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第61話 52 昔話をしよう

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 ──あれから駆け付けたメル爺を筆頭に、クライブ率いる部隊によって凶手は取り押さえられた。

 少数とはいえ精鋭で一気に制圧されたからか、幸いなことに軽微な被害で抑えられたという。
 セインとラッセルも怪我は負っていたものの、命に別状はない。メリッサも医務室で保護されていた。
 全員の無事な姿を見た時には、思わず抱きついて泣き崩れた。
 情けないことにそのまま気を失ってしまい、目が覚めた時には私は王都内で貴族が主に暮らしている住宅街の一角にある、メル爺の屋敷で保護されていた。

 あれから1週間以上経っているけれど、現在も滞在中である。

 とはいえ、私が襲われたのがよりによって神聖な祭祀の最中に起きたこともあり、忌み事として公にはされていない。
 元々あの日、城には限られた者しかいない。その上、私の部屋周りは人払いもされていたせいもあり、箝口令が敷かれて「何もなかった」ことになっている。
 しかしながら、城にいた王を含む高官には知られてしまっている。
 今は、誰も彼もが顔色を窺っているような状態だという。

 首謀者については現在調査中だと兄から聞いている。
 凶手は口を割らせるために命までは取っていなかったらしく、しかしそれが仇となって一部は逃走。捕らえられた者も服毒自殺を図ったりと、難航しているらしい。
 とりあえず私は今、城の自室で寝込んでいることになっている。
 幸か不幸か、よく寝込んでいたので私の姿が見えなくても不審に思われることもない。ある程度の安全が確保されるまでは、ここにいることになりそう。

 メル爺がスラットリー夫人と暮らすこじんまりとした屋敷には、家令と数人の侍女と衛兵がいるだけ。
 そこに今は私、メリッサ、セイン、ラッセルが加わっている。
 私自身、あんなことがあった城に戻りたい心境にはなれないので、この状況は有り難くもある。

(兄様に合わせる顔もないし)

 兄から定期的に見舞を兼ねた状況連絡を寄越されるけれど、あれからまだ顔は見ていない。あんなことがあれば当然だけど、相当忙しいらしい。
 ちゃんとお礼をしたいという気持ちと、焦りはある。
 けれど、まだ顔を合わせなくて済んでいることに少しほっとしていたりもする。

(真実を告げるべきだとわかっているのだけど)

 あんな後悔をまたするぐらいなら、すべてを詳らかにすべきだという気持ちはある。いつまでも見えないフリをして、兄に負担をかけさせるわけにはいかない。
 けれど、私の周りがそれを許してくれない状況になっている。

(全然逃げてくれる気がないなんて……っ)

 先日から、ずっとそれで頭を抱えている。
 私としては、ラッセルは私の秘密を知らないことにしてくれればいいとして、メリッサとセイン、メル爺を事前に逃したいという気持ちがある。
 ずるいとは思うけれど、少なくとも自分の意志に関係なく巻き込まれたメリッサとセインにまで罰を受けさせたくない。

「どうしても、逃げてはもらえないのですか」
「逃げる気は毛頭ありません。それに故意に逃がしたとなれば、アルフェンルート様のお立場が悪くなりましょう」
「立場が悪くなるも何も、結果は同じことです」

 今もメル爺と顔を突き合わせて、折衝中だったりする。
 全然頷いてくれないけれど。

「全く違いますな。アルフェンルート様もいわば被害者。全く責任を負わされないわけではありませんが、真摯であらせられれば辺境で軟禁か、修道女になることで済まされましょう」
「私以外の人を処刑台に送っておいて、ですか? 冗談ではありません。それぐらいなら誰に何と言われようと助けられるだけ助けて、私一人で清算した方がずっといい」
「それで私達には、貴方を犠牲にした上で生きていけと? 酷なこと仰る。老い先短い爺こそ、この命を役立てるべきでしょう」
「メル爺には家族がいるではありませんか。大事な人達まで巻き込むつもりですか」
「生憎と私には過去の功績というものがありましてな。私の首ひとつで済む程度には恩赦を賜ると思われます」

 ひたすら平行線だ。
 ああ言えばこう言う、絶対に引かない。
 ちなみにメリッサは「何と言われようとお断りします」の一点張りで、話を聞いてくれない。
 セインは「元々スラムでその内のたれ死ぬだろうと思っていたからな。むしろ今まで生きてきただけでも恩の字だ」と言われる始末。
 ラッセルには「知らなかったとしらを切りなさい」と言っても、笑顔で無言を貫き通される。あれは絶対に私の言うことを聞く気がない。

(どいつもこいつも、人の話を全っ然聞く気ないな!)

