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第103話 幕間 愛のカタチ(前編)
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※メル爺視点
城から自宅へと帰る馬車の中、手の中にある紙を見つめて深く息を吐き出した。
(長かったようで、思い返してみればあっという間だった気もするな)
ランス領から戻られたアルフェンルート様と顔を合わせた後。
同じくエインズワース領から戻ってきたセインとラッセルに加え、シークヴァルド殿下と陛下と話し合いの場に臨んだ。
セインとラッセルからの報告によれば、アルフェンルート様暗殺未遂の首謀者であったエインズワース公爵の長子オーウェンは罪を認めて、自害したという。
今回の騒ぎを起こした理由は、セインが推測していたものとほぼ同じと言っていい。
自分の中で整理するために、ゆっくりと頭の中で思い返していく。
エインズワース公爵は、アルフェンルート様に近衛騎士を付けられた以上、性別を偽り続けるのは不可能だと考えた。
しかしエインズワース公爵がアルフェンルート様を庇護しようにも、陛下も妃殿下もアルフェンルート様を手放さなかった。
あの手に渡ればどんなことに利用されるかわからないのだから当然だろう。
特に妃殿下は、彼女がアルフェンルート様に抱く感情は複雑とはいえ、あの父に渡すわけがない。
それに然るべき時が来れば、ご自分諸共アルフェンルート様とエインズワース公爵家を道連れに果てる覚悟だったのだろう。
だが、エインズワース公爵はそれを許すわけにはいかない。
早急にアルフェンルート様を手元に置くには、それなりの理由が必要だった。その為、城で生きていくには厳しい程の怪我を負わせるつもりでいた。
そうして城に置いておけないと言ってエインズワース領に引き取り、子を産むための道具にするつもりだった。
すべては次の段階、シークヴァルド殿下を排除し、セインとの間に生ませた子を王に据える為に。
そしてそれを知ったオーウェンが、エインズワース公爵の企みに乗じてアルフェンルート様を殺害しようとした。
殺害にまで至ろうとした理由を要約すれば、『このまま生き延びたところで、どちらに転んでも残酷な未来しかない。だからここで終わらせてさしあげるべきだと思った』だ。
エインズワース公爵の企みを潰せたとしても、このまま城にいれば女であると露見するのは時間の問題。
その先に待つのは断罪だけ。
シークヴァルド殿下がアルフェンルート様をどう思われているのか知らないオーウェンから見れば、死しか救いがないように見えたのだろう。
セインはそんなオーウェンに対し、「あの人は結局、中途半端だったんだ」と言っていた。
「アルを本当に可哀想だって思うなら、オーウェンが殺すべきはアルじゃなくて自分の父親の方だろ」
眉根を寄せて口の端を歪めた苦々しい顔で、そう吐き捨てた。
エインズワース公爵が死んだところで、アルフェンルート様が皇子であると偽っている罪は残る。
だがアルフェンルート様は第二子であり、いずれは王族から降りられる身。エインズワース公爵家はオーウェンが婚姻しておらず、また本人もこの先婚姻するとは考え難い。そして本来はオーウェンの実子であるセインは家系図上はエインズワース公爵の次男で庶子の為、継ぐのは難しい。
となるとエインズワース公爵家には後継ぎがいない状態なので、孫であるアルフェンルート様を養子として迎え入れられれば済んだ話だったのだ。
そして王家としてもエインズワース公爵という厄介者さえなくなれば、アルフェンルート様が女だと知ったところで、公にして騒ぎ立てる必要はない。
むしろ都合が良かったはずだ。
女であるという弱みを握っているわけだから、そのままエインズワース公爵の地位を与え、徐々に領地と権限を再び王家に統合させればよかったのだ。
すべては、周囲を扇動するエインズワース公爵さえいなくなれば。
……しかし、オーウェンは己の父を乗り越えることが出来なかったのだ。
まだ力の足りないセインと違い、オーウェンなら父を弑する機会はあったはずだ。でも彼は自分の手で父をどうにかできると、思うことすらできなかった。
思ったとしても、その壁を越えられなかった。
だからこそ、弱いアルフェンルート様の方へと刃を向けてしまった。
それがアルフェンルート様を救う方法だと信じて。
そして罪を公にすることでエインズワース公爵家を終わらせるべきだという、正義感も振り翳して。
