧をしていくことを!


 人攫いに遭いかけた件を念の為に主のヘレンさんに伝えに行ったら、私の顔を見て驚きに目を瞠った。

「アルトリア!? 待って、あなた、そんなお顔だった?」

 上品そうな顔を引き攣らせ、ひどく慄かせてしまった。
 どうやら私の化粧テクニック、かなり興味深い物だったらしい。昼休みはもう一度ペンを探しに行きたかったのに、同僚のおば様方に囲まれて動けなかった。
 特に口元のホクロには散々言及された。ホクロ一つで印象が随分変わると、みんな面白がって自分の顔にペンで描きこんだりして大盛り上がり。私は化粧をしていないと少し幼くなると言われたことには、年を誤魔化しているのでちょっとギクリとした。
 それにしても、なぜリズは教えてくれなかったの。今朝私の顔を見ても、驚きもしなかった。
 なぜかと訊けば、

「何言ってるの。アルが寝込んでた時に素顔は見てたでしょ。てっきり化粧はしないことにしたのかと思ってたよ」

 逆に驚かれてしまった。ついでに「今の方が好きだな」と微笑まれる始末。
 工房で素顔を見られてしまった手前、明日からまた化粧をしていくのも恥ずかしいものがある。それに。

(追手が来ないのなら、顔を誤魔化す必要もない)

 化粧品だってタダではない。いっそやめてしまってもいいのかも、と脳裏を過る。
 そうやってここに、徐々に今までの私を溶け込ませていけるのだろうか。妥協して、混ざり合って、いつしか偽物の私が本当の私に成り代われる日が来るのか。



 おかげで今日は一日、私の周りは騒がしかった。
 誰かしらが立ち寄っては、化粧テクを質問攻めにしていく。しかしサボりだと思われないよう私の仕事を手伝ってくれていた。それまでやっていた作業を終わらせることが出来て、すごく助かってしまった。

(よかった、やっと一段落ついた!)

 昨夜の件を聞いたヘレンさんから残っていたことを叱られて、早めに帰るように命じられているのだ。
 ヘレンさんが警邏隊に問い合わせたところ、人攫いはあの後で捕縛されたとのことだった。けれど未成年の子ども、ましてや親がいない二人のこととなれば、ヘレンさんも責任を感じているらしい。
 思ったよりずっと早くロイが迎えに来たので、今日は夕刻の鐘が鳴る前に工房を出た。リズは詰所に寄るよう、警邏隊から言われているせいもある。
 犯人は捕まったし、多数の目撃情報もあったから未成年の当事者の言は必要ないはずだとヘレンさんは首を捻っていたけど、呼ばれた以上は行かねばならない。
 行かねばならない、けど、足が竦んだ。
 私の追手はいない。探されてない。

(けど、のこのこと警邏隊の前に姿を見せるのもどうなの)

 皇女が現れた以上は、城に帰されることになるはず。でも私が城に帰っても都合が悪いだけだと思う。
 それにもしかしたら、本当に全く探されていないことを目の当たりにするかもしれない。まだそれを知る覚悟が、自分の中で整っていない。

「そういえばアル、落とし物見つかったのか?」

 重苦しい気分でロイとリズの後をノロノロと歩いていると、気づけば随分と距離が空いていた。振り返ったロイが、そのせいもあるのか眉を顰める。

「それが、まだ見つかってなくて」
「落とし物したの? そういえば今朝言ってたやつのこと?」

 ロイが花を寄越したことの方に気持ちが向かってしまったリズだけど、今朝私が言ったことを思い出したらしい。ロイが隣で「昨日、マルシェで落としたんだと」とリズに教えている。

「なにを落としたの?」
「ペンだよ。落としたと言うか……投げつけたのだけど」
「ペンって、アルがいつも持ってたあのペン? あれを投げたのッ!?」

 鬼気迫る顔でリズが私に詰め寄ってくる。

「そっちを先に探しに行こう!」

 リズが私の手を掴み、方向転換してマルシェの方に足を向ける。いくらロイも一緒とはいえ、昨夜怖い思いをさせたばかりの場所に連れて行くのは憚られる。

「でも今朝探して、見当たらなかったから」
「大事な物なんでしょ!?」

 強い口調で切り返されて、ぐっと喉が詰まった。
 大事だと言った覚えはないけど、そう見えたんだろうか。……見えたんだろうな。ずっと肌身離さず、持っていたのだから。御守りのように。

「……うん」

 認めると、急に目頭が熱くなった。
 でもリズの身と天秤に掛ければ当然リズを取るし、リズが助かったことが一番だと思ってる。だから込み上げるものをぐっと堪えて、顔を上げる。