 私が誰も死なせたくないように、たぶん皆も私を死なせないように抗ってくる。
 その気持ちは、私にもわかる。
 誰かを犠牲にして生き延びたところで、それは心に消えない傷となって残り続ける。そしてそうまでして生き延びたら、簡単に死ねない。
 けれど罪を背負って生きていくことはきっと死ぬよりもずっと重く、辛く、苦しい。
 だけどこのままだと、誰一人助かることなく終わってしまう。

「あと1年程です。それだけ凌げば、アルフェンルート様が望まれた生活が手に入るのですよ?」
「その間、兄様に負担を掛け続けろというのですか。それに辺境に行ったところで、私を城に戻したい者がおとなしくしているとは思えません」

 メル爺が眉尻を下げて妥協案を出してくるけれど、素直に頷けない。
 あそこで助けてもらっておいて、でも実は全員処刑相当の罪があると兄が知れば、助けたことが心底馬鹿馬鹿しくなるだろう。色々と台無しだということもわかる。

 でもこのまま兄に言わないということは、私は兄の命を軽んじていることになるのではないの?

 命を天秤に掛けて、兄を切り捨てていることになる。
 実際、今までそうしてきたのだ。
 今更と言えば今更だけど、あれほどの迷惑をかけて、心を砕いてもらったのに、尚もそんな仕打ちをし続けろと?
 じっと睨むような強さでメル爺を見つめると、ひとつ溜息を落とした。

「アルフェンルート様が告げたいと仰るお気持ちを否定するつもりはないのです」

 そう言って、まっすぐ鋭い眼光で私を見据える。

「告げられるというならば、我らは逃げも隠れもせずにそれに従いましょう」

 言外に、その場合は逃げるのは無しだと告げられた。
 言い返せる言葉がなく、ぐっと喉を詰まらせる。そんな私を見て、メル爺は話は終わりだというように向かいのソファから立ち上がった。
 結局、最終的に判断を下すのは私なのだ。それは誰にも頼めない。
 どちらを生かし、どちらを殺すのか。
 すべて私次第。
 選択権は私に委ねられている。そして委ねられれば、私は決めかねてその場に立ち竦んでしまう。

(……私は兄様に真実を告げて、自分が楽になりたいだけっていうのもあるんだろうな)

 兄にこれ以上の負担を掛けさせたくない。それは紛れもなく本心。
 けれどこれ以上黙っていることで良心が痛むから告げたいと思うのは、私の勝手な都合でしかない。

(それにもしかしたら、兄様は私が女だと知っても公にはなさらないかもしれない)

 それはあくまでも仮定の話、ほんの数%に満たない可能性のひとつ。
 けれどそれならそれで、余計に性質が悪い。
 秘密を抱えさせた挙句、わかっていてずっと負担を負わせ続けるということになる。そんな厚顔無恥な真似をし続けることは出来ない。それに、そこまでの価値が自分にあるとは到底思えない。
 勿論、それはあくまでも「もしも」の話だけど……。

 ソファの背もたれに背を預け、深く長く息を吐き出す。
 自分一人だけで済む話じゃないだけに、心を決められずに立ち止まったまま。正しい道は見えているのに、それを選ぶことによって払わなければならない代償を考えると心が委縮する。
 いざとなると、踏み出すだけの勇気が出ない──。



   *

「アルフェンルート様」

 疲労を感じて目を閉じていただけのつもりだったけど、気づけば少し寝ていたのかもしれない。
 メリッサから声が掛けられて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。ぼんやりとした視界には硬い表情をしているメリッサが映る。