──彼自身も、結局は己の願望の為にアルフェンルート様を利用するつもりだった。
セインは自分がオーウェンを処分すべきだと思っていたようだが、ラッセルに止められたようだ。
実のところ、シークヴァルド殿下も本気でセインに父殺しを命じたわけじゃない。
そう言って、セインがどう動くのか。本当に彼ら側の人間ではなかったのか。
それを確かめたかったのだろう。
ラッセルは、セインを見極めろと言われていたのだ。
ラッセルは本気でオーウェンを手に掛けようとしたセインを止め、セインが手を下せばただの私刑になると言って、当初の予定通り自分で処分しようとしたそうだ。
父を見殺しにさせるという時点で残酷なことにかわりはないが、実際にセインが手を下すのとは重さが違う。
だが、オーウェンはそこで自害を選んだ。
セインはアルフェンルート様を取り巻く現状をオーウェンに伝えたはずだ。それを聞いてその選択をしたというのなら、自害を選んだのはオーウェンの最後の優しさだったのだろうか。
しかし、後味の悪い幕引きである。
実のところ、オーウェンの正義感は人としては正しかった。だがこんな大事さえ犯さなければ、もっと穏便に事は済んでいたかもしれないのに、と思う気持ちはある。
……否、違う。
(こんなことなら、私がもっと早くにレイモンドを断罪していればよかったのだ)
それこそ、アルフェンルート様が生まれた時に。
いや、違うか。もっと前だ。
エルフェリア様が妃殿下となる前、彼女の許嫁が排除された時? それとも、更に前。
一体どこまで遡ればいいだろう。
道を踏み誤った友、レイモンド・エインズワース公爵の暴挙を止められる立場にいたのは、自分だけだったというのに。
*
私の継いだスラットリー伯爵家は、医師として永らく王家に仕えてきた家だ。
その為、王家に生まれる特殊な子どもである『至宝』の存在は当然知らされていた。
そしてその『至宝』の顕現により、王家とエインズワース公爵家の確執が始まるのは自分から見て、祖父の代になる。
レイモンドの祖父となる、『至宝』でありながら一度は王として立ったものの降下した初代エインズワース公爵。
側妃の息子である異母弟も『至宝』であったが、それを押しのけて正妃の次男というだけで何の力もないのに次王となった現王家。
異母弟は僻地に追いやったものの、同母兄である初代エインズワース公爵は王家を凌ぐ力を持ってすぐ傍らに存在する。
だが実のところこの時点で既に、初代エインズワース公爵にまともな判断力はなかったという。
彼は自身の存在を受け止めきれずに、気が触れてしまっていたのだから。
けれど彼の気が触れていようと、彼を推す者は絶えなかった。彼を崇拝し、讃え、彼こそが王だと祭り上げようとする者がいた。
今も尚、エインズワース公爵家に付いている狂信的な家は当時の名残と言える。
その結果、心労が祟って初代エインズワース公爵は早逝している。
幸か不幸か子どもは一人だけ生まれたが、それは普通の子だった。だが、周りの狂信的な家はその子にも執着した。
「貴方様は選ばれた人間なのだ」「貴方様こそ、本来は王となる存在だったのだ」
洗脳するように持て囃して育てた。
そしてその思想は今度は親から子へ、現エインズワース公爵レイモンドへと受け継がれていく。
(だが子どもの頃は、前陛下もレイモンドも仲が良かったというのに)
前陛下が5歳ほど年上だが、前陛下の妹でありレイモンドの妻であるオフィーリアンヌは1歳上なだけ。
自分とレイモンドは年が同じということもあり、子どもの頃はよく彼らと共に城で遊んだ。
だが、前陛下は生まれつき心臓の弱い方だった。
反対に、レイモンドは健康優良児で出来のいい子供だった。要領もよく、人を惹きつけて従わせる才もあった。
5歳下なら相手にならないと思いそうなものだが、年を重ねるにつれて、陛下はレイモンドに対して危機感を抱くようになっていった。
不安を煽る周りの余計な声あったのだと思う。二人は立場的によく比べられていた。特に前陛下が失望されている声は自分の耳にもよく届いていた。
レイモンド自身も、周りの声に惑わされ「本来は自分こそが王だったのに」という気持ちも膨らんでいくのが見えていた。
自分も何度かレイモンドを諫めたものだ。
前陛下は弱い方だが、その分弱い者に寄り添う心がある。レイモンドには、残念ながらそれがない。
そんな風に元々合わない性質でもあったのだろうが、少しずつ二人の仲が歪んでいくのがわかった。
