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第110話 90 「さよなら」は言わない
しおりを挟む謁見の間で私を襲った母は、あの後すぐに拘束されて連れていかれた。
これまで完璧に王妃を務めあげてきた母が、築き上げたすべてを一切顧みないほどの乱心に誰もが言葉を失くした。そこから先の追及など出来る空気でなくなったことは一目瞭然だった。
誰の目にも母の狂気は明らかだったから。
私の喉には首を絞められた痕がくっきりと残り、母の爪が肌を抉った際に出来た傷で血が滲んでいた。
それは母が本気で私を殺すつもりでいたことを雄弁に物語っている。
首を絞める力に微塵の躊躇いはなく、一瞬で息が詰まった。
あのとき私の頭を占めたのは怒りや恐怖や苦しさよりも、胸の奥が切り裂かれるかのような悲しみだった。
『ぉ、かぁ……さ、』
私の首を絞める手に、縋るように爪を立てた。
(でも、あの時──)
私から引き剥がされるより先に。
母は私の首を絞める指の力を抜いた、ように感じられた。
それとそのとき垣間見せた表情が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
飛び掛かられた際、咄嗟に退けようとして伸ばした私の指が母の髪を乱した。そのせいで解けた長い金髪が帳となり、あの時のあの人の表情を見たのはきっと私だけ。
泣きそうにぐしゃりと顔を歪め、それでいて微かに苦く笑ったようにも見えた。
私を見下ろす潤んだ瞳は愛しげに細められ、微かに唇が動いた。
──さよなら、アルト。
声もなく、私を呼んだように見えた。
胸を突き上げた懐かしさがなぜか、私にはわからない。
赤子の頃に少しだけ一緒に過ごしたと聞いたけれど、私自身にはこの人と過ごした記憶は残っていないのに。そう呼ばれた覚えも、ないはずなのに。
それともそれは酸素不足と涙で霞む視界の先に、そう見たいと願った私の妄想だったのかもしれない。
(だいたい私を助けるためのデモンストレーションなんて、するわけがないのだし)
なにより引き離された後の母にそんな表情は欠片もなく、見開かれた目を爛々と輝かせ、髪を振り乱して叫ぶ姿は狂人でしかなかった。
普段は動じる姿など見せないように徹しているはずの陛下ですら、母の言動に動揺していた。それは到底演技には見えなかった。
この一件により、母は予定より早くエインズワース領へ移送されることとなった。
これまで傍近く仕えていた者と共に、監視付きで既に王都を後にしている。
体面上は療養だけど、実際のところは幽閉に他ならない。
そんな母には利き腕の使えない盲目の侍従が一人、密かに付けられることになると陛下から聞いた。
それは陛下と母、どちらの指示かは聞かなかった。
彼がどういうつもりでその任を受けてくれたのかは、私にはわからない。
子爵家当主の座を弟に譲った彼は、ひっそりと領地の隅で孤児院を預かる立場にいたらしい。
今回応じたのは、頼まれて仕方なくなのか。かつて自分の人生を奪った母が堕ちた様を嗤うためなのか。
それとも、まだ愛しているからか。
彼に糾弾され、嗤われる方が母としては罪の意識は拭われるかもしれない。
でももしまだ彼が母へ愛情を注ぐとしたら、それは母にとっては毒でしかない。母がどんな立場に追いやられても、王の妻であることに変わりはない。
それにかつて未来を奪った相手から注がれる愛情など、罪悪感に胸を貫かれるだけ。
けれどどんな結果となろうとも、母は受け入れることにしているのだと思う。
それを贖罪とするつもりなのかもしれない。それとも、それでもただ彼に会いたいと願ったのか。
母がどんな心情であろうと、私にはもう知りえない。別離を告げられた時点で、私達の道は分かたれたのだから。
……あれが私の妄想でないのなら、母は私を解放してくれたのだと思う。
(でもまだ許せるわけじゃないけれど)
母も可哀想な人だったのだと同情する人もいるだろう。だけどその犠牲となった私から見れば、自分が可哀想なら何をしてもいいのか、という話になる。
結果としてもしかしたら彼女のおかげで今の私があるとしても、すべてを許せるわけじゃない。
喉に巻かれた包帯の下、傷も痕も薄くなって消えかけているけど心に負った傷まで消えるわけじゃない。
(でも憎んでいるかというと……どうなのかな)
恨んではいる。
でも苦しんでほしいとか、死んでほしいほどの憎しみがあるわけじゃない。
