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第106話 87 選択肢は一つでいい

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 耳に届いた声は淡々としていて、そこにどんな感情が含まれているのかは読めない。
 緊張でうなじがじりじりと焼かれるかのよう。やたらと喉が渇くけど嚥下することすら憚られる。そしていつまでも頭を下げてもいられない。
 覚悟を決めると、息を詰めたままゆっくりと顔を上げた。

(……先生だ)

 目の前に佇んでいる人の長い金髪はきっちりと三つ編みに纏められており、感情の読みにくい顔には見慣れたモノクル。
 服装は今日は珍しくジレは着ているけれど襟元を緩められていて、腕まくりされたシャツの袖から思いのほか逞しい腕がのぞく。

 違えばいいのに、と願う気持ちは呆気なく砕け散った。

 どう見ても、図書室で数か月に一度とはいえ顔を合わせていた相手。
 珍しく私がちゃんと会話できていた人。
 胸に押し寄せてくる感情を何と言えばいいのだろう。
 条件反射で怯む気持ちが一番大きくて、罪悪感と同時に責めたい衝動も湧き上がる。それを素直に口に出来ない鬱憤と、騙していたのかという失望も滲む。
 自分も騙していたのだからお互い様ではあるけれど、複雑に鬩ぎあう感情に理屈は通じない。

「お久しぶりです、……陛下」

 緊張しているせいか、咄嗟に口から出てきたのはいつもの挨拶だ。迷ったものの初めて正しく呼びかけてみたけれど、それはやけに嘘くさく響いた。
 それが呼ばれた当人もわかったのか、空色の目を細めて私を見る。

「別にどう呼んでもかまわない。おまえにとって、私は素直に父として認め難いだろう。私はおまえにそう思わせることをしてきた」

 驚きに目を瞠ってしまった。そんなことを言われるとは欠片も思っていなかったから、心臓がドクリと跳ねた。
 そんなことはない、とは言えなかった。
 私に正体を黙っていたことを差し引いても、私の中で陛下を父と慕うには遠すぎた。
 父の眼中に私が入ることなどありえないと思っていたから、母を想うような期待を抱いたことすらなかった。
 けれどこうして私の心に余地を与えるということは、ひょっとしてこの人も自分のしてきたことに反省はあるの?

(予想していた糾弾すらないなんて)

 ここで私を責めるのは、この事態を引き起こす隙を見せた己の甘さを認めることでもある。
 私に都合よく考えれば、自分の非も認めているからこそ責められない、と思っているとも取れた。

(かといって、はいそうですか、と先生呼びも出来ない)

 わかった以上は、本来あるべき形に正すべきでしょう。
 この人も。私も。
 だから、いいえ、と言う代わりに僅かに首を横に振った。
 勿論、すぐに父だと思うことが出来るかと言ったら無理。
 表情が硬く強張ってしまうのはさすがに仕方ない。心の中に今までなかった壁も一枚挟んでしまうけど、この人が図書室で私に見せてくれていた姿がすべて偽りだと思うわけじゃない。
 だいたい私が間抜けにも気づかなかっただけで、思い返せば私に接する態度は父親のそれだった。
 私に対するぞんざいな口調も。
 会えば当たり前に寄越される飴玉も。
 無遠慮に涙を拭ってくれた手も。
 一番の目的は監視だったのだろうけど、あの夜の庭で私の手を引いて私の言葉に耳を傾けてくれたことから考えても、多少の情はあったのだと思う。
 ……思いたい、だけかもだけど。
 それに兄ですら、私が女であると気づいた。なのに私に監視の目を向けていたであろう人が、違和感に気づかないなんてありえる?
 子供の頃は性差はほとんどないし、男だと思い込んでいればそこは疑うことなど考えすらしなかったのかもしれない。
 でも、あえて知らないフリをしていたんじゃないか、という疑惑もある。ただこの人は兄ほど甘い人ではないはずだから、そこが引っかかる。
 溢れる疑問が顔に出てしまっていたのか、陛下の手が「まずは座れ」と促す。一人掛けのソファに腰を下ろした陛下に倣い、私と兄も向かいあった長ソファに座った。

