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第95話 80 失言は消せない
しおりを挟むジレに袖を通してボタンを締め、シャツの襟下に通したループタイをきっちりと上まで締める。後ろで髪を一つに結んでから顔を上げれば、数日ぶりに見慣れた自分の姿が鏡に映った。
病み上がりのせいで顔色は悪いものの、そこにあるのはいつもの自分の顔。
すらりと伸びた手足といえば聞こえはいいけど、相変わらず棒切れのようで色気も柔らかさも感じない体。控えめな胸は厚地のジレを着て潰してしまえば誤魔化せるレベルで、こうして男装してしまえば少年にしか見えない。
(女だと知られているのに男装するのも馬鹿みたいだけど)
かといってドレスを着てか弱い少女を装うことは卑怯な気がした。
それに女だとわかったからといって、すぐに割り切って女になれるかというと、そう簡単なものでもない。
結局、メリッサが用意してきてくれていた自分の普段着を選んでしまった。
ひとつ深呼吸すると、覚悟を決めて浴室から出た。
「本当にそちらの服でよろしいのですか」
出たところで、メリッサが複雑そうな顔で声を掛けてきた。
もう侍女のフリをする必要がないことは、熱の下がった昨夜のうちに兄から告げられていた。その為、ベッドの上には先日まで着ていた侍女の服が畳まれて置かれている。それと、兄に渡された大きな箱。
その中身を思い出して苦く笑う。
小柄なメリッサが着るには丈が長くて、背の高いランス伯爵夫人のおさがりにしては小さいそれは、多分わざわざ私の為に用意してくれたものなのだと思う。
兄がどういうつもりかわからないけど、これから城に帰るのにあれを着ていく勇気はさすがに持てなかった。
「着慣れている服の方が落ち着くからね」
強がりではなく、それは本音なのでちゃんと笑って言えた。メリッサはぎゅっと眉根を寄せて唇を引き結ぶ。
こうしてメリッサと普通に会話が出来ていることに、少しどころでなく安堵している。
ニコラスに保護してもらっていたメリッサとは、刺客に遭った日の翌朝には顔を合わせた。
私が熱を出していたからかその時はそれどころではなかったようだけど、熱が下がってすぐ、メリッサは怒り狂った。声こそ荒げなかったけれど、目だけで射殺されそうな迫力があった。
メリッサの気持ちを踏み躙るような真似をしたのだから、詰られるのも当然である。何も言わずに行動したことに関しては心から謝った。
けれど自分がしようとしたことに関しては謝っていない。
『今まで散々甘い汁を吸っていた私が、いざ危なくなったら自分が助かるためにずっと仕えてくれていたメリッサ達を切り捨てたら、ただの人でなしでしょう。私がもしメリッサの立場だったら、そんなふざけた話はないって思うよ』
だから私が自分の首を懸けてでも守るのは、当然の代償なのだ。
そう説明して一応は理解はしてもらえたようだけど、感情面では納得できていないのだと思う。あれから異様に苦いお茶を淹れて出される。
でもその程度で済まされているのは、私が女だと知っても兄の態度が私達を害するものではないからだろう。
とりあえず、今は。
これからに関しては、これから城へと帰る道中で兄と話すことになる。
「行こう」
メリッサを促して、与えられていた客室から出るべく足を踏み出した。
「アルフェ様」
すると部屋を出てすぐに、扉脇に控えていたランス伯爵夫人に声を掛けられた。
先日助けてくれたときは騎士然とした服装だったけれど、今日の服装は夫人としての落ち着いた深緑色のドレスを纏っていた。
玄関へと向かう前に立ち止まり、彼女に向かって深く頭を下げる。
「世話をかけました。迷惑をかけて申し訳なく思います」
兄に命じられたからだろうけれど、寝込んでいる間メリッサと交代で甲斐甲斐しく看病してくれていた。母のように感じた手は、この人だったのだ。
そう思うと、自分の立場も弁えずに甘えた自分が恥ずかしくて居た堪れない。
(うっかり「お母さん」って呼んでしまった気もするし)
昔、学校の教師に母と呼びかけてしまったときに似た羞恥がある。ちゃんと言葉になっていなかったことを祈るしかない。
「顔をお上げになってくださいませ。お世話をするのは、乳母として当然のことでございます」
そう言われても、兄の乳母であって私の乳母じゃない。
「これまでに手のかかるやんちゃな子達を3人も見てきたのです。止めるのも聞かずに取っ組み合いをして鼻血を出したり、脱走して擦り傷だらけで帰ってきたり……大人になっても囮になると言い出して、湖に飛び込んで死にかけた子に掛けられた心労と比べれば、アルフェ様のお世話はたいしたことではございません」
顔は上げたものの、並べ立てられた兄達の黒歴史になんて返したものかと言葉に詰まった。
そして最後の一つに関しては、私のせいでもあるので居た堪れなさが倍増する。
「それに私共は貴女様に贖わなければならない立場です」
