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第24話 幕間 まだそれの名前を知らない
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※クライブ視点
腕の中でくったりと意識を失っている体に、ゾッと全身が凍り付く恐怖を覚えた。
意識を失っても尚軽い体は、外套越しにも熱く感じる。自分も自分の周りも滅多に体調を崩す人間がいないせいで、苦しげな呼吸を繰り返す相手の顔を見るだけで不安が湧いてくる。
こんなに折れそうに細くて、呼吸も弱くて、あまりの脆弱さにこのまま死んでしまうのではないか。
そんな馬鹿な考えが脳裏を過っては必死に掻き消す。
門番には「弟の友人が途中で具合を悪くしたので連れてきた」と言い訳して、自身の立場もあって疑われることなく通った。
すぐに後ろから必死に追いついてきた弟を振り返り、「デリック」と呼ぶ。
「はい!」
「馬は頼んだ。それが済んだら、ひとまず部屋で謹慎しているように。誰にも余計なことは一切話すな」
「っはい!」
万が一にも漏らしたならどうなるかなど、自分と同じ緑の瞳を見据えてやれば理解できるだろう。ごくりと喉を鳴らして大きく頷かれる。
いきなり馬の速度を上げて城へと帰った状況をよくわかっていなさそうな弟は動顛して見えたが、言われたことぐらいはちゃんと守れるはずだ。
馬から降りて、脇目もふらずにひたすら医務室へと早足で急ぐ。それでも横抱きに抱え上げた体は極力揺らさない。
最短で駆け抜けたいところをなるべく人に会わない道を選ぶ。その僅かな時間にすら焦燥感で胸がじりじりと焼けるようだった。おかげで今は閑散としているが兵が訓練する広場に面した場所にある医務室の扉が見えた時には、背中に嫌な汗が滲んでいた。
ダークブラウンの重厚な扉の前に立ち、中にいるであろう人物を想像して一瞬だけ怖気づく。しかしこんなところで躊躇っている余裕なんてなかった。
覚悟を決める間もなくノックをしてから、出来るだけ平静を装って中へと声を掛ける。
「失礼します、スラットリー老。近衛のクライブ・ランスです。急患をお願いします」
日暮れを知らせる鐘が鳴り、この時間を区切りに夜勤と入れ替わることが多い。しかし彼の勤務は昼からなのでまだいるはずだ。
そうとわかっていても、返事が聞えてくるまでの数秒がやけに永く感じられた。
「入りなさい」
低い声が聞こえてきた。
「失礼します」
言いながら焦る気持ちのままに扉を開く。
すぐに中へと踏み入り、瞬時に部屋の中を見渡した。幸い先客がいなかったことに胸を撫で下ろす。机に向かって書き物をしていたらしいスラットリー老は、眉間に皺を寄せて振り返った。
そして僕の腕の中に抱えられている人の姿を目に入れるなり、驚愕に目を瞠って即座に立ち上がる。
「なぜシークヴァルド殿下の近衛が、アルフェンルート殿下を?」
大股で歩み寄り、顔を覗き込んで確認するよりも早く、腕の中の人物が誰なのかを言い当てられた。
誤魔化しを許さない射貫くような鋭い眼差しを向けられて、反射的に背筋が伸びる。
(メルヴィン・スラットリー老が、殿下の主治医)
意識を失う前に言われた名前は、王宮に駐在する目の前の医師だった。
エインズワース公爵と知己の仲であると言われており、本来は伯爵位にある。既に爵位は後継へと譲っているものの、今でも軍部寄りの医師として在籍している。
自分も訓練中の怪我で世話になったことが何度かあったが、若かりし頃には戦場を駆けたという戦える医師である彼は、下手な上官よりも格段に厳しい。
猛禽類を思わせる鋭い眼差しと、眉間に深く皺の刻まれたいかつい顔立ち。衰えても尚逞しく感じる体躯。
一見するととても医師には見えない。真っ白になった髪から、祖父と同じかそれ以上の年月を刻んでいると知れる。
そんな相手に、若造である自分の半端な言い訳など通用しないだろう。
しかし、それでも正しく説明することを数瞬躊躇った。
説明しないわけにはいかないものの、殿下がお忍びで街に出ていたなどと、この医師に言っていいものなのか。
「……ああ、殿下が今日出掛けられた先に関しては事前に承知している」
その数瞬の躊躇いでこちらの迷いを理解したようだ。目の前の相手の目元がほんの僅かに緩んだ。
それでも厳しい顔をしていることに変わりはない。緊張感に包まれながらも、わかっているのならば躊躇う必要はないので即座に口を開く。
「街でお見掛けして、大した護衛もお連れしていないようでしたので、不肖ながら私が城までの護衛を務めさせていただきました。途中、熱を出して意識を失われた為、急ぎこちらにお連れした次第です。街での飲食はなかったとのことで、ご本人も疲れただけだと仰っていたのですが……」
自分が開示できるだけの情報を、早口で伝える。
スラットリーは厳しい顔をしたまま頷き、両腕を差し出してきた。
請われるままに、そっと細い体をスラットリーへと受け渡した。その腕は歳を重ねても逞しく、殿下一人程度は危なげなく抱き上げる。
「うん、っ……?」
抱える腕が変わったことで違和感を覚えたのか、熱っぽく火照った顔が顰められた。鼻にかかった声を漏らし、うっすらと瞼が開いて深い青い瞳が覗く。
目を覚ました。
それだけで安堵の息が無意識に自分の口から漏れる。
しかしとろりと熱に溶けた瞳はぼんやりとしており、自分の置かれている状況が理解できていないようだった。
「アルフェンルート様、ご気分はいかがですか」
「……メル、じぃ?」
「はい、爺でございます。ここは城の医務室ですからもうご安心召されよ。熱が出ておられるようですが、ご自身の体力も顧みずに無茶をなさいましたな」
スラットリーが驚くほど優しい目をして、幼い子供のように呼ぶ声に頷く。病人に対して言う言葉にしてはなかなか容赦がないが、その眼差しの優しさに思わず息を呑んだ。
医務室でスラットリーの世話になるくらいなら多少の怪我は我慢すると言われる程に恐れられている老医師が、まるで孫でもあやすかの如き甘い顔をしている。
「ごめんなさい……」
「まぁ、子供はやんちゃをするものですからな。私がついておりますので、もうなんの心配もいりませんぞ。ゆっくり休めばすぐに治りましょう」
「ん……。私は、なぜここに……?」
瞳を閉じかけて、けれどどうして自分が医務室にいるのか不思議だったのかもしれない。もう一度重たげに瞼を持ち上げる。
殿下の問いにスラットリーは顔を顰めると、僕の方へと視線を向けた。その鋭い眼差しは殿下に向けている視線とは雲泥の差だ。
