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第30話 25 誰にでも弱点はあるらしい

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 こんな場所にいるはずがない人の姿を視界に納めて、半ば呆然とその名を呼んだ。

「兄様?」

 挨拶すら忘れて驚きに目を瞬かせる。どうしてこの人まで、こんなところに!?

「何を一人で勝手に歩き回っているのですか。護衛はどうしました。それに本来いまは執務中のはずでは?」

 そして、そう思ったのは私だけではないらしい。
 クライブから矢継ぎ早に兄を咎める声が飛んでくる。その鋭い声に驚いてクライブの方を見れば、硬い表情で兄を睨みつけていた。
 まさかクライブが兄すら睨みつけるとは思わず、慄いて息を呑む。
 しかし兄は睨まれても堪えた様子は一切ない。

「クライブに用があったから降りてきたのだ。護衛はおまえの姿が見えてから下がらせている」

 飄々と答えている。
 以前にも思ったけど、どうやら二人は乳兄弟ということで随分と遠慮がない間柄のようだった。ゲームではもっと主従色が強かったから、こういう素の二人の姿を見せられると驚かされる。
 それはともかくとして、間に挟まれる形になった私はどうしたらいいのかわからない。

「しかし丁度良かった」

 困惑して固まっていると、憮然とした表情でまだ何か言いたげなクライブを無視して、兄がさりげなくクライブから私の手を取り返してくれた。
 それだけでなく、クライブに冷めた眼差しを向ける。

「人には得手不得手があると言っただろう。ただでさえアルフェは病み上がりだというのに、何を無茶なことをさせようとしている」
「いくら僕でも殿下相手に本気で鍛錬しようとは考えていません。ただ、殿下の周りは殿下が剣を持つことから遠ざけておられるようだったので、念の為にご本人の意思を確認していただけです」
「どう見ても嫌そうにしか見えなかっただろう。諦めろ。これはこういう生き物なのだ」

 こういう生き物呼ばわりされたことに複雑な気持ちにならないわけではないけれど、言い回しはともかく庇ってくれているのはわかった。
 冷たそうな外見のわりに、助けてくれた大きな手はあたたかい。
 本来警戒しなければいけない相手だというのに、ほっとしてしまった。
 この人の傍は緊張するけれど、先日会った時も思ったけど不思議と安心感も抱かせる。
 たぶんそれは、私に対して敵意どころか警戒すら抱いていないのが伝わってくるからだ。
 今もこうして私を庇ったからといって、恩に着せる気配も感じない。単純に、弟が弄られて見えたから兄として助けに入った。この人にとっては、ただそれだけのことなのだろう。

(騙している身としては、ここまで信用されるのはちょっと心苦しくはあるんだけど)

 むしろこんなに信用されてしまっていいの? って言いたくなる。
 確かに私自身は警戒するのも馬鹿馬鹿しいほど弱い子供にしか見えないわけだから、兄の反応も当然といえば当然かもしれないけれど。
 ゲームの中の彼は冷たい印象があったものの、だからといって弱者を虐げる人ではなかった。
 公平に公正に、物事を正当に評価し、それを揺るがすものには適正な処罰を与える。
 感情に流されないから冷徹に見えるけれど、極めて冷静な人なだけなのだと思う。だからこそ、時期王としてこの人以上に相応しい人なんていないと思っている。
 心から尊敬しているし、この人の邪魔はしたくない。

(きっと私が本当に第二皇子だったとしても、そう考えてた)

 やんわりと握られたままの手をそっと握り返すと、こちらに視線が向けられた。私が不安に思っていると勘違いしたのか、心配ない、と言わんばかりに僅かに目を細めて微笑まれる。
 そういう顔を見ると、本当にちゃんと『兄』をしてくれているのだな、と思わされる。

 ……騙していることが、息苦しくなるぐらい。

 どんな顔をしたらいいのかわからなくて困った顔をしてしまった。そこにクライブの嘆息が聞こえてくる。
 反射的にビクリとしてそちらに顔を向けた。

「とりあえず貴方が仰るように、アルフェンルート殿下ご本人もこういったことは苦手であることはよくわかりました」

 恐る恐る窺ったクライブは、じっと私を見据えていた。
 たぶん呆れられている。でも苦手な物は苦手だから仕方がない。
 前世でもスプラッタやホラー等、血が出るものや格闘ゲームも苦手だった。痛いことも嫌いだから、注射の針ですらいつも目を逸らしていた。
 思えば小学校のドッジボールでは、当たって痛い思いをしたくないが為だけに逃げ回って毎回最後まで残っていたタイプだ。
 だから本来の反射神経自体は鈍くないのだろう。しかし、戦うより逃げることに全力を尽くしたい。
 必死に足を踏ん張って後ずさらないように堪えているけれど、探る視線に見据えられて背中に冷たい汗が滲む。
 数秒に思えたけれど、実際にはほんの数瞬だったのかもしれない。
 息を詰めて固まる私の姿を見てクライブも諦めたのか、もう一度小さく息を吐いた。