次第に前陛下の優しさもレイモンドには適用するのが難しくなるほどに、前陛下はレイモンドを疎むようになっていった。
個人的な感情を抜き、王家として見てもレイモンドの存在は危険に映っていたせいもある。
けれどこの当時は、まだレイモンドもそこまで本気で王位を狙っていたわけではない。
どちらかと言えば、うるさかったのは周囲だ。
だがとうとうその存在を看過できないと思われた前陛下が、辺境の小競り合いを収束させる為の戦をレイモンドに命じた。
本来それは、エインズワース公爵家が戦に出なければならないほどの事ではない。
しかし小競り合いであろうとも、いかなる僻地であろうとも全力で自国も守る姿勢を見せねばならない。
エインズワース公爵家が動けばさぞかし民は心強いだろうと、適当な理由をつけてレイモンドは送り出された。
その戦で死んでくれればいいと、思っていたのかもしれない。
当時、レイモンドはまだぎりぎり十代だった。
そしてこの時、自分も軍医の一人として同行している。
自分は前陛下に剣を捧げた身だが、もしかしたら陛下から見てレイモンドと親しい私も信用が置けない人間になっていたのかもしれない。
それほど、この時点で二人の確執は深くなっていたのだ。
自分もこのとき前陛下に複雑な感情を抱かなかったわけではない。だがそれを責めるには、周りの声に疲弊していく前陛下の姿も知っていて出来なかった。
むしろ二人の間にいながら、うまく自分が調停できなかったことが今も悔やまれてならない。
そうして赴いた先は、地獄だった。
小競り合いとはいえ、戦争なのだ。
昨日隣で笑いながら保存食を齧っていた仲間が、次の日には骸となって地面に転がることもある。そして一秒後の自分がそうならないとも言えない。
日に日に増していく絶望と恐怖。怒りと失望。
知識も経験も足りない自分には助けられない者も数多くいた。何度握りしめた拳に血が滲んだかわからない。
時には自身も戦わないわけにもいかず、人を助ける為の手で人を殺したこともある。その矛盾に心が折れそうになったことも多々あった。
その間、共に過ごした幼馴染のレイモンドの存在はとても心強かった。
何が何でも生きて戻ってやるという信念を抱え、共に助け合って死地を駆けた仲間。自分にとって掛け替えのない友となっていた。
実質戦った期間としては、今から考えればそこまで長くはない。それでもその後の復旧作業にも手を取られ、王都に戻れたのは1年後──私達は、無事に生きて王都に帰り着いた。
その時に勝利した褒賞として、レイモンドは前陛下の妹オフィーリアンヌを妻にと望んだ。
それは前陛下に対する恨み故の当て付けでもあったし、昔から密かにレイモンドがオフィーリアンヌを好いていたからでもあった。
無理を吹っかけた陛下としては、周りの目もあってそれを許さないわけにもいかない。
そうしてレイモンドは、王妹オフィーリアンヌと婚姻した。
しばらく後に息子オーウェン、娘エルフェリアが生まれた。
この当時もレイモンドに王位を求める気持ちが消えたわけではなかった。そこに至るまでの陛下の仕打ちに、よりその欲は高まっていたともいえる。
けれど妻オフィーリアンヌの手前、それは抑えていたのだ。
だがレイモンドとしては、当初エルフェリアは王家に嫁がせる気でいた。それを目的として作った娘でもあった。
せめて孫を王に、という欲を持っていた。
けれどオフィーリアンヌは頑としてそれを良しとしなかった。彼は兄である王の気持ちを知っていたからだ。
彼女はいつまで王位に拘っているのだと、あなたには既に守るべき領民が数多くいるのだと諫めていたようだった。
惚れた手前、レイモンドはオフィーリアンヌの言葉には渋々従っていた。
そうやってオフィーリアンヌが娘を守っていたからこそ、娘は自分の好きな男と婚約出来たのだ。
私もよく、妻に嫌われたくなければ今を堅実に生きろと言ってやっていた。愛しい妻を手に入れて十分だろう、と。
この時は、私の声もまだレイモンドに届いているようだった。
──けれど、悲劇は起こる。
オフィーリアンヌが孤児院への慰問に行った際、馬車の前に飛び出した子どもを庇って亡くなってしまうのだ。これは本当に不幸な事故だった。
問題は、その後。
私が思っていた以上に、レイモンドはオフィーリアンヌを愛していた。
暫くの間、レイモンドは狂ったように書庫を漁っていた。
死者を呼び戻す方法があるのではないか、と。自分の家は、かの選ばれし至宝の家なのだから、と。