「だけど詰所に行かないと駄目でしょう? また遅くなったら危ない」

 夕刻の鐘が鳴るまではまだ時間はあるとはいえ、早く終わるに越したことはない。

「じゃあ、二手に分かれよう」

 ロイがリズを引き留めた私との間に入り、提言してきた。目を瞬かせれば、ロイが「リズと俺は詰所に行く」と言った。

「ついでに、ペンの落とし物が届いてないか訊いてきてやるよ。アルはマルシェに探しに行けばいい。呼ばれてるのはリズだけだし、それでいいだろ」
「アルを一人で行かせるなんて危ないじゃない! 私は詰所だから一人でも大丈夫だよ」
「俺がアルに付いていっても、そのペンを知らないから役に立てないだろ。俺は詰所で落とし物がみつかればアルにそれを伝えに行く。ただし俺が行けなかった場合も、鐘が鳴ったらすぐ家に帰ること」

 日が落ちれば足元は見えにくくなる。長居しても無駄なので素直に頷く。
 リズは心配そうな顔をしたけど、詰所に行かなくていいのなら私としては有り難い。リズの傍に付いていてあげたい気持ちはあるけど、ロイがいるなら私が付くより安心感はある。ロイもそう判断したのだろう。
 もしかしたら、私が詰所に立ち寄りたがらないのに勘付いたのかもしれない。

「そうしてもらえると助かる」
「じゃ、決まりな。いいか、変な奴がいたら大声出して逃げろよ」
「大丈夫、逃げ足には自信があるから」
「なんでだよ……。いや、まあいいや。聞くと怖そうだから聞かないでおく」

 ロイは適当に濁すと、リズを伴って詰所へ向かった。私は体をマルシェに方向転換させる。
 走りたい気持ちを抑え、早足で昨夜の場所へ向かった。目を皿のようにしてペンを探す。
 隙間に落ちてないか。転がって遠くに行ってないか。
 服の裾が汚れるのも厭わずに屈み込む。時々人の足に蹴とばされそうになったりしても、諦めずにしつこく探す。細い棒を見つけて隙間に手を突っ込んだら、ただの串焼きのゴミで苛立った。周りの店の人にもペンを見なかったか訊いてまわったけど、素っ気ない返事に肩を落とす。
 日が落ちるのが早い季節なので、思ったより時間は残っていなかった。
 徐々に日差しが赤く暗く染まっていき、影が長くなる。滲んだ汗が吹き付ける風に冷やされて、急に不安が湧いてくる。焦るばかりで結果が出ない。
 もしかしたら詰所に届けられているかもしれないけど、それならロイが呼びに来る。
 でも来ないということは、届いてないのだ。
 
(みつからない……っ)

 覚悟はしてた。
 でも、認めたくなかった。大事な物だった。どうしても失くしたくないものだった。だって失くしてしまったら、繋がりが消えてしまうみたいに思えたから。
 そんなものとっくに切れているのに、諦めたくなかった。
 日が陰り、夕刻を知らせる鐘が鳴る音がやけに物悲しく耳に残る。最後の鐘が鳴り終わったのを合図に、一気に周囲が暗くなったように感じられた。約束の時間だ。もう諦めなければならない。
 唇を噛み締めて立ち上がった。ぎゅっと握り締めた掌に自分の爪が痛いほど食い込む。
 何も知らない人は、同じ物を買えばいい、と言うかもしれない。でもそういう問題じゃない。

(あれじゃなきゃ駄目なの)

 同じものなんて、この世に一つもない。
 さっきは我慢した目頭が熱くなる。
 別にペンを持っていたところで事態が変わるわけじゃない。そう言い聞かせるのに、悲しくてたまらない。投げなければよかったとまでは思わないけど、もう私の手にないことが辛い。
 これだけ探しても手と服が汚れただけ。足もさっきからジクジクと痛むし、体も冷えて心細さが増す。夜が来ると、不安が押し寄せてくる。
 堪えきれずにじわりと視界が緩んだ。零れ落ちる前に手の甲で目元を乱暴に拭う。泣いたってどうにもならない。みっともないだけなのに、どうしていつも涙は勝手に出てくるんだろう。
 そんな自分が悔しくて、ぐっと奥歯を噛み締めた。感情を振り切るように勢いよく踵を返す。

「!」

 しかし振り向いた先、先程までの自分の真後ろの位置に男が立っていてものすごく驚いた。いきなり振り向かれた相手も驚きに目を瞠っている。
 昨夜のことがあったので、一瞬人攫いかと警戒して身構えた。でも人攫いは既に捕まっている。
 飛び跳ねた心臓を押さえ、擦り抜けるべく足を踏み出す。だけどその人が私の行く先をさりげなく阻むから息を呑んだ。

「こんな時間にこんな場所を女の子が一人で出歩いたら危ないよ」

 ぎこちなく私に笑いかけてくるけど、知らない人だった。言ってることは尤もだけど、親切というには怪しい。この上なく怪しい。

(まさかこの人も、人攫い?)