「念の為に当人にも確認しておくが、女ということで相違ないか」

 座るや否や、単刀直入に切り出されて息が詰まった。
 今の私の姿は紛れもなく女。今更足掻くことも出来ない。
 とはいえ素直に頷くのは一瞬躊躇した。込み上げる不安を必死に奥歯で噛み殺す。顔を上げると、前に座る人を見据えた。

「はい」

 たった一言。
 たったの二文字。
 肯定を告げるだけで声が震えた。胃の奥が引き絞られるように軋む。強く握り締めた掌に爪が食い込む痛みすら今は感じる余裕もない。逸らしたい瞳を必死に固定するのは、精一杯の意地。
 心音だけが耳の傍にやけに大きく鳴り響いていた。目と目が合っている時間は異様に長く感じられる。
 だけどきっと実際には数秒にも満たない。
 先に視線を逸らしたのは陛下だった。私の隣に座る兄に念押しで確認の視線を向ける。

「セリーヌも確認しています」

 ランス領で高熱に魘されている間、兄の乳母であるランス伯爵夫人の世話になっていた。着替えもしてもらっていたので体は見られている。
 兄の言葉を受けて、陛下は目を伏せて深々と息を吐き出した。それは認めたくなかった故の嘆息か、諦めの意味か。

「ただの女ならば、最悪の事態は避けられたわけだ」

 呟くように言われた言葉には、なぜか僅かに安堵が滲んでいるように聞こえた。
 陛下の反応が理解できなくて僅かに首を傾げてしまう。ゆっくりと開かれた空色の瞳が私を見つめる。

「おまえの性別に関して、疑惑を抱かなかったわけじゃない。だが、女であると疑っていたわけじゃない」

 意味がわからなくて少し眉を顰めてしまう。
 どう話すべきかと考えているのか、陛下がゆっくりとした口調で話し出す。

「おまえは自分が生まれた時の事をどこまで聞いている?」

 不意にそう問われ、顔が強張った。指先から熱が下がっていくような錯覚を起こす。
 事情はほぼ聞かされたと思うけど、それを素直に口にするほど心情的に飲み込めていない。
 私の表情から粗方知っていると読み取ったのか、わかった、と告げる代わりに陛下が頷いた。

「おまえが生まれた時、生まれたという言伝だけ届いて性別は知らされなかった。自分で確かめに来いという意味なのだろうと思ったが、伝えに来た侍女の様子に嫌な予感もした。母子ともに危険な状態にあるのではないかと最初は考えた」

 この時代、人手欲しさで多く産む傾向にあるけど、死亡率が高いからこそ多く産むともいえる。だが同時に女性の死因の上位が産褥死である。兄の母もそうだった。
 出産は誕生と死が並立している。母子ともに無事に生まれて当たり前じゃない。

「情けない話だが、足が竦んだ。ただでさえ前の妻は産後の肥立ちが悪くて亡くしている。それが無くても周りに期待していると思われるわけにもいかないから行くつもりはなかったが、余計にな」

 淡々とした口調だから当時の感情までは読み取れない。けれど子の前で虚勢を張ることなく足が竦んだと言う辺り、かなり正直に話してくれているのが伝わってくる。
 確かに最愛の妻を亡くしたこの人から見れば、出産そのものがトラウマになっていそう。
 気持ち的に私が納得できるかは別として、周りの状況も考えればこの人の態度も多少は理解できないこともない。

「その2日後にエインズワース公が男児だと告げに来たわけだが、危険な状態があったとしても性別を告げるのにそこまで時間を掛けた意味がわからなかった。今度は違う意味で嫌な予感がした」

 そこまで言って、一度溜息を吐き出される。

「至宝の話は聞いたか?」

 いきなり話が飛んだことに首を捻りたい衝動を抑えつつ頷く。

「初代エインズワース公爵とコーンウェル公爵が、そうであったと聞きました」
「そうだ。先代の至宝は彼らになる。至宝には未知な知識を持って生まれる者以外に、体に現れる者もいる」
「体に?」
「コーンウェル公は知識を、エインズワース公は体に現れた。至宝の中では初めての事例ではあるが、エインズワース公は男だが女でもあった」

 突拍子もないことを告げられて目を丸くした。

(男で女?)