「どうかした?」
「シークヴァルド殿下がお見えになりました」
「兄様が!?」

 告げられた言葉に一気に目が覚めた。ぎょっと目を剥いて、慌てて立ち上がる。

「随分疲れているようだな」

 聞こえてきた声に驚いて振り返れば、1週間ぶりに会う美貌が目に入った。

「……兄様」

 兄の後ろには、クライブの姿もある。
 兄に丸投げしておいて、何もしていないくせに呑気に寝ていた姿を見られて顔が羞恥で熱くなった。

「申し訳ありません! あれほど助けていただきながらまともな御礼も出来ておらず、今も兄様にすべてお任せしてしまっている上に、このようなところにまでご足労いただくなんて……どうお詫びしたらいいか」

 しかし赤くなったのは一瞬で、思っていることを矢継ぎ早に告げるうちにどんどん顔から血の気が引いていく。
 言えば言うほど、自分の碌でもなさが浮かび上がる。

「落ち着け。私は怒っていないし、あんなことがあったのだからアルフェが倒れるのも想定内だ。むしろ起き上がれるようになっていてよかった」
「私は怪我を負ったわけではないですから」

 有り難いことにほぼ無傷だ。せいぜい扉を力いっぱい叩いた時に手の皮が破れて血が出た程度。すでに治りかけていて、怪我と呼べるほどじゃない。
 自分の弱さが恥ずかしくて顔を俯かせれば、ぽん、と軽く頭を撫でられた。
 優しい手だ。セインとラッセルの無事を祈っている間も、ずっと傍に付いていてくれた兄。

「私が不甲斐ないばかりに、多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げて、あの日言えないままだった言葉を告げる。

「本当に、ありがとうございました。兄様とクライブには、感謝してもしきれないです」

 真実を告げるかどうかは一旦置いておいて、言うべき言葉だけは先に言っておく。
 この先無駄になるかもしれないけれど、それでも、心から感謝しているのは本当。

「よかったな、クライブ。体を張った甲斐があったというものだな。これで汚名返上できたのではないか?」
「だといいのですが」

 そんな私の頭上で、なぜかそんな呑気な会話が繰り広げられる。
 私の感謝が、なんだかけっこう台無しというか、軽い扱いをされている気がする。
 しかし顔を上げるわけにはいかないのでそのままの体制で耐えれば、「アルフェ、頭を上げるといい」と兄から声が掛かった。
 ゆっくりと顔を上げれば、兄が淡い灰青色の瞳でまっすぐに私を見つめた。

「上の者が下の者を守るのは当然のことだ。むしろ危険な目に遭わせてすまない」
「兄様に謝られるようなことではありません」

 悪いのは兄ではない。
 慌てて首を横に振れば、微かにだが兄の強張って見えた顔が緩む。

「とりあえず今日は色々と報告がある。スラットリー老、よろしいか」
「はい」

 それまで黙って扉近くに控えていたメル爺を促し、兄が向かいのソファに座った。
 クライブがその斜め後ろに立ち、私は兄と同じようにソファに腰を下ろす。メル爺も兄に促され、私の隣に座った。

「アルフェを襲った首謀者だが、わかったといえばわかったが、わからないといえばわからない」

 意味の分からない言葉を言われて、思わず眉を顰めて首を傾げる。

「現状の調査結果だけ言えば、首謀者はオーウェン・エインズワース。エインズワース公爵子息、長子の方だ」
「!」

 一瞬、言われた言葉が理解できなくて目を瞠った。
 それはメル爺も同じだったようだ。ただでさえ厳めしい顔を更に顰め、口を開く。

「そんな大それたことをするような方ではなかったと思いますが」
「そうだな。エインズワース公爵の影に隠れて、私も記憶に薄い。飛び抜けたところがあるわけでもないし、そもそもエインズワース卿がアルフェを手に掛ける意味は全くない」

 エインズワース公爵の長子ということは、母である第二王妃の兄。
 セインの異母兄ということになる。

「アルフェ、一応訊くが心当たりは?」
「私も伯父様には子供の頃に何度かお会いしたっきりなので、思い当たることはありません」

 今はセインがしていることだけど、セインが来るまではたまに伯父が私のところに様子伺いに来ていた。
 エインズワース公爵には似ておらず、覇気に欠ける物静かな印象の人だった。
 個人的に、嫌う要素はなかったように記憶している。どころか彼は私に同情的ですらあったように見えた。
 それもここ数年は全く見ていないので、今はどうなっているか知らない。特に目立った噂も聞かないので、可もなく不可もなくという人なのではないかと思うけれど。
 素直に困惑も露わに告げれば、兄がわかったという代わりに頷いた。

