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第28話 23 どうしてそうなった
しおりを挟む恥も外聞もなく泣いたせいか、おかげで随分と頭の中はスッキリした。部屋に戻ってきてからは、スッキリしすぎて冷静さを取り戻してしまい頭を抱えたけれど。
(弱っているときって、自分でも何をしでかすのかわからない……ってことがわかった)
心から反省はしたけど、死にたくなるほど絶望感を覚えなかったのは相手が先生だったからだろう。
泣き止んだ私の顔を見ても、気遣うどころか「見るに堪えないな」と眉を顰める人だ。私の泣いた事情より、涙と鼻水で手を汚されたことしか気にしていなかったに違いない。
お詫びにハンカチは渡しておいたけど、よく考えたら最初からそれで顔を拭いておけばよかったのでは……。
とにかくそんな人が相手だったからこそ、たぶん私が泣いたことを向こうもそれほど気にしていないはずだ。おかげで気楽に構えられる。
いや、気楽にしていちゃダメなんだけど。
そう自分に突っ込めるぐらいには、回復したと言っていい。
どちらにしろ、滅多に顔を合わせることのない人だということに救われた。また偶然会えたとしても、忘れた頃だろうから気が楽である。
それから数日は休んでいた分の勉強とダンスの練習を詰め込まれ、図書室に行く時間もなかった。
焦る気持ちもある反面、先延ばしできたことに安堵もしていた。
とはいえ兄とクライブへの御礼に手配しておいた物がもうすぐ届くと思うから、そろそろ覚悟を決めて会いに行かなければならない。
けれどその前に、ここ数日ちょっと気になることがある。
「セイン、大丈夫? すごく疲れていない?」
いつも夕食前後に顔を出してくれるセインが、このところやたらとくたびれた雑巾みたいな状態になって帰ってくる。
日に日に切り傷と擦り傷が増えていっているし、立っているのも億劫そうなほど疲労困憊して見える。思わず気遣う声が出た。
「大丈夫だ。ちょっと扱かれているだけだから」
声も疲労している。ただそんな状態でも目から精気が失われてはいない。
どころか明日こそやり返す、と言わんばかりの気概が感じられた。気圧されて「そうなんだ」とだけ頷いておいた。セインもそれ以上は何も言わないので、あまり私には言いたくないのかもしれない。
(苛められてるってことはないと思うのだけど)
デリックのセインに対する態度を見た限りでは、陰口を叩かれている可能性はある。
とはいえセインはエインズワース公爵子息だ。訓練中にあからさまな嫌がらせとかは受けないと思う。
(ということは、相当メル爺に扱かれてるのかな)
セインは来たばかりの頃から、よくメル爺に連行されて稽古をつけられていた。
何度か見学したこともあるけれど、私に仕えるということで更に厳しくされていたのだとは思うけど、メル爺はたとえ子供でも容赦がない。
先日街に出た際の事の顛末は報告されているだろうから、メル爺から再教育を施されている可能性は高い。
(明日にでも様子を見に行ってみよう)
メル爺、たまにやりすぎることがあるから……。
***
午前の勉強で出された宿題をやっと片付け終えたのは、もうすぐお茶の時間という頃合いだった。
ここでの勉強は礼儀作法や簡単な計算、この国の歴史、国内の地形や気候、特産品等の経済状況、誰が治めていてどんな一族なのか等。
いわば国語・算数・歴史・地理・公民辺りが主だ。
理数系じゃないので、数学・物理・化学要素がないのは本当に助かった。いくら全体的に前の生の方がずっと高等教育だったとはいえ、学生をやっていたのなんて十年以上前だから覚えていない。微分積分とか持ち出されたら絶対に発狂していた。
「お出かけされるのですか?」
机の上を片付けていると、メリッサが気づかわしげに問いかけてきた。
先日図書室から帰ってきた私の顔がかなりひどいことになっていたから、とても心配させてしまったのが原因だと思う。
「うん。メル爺のところに顔を出してくるよ」
今も心配しているのがわかる。眉尻を下げながら、今日は大丈夫だと口にする代わりに行き先を告げた。
メル爺の名前を聞いて、メリッサが安堵の息を漏らす。私を気遣ってあからさまに顔には出さないけれど、さすがに生まれた時からの付き合いなので気を遣わせてしまっているとわかる。