 性同一性障害が脳裏を過ったけれど、体に現れたというのならちょっと違う気がする。
 言葉の通り見た目的に男でもあり、女でもあったというのなら。
 
「両性具有……?」
「よく知っているな」

 目を瞠られて驚かれてしまった。
 オタクの中では常識的なことだから、知ってて当然だと思ってうっかり口を滑らせてしまった。まずかった! と思っても遅い。口した言葉は喉には戻ってくれない。
 おかげで物問いたげな視線に促されるまま、仕方なく口を開く。

「一応、知識としては、知っています」
「おまえの頭の中にはこちらの想定外のことばかり詰まっているようだ」
「先に言わせていただきたいのですが、私の知識がすべて正しいわけではありません」

 口をへの字に曲げて予防線を張ってしまう。
 何が正しいのかは、時代によって変わる。地動説を唱えた学者が宗教裁判で断罪されたように。
 それに、かつての記憶と今の常識が噛み合わないこともある。
 たとえば林檎。
 私の記憶では冬の果物だけど、この国では一年中出回っている。林檎好きによって品種改良されまくったのか。冬の果物だと思い込んでいる自分の記憶が誤りなのか。
 自分でも判断つかないので、私の話すことを鵜呑みにされても困る。

「それは頭に入れておこう。とりあえず両性具有に関しては理解しているんだな?」
「はい」

 これに関しては、オタクは無性とか両性とか好きでしょう。特別感に夢を抱いちゃうよね。私も例に違わず、興味本位で調べたことがある。

 結論から言えば、両性具有は実在する。

 けれど、現実は物語で見かけるような夢溢れるものではない。
 両性具有となる理由は染色体異常とか色々あるというけど、一応は疾患に分類されていた覚えがある。
 男女両方の性が現れていても、どちらも完全じゃないこともある。
 外見は女でも、内臓に男の要素を持つ場合もあるという。逆もしかり。その場合、第二次性徴でようやくわかることもある。
 だけど遺伝子に問題があるのなら育たないこともあるだろうし、親が認められなくて生まれてすぐに殺してしまう……という可能性も考慮すれば、この世界において実在する確率はかなり低いはず。
 ましてや、王家に生まれてそこまで成長したのは奇跡としか言いようがない。

(生まれた時に気づかれなかった?)

 ニコラスの話では、至宝であると判明したのは成人する少し前ということだった。
 となると性交渉はまだだろうから、初潮を迎えてわかった?
 ならば当然、女の部分があったはず。生まれた時に付いてるものがあったから男だと判断したとしても、おむつを替える時に気づくと思う。

(わかっていて隠蔽した?)

 初代エインズワース公爵の母親は正妃だと聞いたけど、最初に生まれた子が普通ではないとわかったら、周りにどう思われるかは推して知るべし。
 ただでさえ当時は一夫多妻制。正妃と言えど追い落とされる可能性は高い。

 そう考えれば、皇子として育てるしかないと判断してもおかしくない。

 そのまま男として育っていけばよかったのだろうけど、第二次性徴で女の部分が強く現れてしまったのかもしれない。
 たとえば当人も知らず、生理の血が服に滲んだのを見られてしまったとしたら、王位継承者の体だから医師も徹底して調べるだろう。
 そこでようやく両性具有だと発覚した、と考えるのが自然。
 赤子の時は忌み子扱いされるとしても、大人になる直前で両方の性を備えているとわかった場合、どう取るかは周りの人間次第。
 忌避するか。
 奇跡と取るか。
 今も至宝と謳われるぐらいだから、当時は後者に働いたと思われる。

 両方の性を持つ、神が世に送り出した完全な人間。至高の存在。
 ──そう思い込まれて、崇められてもおかしくはない。

(そういうことなの)

 ようやくエインズワース公爵家がこれほど持ち上げられてきた理由がわかった。
 半ばこれは宗教に近いものがある。
 未だに狂信的にエインズワース公爵家を崇拝している家は、目に見える『特別』に魅せられてのぼせ上がった家なのだろう。信者とも言える。

(でもそういう人って、出産は限りなく不可能だったような……)