心にぽっかりと空洞が広がっていて、自分でも自分の気持ちを量りかねている。
周りは母に関して私に何も言わない。責めることもなく、庇うこともない。こうであるべきだ、と私の心の有り方を決めつけたりしない。
答えは私の中にしかない。
でもまだ母に対して明確な答えが出せないので、今は深く心の底に沈めておく。
いつか許せる日が来るかもしれない。でもやっぱり許せないままで終えるかもしれない。
向き合える日が来るか、もしくは、そのまま忘れていく日まで。
沈みかけた気持ちを落ち着かせるべく、深く呼吸をした。
あの後、謁見の間に居合わせた人達からの反応も概ね同情的と言える。
ただ純粋な同情ばかりじゃない。陛下が告げた、私の監査行為を恐れて擦り寄ろうとしている者もいる。見舞と称してやたら高価な物を贈ってきている極一部は、脛に傷がある疑い有りと見ていい。
それに関しては、陛下と兄が調査なり泳がせるなりするはず。
(貢物は減ると思っていたのに、増えるなんて……返礼も大変なのだけど)
同情、擦り寄り、様子見……そこから滲む思惑は相変わらず。王宮の性質は早々変わらない。
自室の一角に積み上がっている見舞品を流し見てうんざりする。
あの後、後宮内の自分の部屋へと戻ってきていた。
暗殺未遂が起こった部屋だけに不安はあるものの、幸いにも誰も死んではいない。絨毯こそ取り換えられていたけれど、それ以外は同じ。
住み慣れた部屋はやっぱり落ち着く。
後宮の警備も強化され、一度変わっていた衛兵が馴染みの顔に戻っていた。
実は皇女だったということに罪悪感はあったけど、変わらず接してくれている。後宮内で母と私が関わりを持たないことは知っていたわけだから、複雑な立場を色々と察してくれているのだと思う。
ただすべてが今まで通り、というわけでもない。
公には私は悲劇の皇女扱いだけど、たとえばコーンウェル公爵やランス伯爵、スラットリー伯爵は実情を知っている。
他にも陛下の周りで察している者はいると思う。その為、至宝扱いの私を守っていたことへの報奨と、王位簒奪に与した罪が相殺となるように調整されている。
その結果、私の周りの人間が大きく変わった。
まず、メリッサ。
マッカロー伯爵令嬢でもある彼女は、一度家に帰されることになった。
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メリッサがここに戻ってくるのは難しいと思う。
でも伯爵令嬢である彼女とは、友人として顔を合わせる機会はあると思う。
メリッサがいなくなるので、元は乳母付きでメリッサ付きとなっていた侍女達も伯爵家に戻る。
私の周りの侍女が一新することになる。
代わりに来たのが、ラッセルの3歳下の妹ノーラ。
ラッセルは護衛として継続することになっており、その妹ということで安心感はある。
それと若い娘がもう二人付く予定らしい。まだ選定中なようで、今は仮に兄の侍女が付いてくれている。
それと一番気になっていた、セインの処遇。
貴族ではなくなったとはいえ、色々知りすぎているセインは野放しには出来ない。かといって、エインズワース公爵家であるセインを私の元に据え置くのもよく思われない。
そのため監視の意味も含めて、兄の管理下に引き取られることになった。
兄曰く、
「市井をよく知っていて、肝も据わっているし機動力もある。貴族ではなくなったとはいっても、セインに何かあればアルフェが守ると思われているだろう。こういう人材が欲しかった」
とのこと。使う気満々ですね。
セインは愛想は悪いけど痒い所に手が届く仕事っぷりなので、かなり優秀といえる。
私の侍従なんかで腐らせておくよりはずっといい。
当人は嫌がると思ったけど、あっさり了承した。ある程度、予想していたのかもしれない。
だけど王宮に置くのは難しいとのことで、成人後は国中を回る任務に就くと聞いた。
私としては危ないことはしてほしくなかったけど、セインは「国の金で国中回れるなんて、断然面白いだろ」と乗り気だ。
あんなに嬉々としているセインは初めて見た。びっくりした。
やっぱり王宮は息苦しかったんだろうな。これは結果オーライってとこなんだろうか。
でも年齢は既に15歳とはいえ、正式に成人を迎えるのは年が明けてから。それまでの4か月弱、セインはメル爺の元に身を寄せることになっている。
そうして、メル爺。
一番責任が重いのが彼だ。けれど数少ない医師であることと過去の功績もある。
表向きは私のことが片付いたこともあり、年齢的にも王宮医師から引退という形を取ることになった。