(もっとしっかりしないと)
ただでさえ頼りない主人なのだから、こんな風に心配させないように気をつけないと。せめて表面ぐらいは取り繕えるほどに強くならなくてはと、自分に言い聞かせる。
「じゃあ、行ってくる」
「アルフェンルート様」
出来るだけ柔らかく微笑んでから扉に向かって足を向けたところで、メリッサに呼び止められた。
振り返ると、まっすぐに私を見つめるメリッサの榛色の瞳と目が合う。
じっと私を見つめたまま、その唇が数秒躊躇いを見せた。その態度の意味を図りかねて小首を傾げれば、メリッサは一度唇を引き結んでからゆっくりと口を開く。
「おこがましいとわかっているのですが、ひとつだけよろしいですか?」
「うん」
メリッサがこんなことを言い出すなんて珍しくて、ただ頷いてその先の言葉を促した。
「私は……私だけは、何があってもアルフェンルート様の味方ですから。どんなあなたであっても、私のあなたを想う気持ちが揺らぐことはありません」
強い眼差しではっきりと宣言されて、息が止まった。
「だからその、言いたくないことは言われなくてもよいのですが、私の前でまで無理に強くあろうとなさらなくても、よいのですからね……? アルフェンルート様が一人で泣いている方が、私にはずっと」
最初の方は強い口調だったのに、最後の方は口にするのを迷ったのか弱弱しげになった。榛色の瞳がだんだんと不安に揺らめいて、窺うように上目遣いになる。
言われた言葉に驚いてまじまじと見つめ返してしまった。
言ってしまったどうしよう、と言わんばかりにメリッサが狼狽えて息を呑んだ。恥じ入って耳まで赤くして、最後は耐えかねたのか俯いてしまう。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを申し上げました」
「待って! ごめん、違う。驚いて声が出なかっただけだから。呆れてるとか、怒ってるわけじゃない」
慌てて弁解して、咄嗟に下がろうとしたメリッサの手を取って引き留めた。
胸の奥に灯りが灯されたみたいにあたたかくなって、じわりじわりとそこから全身に熱が広がっていく感覚に襲われる。
実際に、いま私の体温は数度跳ね上がった気がする。
「ごめん、メリッサ」
いま掴まえた感情が消えてしまうのが怖くて、引き留めるために握りしめた自分の手が震える。その手がしっかりと握り返されることに安堵の息が漏れた。
きっと私は私が思っている以上に、周りの人に恵まれている。
よく考えれば私にメリッサの気持ちがわかるように、メリッサも私が強がっているとわかってしまうに決まっている。
あんな顔で帰れば当然心配させただろうし、今更取り繕ってもあまり意味はなかった。隠されている方が余計不安に思わせてしまうだろう。
(そんなこともわからないぐらい、周りが見えていなかったんだ)
メリッサの立場で私にこういうことを告げるのは、かなり悩んだと思う。
乳姉妹とはいえ、メリッサは自分の立場をわきまえている。私が引いた線を無理に踏み越えてきたりはしなかった。やきもきすることも多かったはずなのに、黙って傍にいてくれた。
私は彼女に何が出来るんだろうって考えても、いつも何も返せるものがないと思っていた。巻き込んで申し訳ないという気持ちばかりがあって、遠慮をしていた部分は多分にある。
でもメリッサにとってそれは、逆に淋しいことだったのかもしれない。信頼されていないと感じさせていたのかも。
ここまで来たら一蓮托生で、いわば戦友みたいなものなのに。
ましてや主導権は私にあり、メリッサは私に振り回される形でしか関われない。
それなのに、これまでずっと何も言わずに付き従ってくれていた。
そんなメリッサに何も言わずにいた私は、ずっと不誠実に映っていたかもしれない。
「メリッサを信頼していなかったわけじゃないんだ。負担をかけさせたくないと思っていただけで……でも逆にそれが不安にさせていたなら、ごめん」
「いいえ、アルフェンルート様のお気持ちはちゃんとわかっています。どれだけお傍にいると思っているのですか。そんなあなただから、私は心からお仕え出来ているのです」
そんなことを言われるほど大層な人間だとは思えなくて顔が歪む。
メリッサは宥めるように優しく微笑んでくれた。