 髪も目も茶色で派手さはなく、年の頃は二十代後半ぐらい。一見すると細身に見えるとはいえ、男。力は相応にあるはず。
 まだ鐘は鳴り終えたばかりで、周りには一人で歩いている女性が他にもいた。なぜ私に声を掛けたのか。人生初のナンパ、と思えるほどおめでたくはない。だいたいナンパだとしたらこの人の年齢から考えると、ロリコン。
 どちらにしろ、変質者。

「足、怪我してるだろ? 家まで送ってくよ」

 そんな相手に指摘されて、手を差し出されて全身がギクリと硬直した。恐怖で背筋に戦慄が走る。

(いつから私を見ていたの?)

 声を上げろと言われていても、こういう時って喉の奥で声が張り付いて出てくれない。
 咄嗟に相手の腰を流し見れば、剣が差してある。この国は平民も旅人とかは当たり前のように帯剣しているから珍しくはない。だが、それはけして飾りではない。騒ぎ立てて刺激していまい、逆上して切りつけられたら、と思うと迂闊なことは言えない。
 反射的に、じりっと後ずさった。
 そして深く考える間もなく、次の瞬間には身を翻して全力で駆け出す。

「え? あっ、待っ……!」

 背後からさっきの男の声が聞こえたけど、待つわけがなかった。
 地面を蹴って必死に走る。だけど後ろから追いかけられているような恐怖が拭えない。足音が響いて聞えてくる気がする。それが恐怖が聞かせる幻聴なのか、現実なのかもわからない。振り返って見る余裕もない。そんな余裕があるならその分、前に進んだ方がいい。
 けれど足首がずきずきと痛みを訴えてくるせいで、昨日より速度が出せない。
 雑踏の中、うまく擦り抜けることが難しくて時折肩が人に当たってしまう。逃げ足だけは速いつもりだったけど、今はそれすらうまく出来ないなんて。

(やだ。怖い。やだ……!)

 王都に暮らす人は、いつもこんな怖い思いをしてるの? 治安に問題がありすぎる。それともちっぽけな小娘一人、どうなってもいいの?
 事実、私がどうなろうと世界は変わらない。私がいなくても今日と同じく、明日も普通にやってくる。
 最初は探してくれるだろうけど、身寄りのない人間なんてきっとすぐに諦められてしまう。
 だって家族すら、私を探さないのだから。
 そうしてそのうち忘れ去られて、私なんて最初からいなかったかのように――。
 じくり、と胸に痛みが走り抜けた。心が軋む重みに耐えられない。喉が焼け付くように熱くて、視界が涙で歪む。
 もう追いかけてきていないかもしれない。けど、止まるのが怖い。一体どこまで走り続けたら、助かった、と思えるのだろう。
 今だけじゃなくて、この先も。
 偽りだらけの自分で、どこを目指すというの。

(たすけて……!)

 限界に達している足は悲鳴を上げて、あっと思った時にはバランスを崩していた。顔面から倒れ込むことを覚悟して、咄嗟に強く目を閉じる。
 けれどそれより早く、強く腕を掴む力に引き止められた。

「ッ!」

 腕を引かれ、背後から体に回された腕に全身が硬直する。
 咄嗟に逃れようにも力が強くて抜け出せない。心臓が大きく飛び跳ねて、喉の奥で悲鳴が凍りつく。

「やっと……っ掴まえた!」

 けれど耳元に聞こえた切羽詰まった声は、恐れていた変質者のものなんかではなかった。
 それはなぜか、よく知っている人の声に聞こえた。
 こんなところで、聞くはずもない声に。

「本当にあなたは、いったい何をされているのですかッ」

 私を叱りつける声も。腰に回された腕も。背中に当たる広い胸の硬さも。覚えがあった。
 ぎこちなく振り仰いだ先にあるのは、鋭く私を睨み下ろす緑の瞳。だけど目が合えば、それは安堵を滲ませる。

(どうして)

 私を捕まえている腕に力が籠り、息苦しい程に抱き竦められた。ドクドクと強く速く壊れそうなほど全身に響いているのは、私の心音か。
 それとも。

「…………クライブ?」

 呆然と呼びかけた相手の、心音だったのか。


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