その視線を追いかけて、青い瞳が僕を映した。
「……クライブ?」
熱で潤んだ瞳はぼんやりとしている。
名を呼ばれたものの、僕がここに存在していることが心底不思議だと言わんばかりの顔をされた。
「此奴がご不快でしたらすぐにでもつまみ出しますぞ」
「いえ……?」
スラットリーの恐ろしい言葉に、すぐに否定の言葉が口にされた。
細い手がゆっくりと伸びてきて、思わずその手を取ると驚いて目を瞠られた。触れたことに驚いてみえる様を見るからに、目に映る僕の姿を幻だとでも思っていたのだろうか。
すぐに眉を顰め、なぜ僕が殿下を医務室に運んだのだろうと言いたげだ。
そこまで信用されていなかったのかと、愕然とさせられる。
いや、実際に信用してもらえることなど何一つとしてしていないわけだから、当然と言えば当然ではある。むしろ動揺する自分の方がおかしい。
そう頭では理解できるのに、信用が欠片も見当たらないことに衝撃を受けている。自分でもなぜここまで動揺しているのかわからない。
息をするのも忘れて固まってしまった僕の前で、青い瞳が再びゆっくりと閉じられていく。すぐに力を失った手はするりと僕の手から零れ落ちた。
咄嗟に引き留めかけた手は、けれどスラットリーの眼差しに気圧されて追いかけることは許されない。
「…………へんなひと」
「!」
聞こえるか聞こえないかというほど小さく、吐息混じりの声でそう呟くのが聞こえた。
半ば夢うつつのようで、だからこそ今の言葉は殿下の本音なのだろうとわかって動揺が加速する。
そしてそれだけ言うと、再び殿下の意識は眠りの中に沈んでしまった。
(『変な人』……殿下の中の僕の評価が、変な人)
別に感謝の言葉を聞きたかったわけじゃない。
無茶をされたのだろうと言っていたから、熱を出したのは間違いなく僕の責任もあるんだろう。だからこそ、いやそうでなくても倒れた殿下を主治医の元まで運ぶのは当然のことである。
……しかしその結果が、変な人呼ばわり。
僕の行動が理解できない、という意味なんだろうとは思う。未だに自分は彼にとって、自分を害するであろう存在として認識されている。
事実、彼はさっき僕が告げた誓いの言葉など欠片も信じていなかった。
驚くほど冷たい声で、即座に拒否された。
信用に値しない人間であると思われているのだと、まざまざと思い知らされた。そう思われても仕方のないことをしでかしてきた自覚はある。完全に自業自得で、むしろ彼の警戒は至極当然と言える。
それなのに、ショックを受けている自分がいた。
動揺して固まっている僕を放置して、スラットリー老は殿下をベッドへと恭しく寝かせた。起きないことを確認してから、厳しい顔でこちらを振り返る。
「アルフェンルート殿下は貴殿を咎める気はないようだから、あえて今は深くは問わない。ただ、これだけは言っておく」
「はっ」
眉間に皺を寄せた険しい表情を前に、意識が瞬時に切り替わる。背筋を伸ばして顎を引くと、スラットリー老が探るように目を細めた。
「貴殿らが考えているよりも遥かに殿下は弱く、繊細であらせられる。認識を改められよ。扱いには重々気をつけることだ」
低く重い声音で言われたそれは、逆らうことは許されない命令だった。
鋭く輝く瞳で見据えられるだけで、まるで剣の切っ先を喉元に突き付けられているかのごとき圧を覚えた。全身が総毛立つ。
たとえどれだけ老いようとも、目の前に立つ彼は人の命を守る医師であり、そして自分とは比べ物にならないほどの場数を踏んできた騎士でもあった。
そしてその騎士が、今は殿下を守る剣となっている。
守るためならば、医師の身でありながらも掲げた剣は躊躇いもなく敵を貫くだろう。相反するものをその身に抱え、しかしその重さに決して膝を折ることなく立ち続ける強さがそこにはあった。
もし彼と立ち合ったとしても、今の自分では勝てる気がしない。
「肝に、銘じておきます」
その一言を口にするだけでも、全身の筋肉が緊張して強張った。気圧されて反射的に震えそうになる体を叱咤し、床を踏みしめる足に力を入れて琥珀色の瞳を見つめ返す。
暫し睨み合い、先に眼差しを緩めたのはスラットリー老であった。
しかしけして彼が圧し負けたわけではない。かといって、自分が認められたとも言えないだろう。
今は見逃してやってもいい、と言われただけに思えた。
それを勝ち取るだけでも、全身に冷たい汗が滲んでいる。
「よろしい。わかったのなら下がりなさい。殿下は私が責任をもって預かろう」
鷹揚に頷き、虫でも払うように手で追いやられる。
自分がいたところで役に立たないどころか邪魔にしかならないので、この場は言われるままに立ち去るしかない。
ベッドに力なく横たわっている体に後ろ髪が引かれる思いに駆られたが、振り切って深く頭を下げる。
「失礼します」
一礼し、扉を出て歩き出すと一気に汗が噴き出した。
無意識に握りしめていた拳が震えているのは緊張と、そして恐怖のせいだった。スラットリーに対して、ではない。
(あんなにも、弱いなんて)
今夜にでも死んでしまうんじゃないかという恐怖に支配されて、震えが止まらない。
咄嗟に止まりかけた足がもう一度医務室に向かいかけ、だけど何もできない自分に何の意味があるのかと留まる。シークの執務室に向けて歩き出す己の足が、やけに重く感じられた。
(あのまま目覚めなかったら、どうしたらいい)
スラットリー老の様子を見る限り、そんなことはありえないとわかっている。けれど火照った頬も、熱に潤んだ瞳も、頼りなげに擦れた声も、すべてが呆気なく消えていきそうに見えた。
……きっと今までの自分なら、死んでくれるなら好都合だと考えただろう。
彼自身がシークに何もしないと言っても、彼がいる限りシークの身に危険は及ぶ。存在するだけで邪魔にしかならないのだから。
『クライブ・ランス卿は、近衛騎士をしているからといって安易に人に自領を任せて管理を疎かにする、そんな無責任な人ではないでしょう』
それでも脳裏に蘇るのは、彼が言った言葉。
自分のことなんて心底嫌いなはずだ。憎まれていたっておかしくない。
それなのに彼は、僕をそう評価してくれていた。
信じられなかった。あれほどのことをされて尚、そこまでの評価をする人間がいるだろうか。
お人よしなのか、話した感じでは愚かでもないはずなのに、不思議なことを言う方だと驚かされた。
以前も彼は、償いで出来ることはなんでもすると伝えた時にも、いついかなる時もシークを最優先にしろと命じた。あの時はなぜそんなことを?という思いと、そんな当たり前のことでいいのかと心底驚かされた。
