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第10話 8 行きもよくない帰りもこわい
しおりを挟むひとまずお礼も言えた。どうやら第一皇子……兄には想像以上に好意的な感情を持ってもらえたことに内心で安堵の息が漏れた。
命懸けでここまできたかいがあったというものだ。本当に。本っ当に!
「兄様」
「うん?」
これからこの人をこうやって呼ぶのかと思うと、まだものすごく恥ずかしい。だけど兄弟として認められて嬉しいと思う感情もある。
少し嬉しそうに僅かに目を細めて応えてくれる姿を見れば、特に。
(そういえば、アルフェって呼ばれてるのも受け入れてもらえた証拠なのかな)
この人は元々、私を「アルフェンルート」と呼んでいた。
アルフェと呼ばれるようになったのは、私が目を覚ましてからだ。そのおかげで違和感はなかったけど、よく考えれば愛称で呼ぶぐらい気にかけてくれるようになった、ってことなんだと思う。
それに普通はアルかアルフェンと呼びそうなのに、アルフェと呼ばれるのは少し特別な感じでくすぐったい。
せっかくここまで人並みの家族っぽい雰囲気になれたのだから、ボロを出す前に今日は撤退したい。好印象のまま綺麗に立ち去りたい。
こんな時なのに『遠足は無事に家に帰りつくまでが遠足』という言葉を思い出していた。
「今日はお忙しい中、お時間をとっていただいてありがとうございました。これ以上長居してはお仕事の邪魔になってしまいますから、そろそろお暇させていただきたく思います」
入ってきたとき仕事をして見えたので、きっと無理に時間を取ってくれたのだろう。ここらが潮時だろうと、出来るだけ柔らかく微笑みかけてから一礼する。
「私はかまわないのだが」
けれど少しだけ残念そうな声が降ってきた。思わず驚いた顔をしてしまった私を見て、兄が苦笑する。
「だがアルフェも病み上がりの身だ。無理をさせるのは本意ではないな……。クライブ」
「は! ここに」
その視線がそれまでおとなしく壁沿いに控えていたクライブへと向けられた。声を掛けられれば、すぐにクライブは反応する。
「アルフェを送ってやってくれ」
「一人で帰れます!」
だが次の瞬間、兄が言った言葉に心臓が止まるかと思った。クライブが応じるより早く咄嗟に遮ってしまっていた。
折角良い方に向かっていた兄の好意を無碍にする真似はするべきじゃないと理解していたはずなのに、恐怖の方が大きく上回った。
だって行きに殺そうとしてきた人だよ!? 帰りも二人きりだなんて、絶対無理!
ただでさえ神経が疲弊しているところにそんなスリルは求めてない。
とはいえ思わず断ってしまったものの、正直にそんなことを言うわけにはいかない。今だって、兄の好意を無碍にした私を見るクライブの方が怖くて見られない。
断られたことに驚いて目を瞠って私を見つめる兄に向かい、慌ててそれらしい言い訳を必死に言い募る。
「ランス卿は兄様の護衛です。ランス卿には兄様を守る大事なお役目があるのですから、一時的とはいえ私につけていただくわけには参りません。私でしたら、人目につかない道を教えていただけましたら一人で戻れますから」
「そういうわけにはいかない」
兄は困った表情で私を見てから、冷ややかな目をクライブに向けた。
その目が『迎えに行っただけでこんなに嫌われるなんて、いったい何をしでかしたんだ』と口で言う以上に語りかけている気がする。
折角言い訳したのに、私の怯えっぷりから何かあったのは兄にはお見通しなようだった。
だからこそ、こんな状況でクライブと二人きりになんてされたら無事に部屋に戻れる気がしない。
兄に冷ややかな視線を向けられても、クライブは平然と人好きのする笑顔は張り付けたままだ。その胸の内では何を考えてるのかさっぱりわからない。感情を綺麗に覆い隠しているだけに、余計に怖い。
今頃脳内で私は八つ裂きにされているかもしれない。
本気で泣きそうになって、無意識に助けを求めるように兄の服の裾を掴んでいた。
「わかった」
それに気づいたらしい兄は、咎めるでもなくただ小さく嘆息を吐いた。落胆させたのだと思うと怖くなって、慌てて手を離して眉尻を下げる。
「私が送っていこう」
「え?」
だからそう言って手を差し出されて、一瞬ぽかんと間抜けな面になってしまった。
「私が送っていけば、護衛のクライブも付いてくる。それならば問題あるまい?」
いやいやいや、違う。違う、そうじゃない。私が求めてるのはそういうことじゃない。
私が一人で人目を忍んで表の道から戻るか、もっと人畜無害そうな人を付けてくれるかしてくれればいいだけの話だと思う。
それがどうして兄に送っていってもらう話になった!?