「アルフェンルート様、怖いときは逃げ帰ってきても構いません。そんなことを軽蔑したりは致しません。むしろよく逃げてきたと褒めて差し上げます。私はお傍にいることぐらいしかできませんが、どうか、お一人で抱え込まないでくださいませ」
ちょっと叱るような、それでいて優しい声だった。
「メリッサは、どんな時でもアルフェンルート様の味方です」
その言葉が、どれだけ私に力をくれただろう。
(たったこれだけで、何でもできるような気がする)
泣きそうになって、だけどこんなときに泣き顔を見せることなんてしたくなくて、胸に込み上げてくる感情のままに笑い返す。
だってこんなにも嬉しいのに泣くなんて、勿体ない。
きっとこういう時は、笑顔の方がずっといい。
「ありがとう、メリッサ。あなたが私の姉で、本当によかった」
心から、そう思うよ。
「勿体ないお言葉にございます」
メリッサは一瞬目を瞠って、花のように顔を綻ばせた。
すぐに照れ臭いのか表情を改めると、私の手を離してそっと背中を押してくれる。
「それではアルフェンルート様、お気をつけていってらっしゃいませ。くれぐれもご無理はなさらないでくださいませ」
「わかった。帰ったら、話を聞いてくれる?」
「ええ。アルフェンルート様がお話になりたいと思ってくださることなら、なんだって」
「うん。それじゃあ、いってくる」
そう告げて今度こそ部屋から出る自分の足取りが、驚くほど軽く感じられた。
別にだからといって事態が劇的に改善したわけではない。まだ色々とやらなければいけないことや考えなければいけないことも山積みだけど、一人で頑張らなくてもいいのだと言われたようだった。
それだけで、なんて心強く感じられるんだろう。いまだけ無敵になった気分。
*
自室を出て護衛を伴い、メル爺のいる医務室へと足を進める。
メル爺の在籍する部屋は兵が訓練する広場に隣接している為、近づくにつれ絶え間なく剣の弾き合う音や指示を飛ばす声、たまに怒声も聞こえてくる。城内で一番騒がしい場所だ。
普段人気の少ない静かな場所でばかり過ごしているので、近づくだけで緊張で強張りそうになる。
幸い医務室へと続く廊下に人気はなかったけれど、いつ怪我人がやってくるかわからないというのがネックだ。
ついさっき無敵な気分になったばかりだけど、だからといって実際に無敵になったわけじゃないので油断は禁物だ。
「スラットリー老、アルフェンルート殿下がお見えになりました」
ようやく辿り着いた医務室の扉を叩き、護衛が中に声を掛ける。すぐに「入りなさい」と声が聞こえてきて、開かれた扉の中に足を踏み入れた。
「いま、お時間いいですか?」
「勿論ですとも。さっそく言いつけを守られてえらいですな」
たかがここまで散歩に来ただけで、メル爺はいかめしい顔を破顔して褒めてくれる。
確かに普段の私からしたら冒険に近いけど、さすがにちょっと甘すぎる気がする。それにうっかり喜んでしまいかけた自分を必死に戒め、「ちょっと歩いてきただけですよ?」と苦笑しておく。
手招かれるまま部屋に入る。
周りを見渡してみたけれど、部屋の中にはメル爺しかいなかった。二つある簡易ベッドも空いていることにほっと息を吐く。
その間にメル爺は護衛に「殿下は後で私が送り届ける。先に戻られよ」と言って早々に追い返していた。
護衛と言っても私の秘密を知っているわけではないので、メル爺と二人きりになると肩から力が抜ける。
「ちょうど茶でも飲もうかと思っていたところでしてな。次にいらっしゃるときには茶菓子ぐらい用意しておきますわい」
「そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫です。それより本当にお邪魔してもよいですか? 私は邪魔ではありませんか?」
「なぁに、ここに運び込まれてくる奴らは訓練中にちょっと怪我をした程度です。むしろアルフェンルート様がいらした方が私の機嫌がいいので、怪我人に喜ばれるのでは?」
そうですか、と言うのもおかしいので曖昧に笑って流しておく。
明らかに訓練中にミスをして出来たと思われる怪我を見ると、メル爺はこっぴどく説教、場合によってはしばらく自ら率先して鬼の如く扱くと聞いたことがある。
それがもし私がいることで多少は緩和されるなら、怪我人には有り難い話なのかもしれない。