城の図書室にも連日通い詰めて、何日も眠っていないとわかる隈、血走った目をして、爪すら剥がれかけて血が滲むほどに書庫の本を掴んでページを捲る鬼気迫る姿が今も脳裏に焼き付いている。
だが当然ながら、そんな奇跡はない。代々王家に仕えていた医師である自分も知らないのだ。
何度もそう言い聞かせた。その私の声も耳に届かないほど、レイモンドは余裕を失っていた。
レイモンドがそんな状態のとき。
前陛下が、レイモンドにとんでもない言葉を投げかけてしまったのだ。
「娘を王家に嫁がせるべく、オフィーリアンヌを疎んで殺したのではないか」
言っていい言葉ではなかった。
私は後からその話を聞いて、全身から血の気が引いていった。
前陛下も妹が急逝してショックだったのだろうが、そして自分自身も心臓が著しく弱っていて先が永くないことで焦燥もあったのだろうが、それでも言ってはいけない言葉だった。
この頃、現陛下の妻が産後の肥立ちが悪くて亡くなったばかりであった。
シークヴァルド殿下は生まれたものの、現陛下がこの先を独り身で過ごすには長い。
この機会にレイモンドが自分の娘を妃にすると目論み、邪魔をするオフィーリアンヌを殺したのではないかと疑われたのだ。
その一言が、レイモンドを狂気へと突き落としてしまうことになる。
妻への愛情を疑われ、人としての尊厳も踏み躙られた。
そこまで疑うのならば。
そんな人間だと思われているのならば。
陛下の言う通りの人間になってやる──。
これまでギリギリ押さえつけてきた憎悪と怒りに呑まれて、オフィーリアンヌという存在が抑えていた欲望に火をつけてしまった。
それによって犠牲になるのは、愛する妻との間に生まれた子供だということすら、レイモンドの頭から削げ落ちてしまうほどに。
元々、レイモンドは我が子に重きは置いていなかった。妻さえいればいい、という人間だったのも悪かった。
そして私もこの頃は陛下の容体が日増しに悪化していくので余裕がなく、またこの後すぐ身罷られることとなったので、レイモンドにまで気を配ってやれなかったのだ。
狂っていると気づけたのは、ある日、大怪我を負った青年が医務室に運び込まれたからだ。
明らかに訓練中の事故では済まされない、躊躇いが欠片も見えない真剣で負った傷に眉を顰めた。
誰かが目的を持って、あえて彼の未来を、人生を潰したとしたとしか思えなかった。
当然、これはおかしいと感じた。
王宮では足の引っ張り合いはよくあるが、ここまですることはまずない。よほどの恨みでもないかぎり。
だが、周りの話を聞く限りでは彼は近衛騎士候補であった。評判もいい。そんな青年がこれほどの目に遭うとは、余程のことだ。
それがエルフェリア様の許嫁だと知り、顔から血の気が引いた。
嫌な予感しかしなかった。すぐにレイモンドの元へと問い合わせた。
その時には、既に手遅れになっていたのだ。
未来のない青年と公爵令嬢との婚約は、この件によって白紙となった。
一体レイモンドは何を考えているのか。
子の幸せを奪ってまで何がしたいのか。
そんなことをすれば、亡き妻オフィーリアンヌが悲しむと思わないのか。
どれほど声を荒げて諫めても、レイモンドは既に人の心を失ってしまっていた。
「死んだ者の声などもう届かない」
戦場で見たことのある虚ろな闇を宿した瞳で、世界を呪うような声音で言われて、全身が凍り付くかのようだった。
壊れたのは、レイモンドだけではなかった。
大好きな母を亡くした上、それまで渋々ながらも賛成していた婚約を豹変した父が取りやめると言い出した。
それに反対を訴えただけで、父が自分たちの親友と許嫁を容赦なく潰したのだ。
それを目の当たりにした子の心は、推して知るべしというものだ。
オーウェンは自責の念に駆られて、また自分が何かを言えば周りを潰されるのではないかと恐れるようになった。
エルフェリアは自分の我儘で許嫁の未来を奪ってしまったと、人形のように虚ろになった。
私が何を言ってもレイモンドには届かない以上、せめて子ども達のフォローをするので精一杯だった。
だが体は治せても心は私の管轄外だ。せいぜい心を休める薬を処方するぐらいしか出来ない。それも限界がある。
その後、結局エルフェリア様は現陛下に嫁ぐことになる。
現陛下の妻のすぐ後に前陛下も亡くなるという忌み事が続いたこともあり、王家に不安を抱く者ものも多かった。
前陛下は寿命なのだが、慣例に背いて異国の王女を娶ったせいだ、と口さがないことをいう者もいたせいもある。