新緑を映した様な瞳を陰らせ、それでいて芯の揺らがない声が耳に届いた。
「夫がシークヴァルド様に命じられたとしても、あのときあの方はまだ成人前でいらしたのです。周りにいる大人が隠匿すべきではないと正しく諭さねばなりませんでした。私共がそれを怠ったが故に、今に繋がってしまっているのです」
上に命じられたのだから仕方がないのだと開き直ることもなく、まだ子どもである私に対しても適当に誤魔化すこともしない。夫婦揃って真摯に対応してくれている。
そもそも私が置かれていた立場がややこしいのが悪いのだけど、ここで否定する方が失礼な気がして黙ったまま耳を傾けた。
「どうかシークヴァルド様を責めないであげてくださいませ。あの方も葛藤することが多い立場に立たされていらっしゃったのです。それでもアルフェ様を気に掛けておられた気持ちに偽りはございません。貴女様をお見掛けした日は、嬉しそうに『小さくて面白い』とよく仰られていました」
面白いと言うあたりが引っかかるけど、気に掛けていてくれたことは伝わったので頷く。
言われなくても、私に兄を責めると言う選択肢はない。
私が王に優遇されている兄を妬む気持ちがあったように、兄も血筋だけで周りに期待される私に思うところはあっただろう。
そんな私がちょっと特別だと知れば、兄とて自分の立場を脅かされるのではないかと考えるのは当然だ。私が兄の立場だったとしても、動かない。
そう理解しているのがわかったのか、夫人は切なげに目を細めた。
「シークヴァルド様を助けてくださってありがとうございます。あの方はけして貴女様に悪いようにはなさらないでしょう」
こちらの気持ちを和ませようとしているのか、声と眼差しに母親のような慈愛が見えて困ってしまった。
「微力ながらもランス伯爵家はアルフェンルート皇女殿下の味方でありたいと思っております。どうぞまた機会がございましたら、こちらに足をお運びくださいませ」
私を勇気づけるように、未来はあるのだと匂わせる言葉に困惑する。
出来ない約束はしたくないので、ここは曖昧に笑うことしか出来ない。だけど社交辞令でも向けられた言葉は素直に嬉しかった。
叶えられるかどうかは、別として。
「……ありがとうございます」
今は呟くようにそう応えるのが精一杯だった。
優雅に一礼をする夫人に見送られる形で、踵を返して玄関へと再び歩き出した。
まだ日が明けたばかりの早朝だというのに、外からは移動の為に荷を積む声と隊列を整える声が響いてくる。
騎士を育成することに長けた家だけあって、窓から見える兵の動きに無駄がない。
きっと兄が囮になると言い出さなければ、あそこまで大事にはなることなく済まされていたのだと思う。わざと手を抜いて危ない目に遭うのは、彼ら的に釈然としなかったに違いない。
あの夜、ランス伯爵とあの場で忍んでいた衛兵たちに大きな被害は出なかったと後で聞いて胸を撫で下ろした。
吸い込んだ煙は痺れ薬のようだったとは聞いたけれど、それでも吸い込み過ぎれば問題になる。表面的に痺れるということは、当然内臓も相応のダメージを受けている。
窓ガラスは惨憺たる状態となったようだけど、対処が早かったおかげで今は皆回復しているという。
そして生け捕りに出来た刺客から、誰の手の者かも判明していると聞いた。
(予想通りあの人だったわけだけど)
ここまで来て足が着くような真似をするなんて、相当追い詰められていると言える。
それとも他の誰かが、あの人の足を引っ張ったのか。
(たとえば、オーウェン伯父様)
エインズワース公爵の影に隠れて印象の薄い人。だけどあの人もエインズワース家の一員だ。いざという時に動かせる手駒ぐらいはあるだろう。
この辺の話は、私の知らないところで兄が既に色々と掴んでいるらしい。今日ちゃんと教えてくれると言っていた。
移動中の馬車ならば誰にも聞かれる心配がないので、そこで話をするようだ。
襲われる可能性はもう低いとはいえ、最低限の人数で突発的に忍んでやってきた行きと違い、帰りはランス伯爵家から借り受けた護衛がかなり付いてくる。
というか、本来これが王族が動くときの人数なのだと思う。行きがイレギュラー過ぎたのであって。
(酒樽に詰められて来たのが、なんだか遠い昔のことみたい)
ほんの1週間前のことなのに。これでも私が寝込んで足止めしてしまったせいで長く滞在してしまった方だと思う。
帰るんだ、と思うとさっきから緊張で心音がバクバクとうるさい。
人が慌ただしく行き交う玄関先までやってきて、すぐに兄の姿を見つけた。
それと……クライブ。
(顔、合わせづらい)
高熱に浮かされていたせいか、変な夢を見てしまった。あまりにも自分に都合のいい、甘ったるい夢。
夢の中とはいえ、自分が零した言葉はなんて迷惑な。
思い出すだけで嫌な汗が首筋に滲む。叫びたい衝動に駆られて咄嗟に口を引き結んだ。青くなればいいのか赤くなればいいのかわからなくなって、結果として顔が強張った。
(大丈夫。あれは夢。夢だから……!)