「でしたら、僕も無理強いはしません」
「えっ。いいのですか?」

 思ったよりもあっさりと引かれた。驚きに目を瞠って聞き返してしまう。
 てっきり、そんなことではいけないと言い諭されるかと思っていた。拍子抜けだ。

「苦手意識のある人が嫌々剣を持ったところで上達はしないでしょう。むしろそこまで及び腰ですと、余計な怪我をされそうですから」

 仕方がないと言いたげではあったけれど、私を鍛えることは諦めてくれたみたい。ほっと胸を撫で下ろす。
 諦めたのは兄が諭してくれたからなのも多分にあると思うけど、ともかくよかった。本っ当によかった……!
 万歳したい気分を懸命に堪えて、「そうですか」と神妙に頷くに留める。だけど声に喜びが滲んでしまったかもしれない。クライブがちょっと呆れた目をして見えた。

「それより、シークヴァルド殿下は何の御用でしたか」

 しかしすぐに私から視線を外し、クライブは顔を引き締めて兄へと視線を向けた。
 わざわざ呼びに来たのなら、何か重要な用だったに違いない。
 ならば私はこれ以上ここにいるべきではない。そう思って下がろうとしたのに、なぜか兄は私の手を離す気配がない。どころか、手を繋いだまま私の方に淡い灰青色の瞳を向けてきたのでドキリとした。

「それならもう済んだ。アルフェを迎えに行ってほしかったのだが、ここで本人に会えたからな」
「私に御用ですか?」

 意外なことに自分の名前を持ち出され、内心ぎょっとしつつ兄を見上げた。
 あまり感情を示さない表情からはどういう用件なのか一切感じ取れない。緊張で体が強張る。
 先日お忍びで街に行ったことの説教?
 そういえば、さくらんぼのお礼もまだ言ってなかった。どころか、今更だけど挨拶すらしていないことに気づかされて顔が強張る。

「兄様、先日はさくらんぼをありがとうございました。とても甘くて美味しかったです。それで、報酬という意味がよくわからなかったのですが……」
「その件も含めて聞きたいことがあってな。とりあえず、立ち話もなんだな。見せたいものもあることだし、いま少し時間はいいか?」

 慌ててお礼を言ったものの、そんな私の非礼を気にした様子もない。
 聞きたいことと言われてギクリと心臓が竦んだ上に、見せたいものと言われて内心首を傾げたが、とりあえず時間はあるので「はい」と頷く。
 そもそも私に兄の誘いを断れると言う選択肢はない。

「ですが、その前にスラットリー老に一言断ってきてもよいですか? そろそろ戻らないと心配すると思うのです」
「それなら心配いらない。彼なら先程からそこで目を光らせているからな」

 兄の目線に促されるまま目を向ける。
 いつの間に来ていたのか、メル爺が数メートル離れた場所で静かに佇んでいた。
 いつもは威圧感を感じさせるほどだというのに、完全に気配を消していたことに驚いて目を丸くしてしまう。

「メル爺、いたのですか」
「勿論ですとも」

 何の感情も映していないその表情からは、何を考えているのか読めなくてちょっと怖い。剣の柄に手を掛けたりはしていなかったけれど、一応、大丈夫だという代わりに慌てて首を横に振った。僅かにメル爺の目元が緩んで頷かれる。

「少しアルフェを借りていくが、後でちゃんと返しに来るから安心してほしい」
「病み上がりの身であらせられますので、くれぐれも無茶はさせないようにしていただきたいものですな」
「ああ、承知している」

 年の功というべきか、メル爺は第一皇子相手であっても遠慮なく戒める言葉を投げかけた。
 兄も年配の老騎士には敬意を払っているのか、その態度を諫めることもなく素直に頷く。

「許可も取れたことだし、行こうか」

 やんわりと手を引かれ、促されるままに歩き出す。
 当然クライブもその後を付いてくる。だけど少し緊張しているのか、顔が強張って見えた。
 すごく珍しい物を見た気分で、思わず驚いてしまう。

(もしかして、メル爺が見送っているせい?)

