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2007年
44:小さな木陰
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昼間は刺すような日差しが降り注ぎ、夏休みも半ばになった頃。まだ陽は高いけれども夕飯時が近づき、先程夏休みの宿題を教わりに来た木更を見送ったばかりだった。
勉強を教えるとなると、なかなかに気を遣う。自分でわかっていると思っていたことでも案外思い出せず、一緒に調べると言うことも時々あるのだ。
籐の椅子に座って冷たいお茶を飲み、林檎は一息つく。閉店時間まであと二時間、それまでにお客さんは来るだろうか。
豆のような香りの黒いお茶を飲んでいると、店の扉が開く音がした。ふっと入り口の方へ視線をやると、そこには背の高い男性が立っていた。
「先日はどうも」
そう言って頭を下げる彼に、林檎は持っていたグラスをレジカウンターの上に置き、微笑んで挨拶を返す。
「あら清さんいらっしゃい。お久しぶりです」
店内を見回し、清は螺鈿の箱と寄せ木の箱が置かれた棚を見る。その中に入ったつまみ細工の簪やブローチや耳飾りを見てから、その隣に置かれた、黄色い硝子の器をじっと見ている。しかしその表情はなにやらぼんやりとしていて、心ここに有らずといった様子だ。
もしかして外が暑かったので疲れているのかも知れない。そう思った林檎は、籐の椅子から立ち上がって、清に訊ねた。
「外は暑かったでしょう。冷たいお茶でもいかがですか?」
その声に清は顔を上げ、林檎の方を見る。するとやはり、ぼんやりした声でこう返してきた。
「はい、すこし暑さで参ってしまいまして……
ありがたくいただきます」
清の返事に、林檎はレジカウンターの上に置いた、ブリキの器に詰まった氷に刺さった瓶を見る。今刺さっているのは一本だけだ。元々二本用意してあったけれども、片方は木更が来ているうちに飲みきってしまい空になっている。
それを確認し、レジカウンターの奥に有る棚の中から青と黄色の光を湛えたグラスをひとつ取りだし、中身の入っている方の瓶を氷から引き抜いて栓を抜いた。中身をグラスの中に注ぐ。真っ青なお茶がグラスを満たしていった。
「はい、まずはお茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
青いお茶の入ったグラスを清に渡し、林檎はバックヤードから丸い座面のスツールを運び出す。それをレジカウンターの側に置いて清に勧める。彼が腰掛けたところで、林檎も籐の椅子に腰掛けた。
「お仕事帰りですか?」
すこし日が翳ってきた窓の外を見て林檎がそう訊ねると、清は手を冷やしているのか、両手でグラスを包んでこう言った。
「いえ、今、私の職場は夏休み中なんです」
「あら、ちゃんと夏休みが取れる職場なんですね」
近頃夏休みも取れない企業も多いと聞いている林檎が安心したようにそう言うと、清ははにかんで返す。
「私は高校教師なので、学校が休みの時は、大体休みなんですよ」
「学校の先生でいらしたんですね。
でも、夏休みでも生徒さん達の部活とか、あるんじゃないですか?」
学生時代、部活でほぼ毎日のように学校に通っている同級生を見ていた林檎は、教師は夏休みも仕事があると思っていたので、夏休み中仕事が無いというのは意外だった。
「清さんは、部活の顧問はなさっていないのですか?」
林檎の純粋な疑問に、清はすこし困ったような顔をした。
「部活の顧問の話は持ってこられたのですが、手に余るので断ったんです」
「確かに、部活の顧問は大変ですよね」
すんなりと納得はできたけれども、清はそんなに大変な部活の話を持ってこられたのだろうか。それが気になったので、林檎はまた訊ねる。
「ちなみに、どんな部活を頼まれそうになったんですか?