必死に言い聞かせていると、視線に気づいたのか兄が顔を上げるより早くクライブがこちらに視線を向けてきた。
「!」
慌てて目が合う寸前に顔を俯かせてしまった。
心臓が先程とは比べ物にならないほどにバックン、バックン、と強く早鐘を打つ。
(逃げてどうするの!)
謝らなければならないでしょう。
でもこれだけ人が行き交っている中でそんな話をするわけにもいかない。
そんな言い訳を脳内でしてみたけれど、自分でもわかっている。これはただ逃げてるだけ。
(まだ顔見るの、怖い)
無意識に握りしめた拳が震えそうになる。
ランス伯爵夫妻が許してくれたとしても、クライブはまた別物。兄様至上主義のはずなのだから。謀っていた私の存在など許せるわけもない。
夢は所詮夢に過ぎず、現実はそうでないことくらいは覚悟している。
……覚悟している、つもりだった。
二人が近づいてくる気配に心臓が壊れそう。顔から血の気が引いていくのがわかる。
回れ右して逃げ出してしまいたいのに、足は床に縫い止められたかのように動いてくれない。動けたとしても逃げるわけにはいかないのだけど。
だいたい、私は恋だのなんだのにかまけている場合じゃないのに。
それどころではないと頭ではわかっているのに、心が勝手に怖がって委縮する。
だから余計な感情なんていらなかったのに。
「まだ顔色が悪いな。無理そうなら出立は明日にするか?」
目の前までやってきて、私の顔を覗き込んできたのは兄だった。
視界が兄で遮られたことに詰めていた息をそっと吐きだす。だけど顔の強張りまでは解けない。
「いえ、大丈夫です。私は大抵こういう顔色です」
「アルフェの言い訳はいつも面白いほど信憑性がないな……まあ本人がいいならいい」
兄は用意していた服を私が着ていないことに何か言うことはなかった。呆れた声でそれだけ言うと、振り返って「クライブ」と呼んだ。
その名前に条件反射で体に緊張が走った。無意識に兄を引き留めるように服の裾を掴んでしまう。
「おまえは御者台に乗れ」
「急な予定変更をされても困ります」
「御者台が嫌ならニコラスと交代という形でも構わない」
「……わかりました、御者台で構いません」
不承不承というようにクライブが頷く声が聞こえてきて、安堵のあまり力の入っていた肩から力が抜けた。
たぶん行き同様、クライブは馬車に同乗することになっていたんじゃないかと思う。でも長時間、顔を合わせるのはさすがに精神的に厳しい。たぶん私の態度から兄が察して配慮してくれたんだろう。
予定を変更されたせいで準備に向かうクライブの背を兄越しにこっそり見送る。
(それにしてもクライブを怖がったの、そんなにあからさまだった?)
兄を窺えば、兄も私を見下ろしていた。
ギクリと体を竦ませれば、「クライブと話をしたんじゃなかったのか」と意外な言葉を言われた。
(私が? クライブと?)
いつ。
街に降りた時は、確かに話したけれど。でも兄が言っているのはその時の話ではないように思える。
眉根を寄せて首を傾げた私を見下ろし、「熱のせいで憶えてないか?」と問われた。
その台詞にじわり、と背筋に冷たい汗が滲んだ。
待ってほしい。思い当たるのは、あれしかないのだけど。
(でも、あれは夢でしょう?)