 メル爺は騎士達には恐れられていると聞く。クライブも例外ではないってことなのかな。すごく意外。

「クライブでも、スラットリー老は怖いのですか?」

 意外過ぎて、メル爺の視界から消えてすぐに好奇心に負けて問いかけてしまった。
 クライブは私の質問を受けて、珍しく一瞬喉を詰まらせる。
 その沈黙こそが答えだった。
 そしてその隙に、クライブではなく兄が口を挟む。

「あそこでアルフェを苛めるのを止めてやった私に感謝してほしいものだな」
「言っておきますが、僕もスラットリー老には気づいていましたよ。さすがにそこまで腐抜けていません。それでも必要だと思ったから聞いたまでです」
「だが私が止めてやらねば、今頃アルフェの代わりにスラットリー老がおまえの相手をしていたことだろうな。潰すつもりで」
「……恐ろしいことを言わないでもらえますか」

 苦虫を噛み潰した様な表情でクライブが呻くように口にする。その姿からは、明らかな苦手意識が見て取れた。
 クライブは兄を失う以上に怖いものなんてなさそうだったから、これは意外な弱点かもしれない。
 そう思うと自然と口元も綻んでしまう。

「なぜそんなに嬉しそうなのですか、殿下」

 対して、そんな私を見咎めたクライブが口元をへの字に歪めた。
 慌てて口元を引き締めたけれど、隣で兄が小さく喉を震わせて笑うのが伝わってくる。

「哀れなほど嫌われているのだな、クライブ」
「これから改善していくので問題はありません」

 乳兄弟をせせら笑う兄の姿に驚きつつも、仏頂面で言い返すクライブの言葉にも動揺して息が止まった。

(改善する気があるの!?)

 先程クライブに告げられた言葉が思い出されて、あれは本当に本気だったのかと慄きを隠せない。
 まだ脳があの言葉を理解するのを拒否している。おかげで思考はフリーズしてしまう。

「クライブはこう言っているが、アルフェ、どうする?」
「どう、と申されましても……」
「なるほど、前途多難だな」

 唐突に返事に困る話を振られて困惑する私を見下ろし、くっくっと喉を鳴らして笑う兄は心底楽しそうだ。

(この人、実はちょっと性格が悪いのかもしれない……?)

 いや、まさかそんな。ゲームの中の彼も確かにちょっと意地が悪いところはあったけれど、まさか。まさかね。
 じわり、と嫌な汗が滲む。
 ゲームの情報以前に第一皇子としての兄に夢を見ている部分があっただけに、目の前の姿を受け止めるのにちょっとどころではない衝撃があった。
 でも幼い頃から自分の近しい存在に命を狙われ続けていたら、誰だって歪むに決まっているとすぐに思い直す。むしろこの程度の歪みで済んですごいと思うべきである。
 今だってその元凶である私のことをないがしろにするわけでもない。むしろ狙っている人物と私をちゃんと区別して接してくれている。
 もし私が同じ立場だったら、どれだけ割り切ろうとこんな風には出来ない。
 そう考えれば、やっぱり尊敬の念しか湧かない。
 ちょっと怖いところもあるけれど、兄だって自分の身を守らなければならないのだ。ある程度は仕方がない。

(私は多分、この人のことは嫌いじゃない)

 むしろ好きだな、と思う。
 こういう素の姿だって、本当なら私に見せない方がいいに決まっている。なのにこうして取り繕うこともなく見せてくれているのは、兄なりに心を開いてくれているからだと思う。
 それがいいか悪いかは、別として。

 そんなことを考えながら歩き続けているうちに、来たことがない場所へと入り込んでいた。
 人目を避けてなのか庭を突っ切ってきたけれど、この辺りは本来、私は立ち入ることが出来ない場所だ。
 つまり第一王位継承者の宮がある付近ということになる。
 自分の部屋のテラスからその建物を見たことはあったけれど、入るのは当然初めてだ。

「兄様、どちらに向かわれているのですか?」

 てっきり先日伺った執務室に行くのだと思い込んでいただけに、予想もしていなかった方向へと進むことに怯える気持ちが湧いてくる。
 メル爺に断りを入れていた手前、身の危険はないだろう。それとは別の焦りが滲む。
 こんなところに私が入ってもいいの!? だってここって、ここって……!

「ああ、もうすぐ着く」

 そう言って、隣を歩く兄が目の前に立つ小ぶりな宮を目で示した。

「私の部屋だ」

 冗談でしょう!?


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