だって彼にはなんの利益もない。
「二度と顔を見せるな」と命じることだって出来たはずだ。彼がそう言っていれば、きっとシークも無理強いはしなかっただろう。
『ランス卿に願うなら、これ以上に相応しい願いなんてないでしょう』
それでも当然のことだとでも言うように、あっさりとそう言ってのけた。
正しく僕を理解して、利用する。
そんな彼は誰よりも兄を王にと望んでいるのだと思えた。デリックを諌めていた言葉から考えても、彼は序列を覆す行為を良しとしていない。むしろ心底嫌悪しているように見えた。
自分は王になるに値しない人間であると誰よりも本人が理解して、引いている。
──そして僕はそんな彼を、異母兄を排して、自分が王になることが当然だと考えているのだろうと勝手に思い込んでいた。
極稀に会った時に僕らの方に向けられる瞳はガラス玉のようで、見ていても見られていないのがわかった。
彼にとって、自分達など意識を向けるまでもない存在だと思われているように見えた。
子供の頃から暗殺者に狙われていたシークと違い、エインズワース公爵陣に甘やかされてつけあがり、何の苦労も恐怖も抱くことなく、安穏と生きているんだろうと思った。
体が弱いとは聞いていたが、自分で剣を持つ術も学ばない。自分が傷つけられるわけがないと思っているのだろう。
もし何かあったとしても、傲慢に、いつだって誰かが守ってくれるのが当たり前だと思っているに違いない。
自分にはそれだけの価値があると思い込んでいるのだ。
そんな風に、勝手に決めつけていた。
実際の彼自身をちゃんと見ることなく、その思い込みだけで排除しようとした。
そうして実際に目の当たりにした彼は、自分が想定していた人物とは真逆だった。
驚くほど弱く、覇気のない、見るからに頼りなげな子供だった。
たいした我儘を口にする様子もなく、兄の障害にならぬよう、王宮の中に自らの味方を作る努力すら放棄していた。たとえ王にならずとも、味方は付けておいた方が良いにもかかわらず、だ。
王宮の一角で、ひっそりと小さくなって存在していた。
誰かを陥れることなんて欠片も考えられなさそうな、心配になるほどすぐ顔に感情を出してしまうほどの素直さ。
警戒しているくせに何度も僕に捕まる間抜けさも、あまりに想定外過ぎて呆れてしまった。
そして多分彼は、僕にされたことを誰にも言っていない。
誰か一人にでも告げていればそこから広がって、兄の立場が悪くなることを恐れたのだろう。
そうでなければ、それこそ自分は先程のスラットリーに出合い頭に問答無用で刺し貫かれていてもおかしくなかった。周囲の警戒だって、当たり前に増えたはずだ。
それなのに、以前と変わらず一人になる。
シークが僕を諫めたから大丈夫だと判断したのかもしれないが、それにしても危機管理能力をどこに置き忘れてきたのかと言いたくなった。
……さっきは愚かじゃないはずだと思ったが、こう考えるとやはり愚かなのかもしれない。とことん、甘い。
それでもその甘さゆえに、僕は彼の命を奪うことが出来なかった。
こんなにも愚かで、弱くて、何の脅威になるのかと。存在するだけで邪魔でしかないのに、見逃してしまった。
今では見逃してよかったと、心の底から思っている。
殺さなくて、本当によかった。
そう思えるようになったのに。しかしあの方は自分が想像していたよりずっと弱くて、僕が何もしなくても勝手に死んでしまいそうだ。
自分はまだ彼に、何も償えていないのに。
『期待して裏切られるぐらいなら、最初からそんな約束ない方がずっといい』
突き放された言葉が胸に突き刺さったまま、ジクジクと痛みを訴える。
信用を巻き返す機会すら与えられず、もしもこのまま彼がいなくなってしまったら。
(僕は死ぬまで、自分を許せないだろう)
奥歯を砕きそうなほど強く噛み締め、大股で歩き進めているうちに目的地であるシークの執務室の前まで辿り着いた。
扉の前に立つ同僚が、非番であるはずの僕の姿に驚いた顔をする。強張った顔に何かを察したのか、何も聞くことなくシークの在室を告げる。
「シークヴァルド殿下、クライブです」
ノックをして中に声を掛ければ、すぐに「入れ」と返事が寄越された。
部屋に入れば護衛の任に当たっていた同僚が僕とシークを伺い、顔を上げたシークに目配せされて、すぐに入れ違いに出ていく。
即座に察して人払いをしてもらえたのは有り難い。
「どうした。今日は休みではなかったか」
「アルフェンルート殿下に街でお会いしました」
それまでペンを走らせていた手を止め、シークがチラリとこちらを見上げる。
「まともな護衛もお連れになっていらっしゃらなかったので僕が城に戻られるまで護衛したのですが、帰る途中で熱を出して倒れられました」
「それで?」
強張った顔で先ほど起こった出来事を簡潔に告げれば、思っていたよりもずっと冷静な表情でシークは続きを促す。
「殿下の主治医のスラットリー老の元までお連れして、預けてまいりました。スラットリー老が言うには、殿下がご自身の体力も顧みずに無茶をされたからだろうとのことでしたが……」
「そうか。医者がそう言うならそうなのだろうな」
頷いて、「報告ご苦労」と一言だけ返された。そしてそれで話は終わったとばかりに再び机の上の書面に視線を落とす。
そのあまりにも淡泊な態度に、思わず机の上の書類を奪って睨み下ろした。
「シークはあの方が心配ではないのですか」
きつい口調で言えば、シークが呆れた目をして僕を見上げる。
「ここで私が心配だと騒ぎ立てれば、アルフェの体調が改善するのか? 今は医者に任せる以外にできることはない。私にできることなど、せいぜい見舞いの手配をするぐらいだ」
「そういう問題ではなく!」
声を荒げると少し驚いたように淡い灰青色の瞳を瞠った後、微かに口の端を吊り上げた。面白がるように。
「随分と肩入れしているのだな」
「っ……、あの方は僕が懸念していたような人物ではないとやっと理解できただけです。いけませんか」
「いや? 私にとっては好都合だが、あれほど毛嫌いしていたクライブがこの短期間で手懐けられるとはな」
人の悪い笑みを浮かべ、何があったと目で問われて口をへの字に曲げる。
この乳兄弟は、とても性格が悪い。
子供の頃から命を狙われ続けて素直に育つわけもないだろうが、それを差し引いても性格が悪いと思う。
だからこそ、アルフェンルート殿下との間にあったことを言いたくない。