「お尋ねしますが、初代エインズワース公は出産されたのですか?」
「いいや。一人だけ子は出来たが、当人は産んでない。周りは産ませたかったようだがな」

 その体に抱える負担を知らなければ、試したい、と考える人間はいると思う。
 それらしい大義名分を掲げられれば、崇め立てられている存在とはいえ拒否するのは難しいのでは? 当人も試したい気持ちがあれば、まだいいだろうけど。
 望まれて王として立ったものの、自ら退いてエインズワース公爵となった人。
 誰もが止めるはずなのに、それが叶ってしまっていることから考えても嫌な想像しか出来ない。

「本人は自分がそういう性だと納得されていたのですか?」
「していれば、発狂して王を降りるなんてことにはならないだろう」
「っ……!」

 言われた内容を理解すると、胸の奥から焼けるような不快感が湧き上がってきた。盛大に顔を歪めてしまう。込み上げる吐き気を必死に堪えて喉をゴクリと嚥下させた。

(胸糞悪いにも程がある!)

 無意識に握り込んでいた拳は力を入れすぎて白くなっている。初代エインズワース公爵に同情が湧くより先に、その周囲に対して憎悪に近い怒りが湧いてきた。

 きっと、自分の姿と重なったせいもある。

 私はまだ記憶がない時も、知識としてなんとなく女というものを理解していた。
 メル爺も女の子扱いしてくれていたし、一応は自覚があった。
 そんな下地がある状態でも尚、初潮を迎えた時は絶望したのだ。
 死にたくなるほどに。
 自分が女であるということを目の当たりにして、足元から信じていたものが崩れ落ちていくようだった。
 自分のせいで失うものを考えて恐怖したというのが一番だけど、未知の領域に足を踏み入れたことに対する不安でも胸が潰れそうだった。

 ましてや初代エインズワース公爵は、男性要素が強い。
 もし本人にも知らされずに男として生きてきたのだとしたら、恐怖も絶望も私を上回る。
 知らされていたとしても、自分でも自分の体がよくわからない上に、周りに同じ存在もいない。
 不安を訴えたくとも、「素晴らしいことだ」と言われたら不安も零せない状況に追いやられてしまう。ただでさえ、初潮を迎えればホルモンバランスの関係で精神も不安定になるのに。
 もしもそんな状態で、男と子を作れと言われたら?
 ……実際に、そういう行為を強いられたら?

(女の私でさえ、エインズワース公爵の企みを知って吐いたのに)

 ふざけるなと憎悪したし、今も思い出すだけで恐怖と怒りが胸の中で荒れ狂う。
 私の場合は相手がセインだったとしても、そういう問題じゃない。もしセインが駄目だった時は、別の相手が見繕われたはずだ。
 あれは女として以前に自分の意志を無視されていて、道具としか見られていない。
 人間としての尊厳を踏みにじられるようなもの。
 彼の場合はそれに加えて、男の身でありながら『女』としてしか扱われない。両性具有と言われても、『男』の部分が軽視される。
 屈辱と恐怖しかないでしょう。
 狂わなければ、きっと息すらまともに出来ない。

(あの人は自分の祖父がどうなったのか知っていて、私に同じことを強いるつもりだったの)

 本当にどうしようもない。
 ガラスで出来た胸に爪を立てられて、耳障りな音を響かせているような不快感。視界が仄暗くくすむ錯覚に捕らわれる。

「アルフェ」
「!」

 その時、愛称で呼ばれて現実へと引き戻された。
 驚いて顔を上げれば、いつもと変わらない表情の陛下と目が合った。この人がそう呼んだのかと思うと動揺が走る。
 以前も一度だけ呼ばれたけど、騙していたことがわかってからも呼ばれるとは思わなかった。

「私が警戒していたのは、おまえもそれと同じかもしれない、ということだった」
「確認されようとは思わなかったのですか」
「男だとわかればいいが、そうでないとわかった場合は無視出来ることではない。あまり考えなかったが、娘であるならばいくら父親といえど見るわけにもいくまい。だからどれほど怪しくとも、性別には触れることが出来なかった」

 私は絵本の中の王子様を目指してきたけど、そこに男臭さはない。十代前半の鍛えていない男子と似たモヤシっぷりとはいえ、手は女に見えただろう。
 でも全体的に見れば少女的な柔らかさは皆無。
 前例があるならば、女であることより両性具有を疑いたくなると思う。
 兄は私を妹としか見ていなかったようだけど、初代エインズワース公爵のことを知らされていても、両性具有なんて夢物語のようで想像できないのだと思う。
 実際、妹だったわけだし。
 神妙に思い返していれば、ふと陛下に眇めた目を向けられた。