現陛下も当時はまだ若く、我を押し通せるほどの力はなかったのだ。
そうして、アルフェンルート様が生まれた。
城から自宅へと帰る馬車の中、手の中にある紙を見つめて深く息を吐き出した。
(長かったようで、思い返してみればあっという間だった気もするな)
ランス領から戻られたアルフェンルート様と顔を合わせた後。
同じくエインズワース領から戻ってきたセインとラッセルに加え、シークヴァルド殿下と陛下と話し合いの場に臨んだ。
セインとラッセルからの報告によれば、アルフェンルート様暗殺未遂の首謀者であったエインズワース公爵の長子オーウェンは罪を認めて、自害したという。
今回の騒ぎを起こした理由は、セインが推測していたものとほぼ同じと言っていい。
自分の中で整理するために、ゆっくりと頭の中で思い返していく。
エインズワース公爵は、アルフェンルート様に近衛騎士を付けられた以上、性別を偽り続けるのは不可能だと考えた。
しかしエインズワース公爵がアルフェンルート様を庇護しようにも、陛下も妃殿下もアルフェンルート様を手放さなかった。
あの手に渡ればどんなことに利用されるかわからないのだから当然だろう。
特に妃殿下は、彼女がアルフェンルート様に抱く感情は複雑とはいえ、あの父に渡すわけがない。
それに然るべき時が来れば、ご自分諸共アルフェンルート様とエインズワース公爵家を道連れに果てる覚悟だったのだろう。
だが、エインズワース公爵はそれを許すわけにはいかない。
早急にアルフェンルート様を手元に置くには、それなりの理由が必要だった。その為、城で生きていくには厳しい程の怪我を負わせるつもりでいた。
そうして城に置いておけないと言ってエインズワース領に引き取り、子を産むための道具にするつもりだった。
すべては次の段階、シークヴァルド殿下を排除し、セインとの間に生ませた子を王に据える為に。
そしてそれを知ったオーウェンが、エインズワース公爵の企みに乗じてアルフェンルート様を殺害しようとした。
殺害にまで至ろうとした理由を要約すれば、『このまま生き延びたところで、どちらに転んでも残酷な未来しかない。だからここで終わらせてさしあげるべきだと思った』だ。
エインズワース公爵の企みを潰せたとしても、このまま城にいれば女であると露見するのは時間の問題。
その先に待つのは断罪だけ。
シークヴァルド殿下がアルフェンルート様をどう思われているのか知らないオーウェンから見れば、死しか救いがないように見えたのだろう。
セインはそんなオーウェンに対し、「あの人は結局、中途半端だったんだ」と言っていた。
「アルを本当に可哀想だって思うなら、オーウェンが殺すべきはアルじゃなくて自分の父親の方だろ」
眉根を寄せて口の端を歪めた苦々しい顔で、そう吐き捨てた。
エインズワース公爵が死んだところで、アルフェンルート様が皇子であると偽っている罪は残る。
だがアルフェンルート様は第二子であり、いずれは王族から降りられる身。エインズワース公爵家はオーウェンが婚姻しておらず、また本人もこの先婚姻するとは考え難い。そして本来はオーウェンの実子であるセインは家系図上はエインズワース公爵の次男で庶子の為、継ぐのは難しい。
となるとエインズワース公爵家には後継ぎがいない状態なので、孫であるアルフェンルート様を養子として迎え入れられれば済んだ話だったのだ。
そして王家としてもエインズワース公爵という厄介者さえなくなれば、アルフェンルート様が女だと知ったところで、公にして騒ぎ立てる必要はない。
むしろ都合が良かったはずだ。
女であるという弱みを握っているわけだから、そのままエインズワース公爵の地位を与え、徐々に領地と権限を再び王家に統合させればよかったのだ。
すべては、周囲を扇動するエインズワース公爵さえいなくなれば。
……しかし、オーウェンは己の父を乗り越えることが出来なかったのだ。
まだ力の足りないセインと違い、オーウェンなら父を弑する機会はあったはずだ。でも彼は自分の手で父をどうにかできると、思うことすらできなかった。
思ったとしても、その壁を越えられなかった。
だからこそ、弱いアルフェンルート様の方へと刃を向けてしまった。
それがアルフェンルート様を救う方法だと信じて。
そして罪を公にすることでエインズワース公爵家を終わらせるべきだという、正義感も振り翳して。
──彼自身も、結局は己の願望の為にアルフェンルート様を利用するつもりだった。
セインは自分がオーウェンを処分すべきだと思っていたようだが、ラッセルに止められたようだ。
