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第四章 香を焚く
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ジジがこの村にやって来て数日。その日ジジは漂ってくる強い香りで目を覚ました。
まだ夜明け前。畑仕事をしなくてはいけないリンネはともかく、ジジはまだ暫く寝ていたい時間だ。そんな時間になぜこんな香りがするのだろうと疑問に思ったジジは、様子を見ようと部屋を出る。すると、同じ事を考えていただろうリンネと、部屋を出てすぐに顔を合わせた。
「やあおはよう。朝からこんな無茶な香の焚き方をしてるのは誰だろうね」
「香油の管理は先生がしているので、先生が焚いているか、もしくは誰か泥棒が入ったのか……」
「まさかミカエルがこんな焚き方をするとは思えないけれど、泥棒にしてはおかしい時間だ。
まぁ、様子を見にいこうや」
ふたり揃って台所のある部屋に行くと、そこではランプの光に照らされて、ミカエルが鍋に向かっている。どうやらその鍋の中から香りが上ってきているようで、よく見ると鍋の中にはごく薄い油膜が張っている。それを見て驚いたジジが訊ねた。
「どうしたんだいお前さん。こんな朝早くからこんな香を焚いて、なにがあったんだ?」
すると、ミカエルは強張った表情でジジとリンネの方を向き、緊張が急に解けたのか、ぼろぼろと泣き出した。
これにはジジもどうしたら良いかわからないと言った様子。リンネも慌てながらミカエルにハンケチを渡して訊ねる。
「もしかして、泥棒に入られそうになったから、強い香で追い出そうとしたんですか?」
その問いに、ミカエルは涙を拭いながら答える。
「実は、あの、黒い虫が出て追い出そうと思ったんだ。今回のは本当に大きくて、それでこわくて……」
「あー……」
遠回しな言い方をしているのを聞いて、リンネはピンときたようだ。一方、ジジも納得した様子で、けれども少し厳しい表情でこう言った。
「苦手な虫が出たとなっちゃあ気持ちはわかるが、この香はちときつすぎやぜ?
強すぎる香は人間の身体にだって悪く効くって知ってるだろう?」
「でも、でも、これくらいしないとあいつらは家から出て行かないじゃあないか!」
いつになく取り乱した様子のミカエルを見てリンネは戸惑っているようだけれども、念のためなのか、ジジになんの香油なのかを訊ねる。
「ジジさん、先生が焚いたこれは、なんの香油でしょう?」
「この感じだと、ミント、ベチバー、シトロネラ、クローブと言った所かな」
宙に漂う香りを改めて嗅いでそう答えたジジは、呆れ顔でミカエルに言い聞かせる。
「確かに、これらは虫除けには良く効く香油だ。
だけど、良い調合じゃあないね。お前さんらしくもない」
ジジの言葉に納得できないのか、まだべそをかいているミカエルに、リンネも困ったような表情で言う。
「そうですよ先生。あの、えっと、あー、あの、あの黒い虫だけだったらベチバーを焚くだけで十分です」
それを聞いて、ミカエルはぐっと口を結んで考える素振りを見せる。それから、ふたりの言い分に納得がいったのか、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で口を開いた。
「……朝早くからすまない……僕としたことが取り乱してしまったよ……」
手で顔を覆って反省するミカエルの背をジジが叩いて笑う。
「まぁ、誰にだってこわいもんはあるさ。
でも、体に障るようなことはしないでくれよな?」
ようやく落ち着いたミカエルからハンケチを受け取ったリンネもにこりと笑う。
「そうですよ師匠。でも、虫を追い払えたようで良かったです」
そうこうしている内に、窓の外が明るくなってきた。それを見て、ミカエルは恥ずかしそうに、困ったような笑顔を浮かべる。
「もうこんな時間になってしまったね、朝ご飯にしようか。畑の手入れをするにはもう時間が経ちすぎてしまったかな?」
ミカエルの言葉に、リンネはこう返す。