「まさかとは思うが、そうではないだろうな?」
「私にはついてません!」

 慌てて首を横に振って否定した。
 言ってしまってから、陛下の目が「この娘はなんてことを言うんだ」と言いたげになったのに気づいて頬が熱を帯びる。
 いや、だって。咄嗟だったから、つい。生えてないって言うよりいいでしょう!?
 隣で兄が咳払いをする。笑いそうになったのを誤魔化したのが伝わってきたけど、私の失言が悪かったとはいえ今は笑っていい場面じゃない。
 恨みがましく横目に見れば、すぐに表情は引き締められる。
 ばつが悪い気分を抱えながら目線を陛下に戻せば、目を細めて私達を見ていた。
 兄妹の仲を愛でていたようにも見えるけど、見咎められたことが少し居心地が悪い。

「それはそれで一点解決したとして、本題だ」

 陛下が足を組み直し、小さく嘆息を吐きだす。
 思わず背筋が伸びた。一瞬緩みかけた神経を張りつめ、指先にまで緊張が走る。

「性別を偽っていたことに関しては、おまえを責めるのは私自身を罵るのと同義だ。こうなったのも、あわよくばおまえがよからぬことを考えれば纏めて排除できると考えた私に罰が当たったのだろうよ」

 喉の奥で息が詰まった。
 そう考えていただろうな、と思っていたけれど改めて言われると非情な人だと思い知らされる。

「男は父親になる自覚が遅い。ある日いきなり子が現れたような感覚でしかないんだ。愛情がすぐに湧くわけでもなく、打算ばかり働く」

 はっきりと告げられて、胸の柔らかい部分がじくりと痛む。
 私が女だったから動かなかっただけで、もし本当に皇子だったらどうしていただろう。
 どれだけ努力しても、振り向いてもらえなかったら。理不尽さに憤り、兄を出し抜くべくよからぬことに手を染めていたかもしれない。
 ゲームの中の私のように。

「だがそんな勝手なことを考えておきながら、おまえに『知らない人』だと言われた時はさすがに堪えた」
「……申し訳ありません」
「そう思わせるようなことしかしてきていなかった、ということだ。事実、それまでおまえのことは駒としか見ていなかった」

 まっすぐに見据えて言われて、私が傷つかないとでも思ってるんだろうか。
 期待なんてしていなかったけど、突きつけられれば痛い。

「陛下」

 さすがに言いすぎだと感じたのか、兄が諫める声を挟む。

「その頃までは、だ。慕われれば情も湧く。やっと父親の自覚をした頃には、父とは言い出せなくなっていた。知られたら、二度と近寄ってこない気がしてな。自業自得なわけだが、それぐらいにはおまえが私を嫌っていたことはわかっている」
「嫌いだったわけではないです。……怖かっただけです」
「似たようなものだろう。私はおまえに恐怖心しか植え付けていなかったわけだ」

 正直に言えばいいというものでもないけど、これはこの人なりの謝罪なんだろうか。
 どんな顔で聞けばいいのかわからなくて、困惑で眉尻が下がる。

「だからおまえが私にどうにかしろと言ったときは意外だった。そもそも私の悪手でこうなったわけだから、どうにかしないわけにもいかないだろう」
「ほとんど動いていたのは私です」

 そこで兄が冷ややかな声を挟み込んだ。陛下の目線が兄へと動き、「うまく人を使うのが王というものだ」といなす。そう言ってのけるあたり大概、狸だ。
 ちょっと黙っていろと言いたげに目で兄を黙らせ、陛下が再び私に向き直った。