実のところ、シークヴァルド殿下も本気でセインに父殺しを命じたわけじゃない。
そう言って、セインがどう動くのか。本当に彼ら側の人間ではなかったのか。
それを確かめたかったのだろう。
ラッセルは、セインを見極めろと言われていたのだ。
ラッセルは本気でオーウェンを手に掛けようとしたセインを止め、セインが手を下せばただの私刑になると言って、当初の予定通り自分で処分しようとしたそうだ。
父を見殺しにさせるという時点で残酷なことにかわりはないが、実際にセインが手を下すのとは重さが違う。
だが、オーウェンはそこで自害を選んだ。
セインはアルフェンルート様を取り巻く現状をオーウェンに伝えたはずだ。それを聞いてその選択をしたというのなら、自害を選んだのはオーウェンの最後の優しさだったのだろうか。
しかし、後味の悪い幕引きである。
実のところ、オーウェンの正義感は人としては正しかった。だがこんな大事さえ犯さなければ、もっと穏便に事は済んでいたかもしれないのに、と思う気持ちはある。
……否、違う。
(こんなことなら、私がもっと早くにレイモンドを断罪していればよかったのだ)
それこそ、アルフェンルート様が生まれた時に。
いや、違うか。もっと前だ。
エルフェリア様が妃殿下となる前、彼女の許嫁が排除された時? それとも、更に前。
一体どこまで遡ればいいだろう。
道を踏み誤った友、レイモンド・エインズワース公爵の暴挙を止められる立場にいたのは、自分だけだったというのに。
*
私の継いだスラットリー伯爵家は、医師として永らく王家に仕えてきた家だ。
その為、王家に生まれる特殊な子どもである『至宝』の存在は当然知らされていた。
そしてその『至宝』の顕現により、王家とエインズワース公爵家の確執が始まるのは自分から見て、祖父の代になる。
レイモンドの祖父となる、『至宝』でありながら一度は王として立ったものの降下した初代エインズワース公爵。
側妃の息子である異母弟も『至宝』であったが、それを押しのけて正妃の次男というだけで何の力もないのに次王となった現王家。
異母弟は僻地に追いやったものの、同母兄である初代エインズワース公爵は王家を凌ぐ力を持ってすぐ傍らに存在する。
だが実のところこの時点で既に、初代エインズワース公爵にまともな判断力はなかったという。
彼は自身の存在を受け止めきれずに、気が触れてしまっていたのだから。
けれど彼の気が触れていようと、彼を推す者は絶えなかった。彼を崇拝し、讃え、彼こそが王だと祭り上げようとする者がいた。
今も尚、エインズワース公爵家に付いている狂信的な家は当時の名残と言える。
その結果、心労が祟って初代エインズワース公爵は早逝している。
幸か不幸か子どもは一人だけ生まれたが、それは普通の子だった。だが、周りの狂信的な家はその子にも執着した。
「貴方様は選ばれた人間なのだ」「貴方様こそ、本来は王となる存在だったのだ」
洗脳するように持て囃して育てた。
そしてその思想は今度は親から子へ、現エインズワース公爵レイモンドへと受け継がれていく。
(だが子どもの頃は、前陛下もレイモンドも仲が良かったというのに)
前陛下が5歳ほど年上だが、前陛下の妹でありレイモンドの妻であるオフィーリアンヌは1歳上なだけ。
自分とレイモンドは年が同じということもあり、子どもの頃はよく彼らと共に城で遊んだ。
だが、前陛下は生まれつき心臓の弱い方だった。
反対に、レイモンドは健康優良児で出来のいい子供だった。要領もよく、人を惹きつけて従わせる才もあった。
5歳下なら相手にならないと思いそうなものだが、年を重ねるにつれて、陛下はレイモンドに対して危機感を抱くようになっていった。
不安を煽る周りの余計な声あったのだと思う。二人は立場的によく比べられていた。特に前陛下が失望されている声は自分の耳にもよく届いていた。
レイモンド自身も、周りの声に惑わされ「本来は自分こそが王だったのに」という気持ちも膨らんでいくのが見えていた。
自分も何度かレイモンドを諫めたものだ。
前陛下は弱い方だが、その分弱い者に寄り添う心がある。レイモンドには、残念ながらそれがない。
そんな風に元々合わない性質でもあったのだろうが、少しずつ二人の仲が歪んでいくのがわかった。
次第に前陛下の優しさもレイモンドには適用するのが難しくなるほどに、前陛下はレイモンドを疎むようになっていった。
個人的な感情を抜き、王家として見てもレイモンドの存在は危険に映っていたせいもある。