促されて椅子に座った私とは反対に、がっしりとした体格からは意外なほど身軽に立ち上がったメル爺が、お茶を入れるために白衣を翻す。
本来そういったことは侍女がするものだけど、昔、従軍していただけあってメル爺は一通りのことは自分で出来てしまうらしい。呼んで頼む方が手間だとでも思ったのだろう。
医務室には水場や煮沸消毒させるための簡易の厨房も完備されているので、お茶ぐらいならあっという間に用意される。
すぐにカップを目の前に差し出された。
「いい香りですね」
「先日茶摘みされたばかりのものですからな」
「もうそんな時期なのですか」
鼻先をくすぐる香りが懐かしいと思ったのは、緑茶だったからだ。
一般的に飲まれるのは紅茶が主だけど、ハーブティや緑茶も普通にある。コーヒーはまだ主流ではないけれど、嗜好品として一部では人気がある。
一口飲めば、ほうっと息が漏れる。安心する味だ。この味がまた飲めることが純粋に嬉しい。
「美味しい。さすが新茶ですね」
「今年は気候もよく、良い出来らしいですからな」
まるで老人会のような会話をしながら、ほのぼのと過ごす。
窓の外からは相変わらず剣が弾き合う音と鋭い声が響いてくるけれど、メル爺がいるからそこまで怖くもない。
診療用の椅子なのでお世辞にもクッションがいいとは言えないが、向かい合って座ってのんびりお茶を飲む時間はひどく平和だ。
「ところで近頃セインがとてもくたびれて帰ってくるのですが、メル爺が苛めているのですか?」
のんびりしすぎて当初の目的を忘れるところだった。
カップを置いてメル爺を探るように窺えば、すぐに「ああ」と思い至ったように頷いた。
「あれは私ではありませんぞ」
しかし口にされた言葉は、予想とは真逆だった。
目を瞬かせた私を見て、メル爺が面白そうに目を細める。
「どうしてああいうことになっているのかは私にもわかりかねますが、まぁ敵を知るにはアレが手っ取り早い。アルフェンルート様も見に行かれるとよろしい。ちょうど今ぐらいなら面白いものが見れますぞ」
「面白いもの……?」
「見ればわかります。その扉から出てしばらく先に進み、開けた広場に出る手前でひよっこ共が訓練しておりますので。垣根から覗いてみられませ」
そこから行きなされ、と医務室から直に外へと続くガラスの扉を手で示される。
疑問符を頭に浮かべながらも促されるまま扉から外へと出た。
一人で大丈夫かと不安はあるけれど、きっと護衛を連れている方が目立つ。それに何かあれば声を上げればすぐに誰かが飛んでくるだろうから、一先ず言われたままにそろそろと進んだ。幸い随所に垣根があるので隠れる場所には困らない。
近づくにつれ、剣戟の響きと発される鋭い声が大きくなってくる。
そういう場面に馴染みがないので、心臓がバクバクと緊張でうるさい。
(いったい何が……?)
緑の垣根の切れ目、メル爺に指定されたと思わしき場所にまだ身長の低い集団を見つけて足を止めた。
兵は制服を着用しているけれど、メル爺にひよこと言われた貴族の子弟達は私服だ。皆バラバラの服装をしているので、たぶん彼らがそうなのだろう。人数は思ったよりもいる。
(近衛の制服?)
その中で一際背の高い、黒い制服姿を発見する。
制服は、色によって分けられている。主に城の周りを守る外兵は臙脂色。城内を守る内兵は濃紺。私が目にすることはないけれど、街を守る警備兵は深緑だ。
そして黒は、近衛騎士。
言わば精鋭部隊であり、その数は他と比べて極端に少ない。
その色の制服を着た人間が、なぜかひよこ達に混じっている。
というか、ひよこの一人を徹底的に扱いている……というべきか。
周りもその二人の姿に気圧されて戦々恐々と言った具合に遠巻きになっている。
それはそうでしょう。ここまで離れている私ですら、引いているもの。
(な、なぜ)
目に映る景色に、愕然として言葉を失う。何度目を瞬かせても、どう見ても見間違いじゃない。
なにをしているの。なんでこんなことになっているの。
メル爺が面白がっていた姿を思い出して頭を抱えそうになる。
面白がっている場合じゃないのでは!?
(どうしてクライブが、セインの相手をしているの!?)
兄様の護衛はどうしたの!
ほんとのほんとに、いったいこの人たちは何をやっているのか説明してほしい!
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