シークを尊敬はしているし剣を捧げる気持ちに迷いもないけれど、それとこれは別物だ。言えばどうせ馬鹿にしてくるのだろうとわかっているだけに、教える気にならない。
「まぁ、クライブの心境がどう変わろうと、向こうがそれを信じて応えるかどうかは別の話だがな」
それなのに、こちらの心情を容赦なく見透かして抉ってくるから、性質が悪い。
ぐっと喉を詰まらせてしまったせいで、言われたことがだいたい合っていることを教えたようなものだった。
そんな僕を見上げ、そらみたことかと言わんばかりに嘆息を吐かれる。
「だから私は最初に忠告してやったただろう? くれぐれも丁重に扱えと。人の話も聞かずに勝手をしたおまえが悪い。自業自得というやつだ」
「まるで僕がしたことを見てきたように仰いますね」
「いちいち見ずともしでかしそうなことぐらい想像はつく。聞けば罰せねばならなくなるから、あえて聞かないが」
八つ当たり気味に睨みつけてやっても、軽く肩を竦めて堪えた様子はない。それどころか鼻先でせせら笑う。
もしかしなくても、シークは言うことを聞かずに勝手なことをした僕に対して内心では相当怒っていたのかもしれない。確かに、僕の行為は彼の信頼も裏切ったことになる。
あの時はそれが最善だと信じて疑いもしていなかったけれど、ここに来て自分の浅はかさが身に沁み込んでいく。
「……わかっていたなら、止めてくれればよかったでしょう」
それでもこの期に及んで、生まれた時から傍にいる乳兄弟ということで甘えが出た。
「言ったところで聞かないだろう」
恨めしげに呟くと素っ気なく言われてしまう。
確かにその通りで、返す言葉もない。
「でもこれで良い薬になったのではないか?」
良い薬どころか、劇薬だ。
今更こちらが信用と敬意を捧げても、手で払われるどころか視界の中にすら入れてもらえなかった。
逸らされた瞳が脳裏を蘇っては、ギリギリと胃が引き絞られる痛みを感じて眉根を寄せる。
「そもそも信用されていなかったところに、信用しようとしていたアルフェの気持ちを踏み躙る真似をしたのだ。今おまえの信用は底辺の底を抜いて、どん底にあると思っていい」
淡々と自分がしでしかしたが故の結果を突き付けられて、改めてその途方のなさに拳を握りしめた。
そう、自分がしたのはそういうことだ。
彼の視界に入ることすら、本当は許されないのだろう。
ぎりっと奥歯を噛みしめて俯けば、「よかったではないか」とあっけらかんと言われた。
「これのどこがいいんですか」
「もうそれ以上落ちようがない場所にいるのだ。あとはおまえが誠意をもって這い上がっていけばいいだけだろう?」
そう言われて目を丸くした。
そんな簡単なことではないとわかっていても、まだ希望はあると言われたようで沈んでいた心がほんの少しだけ浮上する。
しかし、「まぁ、報われるのが何十年後かわからんがな」と冷たい声が容赦なく再び蹴落としにかかる。
「シーク、実は僕のことが嫌いでしょう」
「時々融通の利かない、面倒くさい奴だとは思っている」
真顔で言われて苦虫を噛み潰した表情になった。
「それでも私はおまえを信頼しているし、どちらにしろアルフェのことは事情を知っているおまえに任せるしかない。せいぜい信用を勝ち取れるように励むことだな」
それでも穏やかな笑みを浮かべてそう言われてしまえば、これまでの容赦のない言葉もすべて流せてしまう。それにシークは事実しか言っていない。
あとはそれを自分がどう受け止め、どう動いていくかだけだ。
「ありがとうございます。シーク」
鷹揚に頷かれ、わかったら書類を返せと言う代わりに手を差し出された。その手に奪ったままだった書類を渡す。先程握りしめたせいで皺が寄ってしまったのを見て、迷惑そうにシークが眉を顰めた。
仕事を再開させたいのだろうが、それでもまだ少し気がかりなことがあって口を開いた。
「あの方はあんなに弱くて大丈夫なのでしょうか。弱いことはわかりましたが、せめてもう少し鍛えられた方が良いのではないですか?」
きっと今も高熱に魘されているだろう。あんなに細くて耐えきれるのかと、思い返すと心臓が竦む。
「なぜ弱くてはいけない? 誰にだって得手不得手はある。あれが弱いのなら、強いものが守ればいい。それだけのことだろう」
しかしあっけらかんとそう言われてしまい、咄嗟に返す言葉を失った。
「いや、ですが……」
「おまえは自分も完全とは程遠いのに、アルフェにだけ完全を求めるのか? 足りないものは他のもので補えばいい。その代わり、他の者が出来ないことをアルフェが成すこともあるだろう」
シークが言いたいことはわかる。こういう考え方がすぐできることは尊敬している。
けれど納得のいかない顔をすれば、仕方ない奴だなと言いたげに頬杖をつかれた。
「例えば。私は心配するのが下手に見えるようだが、クライブは見るからに心配しただろう? 私はそれを見て、世間一般の兄というのはクライブのように心配するものなのだと知った」
「……はあ」
「それでもいまいち理解できなかったわけだが、それなら私の心配の仕方が足りない分、クライブが心配してやればいい。そういうことだ」
「なるほど……?」
わかったようなわからないような理論を並べられ、しかし堂々と言い切られるとそういうものなのだろうかと誤魔化されて頷いてしまう。
それを見届け、シークは今度こそ話は終わりだと言わんばかりにペンを持ち直した。書面に視線を落としてしまう。
確かにこれ以上邪魔をするわけにはいかない。彼が王に押し付けられている仕事は、この年でこなすにはなかなか過酷な量なのだ。
「わかったのなら、いいかげん出ていけ。私は忙しい。言っておくが、勝手に仕事をしてきたからといって振替で休みはやらんからな」
「いりませんよ。これから忙しくなりそうですから」
忙しい中、ここまで話に付き合ってもらえたことで少しだけ心が落ち着いた。苦く笑って言えば、ちらりと視線だけがこちらに向けられた。
どこかすっきりとした気分になれた僕を見て、シークが微かに笑う。
「それでは、失礼します」
一礼して、執務室を後にする。
スラットリー老とシークの反応を見る限りでは、殿下の体調は死んでしまうものではないのだろう。さすがに自分の心配しすぎなのだとわかって、肩から力が抜けていくのを感じた。
それでも彼を追い詰めた自分の責だけは忘れないように、深く心に刻みつける。
出会ったあの時に、どうしてあんなことをしてしまったのかと過去を悔いることはしない。たとえ時間が戻っても、自分は同じことをしただろうから。
だからこそこの先の自分に何をできるのかを、考えなければいけない。