夢のはずだ。あんな私に都合のいい夢、あるわけがない。
だいたい私が女だということは、皇女であるということだ。熱で寝込んでいる皇女の寝室に有事でもないのにクライブが入れるとは思えない。兄ですら、二言三言話すとすぐに出て行っていた。
血の気の引いた顔でまじまじと兄を見つめれば、呆れたように肩を落とされた。
「クライブはアルフェに謝られたと言っていたが、記憶にないか? クライブは怒ってなどいなかっただろう」
兄がこう言うということは、私は夢現の内に謝罪は出来ていたってことになる。
ならばあの時クライブは現実だったということ?
(そんなこと、あるわけない)
だって、なんだかとても悔いた顔をしているように見えた。ひどく苦し気な声音だけが耳に残っている。
それと、躊躇いがちに涙を拭った指先。
熱で朦朧としていた上に暗かったから、はっきり覚えているわけではないけれど。
そんなものが私に向けられるわけがないと思っていた。だから。
(私、夢だと思ってて……っ)
もしあのときの夢だと思っているものが、夢じゃなかったのだとしたら。
胸の中に焦燥感が込み上げてきた。急速に乾いたように感じる喉をコクリ、と嚥下させる。
夢だと思って、言ってしまった言葉。
(もしあれを聞かれていたら、気まずいで済むレベルじゃない!)
心臓が喉元まで迫り上がってきているような錯覚を覚えた。
固まっている私の前で、出立の準備が整った旨を伝える声が響く。兄に促され、まだ混乱している頭を整理できていないのに馬車に向かって歩き出す羽目になった。
その先で待つクライブにどんな顔をすればいいかわからない。わからないまま、目の前までやってきてしまう。
周りは雑然とした音が溢れているはずなのに、ドクドクと脈打つ自分の心音以外は一切聞こえてこない。
これまでは私に手を差し出してくれていた兄が、今回に限って変に気を利かせてクライブに任せて先に乗り込んでしまう。
一瞬でも顔を合わせるのを先延ばしにしたいという逃避から、メリッサをエスコートして先に馬車に乗せてしまった。
それで最終的に私とクライブだけが残されてしまった時点で、なんて馬鹿なの。と気づいた。
その程度の頭も動かないほどに動揺していた。
馬車に乗り込むために、クライブがいつもと違って躊躇いがちに手を差し出してきた。
馬車ぐらい一人で乗れるけど、気遣われたそれを無視するわけにもいかない。だけど兄に女だと見抜かれた手を差し出さなければならないことに狼狽が滲む。
「アルト様」
不意に呼びかけられて心臓が跳ねた。
それは怒っているわけでも、責めているわけでもない。
どころか途方に暮れたようにも感じられる声。
恐る恐る顔を上げれば、対外的には微笑んでいることが多いクライブの表情は強張っていて硬かった。
兄が言ったように、怒っているわけでも、憎まれているようでもなさそう。とりあえず表面的には。
だからといって、当然ながら今までのような気安さもそこにはない。距離を測りかねているような、物理的な距離以上の距離を感じてしまう。
(むしろ今までが近すぎたわけで)
視線を落とし、声に促される形で指先だけを申し訳程度に乗せた。しかしそんな乗せ方では頼りなく感じたのか、指先を引かれてしかと握られる。
「!」
思わずビクリッと全身が跳ねた。悲鳴を上げなかったのが不思議なぐらいだけど、単に驚きすぎて咄嗟に声が出なかっただけ。
繋がった手から動揺が顕著に伝わってしまったようで、クライブが握っていた手から慌てて力を抜いた。だけど離されたわけではない。
緊張で冷たいはずの指先に、急速に熱が集まっていくかのよう。
いつもなら憎まれ口の一つも叩くところだけど、いま口を開いたら狂ったように早鐘を打つ心臓が勢いよく飛び出してきそう。
「アルト様。あの時、僕に──」
潜めた声で、クライブが何かを言いかけた。
「忘れてください」
反射的に最後まで言わせる前に遮っていた。顔なんて、とてもじゃないけど見られない。
「いえ、謝罪は忘れないでください。でもそれ以外は、忘れてください」
早口でそれだけ告げると、逃げるように馬車に乗り込み様に手を引き抜いた。
うわごとのようなものだったから、ちゃんと聞こえていたかどうかもわからない。
でももし聞こえてしまっていたのなら、何も聞かなかったことにして。
(あんなの、夢でなければ言うつもりなかった!)
だから何も言わないで。何も聞きたくない。聞こえていなかったのなら、それでいい。聞き返さないで。報われないことなんてわかっているのだから。
狡いとは思うけど、あえてそれを突き付けられたくなんてない。
それに万が一。
億万が一に、報われたとしても。
(私に想われても、重荷にしかならないでしょう……っ)
私の立場では、きっとそこに未来なんてないのだから。
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