「しかし、エインズワース卿がやったという証拠しか出てきていない。ただ普通、暗殺を企てておいてここまで何の偽装もしていないことは考えられない。いくらなんでも、そこまで愚かではないだろう」
「だとしたら、彼は嵌められたのだと?」
「そう考えた方が自然ではある。ただ本人に詳しく訊こうにも、エインズワース公爵が息子がそんなことするわけないの一点張りで耳を貸さなくてな。本人には会えていない」
「それはそうでしょうな。聞いている我々も、彼がアルフェンルート殿下を害する理由が何一つ思い浮かびません」

 彼の立場なら私を守りこそすれ、排除する方向には動かないはずだ。
 それにもし本当に私を排除するつもりでいたのなら、私がもっと子供の頃、顔を合わせていた時にしているはず。
 今になって、ここまで大事に事を起こす理由もない。
 全員が首を捻って黙り込む。
 しかし嵌められたのだとしたら、エインズワース公爵子息に疑いを被せた首謀者が別にいる、ということになる。

(でも、よりによって王すら凌ぐ力を持つ大貴族に、喧嘩を売るような真似をする?)

 王家とエインズワース公爵家、両方の顔に泥を塗ったことになる。
 そんなことをして一体何の得があるのか。首謀者が何を考えているのかさっぱりわからない、というのがここにいる全員の意見だろう。

「そんなわけで調査は難航している。まだしばらくアルフェは城に戻せない」
「アルフェンルート殿下がこの屋敷に滞在されることに、私は勿論異論はございません。ここならば守りやすくもあります」

 メル爺の屋敷の衛兵はメル爺仕込みだから、近衛並みに腕が立つ。周りを平面の広い庭に囲まれた小さな屋敷なので侵入者がいれば目立つこともあり、城よりは格段に安全である。 

「私もそれは全く構わないのですが……」
「といっても、ずっとここにいるのは退屈だろう。以前に約束していたし、気分転換もかねて私とランス領に行くか?」
「……はい?」

 一瞬、真顔で言われた言葉が理解できなかった。目を瞬かせて、聞き返す。

(え? 今? ランス領に行くの?)

「このような時に、ランス領に行くのですか?」
「敵もこんな状態でアルフェが呑気にランス領に遊びに行くとは思わないだろうよ」
「それは、当然そうでしょうけれども」
「裏を返せば、そこが安全ということだ」

 唖然として聞き返せば、兄はあっさりと頷く。
 それはそうかもしれないけど、でもそんな簡単な話ではないのでは!?
 思わずクライブに視線を向ければ、クライブも納得済みの話なのか平然とした顔で頷かれる。

「綺麗で涼しい場所ですから、静養されるには丁度よろしい場所ですよ」

 いや、いやいや、待って! にこやかな笑顔で勧められるけど、そういうことしている場合じゃないでしょう!?
 じゃあ他に何をすればいいのかと聞かれても困るけど、少なくとも遊んでいる場合じゃない。
 狼狽えて絶句する私を見て、「とはいっても、ほんの数日の話だ。私はそう長く滞在は出来ないからな」と兄が続ける。
 多忙な兄からすれば当然だろう。その数日すら、きっと無理に捻出させることになるのだと想像できる。

「ただアルフェが城にいるように思わせるために、スラットリー老とラッセル、セイン・エインズワースも城に残すことになるが」

 それまで淡々と告げていた兄が、不意に真剣な顔になって私を見据えた。
 それはつまり、私の戦力が全部取り上げられた状態ということになる。勿論、そうでもしないと敵に私が城にいるとは思わせられない。
 それでも不安が滲み出てしまったのだと思う。兄がじっと探るように私を見つめた。

「相応の護衛は連れていくつもりだが……それとも私が、信用できないか?」
「そんなことはありません!」

 間髪入れずに否定を口にして、慌てて首を横に振る。

「これほど助けていただいて、そんな疑いを欠片でも兄様に持つことはありません。ただ……」
「ただ?」
「兄様にそこまでしていただくのが心苦しいのです。私は兄様に、何もお返しできないのに」