「どちらにしろ、そろそろ若い者に引き継がねばなりませんでしたからな」
メル爺はそう言って、この後は息子のスラットリー伯爵が王宮医師を引き継ぐ。
罪人の息子を継続させていいものかと思ったけど、医師の数は少ない。それに今スラットリー領では医師を育てることに重きを置いている。ここで縁を途切れさせることは損でしかなく、積み重ねてきた知識を途絶えさせる方が勿体ないとは陛下の言だ。
それに兄の元には、第一王妃が母国から連れてきていた専属医が別にいる。役割が分担されているので現状、これでも問題はないのかもしれない。
しかしメル爺が王都に留まることはない。
この後は、かつて当人が戦火を駆け抜けた辺境に駐在する医師となる。
それは、ていのいい島流し。
今は争いも収まっているとはいえ、メル爺には良い思い出の無い場所だと思う。
それを心配した私に向かって、メル爺は笑った。
「あれから復興しておりますし、自分が守った地に骨を埋めるのも悪くはありますまい」
それは強がりではなく、本心に見えた。
辺境とはいえ海に面したそこは、元々貿易港を有する大きな町。今はかつての戦火の爪痕は見る影もなく栄えていると聞いた。
一緒に付いていくというスラットリー夫人は、港町での生活に今から心躍らせているという。
表面的な報奨と、裏では制裁。それでいて当人達には死で贖うほどに相当するほどの罰でもない。
これは陛下と兄からの恩情と、感謝も含まれている。
そして今日はこの後、メル爺とセインを送り出すことになっていた。
(そろそろかな)
私も立ち会えることになっているので、首から包帯を解いた。痕はおしろいを叩いて誤魔化す。
完全に消えないけど、包帯を巻いたままより見た目的にいい。
本来は喪に服してくすんだ色を纏うべきだけど、今だけは切り離したくて白地に青い刺繍の入ったドレスを纏った。髪は下ろしたまま、以前セインに貰った青い飾り紐をカチューシャ代わりに頭に結ぶ。
鏡の向こう、ドレスに身を包んだ自分の姿はまだ見慣れない。
外に出ないときは未だに男装をしているけど、今日ばかりはさすがに正しい姿で送り出すべきでしょう。
寝室から出ると、ラッセルとノーラが少しほっとした顔で迎えてくれた。泣いているとでも思われたのかもしれない。
少しだけ苦笑して、ラッセルを促して部屋を出る。
(泣くわけないでしょう)
私の一番の望みは叶ったのだから。
どんな形でも、私も、私の大切な人達も生きている。
この先取り巻く困難はあれど、明日へと続く道が約束されている。
喜びこそすれ、嘆く必要なんてどこにもない。
(……淋しくないわけではないけど)
でもこの地の続く先で、確かに存在している。
ならば、私は笑える。
*
後宮を抜け、裏門へと続く道を進めば大きな馬車がそこにはあった。
そこにいるのはメル爺とスラットリー夫人、それとセイン。護衛と監視を兼ねた数名の騎士。
私が辿り着いてしばらくしてから、兄がクライブを伴って現れた。
見送りは非公式で、身内だけでひっそりと行われる。
陛下への挨拶は既に済まされているため、見送るのは私達だけ。
そこまで大仰にすることではないし、なにより最後のお別れを気兼ねなくさせてくれるためなのだと思う。
まず先にセインの前に立つ。
私より背は伸びたけど、ヒールのある靴を履いているので久しぶりに目線が同じ。
「馬子にも衣裳だな」
セインには報告・連絡・相談を徹底しろと小言を言いたかったところだけど、いざ前にすると声が出ないでいたら、そんな言葉を投げかけられた。
「もっと他に言うべきことがあるんじゃないかな」
「俺らがいなくなっても、ちゃんと食事は取ること。本に夢中になって夜更かしするなよ。すぐに使い走りができる奴ばかりじゃないんだから、無茶ぶりも程々にな」
「そういうことを聞きたかったわけじゃない」
隣でメル爺が拳を握っているのが視界に映る。それを目で制し、苦笑した。
私に対するこの遠慮のない態度、この方がセインらしい。メリッサがここにいたらきっと般若になっていた。
でもおかげで肩から力が抜ける。
セインは私をお姫様扱いなんてしないし、きっとこの先何があっても私にとっては変わらない存在なのだと思う。
だから私もこれまで通りの私で接する。
「無茶はしないように。命あっての物種だから、危ないことがあれば全力で逃げなさい」
「アルは変わらないな」
「変わらないよ」
呆れ顔のセインに向かって、自分でも驚くほど穏やかに微笑めた。