運動部とか、その辺りはすごく大変そうですけれど」
その言葉に、清は小さく手を振って、こう答えた。
「吹奏楽部です。私は担当の学科が音楽なので、それでやって欲しいと」
「なるほど」
確かに、吹奏楽部も沢山の部員を抱え、厳しい学校が多いと聞く。
「でも、顧問を頼まれるほど、清さんは生徒さん達に頼られているんですね」
その何気ない言葉に、清は複雑そうな顔をして、ぽつりと零した。
「はい、生徒の皆さんは、私に懐いてくれている子が多いです。
でも、なんというか、なんとなく学校に居づらさを感じていて……」
「居づらさ、ですか?」
生徒と上手くいっているのに何故だろうと林檎は思ったが、すぐに理由に思い当たる。おそらく、部活の顧問を断った事で、清のことを良く思わない教師がいたりするのだろう。
「でも、教師になるのは子供の頃からの夢だったんです。
それを折角掴んだのに、今更他の仕事に転職なんて、したくないんです」
そう話すうちに、清の表情が沈み、泣きだしそうになってくる。
きっと、自分には想像できないほどの葛藤があるのだろうなと思い、林檎は何も言えない。どうしたら良いか悩みながらお茶に口を付けると、震える声で清が言う。
「折角、夢でお腹が膨れるようになったのに」
勉強を教えるとなると、なかなかに気を遣う。自分でわかっていると思っていたことでも案外思い出せず、一緒に調べると言うことも時々あるのだ。
籐の椅子に座って冷たいお茶を飲み、林檎は一息つく。閉店時間まであと二時間、それまでにお客さんは来るだろうか。
豆のような香りの黒いお茶を飲んでいると、店の扉が開く音がした。ふっと入り口の方へ視線をやると、そこには背の高い男性が立っていた。
「先日はどうも」
そう言って頭を下げる彼に、林檎は持っていたグラスをレジカウンターの上に置き、微笑んで挨拶を返す。
「あら清さんいらっしゃい。お久しぶりです」
店内を見回し、清は螺鈿の箱と寄せ木の箱が置かれた棚を見る。その中に入ったつまみ細工の簪やブローチや耳飾りを見てから、その隣に置かれた、黄色い硝子の器をじっと見ている。しかしその表情はなにやらぼんやりとしていて、心ここに有らずといった様子だ。
もしかして外が暑かったので疲れているのかも知れない。そう思った林檎は、籐の椅子から立ち上がって、清に訊ねた。
「外は暑かったでしょう。冷たいお茶でもいかがですか?」
その声に清は顔を上げ、林檎の方を見る。するとやはり、ぼんやりした声でこう返してきた。
「はい、すこし暑さで参ってしまいまして……
ありがたくいただきます」
清の返事に、林檎はレジカウンターの上に置いた、ブリキの器に詰まった氷に刺さった瓶を見る。今刺さっているのは一本だけだ。元々二本用意してあったけれども、片方は木更が来ているうちに飲みきってしまい空になっている。
それを確認し、レジカウンターの奥に有る棚の中から青と黄色の光を湛えたグラスをひとつ取りだし、中身の入っている方の瓶を氷から引き抜いて栓を抜いた。中身をグラスの中に注ぐ。真っ青なお茶がグラスを満たしていった。
「はい、まずはお茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
青いお茶の入ったグラスを清に渡し、林檎はバックヤードから丸い座面のスツールを運び出す。それをレジカウンターの側に置いて清に勧める。彼が腰掛けたところで、林檎も籐の椅子に腰掛けた。
「お仕事帰りですか?」
すこし日が翳ってきた窓の外を見て林檎がそう訊ねると、清は手を冷やしているのか、両手でグラスを包んでこう言った。
「いえ、今、私の職場は夏休み中なんです」
「あら、ちゃんと夏休みが取れる職場なんですね」
近頃夏休みも取れない企業も多いと聞いている林檎が安心したようにそう言うと、清ははにかんで返す。
「私は高校教師なので、学校が休みの時は、大体休みなんですよ」
「学校の先生でいらしたんですね。
でも、夏休みでも生徒さん達の部活とか、あるんじゃないですか?」
学生時代、部活でほぼ毎日のように学校に通っている同級生を見ていた林檎は、教師は夏休みも仕事があると思っていたので、夏休み中仕事が無いというのは意外だった。
「清さんは、部活の顧問はなさっていないのですか?」
林檎の純粋な疑問に、清はすこし困ったような顔をした。
「部活の顧問の話は持ってこられたのですが、手に余るので断ったんです」
「確かに、部活の顧問は大変ですよね」
すんなりと納得はできたけれども、清はそんなに大変な部活の話を持ってこられたのだろうか。それが気になったので、林檎はまた訊ねる。
「ちなみに、どんな部活を頼まれそうになったんですか?
運動部とか、その辺りはすごく大変そうですけれど」
その言葉に、清は小さく手を振って、こう答えた。
「吹奏楽部です。私は担当の学科が音楽なので、それでやって欲しいと」
「なるほど」
確かに、吹奏楽部も沢山の部員を抱え、厳しい学校が多いと聞く。
「でも、顧問を頼まれるほど、清さんは生徒さん達に頼られているんですね」
その何気ない言葉に、清は複雑そうな顔をして、ぽつりと零した。
「はい、生徒の皆さんは、私に懐いてくれている子が多いです。
でも、なんというか、なんとなく学校に居づらさを感じていて……」
「居づらさ、ですか?」
生徒と上手くいっているのに何故だろうと林檎は思ったが、すぐに理由に思い当たる。おそらく、部活の顧問を断った事で、清のことを良く思わない教師がいたりするのだろう。
「でも、教師になるのは子供の頃からの夢だったんです。
それを折角掴んだのに、今更他の仕事に転職なんて、したくないんです」
そう話すうちに、清の表情が沈み、泣きだしそうになってくる。
きっと、自分には想像できないほどの葛藤があるのだろうなと思い、林檎は何も言えない。どうしたら良いか悩みながらお茶に口を付けると、震える声で清が言う。
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