たとえ信用されなくとも、せめて自分の中に立てた誓いにだけは背かないように。
(あの時あなたをお守りしたいと思った気持ちに、嘘はないんです)
シークに剣を捧げるのとは、また少し違う気持ちで。
この心の中に生まれた感情をどう呼ぶべきか、まだ決まっていないけれど。
腕の中でくったりと意識を失っている体に、ゾッと全身が凍り付く恐怖を覚えた。
意識を失っても尚軽い体は、外套越しにも熱く感じる。自分も自分の周りも滅多に体調を崩す人間がいないせいで、苦しげな呼吸を繰り返す相手の顔を見るだけで不安が湧いてくる。
こんなに折れそうに細くて、呼吸も弱くて、あまりの脆弱さにこのまま死んでしまうのではないか。
そんな馬鹿な考えが脳裏を過っては必死に掻き消す。
門番には「弟の友人が途中で具合を悪くしたので連れてきた」と言い訳して、自身の立場もあって疑われることなく通った。
すぐに後ろから必死に追いついてきた弟を振り返り、「デリック」と呼ぶ。
「はい!」
「馬は頼んだ。それが済んだら、ひとまず部屋で謹慎しているように。誰にも余計なことは一切話すな」
「っはい!」
万が一にも漏らしたならどうなるかなど、自分と同じ緑の瞳を見据えてやれば理解できるだろう。ごくりと喉を鳴らして大きく頷かれる。
いきなり馬の速度を上げて城へと帰った状況をよくわかっていなさそうな弟は動顛して見えたが、言われたことぐらいはちゃんと守れるはずだ。
馬から降りて、脇目もふらずにひたすら医務室へと早足で急ぐ。それでも横抱きに抱え上げた体は極力揺らさない。
最短で駆け抜けたいところをなるべく人に会わない道を選ぶ。その僅かな時間にすら焦燥感で胸がじりじりと焼けるようだった。おかげで今は閑散としているが兵が訓練する広場に面した場所にある医務室の扉が見えた時には、背中に嫌な汗が滲んでいた。
ダークブラウンの重厚な扉の前に立ち、中にいるであろう人物を想像して一瞬だけ怖気づく。しかしこんなところで躊躇っている余裕なんてなかった。
覚悟を決める間もなくノックをしてから、出来るだけ平静を装って中へと声を掛ける。
「失礼します、スラットリー老。近衛のクライブ・ランスです。急患をお願いします」
日暮れを知らせる鐘が鳴り、この時間を区切りに夜勤と入れ替わることが多い。しかし彼の勤務は昼からなのでまだいるはずだ。
そうとわかっていても、返事が聞えてくるまでの数秒がやけに永く感じられた。
「入りなさい」
低い声が聞こえてきた。
「失礼します」
言いながら焦る気持ちのままに扉を開く。
すぐに中へと踏み入り、瞬時に部屋の中を見渡した。幸い先客がいなかったことに胸を撫で下ろす。机に向かって書き物をしていたらしいスラットリー老は、眉間に皺を寄せて振り返った。
そして僕の腕の中に抱えられている人の姿を目に入れるなり、驚愕に目を瞠って即座に立ち上がる。
「なぜシークヴァルド殿下の近衛が、アルフェンルート殿下を?」
大股で歩み寄り、顔を覗き込んで確認するよりも早く、腕の中の人物が誰なのかを言い当てられた。
誤魔化しを許さない射貫くような鋭い眼差しを向けられて、反射的に背筋が伸びる。
(メルヴィン・スラットリー老が、殿下の主治医)
意識を失う前に言われた名前は、王宮に駐在する目の前の医師だった。
エインズワース公爵と知己の仲であると言われており、本来は伯爵位にある。既に爵位は後継へと譲っているものの、今でも軍部寄りの医師として在籍している。
自分も訓練中の怪我で世話になったことが何度かあったが、若かりし頃には戦場を駆けたという戦える医師である彼は、下手な上官よりも格段に厳しい。
猛禽類を思わせる鋭い眼差しと、眉間に深く皺の刻まれたいかつい顔立ち。衰えても尚逞しく感じる体躯。
一見するととても医師には見えない。真っ白になった髪から、祖父と同じかそれ以上の年月を刻んでいると知れる。
そんな相手に、若造である自分の半端な言い訳など通用しないだろう。
しかし、それでも正しく説明することを数瞬躊躇った。
説明しないわけにはいかないものの、殿下がお忍びで街に出ていたなどと、この医師に言っていいものなのか。
「……ああ、殿下が今日出掛けられた先に関しては事前に承知している」
その数瞬の躊躇いでこちらの迷いを理解したようだ。目の前の相手の目元がほんの僅かに緩んだ。
それでも厳しい顔をしていることに変わりはない。緊張感に包まれながらも、わかっているのならば躊躇う必要はないので即座に口を開く。
「街でお見掛けして、大した護衛もお連れしていないようでしたので、不肖ながら私が城までの護衛を務めさせていただきました。途中、熱を出して意識を失われた為、急ぎこちらにお連れした次第です。街での飲食はなかったとのことで、ご本人も疲れただけだと仰っていたのですが……」
自分が開示できるだけの情報を、早口で伝える。
スラットリーは厳しい顔をしたまま頷き、両腕を差し出してきた。
請われるままに、そっと細い体をスラットリーへと受け渡した。その腕は歳を重ねても逞しく、殿下一人程度は危なげなく抱き上げる。
「うん、っ……?」
抱える腕が変わったことで違和感を覚えたのか、熱っぽく火照った顔が顰められた。鼻にかかった声を漏らし、うっすらと瞼が開いて深い青い瞳が覗く。
目を覚ました。
それだけで安堵の息が無意識に自分の口から漏れる。
しかしとろりと熱に溶けた瞳はぼんやりとしており、自分の置かれている状況が理解できていないようだった。
「アルフェンルート様、ご気分はいかがですか」
「……メル、じぃ?」
「はい、爺でございます。ここは城の医務室ですからもうご安心召されよ。熱が出ておられるようですが、ご自身の体力も顧みずに無茶をなさいましたな」
スラットリーが驚くほど優しい目をして、幼い子供のように呼ぶ声に頷く。病人に対して言う言葉にしてはなかなか容赦がないが、その眼差しの優しさに思わず息を呑んだ。
医務室でスラットリーの世話になるくらいなら多少の怪我は我慢すると言われる程に恐れられている老医師が、まるで孫でもあやすかの如き甘い顔をしている。
「ごめんなさい……」
「まぁ、子供はやんちゃをするものですからな。私がついておりますので、もうなんの心配もいりませんぞ。ゆっくり休めばすぐに治りましょう」
「ん……。私は、なぜここに……?」
瞳を閉じかけて、けれどどうして自分が医務室にいるのか不思議だったのかもしれない。もう一度重たげに瞼を持ち上げる。
殿下の問いにスラットリーは顔を顰めると、僕の方へと視線を向けた。その鋭い眼差しは殿下に向けている視線とは雲泥の差だ。