寂しい気持ちは勿論あるけど、よく考えればセインは兄の管理下に入る。これからもここに顔を出すことはある。一生の別れとなるわけじゃない。
ならば、自然と穏やかな気持ちで見送れる。
「気をつけて、いってらっしゃい」
送り出す言葉は、これがいいと思った。
セインは母方の人との縁は切れているし、私の母とも絶縁したとなれば、血の繋がった家族はもう私しかいない。
私がセインにあげられるのは、この絆だけ。
セインは目を瞠り、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「いってきます」
何かが吹っ切れたかのような、それは初めて見る年相応の笑顔だった。
(そんな顔で笑えるんだ)
この先、もっとそういう顔で笑えるようになることを願ってる。
ちょっと安心したので、今度はメル爺に視線を向けた。
私の視線を受けてセインが下がり、メル爺が目の前に踏み出す。躊躇うことなく私の前に片膝を着いて、深く首を垂れた。
それは忠誠を誓った騎士の最上の礼。
生まれた時から、ずっと守っていてくれた人。乳母がいなくなってからも、私を支えてくれていた。
この城の中でたった一人、私のことをお姫様扱いしてくれた人。
強くて、優しくて、顔は怖いけど私にとっては世界一かっこいい騎士。
一歩踏み出して、目の前に傅く人に両腕を伸ばす。私の騎士だけど、今ほしいのはそれじゃない。
ドレスの裾が汚れることも厭わず、メル爺の前に両膝を着いた。伸ばした両腕を首と背中に回して抱き着く。
「アルフェンルート様っ?」
メル爺は慌てたけれど、私が腕に力を込めたらそっと抱き返してくれた。
老いても逞しい腕はあたたかく、この腕の中はいつでも守られているという安心感があった。
言いたいことはたくさんある。感謝も、愛情も、ちょっとの弱音も、たくさんありすぎて喉が詰まる。
泣くつもりなんてないけれど、込み上げてくるもので目頭が熱い。
だけどこれは悲しいからじゃない。
別れが辛いのは間違いないけど、うまく言葉には出来ない。ただただ腕に力を込めて、この胸の中の感情を伝える。たぶん、それで伝わる。
元々私はあまり話すのが得意じゃなくて、だけどこうしてくっついているとメル爺はいつも察してくれた。
大好きだった。
大切だった。
誰よりも私の近くにいてくれた、私の。
「どうぞ、お元気で……おじいさま」
メル爺にだけ聞こえるように、耳元で囁くように告げた。
私がそう呼びたいのは、メル爺だけだった。
大好きな、私のおじいさま。
誰よりもずっと、本当に血の繋がった家族よりも私の家族でいてくれた人。
告げると同時に、私の背に回されたメル爺の手に力が籠った。それでいて私が苦しくないように、宝物を扱うように抱き返してくれる。
「アルフェンルート様も。遠く離れても貴女の幸せをお祈りしております、私の姫様」
姫なんて柄じゃないのだけど。
それでもメル爺にそう呼ばれるのは嬉しくて、もう一度だけ抱き締める腕に力を入れてからそっと体を離した。
メル爺の目が濡れて少し赤い。私の目からも零れ落ちそうになるものを必死で堪えて、唇を引き上げる。
「はい」
たぶん、ちゃんと笑えた。
メル爺とは、きっとこれが今生の別れとなる。最後は笑って送り出したい。
私は、大丈夫だから。
「貴方のこれからの旅路に、幸多からんことを」
スラットリー夫人と共に、ちょっと遅い第二の人生が幸せでありますように。
遠ざかっていく馬車が見えなくなるまで見送り、大きく深呼吸をした。見上げた空は秋を映して高く、門出を祝うように晴れ渡っている。
黙って立ち合ってくれた兄を振り返り、出来るだけ明るく笑いかける。
「我儘を聞いてくださってありがとうございました、兄様」
隣にやってきた兄が、やや乱暴に私の頭を引き寄せる。つい最近もこんなことがあった気がする。
「胸ぐらいは貸してやれる」
「……いいえ。泣くようなことなんて何もありません」
口を引き結んで疑わしげな眼差しを向けてくるけれど、大丈夫だと首を横に振った。黙って私の頭を撫でる手は優しい。
やっぱり兄の私に対する扱いは、年頃の妹ではなく小さな子に対するそれだ。
でもそれが私にとっては、関係を少しずつやり直しているようで少し嬉しい。
「参りましょう。あまり陛下をお待たせするわけにもいきません」
だけど甘えてばかりもいられない。背筋を伸ばして、前を向いた。
あとは、肝心な自分の今後の身の振り方が残っているのだから。
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