「おまえが気にしていることを簡潔に言えば、もし私が駆けつけていても、おまえを皇子として育てる選択をしただろう」
「!」

 一瞬、救いのように感じて目の前が明るくなったように思えた。
 でもそれを誰もが納得するとは思い難くてすぐに渋面になれば、「よく考えてみろ」と言われる。 

「最初の妃を娶って数年で亡くし、そのすぐ後に先王も身罷り、次に迎えた妃が発狂したなどと公になれば、忌み事続きとなる王家がどう見られると思う?」

 周りの貴族は眉を顰めるだろうし、現王家に対して言いしれない不信感を抱きかねない。民も不安を抱くだろう。
 そして負の感情というものは伝染していく。悪い方向に転がり落ちる前兆になるのは必至。
 そう思ったのが表情から伝わったのか、陛下が続ける。

「例えばそれを公に認めた上でエルフェリアからおまえを離し、皇女としてシークヴァルドと共に皇太子宮で育てたとしよう。セリーヌがおまえを虐げるとは思わないが、先妃の周りにいた者にはよく思わないだろう。それをクリアしたとしても、もし私のいない間にエルフェリアが子を引き渡せと言えば、誰も逆らえない」

 確かに、その通りだ。
 兄の暮らす宮は近寄りがたいとはいえ、同じ城の中。行こうと思えばいつだって行ける距離。
 ましてや王妃という立場なら、周りは止めることなど出来ない。

「それでおまえに万一のことがあった場合、責任を取るのは誰になると思う?」

 たとえ母が私を殺しても、王妃は失えない。彼女の替えはいないからだ。ただでさえ2番目で、何度も妃を替える事態になるのは外聞も悪い。
 そうなくとも、彼女はかのエインズワース公爵の娘なのだから。
 けれど皇女を死なせておいて、誰の責任も取らせないというわけにもいかない。母が狂っていると知っていて私を渡したとなれば、責任を取るのは引き渡した人ということになる。

(その場合、メアリーかランス伯爵夫人に白羽の矢が立ってしまう)

 脳裏を過った二人の顔に胸が締め付けられるのを感じた。
 とばっちりでしかないけれど、それがまかり通るのがこの世界だ。人の命は時折恐ろしいほど軽い。
 だがそうしたくないからこそ、その手は使えなかった。

「本来ならエインズワース公爵家に預ければいい話だが、あの男がどんな人間かわかっていて渡すことは出来ない。かといって他家に預けるとなれば、なぜエインズワースに渡さないのかと周囲に反発されるのは必至だ。体面上はエインズワース公ではエルフェリアが子に会いたいと言えば会わせてしまう危険性があると言えるが、どこの家に出してもエインズワース公は手を伸ばしてくるだろう」

 そう言って陛下は深く息を吐き出した。
 既に今日だけで何度目の溜息なのか、精神的な疲労が滲んで見えた。

「となると、やはり城に置くしかない。城に置く以上は、皇女として置いておくのは危険すぎる。この城においてエルフェリアを阻める者は私とシークぐらいだ。しかし私も常時付いていることなど出来ないし、シークも当時はまだ幼い。消去法で、エルフェリアを欺き続けるには、公的にもおまえを皇子として周囲ごと騙すしかない」

 そう言われると、王家側が私を男と偽っていた理由としては叶っていた。
 実際、それで私は母の目を逃れて生きながらえてきた。
 母も途中から私が女であるとわかっていたのだろうけれど、私がずっと男装してきた以上は傍目にはそれが事実として映る。だけど。

「それを推し通せるものなのでしょうか」
「そこをなんとかするのが私の役目だろう。おまえにも覚悟を決めてやってもらわねばならないこともあるが、出来るか?」

 問われて、やらない、という選択肢はなかった。私も、周りも、助かる為ならば。
 ここまできたら、使えるものはなんでも使う。
 それでも向けられるだろう「騙していたのか」という周りからの罵りも甘んじて受ける覚悟はあった。実際、その通りなのだから。
 これまでの軌跡を何も知らない人たちにどう思われようとかまわない。
 元々、私に対する根も葉もない悪評は絶えなかった。直にぶつけられるのは初めてだから怖くないわけではないけれど、それは私がやってきたことのツケを払うだけの事。

「出来ます」

 間髪入れずに強い声で答えた。
 ここは私だけでなく、きっと周りのいろんな人の選択肢を経て辿り着いた場所。
 ゲームと違って攻略サイトもなく、正解もわからず、時に誤りつつも選択を重ねて掴み取った未来への切符。
 ならば私は、迷わずそれに手を伸ばす。


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