その視線を追いかけて、青い瞳が僕を映した。
「……クライブ?」
熱で潤んだ瞳はぼんやりとしている。
名を呼ばれたものの、僕がここに存在していることが心底不思議だと言わんばかりの顔をされた。
「此奴がご不快でしたらすぐにでもつまみ出しますぞ」
「いえ……?」
スラットリーの恐ろしい言葉に、すぐに否定の言葉が口にされた。
細い手がゆっくりと伸びてきて、思わずその手を取ると驚いて目を瞠られた。触れたことに驚いてみえる様を見るからに、目に映る僕の姿を幻だとでも思っていたのだろうか。
すぐに眉を顰め、なぜ僕が殿下を医務室に運んだのだろうと言いたげだ。
そこまで信用されていなかったのかと、愕然とさせられる。
いや、実際に信用してもらえることなど何一つとしてしていないわけだから、当然と言えば当然ではある。むしろ動揺する自分の方がおかしい。
そう頭では理解できるのに、信用が欠片も見当たらないことに衝撃を受けている。自分でもなぜここまで動揺しているのかわからない。
息をするのも忘れて固まってしまった僕の前で、青い瞳が再びゆっくりと閉じられていく。すぐに力を失った手はするりと僕の手から零れ落ちた。
咄嗟に引き留めかけた手は、けれどスラットリーの眼差しに気圧されて追いかけることは許されない。
「…………へんなひと」
「!」
聞こえるか聞こえないかというほど小さく、吐息混じりの声でそう呟くのが聞こえた。
半ば夢うつつのようで、だからこそ今の言葉は殿下の本音なのだろうとわかって動揺が加速する。
そしてそれだけ言うと、再び殿下の意識は眠りの中に沈んでしまった。
(『変な人』……殿下の中の僕の評価が、変な人)
別に感謝の言葉を聞きたかったわけじゃない。
無茶をされたのだろうと言っていたから、熱を出したのは間違いなく僕の責任もあるんだろう。だからこそ、いやそうでなくても倒れた殿下を主治医の元まで運ぶのは当然のことである。
……しかしその結果が、変な人呼ばわり。
僕の行動が理解できない、という意味なんだろうとは思う。未だに自分は彼にとって、自分を害するであろう存在として認識されている。
事実、彼はさっき僕が告げた誓いの言葉など欠片も信じていなかった。
驚くほど冷たい声で、即座に拒否された。
信用に値しない人間であると思われているのだと、まざまざと思い知らされた。そう思われても仕方のないことをしでかしてきた自覚はある。完全に自業自得で、むしろ彼の警戒は至極当然と言える。
それなのに、ショックを受けている自分がいた。
動揺して固まっている僕を放置して、スラットリー老は殿下をベッドへと恭しく寝かせた。起きないことを確認してから、厳しい顔でこちらを振り返る。
「アルフェンルート殿下は貴殿を咎める気はないようだから、あえて今は深くは問わない。ただ、これだけは言っておく」
「はっ」
眉間に皺を寄せた険しい表情を前に、意識が瞬時に切り替わる。背筋を伸ばして顎を引くと、スラットリー老が探るように目を細めた。
「貴殿らが考えているよりも遥かに殿下は弱く、繊細であらせられる。認識を改められよ。扱いには重々気をつけることだ」
低く重い声音で言われたそれは、逆らうことは許されない命令だった。
鋭く輝く瞳で見据えられるだけで、まるで剣の切っ先を喉元に突き付けられているかのごとき圧を覚えた。全身が総毛立つ。
たとえどれだけ老いようとも、目の前に立つ彼は人の命を守る医師であり、そして自分とは比べ物にならないほどの場数を踏んできた騎士でもあった。
そしてその騎士が、今は殿下を守る剣となっている。
守るためならば、医師の身でありながらも掲げた剣は躊躇いもなく敵を貫くだろう。相反するものをその身に抱え、しかしその重さに決して膝を折ることなく立ち続ける強さがそこにはあった。
もし彼と立ち合ったとしても、今の自分では勝てる気がしない。
「肝に、銘じておきます」
その一言を口にするだけでも、全身の筋肉が緊張して強張った。気圧されて反射的に震えそうになる体を叱咤し、床を踏みしめる足に力を入れて琥珀色の瞳を見つめ返す。
暫し睨み合い、先に眼差しを緩めたのはスラットリー老であった。
しかしけして彼が圧し負けたわけではない。かといって、自分が認められたとも言えないだろう。
今は見逃してやってもいい、と言われただけに思えた。
それを勝ち取るだけでも、全身に冷たい汗が滲んでいる。
「よろしい。わかったのなら下がりなさい。殿下は私が責任をもって預かろう」
鷹揚に頷き、虫でも払うように手で追いやられる。
自分がいたところで役に立たないどころか邪魔にしかならないので、この場は言われるままに立ち去るしかない。
ベッドに力なく横たわっている体に後ろ髪が引かれる思いに駆られたが、振り切って深く頭を下げる。
「失礼します」
一礼し、扉を出て歩き出すと一気に汗が噴き出した。
無意識に握りしめていた拳が震えているのは緊張と、そして恐怖のせいだった。スラットリーに対して、ではない。
(あんなにも、弱いなんて)
今夜にでも死んでしまうんじゃないかという恐怖に支配されて、震えが止まらない。
咄嗟に止まりかけた足がもう一度医務室に向かいかけ、だけど何もできない自分に何の意味があるのかと留まる。シークの執務室に向けて歩き出す己の足が、やけに重く感じられた。
(あのまま目覚めなかったら、どうしたらいい)
スラットリー老の様子を見る限り、そんなことはありえないとわかっている。けれど火照った頬も、熱に潤んだ瞳も、頼りなげに擦れた声も、すべてが呆気なく消えていきそうに見えた。
……きっと今までの自分なら、死んでくれるなら好都合だと考えただろう。
彼自身がシークに何もしないと言っても、彼がいる限りシークの身に危険は及ぶ。存在するだけで邪魔にしかならないのだから。
『クライブ・ランス卿は、近衛騎士をしているからといって安易に人に自領を任せて管理を疎かにする、そんな無責任な人ではないでしょう』
それでも脳裏に蘇るのは、彼が言った言葉。
自分のことなんて心底嫌いなはずだ。憎まれていたっておかしくない。
それなのに彼は、僕をそう評価してくれていた。
信じられなかった。あれほどのことをされて尚、そこまでの評価をする人間がいるだろうか。
お人よしなのか、話した感じでは愚かでもないはずなのに、不思議なことを言う方だと驚かされた。
以前も彼は、償いで出来ることはなんでもすると伝えた時にも、いついかなる時もシークを最優先にしろと命じた。あの時はなぜそんなことを?という思いと、そんな当たり前のことでいいのかと心底驚かされた。