けれどこの当時は、まだレイモンドもそこまで本気で王位を狙っていたわけではない。
どちらかと言えば、うるさかったのは周囲だ。
だがとうとうその存在を看過できないと思われた前陛下が、辺境の小競り合いを収束させる為の戦をレイモンドに命じた。
本来それは、エインズワース公爵家が戦に出なければならないほどの事ではない。
しかし小競り合いであろうとも、いかなる僻地であろうとも全力で自国も守る姿勢を見せねばならない。
エインズワース公爵家が動けばさぞかし民は心強いだろうと、適当な理由をつけてレイモンドは送り出された。
その戦で死んでくれればいいと、思っていたのかもしれない。
当時、レイモンドはまだぎりぎり十代だった。
そしてこの時、自分も軍医の一人として同行している。
自分は前陛下に剣を捧げた身だが、もしかしたら陛下から見てレイモンドと親しい私も信用が置けない人間になっていたのかもしれない。
それほど、この時点で二人の確執は深くなっていたのだ。
自分もこのとき前陛下に複雑な感情を抱かなかったわけではない。だがそれを責めるには、周りの声に疲弊していく前陛下の姿も知っていて出来なかった。
むしろ二人の間にいながら、うまく自分が調停できなかったことが今も悔やまれてならない。
そうして赴いた先は、地獄だった。
小競り合いとはいえ、戦争なのだ。
昨日隣で笑いながら保存食を齧っていた仲間が、次の日には骸となって地面に転がることもある。そして一秒後の自分がそうならないとも言えない。
日に日に増していく絶望と恐怖。怒りと失望。
知識も経験も足りない自分には助けられない者も数多くいた。何度握りしめた拳に血が滲んだかわからない。
時には自身も戦わないわけにもいかず、人を助ける為の手で人を殺したこともある。その矛盾に心が折れそうになったことも多々あった。
その間、共に過ごした幼馴染のレイモンドの存在はとても心強かった。
何が何でも生きて戻ってやるという信念を抱え、共に助け合って死地を駆けた仲間。自分にとって掛け替えのない友となっていた。
実質戦った期間としては、今から考えればそこまで長くはない。それでもその後の復旧作業にも手を取られ、王都に戻れたのは1年後──私達は、無事に生きて王都に帰り着いた。
その時に勝利した褒賞として、レイモンドは前陛下の妹オフィーリアンヌを妻にと望んだ。
それは前陛下に対する恨み故の当て付けでもあったし、昔から密かにレイモンドがオフィーリアンヌを好いていたからでもあった。
無理を吹っかけた陛下としては、周りの目もあってそれを許さないわけにもいかない。
そうしてレイモンドは、王妹オフィーリアンヌと婚姻した。
しばらく後に息子オーウェン、娘エルフェリアが生まれた。
この当時もレイモンドに王位を求める気持ちが消えたわけではなかった。そこに至るまでの陛下の仕打ちに、よりその欲は高まっていたともいえる。
けれど妻オフィーリアンヌの手前、それは抑えていたのだ。
だがレイモンドとしては、当初エルフェリアは王家に嫁がせる気でいた。それを目的として作った娘でもあった。
せめて孫を王に、という欲を持っていた。
けれどオフィーリアンヌは頑としてそれを良しとしなかった。彼は兄である王の気持ちを知っていたからだ。
彼女はいつまで王位に拘っているのだと、あなたには既に守るべき領民が数多くいるのだと諫めていたようだった。
惚れた手前、レイモンドはオフィーリアンヌの言葉には渋々従っていた。
そうやってオフィーリアンヌが娘を守っていたからこそ、娘は自分の好きな男と婚約出来たのだ。
私もよく、妻に嫌われたくなければ今を堅実に生きろと言ってやっていた。愛しい妻を手に入れて十分だろう、と。
この時は、私の声もまだレイモンドに届いているようだった。
──けれど、悲劇は起こる。
オフィーリアンヌが孤児院への慰問に行った際、馬車の前に飛び出した子どもを庇って亡くなってしまうのだ。これは本当に不幸な事故だった。
問題は、その後。
私が思っていた以上に、レイモンドはオフィーリアンヌを愛していた。
暫くの間、レイモンドは狂ったように書庫を漁っていた。
死者を呼び戻す方法があるのではないか、と。自分の家は、かの選ばれし至宝の家なのだから、と。
城の図書室にも連日通い詰めて、何日も眠っていないとわかる隈、血走った目をして、爪すら剥がれかけて血が滲むほどに書庫の本を掴んでページを捲る鬼気迫る姿が今も脳裏に焼き付いている。