「兄様のお手を煩わせるわけには……お仕事もお忙しいのでしょう?」
「かまわない。多少の休憩も必要だ」
待ってほしい。こんなことされたら更にクライブが怖い。絶対、「主に余計な手間をかけさせやがって」とか思っていそう。
もう怖すぎてクライブの方が見れない。
途方に暮れている私の前で、兄は差し出した手を取られないことに僅かに首を傾げた。そしてすぐに思いついたように、とんでもないことを口にしてくる。
「そういえば暗くて狭い場所が怖いのだったな。抱き上げた方がよいか?」
「大丈夫です。歩けます!」
急いで差し出された手を取った。
この人に抱き上げられるなんて、それこそ冗談じゃない。第二皇子派から差し向けられる刺客に対応するためにか、クライブほどじゃないけど鍛えているようには見えるから、私一人ぐらい抱き上げられそうではある。だからって、そんな恥ずかしいこと出来ない。
そもそも本当に怖いのは暗闇じゃなくて、クライブである。
「そうか、ならば行こう。クライブ」
「承りました。狭いので私が先導しましょう」
満足気に微笑まれ、クライブを先導にして行きに使った隠し通路へと手を取られたまま歩き出す。背後に立たれないだけまだマシではある。
狭い階段を下りたところで、ふと疑問が湧いてきた。隣を歩く兄を見上げる。
「私は目を閉じておいた方が良いですか?」
「怖いのなら閉じていてもかまわない。ちゃんと誘導しよう」
繋いでいた手を引かれ、腰を抱かれてぎょっと体が強張った。
(近い近い近い!)
ただでさえ人が二人並んで歩くには狭い道なので自然と寄り添う形になってしまっていたのに、ここまで密着すると緊張のあまり足元がおぼつかなくなる。
それにいくらまだ女の子らしさのない棒きれのような体つきとはいえ、ここまで寄り添われたらバレてしまう可能性も跳ね上がる。
そうでなくてもこんな美形と、兄だとわかっているけど体温が伝わりそうな距離に心臓がバクバクとうるさい。
人と接する免疫が0に戻っている気がする。
だいたいアルフェンルートとしてはここまで人と密着したのなんて、行きにクライブに抱き上げられたときぐらいだったりする。主従そろって距離が近すぎて困る。
出来る限り体を離そうとしながら、「そういうわけではないのです……っ」と訴える声が少しひっくり返った。
「私がこの道を覚えてしまうわけにはいかないでしょう?」
「なぜ?」
「ここは兄様が有事の際にお使いになるための通路ではないのですか?」
少なくとも、性別を偽っているために第二王位継承者となっている私には知らされていない。たぶん第一王位継承者だけ別の宮に住んでいるのも、こういうことが理由なのだと見当がつく。
国は王と、最低でも第一王位継承者が生き残ればどうとでもなる。第二以降の王位継承者である私と、そしてエインズワース公爵も知らないことを考えると王妃も知らない通路のはずだ。
それはつまり有事の際、王妃と第二以降の王位継承者は囮と身代わりになるからなのだと思う。
だから、知らされていない。
それだけに、私が知ってしまうのはとてもまずいことだと思えた。
近年この国は平和で戦争の気配はないとはいえ、私の本意ではないけど私が兄を狙う第二皇子派の旗頭であることは変わっていないのだ。
「アルフェが使ってはいけないという決まりもない」
そんなこと言わずともわかりきっていると思うのに、兄は涼しい顔でそう言ってのけた。
さすがにこれには私の方が眉根を寄せてしまう。
「兄様の部屋に直通となっている道を知るのは、私の立場ではさすがにどうかと思うのですが」
勿論、誰にも言うつもりはないけど。でも例えばもしもだけど、拷問とかされたら、言わないでいる自信はない。
すると不意に兄が足を止め、私の顔を伺うように覗き込んできた。
「アルフェは、私になにかするつもりだと?」
まるで心の奥底まで覗き込む灰青色の冷たい瞳に至近距離で見つめられて、低めた声で問われたそれにゴクリと息を呑んだ。
心臓が喉元までせり上がってくる緊張に駆られる。ドクンドクンと脈打つ自分の心臓の音だけが、やけに耳の奥で反響する。
きっと時間としては一瞬だったはずなのに、震えそうになりながらも首を横に振るまでの時間がやけに永く感じられた。
「ありません、絶対に。本当です」
試されているように思えて声が震えてしまった。眉根を寄せて、信じてほしいと訴えたくて私の手を取っていた兄の手を無意識に強く握る。