だって彼にはなんの利益もない。
「二度と顔を見せるな」と命じることだって出来たはずだ。彼がそう言っていれば、きっとシークも無理強いはしなかっただろう。
『ランス卿に願うなら、これ以上に相応しい願いなんてないでしょう』
それでも当然のことだとでも言うように、あっさりとそう言ってのけた。
正しく僕を理解して、利用する。
そんな彼は誰よりも兄を王にと望んでいるのだと思えた。デリックを諌めていた言葉から考えても、彼は序列を覆す行為を良しとしていない。むしろ心底嫌悪しているように見えた。
自分は王になるに値しない人間であると誰よりも本人が理解して、引いている。
──そして僕はそんな彼を、異母兄を排して、自分が王になることが当然だと考えているのだろうと勝手に思い込んでいた。
極稀に会った時に僕らの方に向けられる瞳はガラス玉のようで、見ていても見られていないのがわかった。
彼にとって、自分達など意識を向けるまでもない存在だと思われているように見えた。
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実際の彼自身をちゃんと見ることなく、その思い込みだけで排除しようとした。
そうして実際に目の当たりにした彼は、自分が想定していた人物とは真逆だった。
驚くほど弱く、覇気のない、見るからに頼りなげな子供だった。
たいした我儘を口にする様子もなく、兄の障害にならぬよう、王宮の中に自らの味方を作る努力すら放棄していた。たとえ王にならずとも、味方は付けておいた方が良いにもかかわらず、だ。
王宮の一角で、ひっそりと小さくなって存在していた。
誰かを陥れることなんて欠片も考えられなさそうな、心配になるほどすぐ顔に感情を出してしまうほどの素直さ。
警戒しているくせに何度も僕に捕まる間抜けさも、あまりに想定外過ぎて呆れてしまった。
そして多分彼は、僕にされたことを誰にも言っていない。
誰か一人にでも告げていればそこから広がって、兄の立場が悪くなることを恐れたのだろう。
そうでなければ、それこそ自分は先程のスラットリーに出合い頭に問答無用で刺し貫かれていてもおかしくなかった。周囲の警戒だって、当たり前に増えたはずだ。
それなのに、以前と変わらず一人になる。
シークが僕を諫めたから大丈夫だと判断したのかもしれないが、それにしても危機管理能力をどこに置き忘れてきたのかと言いたくなった。
……さっきは愚かじゃないはずだと思ったが、こう考えるとやはり愚かなのかもしれない。とことん、甘い。
それでもその甘さゆえに、僕は彼の命を奪うことが出来なかった。
こんなにも愚かで、弱くて、何の脅威になるのかと。存在するだけで邪魔でしかないのに、見逃してしまった。
今では見逃してよかったと、心の底から思っている。
殺さなくて、本当によかった。
そう思えるようになったのに。しかしあの方は自分が想像していたよりずっと弱くて、僕が何もしなくても勝手に死んでしまいそうだ。
自分はまだ彼に、何も償えていないのに。
『期待して裏切られるぐらいなら、最初からそんな約束ない方がずっといい』
突き放された言葉が胸に突き刺さったまま、ジクジクと痛みを訴える。
信用を巻き返す機会すら与えられず、もしもこのまま彼がいなくなってしまったら。
(僕は死ぬまで、自分を許せないだろう)
奥歯を砕きそうなほど強く噛み締め、大股で歩き進めているうちに目的地であるシークの執務室の前まで辿り着いた。
扉の前に立つ同僚が、非番であるはずの僕の姿に驚いた顔をする。強張った顔に何かを察したのか、何も聞くことなくシークの在室を告げる。
「シークヴァルド殿下、クライブです」
ノックをして中に声を掛ければ、すぐに「入れ」と返事が寄越された。
部屋に入れば護衛の任に当たっていた同僚が僕とシークを伺い、顔を上げたシークに目配せされて、すぐに入れ違いに出ていく。
即座に察して人払いをしてもらえたのは有り難い。
「どうした。今日は休みではなかったか」
「アルフェンルート殿下に街でお会いしました」
それまでペンを走らせていた手を止め、シークがチラリとこちらを見上げる。
「まともな護衛もお連れになっていらっしゃらなかったので僕が城に戻られるまで護衛したのですが、帰る途中で熱を出して倒れられました」
「それで?」
強張った顔で先ほど起こった出来事を簡潔に告げれば、思っていたよりもずっと冷静な表情でシークは続きを促す。
「殿下の主治医のスラットリー老の元までお連れして、預けてまいりました。スラットリー老が言うには、殿下がご自身の体力も顧みずに無茶をされたからだろうとのことでしたが……」
「そうか。医者がそう言うならそうなのだろうな」
頷いて、「報告ご苦労」と一言だけ返された。そしてそれで話は終わったとばかりに再び机の上の書面に視線を落とす。
そのあまりにも淡泊な態度に、思わず机の上の書類を奪って睨み下ろした。
「シークはあの方が心配ではないのですか」
きつい口調で言えば、シークが呆れた目をして僕を見上げる。
「ここで私が心配だと騒ぎ立てれば、アルフェの体調が改善するのか? 今は医者に任せる以外にできることはない。私にできることなど、せいぜい見舞いの手配をするぐらいだ」
「そういう問題ではなく!」
声を荒げると少し驚いたように淡い灰青色の瞳を瞠った後、微かに口の端を吊り上げた。面白がるように。
「随分と肩入れしているのだな」
「っ……、あの方は僕が懸念していたような人物ではないとやっと理解できただけです。いけませんか」
「いや? 私にとっては好都合だが、あれほど毛嫌いしていたクライブがこの短期間で手懐けられるとはな」
人の悪い笑みを浮かべ、何があったと目で問われて口をへの字に曲げる。
この乳兄弟は、とても性格が悪い。
子供の頃から命を狙われ続けて素直に育つわけもないだろうが、それを差し引いても性格が悪いと思う。
だからこそ、アルフェンルート殿下との間にあったことを言いたくない。
シークを尊敬はしているし剣を捧げる気持ちに迷いもないけれど、それとこれは別物だ。言えばどうせ馬鹿にしてくるのだろうとわかっているだけに、教える気にならない。
「まぁ、クライブの心境がどう変わろうと、向こうがそれを信じて応えるかどうかは別の話だがな」
それなのに、こちらの心情を容赦なく見透かして抉ってくるから、性質が悪い。
ぐっと喉を詰まらせてしまったせいで、言われたことがだいたい合っていることを教えたようなものだった。