だが当然ながら、そんな奇跡はない。代々王家に仕えていた医師である自分も知らないのだ。
何度もそう言い聞かせた。その私の声も耳に届かないほど、レイモンドは余裕を失っていた。
レイモンドがそんな状態のとき。
前陛下が、レイモンドにとんでもない言葉を投げかけてしまったのだ。
「娘を王家に嫁がせるべく、オフィーリアンヌを疎んで殺したのではないか」
言っていい言葉ではなかった。
私は後からその話を聞いて、全身から血の気が引いていった。
前陛下も妹が急逝してショックだったのだろうが、そして自分自身も心臓が著しく弱っていて先が永くないことで焦燥もあったのだろうが、それでも言ってはいけない言葉だった。
この頃、現陛下の妻が産後の肥立ちが悪くて亡くなったばかりであった。
シークヴァルド殿下は生まれたものの、現陛下がこの先を独り身で過ごすには長い。
この機会にレイモンドが自分の娘を妃にすると目論み、邪魔をするオフィーリアンヌを殺したのではないかと疑われたのだ。
その一言が、レイモンドを狂気へと突き落としてしまうことになる。
妻への愛情を疑われ、人としての尊厳も踏み躙られた。
そこまで疑うのならば。
そんな人間だと思われているのならば。
陛下の言う通りの人間になってやる──。
これまでギリギリ押さえつけてきた憎悪と怒りに呑まれて、オフィーリアンヌという存在が抑えていた欲望に火をつけてしまった。
それによって犠牲になるのは、愛する妻との間に生まれた子供だということすら、レイモンドの頭から削げ落ちてしまうほどに。
元々、レイモンドは我が子に重きは置いていなかった。妻さえいればいい、という人間だったのも悪かった。
そして私もこの頃は陛下の容体が日増しに悪化していくので余裕がなく、またこの後すぐ身罷られることとなったので、レイモンドにまで気を配ってやれなかったのだ。
狂っていると気づけたのは、ある日、大怪我を負った青年が医務室に運び込まれたからだ。
明らかに訓練中の事故では済まされない、躊躇いが欠片も見えない真剣で負った傷に眉を顰めた。
誰かが目的を持って、あえて彼の未来を、人生を潰したとしたとしか思えなかった。
当然、これはおかしいと感じた。
王宮では足の引っ張り合いはよくあるが、ここまですることはまずない。よほどの恨みでもないかぎり。
だが、周りの話を聞く限りでは彼は近衛騎士候補であった。評判もいい。そんな青年がこれほどの目に遭うとは、余程のことだ。
それがエルフェリア様の許嫁だと知り、顔から血の気が引いた。
嫌な予感しかしなかった。すぐにレイモンドの元へと問い合わせた。
その時には、既に手遅れになっていたのだ。
未来のない青年と公爵令嬢との婚約は、この件によって白紙となった。
一体レイモンドは何を考えているのか。
子の幸せを奪ってまで何がしたいのか。
そんなことをすれば、亡き妻オフィーリアンヌが悲しむと思わないのか。
どれほど声を荒げて諫めても、レイモンドは既に人の心を失ってしまっていた。
「死んだ者の声などもう届かない」
戦場で見たことのある虚ろな闇を宿した瞳で、世界を呪うような声音で言われて、全身が凍り付くかのようだった。
壊れたのは、レイモンドだけではなかった。
大好きな母を亡くした上、それまで渋々ながらも賛成していた婚約を豹変した父が取りやめると言い出した。
それに反対を訴えただけで、父が自分たちの親友と許嫁を容赦なく潰したのだ。
それを目の当たりにした子の心は、推して知るべしというものだ。
オーウェンは自責の念に駆られて、また自分が何かを言えば周りを潰されるのではないかと恐れるようになった。
エルフェリアは自分の我儘で許嫁の未来を奪ってしまったと、人形のように虚ろになった。
私が何を言ってもレイモンドには届かない以上、せめて子ども達のフォローをするので精一杯だった。
だが体は治せても心は私の管轄外だ。せいぜい心を休める薬を処方するぐらいしか出来ない。それも限界がある。
その後、結局エルフェリア様は現陛下に嫁ぐことになる。
現陛下の妻のすぐ後に前陛下も亡くなるという忌み事が続いたこともあり、王家に不安を抱く者ものも多かった。
前陛下は寿命なのだが、慣例に背いて異国の王女を娶ったせいだ、と口さがないことをいう者もいたせいもある。
現陛下も当時はまだ若く、我を押し通せるほどの力はなかったのだ。
そうして、アルフェンルート様が生まれた。
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