 たぶん兄がランス領に連れて行ってくれるというのは、安全だというのもあるだろうけど、それ以上に私の気分転換の方を重視しているように思える。
 私が見るからに疲労していて、気が滅入っていることは手に取るようにわかっているのだろう。
 でも散々迷惑をかけておいて、ただでさえ私は、真実を告げるかどうかで足踏みをしているのに。
 兄よりも、自分の周りを大切に思ってしまっているのに。
 こんなに大事にしてもらう価値なんて、私にはない。

(なんで全部、大事に出来ないんだろ)

 どっちも大事で、どっちも失くしたくない。
 両手いっぱいに抱え込んで、全部守れたらいいのに。それだけの力があればよかったのに。
 そう考えたところで、力なんて降ってこない。
 どちらかしか、選べない。
 唇を噛み締めて、無意識に拳を硬く握り締める。

「何もと言うが、私にはアルフェに助けられた恩がある」
「それはっ、でもそれは、元々……私のせいではありませんか。私がいなければ、あんなことにはならなかったのです」

 そう、私さえいなければ。
 私が我儘を言って、生に縋りつかなければ。
 周りの人じゃなくて血の繋がった兄を大事にしていれば、起こりえなかったことだ。
 兄が暗殺されそうになったところを庇ったといっても、元を正せば自分で蒔いた種を自分で回収しただけに過ぎない。それもたくさんばら撒いた種のうちの、ほんの一粒。たった一度きり。

(恩に感じてもらうようなことなんかじゃ、ない)

 ぐっと奥歯を噛み締めて、今にも自分が本当は女なのだと叫んでしまいそうなのを堪える。
 ここまできても尚、すぐに兄を選べない自分に反吐が出そう。
 だって、どっちも大事。
 どっちも失くしたくない。
 でも優柔不断にそうやって欲張った結果、結局どちらも失くしてしまう日が来るような気がする。
 そう考えただけで心臓が鷲掴まれたように軋んだ。バクン、バクン、と痛いぐらい鼓動が強く胸を打つ。

(私は、兄様を選ばなきゃ)

 過ちを正すべきなのだと、罪は償うべきなのだと、そうわかってる。先延ばしにしたって、余計に苦しくなるだけ。それにあんなことを、これ以上兄の身に繰り返させるわけにはいかない。
 殺されそうになるのが、どれだけの恐怖か理解した今。そして実際に殺されることが、どれほどの絶望なのか。
 私は誰よりも知っているのだから。

「兄様。私……私は、」

 本当は──。

 告げようとして、けれどその先の言葉が喉に張り付いたように出てきてくれない。
 何度か口を閉じて、開いて、ただ擦れた息だけが零れる。声にならない。
 どうして。ここまできて。
 不意に、兄の溜息が聞こえた。

「スラットリー老、少しアルフェと二人で話をさせてもらってもいいか。扉は開けたままでかまわない」
「……承知致しました」
「クライブ、おまえもだ」

 メル爺が頷いて立ち上がると、兄が顔をクライブに向ける。
 クライブは少し渋い顔をしたけれど、「すぐ外の扉脇には控えさせていただきます」と言い置いてから部屋から出ていく。

「アルフェ、こちらへ」

 それを見送って、兄が座るソファの自分の隣を軽く手で叩いた。
 わざわざ人払いしてまで何の話かと慄きつつも、兄に対しての警戒心はないと告げる代わりに言われるままに移動して隣に座った。

「まあ聞かれてもよかったのだが、クライブがいると余計なことを言われそうだったからな」

 拳二つ分ほどの距離を置いて座れば、そう言いながら兄が私の片手を手に取った。

「あの、兄様? 私の手がどうかしたのですか」
「いや、ずいぶん大きくなったな、と思ってな」

 しばらく手を眺め眇めつされて、居心地悪くて呼びかければ微かに笑う声が耳に届いた。

「少し昔話をしよう」
「昔話、ですか?」
「ああ。おまえは自分など不要だと言うがな。アルフェが生まれて一番喜んだのは、きっと私だ」

 そう言って、兄は冷たく見えるはずの淡い灰青色を優しく笑ませた。


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