そんな僕を見上げ、そらみたことかと言わんばかりに嘆息を吐かれる。
「だから私は最初に忠告してやったただろう? くれぐれも丁重に扱えと。人の話も聞かずに勝手をしたおまえが悪い。自業自得というやつだ」
「まるで僕がしたことを見てきたように仰いますね」
「いちいち見ずともしでかしそうなことぐらい想像はつく。聞けば罰せねばならなくなるから、あえて聞かないが」
八つ当たり気味に睨みつけてやっても、軽く肩を竦めて堪えた様子はない。それどころか鼻先でせせら笑う。
もしかしなくても、シークは言うことを聞かずに勝手なことをした僕に対して内心では相当怒っていたのかもしれない。確かに、僕の行為は彼の信頼も裏切ったことになる。
あの時はそれが最善だと信じて疑いもしていなかったけれど、ここに来て自分の浅はかさが身に沁み込んでいく。
「……わかっていたなら、止めてくれればよかったでしょう」
それでもこの期に及んで、生まれた時から傍にいる乳兄弟ということで甘えが出た。
「言ったところで聞かないだろう」
恨めしげに呟くと素っ気なく言われてしまう。
確かにその通りで、返す言葉もない。
「でもこれで良い薬になったのではないか?」
良い薬どころか、劇薬だ。
今更こちらが信用と敬意を捧げても、手で払われるどころか視界の中にすら入れてもらえなかった。
逸らされた瞳が脳裏を蘇っては、ギリギリと胃が引き絞られる痛みを感じて眉根を寄せる。
「そもそも信用されていなかったところに、信用しようとしていたアルフェの気持ちを踏み躙る真似をしたのだ。今おまえの信用は底辺の底を抜いて、どん底にあると思っていい」
淡々と自分がしでしかしたが故の結果を突き付けられて、改めてその途方のなさに拳を握りしめた。
そう、自分がしたのはそういうことだ。
彼の視界に入ることすら、本当は許されないのだろう。
ぎりっと奥歯を噛みしめて俯けば、「よかったではないか」とあっけらかんと言われた。
「これのどこがいいんですか」
「もうそれ以上落ちようがない場所にいるのだ。あとはおまえが誠意をもって這い上がっていけばいいだけだろう?」
そう言われて目を丸くした。
そんな簡単なことではないとわかっていても、まだ希望はあると言われたようで沈んでいた心がほんの少しだけ浮上する。
しかし、「まぁ、報われるのが何十年後かわからんがな」と冷たい声が容赦なく再び蹴落としにかかる。
「シーク、実は僕のことが嫌いでしょう」
「時々融通の利かない、面倒くさい奴だとは思っている」
真顔で言われて苦虫を噛み潰した表情になった。
「それでも私はおまえを信頼しているし、どちらにしろアルフェのことは事情を知っているおまえに任せるしかない。せいぜい信用を勝ち取れるように励むことだな」
それでも穏やかな笑みを浮かべてそう言われてしまえば、これまでの容赦のない言葉もすべて流せてしまう。それにシークは事実しか言っていない。
あとはそれを自分がどう受け止め、どう動いていくかだけだ。
「ありがとうございます。シーク」
鷹揚に頷かれ、わかったら書類を返せと言う代わりに手を差し出された。その手に奪ったままだった書類を渡す。先程握りしめたせいで皺が寄ってしまったのを見て、迷惑そうにシークが眉を顰めた。
仕事を再開させたいのだろうが、それでもまだ少し気がかりなことがあって口を開いた。
「あの方はあんなに弱くて大丈夫なのでしょうか。弱いことはわかりましたが、せめてもう少し鍛えられた方が良いのではないですか?」
きっと今も高熱に魘されているだろう。あんなに細くて耐えきれるのかと、思い返すと心臓が竦む。
「なぜ弱くてはいけない? 誰にだって得手不得手はある。あれが弱いのなら、強いものが守ればいい。それだけのことだろう」
しかしあっけらかんとそう言われてしまい、咄嗟に返す言葉を失った。
「いや、ですが……」
「おまえは自分も完全とは程遠いのに、アルフェにだけ完全を求めるのか? 足りないものは他のもので補えばいい。その代わり、他の者が出来ないことをアルフェが成すこともあるだろう」
シークが言いたいことはわかる。こういう考え方がすぐできることは尊敬している。
けれど納得のいかない顔をすれば、仕方ない奴だなと言いたげに頬杖をつかれた。
「例えば。私は心配するのが下手に見えるようだが、クライブは見るからに心配しただろう? 私はそれを見て、世間一般の兄というのはクライブのように心配するものなのだと知った」
「……はあ」
「それでもいまいち理解できなかったわけだが、それなら私の心配の仕方が足りない分、クライブが心配してやればいい。そういうことだ」
「なるほど……?」
わかったようなわからないような理論を並べられ、しかし堂々と言い切られるとそういうものなのだろうかと誤魔化されて頷いてしまう。
それを見届け、シークは今度こそ話は終わりだと言わんばかりにペンを持ち直した。書面に視線を落としてしまう。
確かにこれ以上邪魔をするわけにはいかない。彼が王に押し付けられている仕事は、この年でこなすにはなかなか過酷な量なのだ。
「わかったのなら、いいかげん出ていけ。私は忙しい。言っておくが、勝手に仕事をしてきたからといって振替で休みはやらんからな」
「いりませんよ。これから忙しくなりそうですから」
忙しい中、ここまで話に付き合ってもらえたことで少しだけ心が落ち着いた。苦く笑って言えば、ちらりと視線だけがこちらに向けられた。
どこかすっきりとした気分になれた僕を見て、シークが微かに笑う。
「それでは、失礼します」
一礼して、執務室を後にする。
スラットリー老とシークの反応を見る限りでは、殿下の体調は死んでしまうものではないのだろう。さすがに自分の心配しすぎなのだとわかって、肩から力が抜けていくのを感じた。
それでも彼を追い詰めた自分の責だけは忘れないように、深く心に刻みつける。
出会ったあの時に、どうしてあんなことをしてしまったのかと過去を悔いることはしない。たとえ時間が戻っても、自分は同じことをしただろうから。
だからこそこの先の自分に何をできるのかを、考えなければいけない。
たとえ信用されなくとも、せめて自分の中に立てた誓いにだけは背かないように。
(あの時あなたをお守りしたいと思った気持ちに、嘘はないんです)
シークに剣を捧げるのとは、また少し違う気持ちで。
この心の中に生まれた感情をどう呼ぶべきか、まだ決まっていないけれど。
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