口を引き結んで、まっすぐに寒色系の瞳を見つめ返す。
すると向き合っていた瞳が緩んだ。
「ならば問題ないだろう。もし万が一、それでも何かあればそれは私の判断が誤っていたということで私が負う責だ。アルフェが気にする必要はない」
告げられた言葉に、心が一気に軽くなったように思えた。
優しく微笑みかけられて、緊張が解けて崩れ落ちそうになった。今更ながらに、ずっと肩肘を張っていた自分がいたことに気づかされる。
けれど1日に2度もそんな情けない様を見られるわけにはいかなかったので、頑張って足に力を入れた。とはいえここまで密着していれば力が抜けかけたのがわかったのか、支える腕の力が強くなる。心音は相変わらず駆け足で騒がしいけど、いまは安堵の方が勝った。
(ちゃんと『兄』って感じがする)
本当に、私の兄として接してくれてるんだ。
そう思うと恥ずかしさと照れ臭さと嬉しさが溢れてくる。反面、騙している罪悪感がチクリと胸を刺す。
照れたのを隠すふりをして、歪みそうになった顔を俯かせて隠した。
(本当に弟だったら、よかったのに)
考えても、どうしようもないことだけど。
今にも喉を突き上げてきそうな謝罪の言葉を、奥歯を噛み締めることで押し止める。
「クライブ。そういうわけだから、あまりアルフェを苛めてくれるなよ」
「!?」
自分の感情を抑えるのに必死になっていたせいで、唐突にクライブに声をかける兄の言葉が理解できなくて思考が止まった。
理解すると同時に勢いよく顔を上げて、狼狽えながら兄を見る。兄はクライブの背中に冷めた眼差しを向けていた。
クライブほどの相手ならその視線を感じないわけがないだろうに、肩越しに振り返った顔は全く堪えた様子もなく爽やかな笑みを浮かべている。
「苛めてなんていませんよ。人聞きの悪い」
「あの、ランス卿にいじめられてはいません」
動顛しながらもクライブの援護射撃をする。
なぜ私がこんな人でなしを庇わなければいけないのかと思うけど、後で何をされるかわからないので必死だ。それに嘘ではない、あれは『苛める』なんていう可愛いレベルじゃなかった。
兄はチラリと私を見下ろす。怯えているのが隠しきれていなかったのか、溜息を吐いてからクライブを睨む。
「そうか、ならば言い方を変えよう。脅すな」
「……」
鋭く冷たい声にも無言のまま爽やかな笑顔で応じるクライブは、心臓には鉄の剛毛が生えてるんじゃないのかと思いたくなる。
怖い。空気が怖い。
クライブの狂犬っぷりの恐ろしいところは、第一皇子絶対至上主義なのに第一皇子に対してイエスマンじゃないところだ。自分の解釈で第一皇子にとって最善と思われる行動を取る。
それを第一皇子が望んでいなくても、だ。
そう、行きに私を襲ったことのように。
……正直な話、前世でゲームをしていたときはこの二人の組み合わせが結構好きだった。ヒロインとよりむしろ推していた。
でも現実に自分の目の前に生身の二人がいると、とてもそんな呑気なことは考えられない。元々が二次元限定腐女子だったから三次元になるとそれほど興味がないと言うのもあるけど、これはそれ以前の問題だ。
一瞬でも過去を思い出しただけで、ごめんなさいと叫んで逃げ出したくなる。
そんなことを考えて必死に現実逃避をしていたけれど、暗くて狭い通路で自分より頭一つ分以上高い二人が互いに圧を発していると息苦しくなってくる。
息を吸うことすら憚られ、顔が血の気を失って蒼褪めていくのを感じた。
「善処はしましょう」
クライブはふいと私を見て、この場の雰囲気に凍り付いているだけの私は脅威にならないと感じたらしい。肩を竦めて、そう答えるに止めた。
至上の主に対してもこの態度、本当に歪みなくて慄かされる。
それでもこれはクライブなりの譲歩だったのだとは思う。
兄も呆れ切った嘆息を吐きつつ、困惑している私を宥めて軽く背を撫でた。
「とりあえずこれからは無茶はしないはずだから、そう怖がらないでやってくれ。これでも悪い奴ではない」
「…………はい」
眉尻を下げて申し訳なさそうな顔で兄にそこまで言わせて、頷かないという選択はない。
少し遠い目にはなってしまったかもしれないけど、不承不承頷いた。
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