「朝ご飯を食べてすぐに畑をやれば、収穫は間に合いますよ。それより……」
ちらりとリンネから視線を送られたジジは、リンネが何を言わんとしてるのか察した様子で、苦笑いをしている。
「二度寝しようかと思ったけど、もうこんな時間じゃ今更寝れないなぁ」
「いや、あの、本当に心配かけてすまなかったね……」
欠伸をする動作を見せるジジに、ミカエルは申し訳なさそうに笑う。それから、朝食の準備をすると言うので、ジジとリンネは台所から離れ、いつものテーブルに着いて待つ事にした。
大量の香油を落とされた熱湯は鍋から捨てているようだ。水を鍋に入れる音、フライパンの上で油の跳ねる音、窯の中から漂ってくるパンの香り。台所から隔てる物の無い食卓には、その全てが伝わっていた。
「そういえば」
ふと、ジジが口を開く。
「なんで朝食はミカエルがいつも作るのかな? そう言う役割分担かい?」
その問いに、リンネは恥ずかしそうに答える。
「実は、ぼくは朝ってあまりお腹が空かなくて、それで、朝ご飯を少なくしてしまいがちなので、それで先生が」
「なるほどね。あいつもちゃんと先生してるって事か」
リンネの問いにジジが感心していると、外からなにやらざわめきが聞こえてきた。
不思議に思ったリンネがそっと玄関を開けると、そこには村人が何人も集まっている。
「えっ? 皆さんどうしたんですか?」
驚いたリンネがそう訊ねると、村人が口々に、何だか良い匂いがこの家から漂ってきたから。と言う。
台所に向かっているミカエルにもその声は聞こえたようで、玄関に向かってこう言った。
「みなさんご迷惑お掛けして申し訳無い。
お詫びに、お茶をご馳走しますね」
ミカエルが縮こまっているのがわかったのだろう。リンネはにこりと笑って、お茶の準備を始めた。
まだ夜明け前。畑仕事をしなくてはいけないリンネはともかく、ジジはまだ暫く寝ていたい時間だ。そんな時間になぜこんな香りがするのだろうと疑問に思ったジジは、様子を見ようと部屋を出る。すると、同じ事を考えていただろうリンネと、部屋を出てすぐに顔を合わせた。
「やあおはよう。朝からこんな無茶な香の焚き方をしてるのは誰だろうね」
「香油の管理は先生がしているので、先生が焚いているか、もしくは誰か泥棒が入ったのか……」
「まさかミカエルがこんな焚き方をするとは思えないけれど、泥棒にしてはおかしい時間だ。
まぁ、様子を見にいこうや」
ふたり揃って台所のある部屋に行くと、そこではランプの光に照らされて、ミカエルが鍋に向かっている。どうやらその鍋の中から香りが上ってきているようで、よく見ると鍋の中にはごく薄い油膜が張っている。それを見て驚いたジジが訊ねた。
「どうしたんだいお前さん。こんな朝早くからこんな香を焚いて、なにがあったんだ?」
すると、ミカエルは強張った表情でジジとリンネの方を向き、緊張が急に解けたのか、ぼろぼろと泣き出した。
これにはジジもどうしたら良いかわからないと言った様子。リンネも慌てながらミカエルにハンケチを渡して訊ねる。
「もしかして、泥棒に入られそうになったから、強い香で追い出そうとしたんですか?」
その問いに、ミカエルは涙を拭いながら答える。
「実は、あの、黒い虫が出て追い出そうと思ったんだ。今回のは本当に大きくて、それでこわくて……」
「あー……」
遠回しな言い方をしているのを聞いて、リンネはピンときたようだ。一方、ジジも納得した様子で、けれども少し厳しい表情でこう言った。
「苦手な虫が出たとなっちゃあ気持ちはわかるが、この香はちときつすぎやぜ?
強すぎる香は人間の身体にだって悪く効くって知ってるだろう?」
「でも、でも、これくらいしないとあいつらは家から出て行かないじゃあないか!」
いつになく取り乱した様子のミカエルを見てリンネは戸惑っているようだけれども、念のためなのか、ジジになんの香油なのかを訊ねる。
「ジジさん、先生が焚いたこれは、なんの香油でしょう?」
「この感じだと、ミント、ベチバー、シトロネラ、クローブと言った所かな」
宙に漂う香りを改めて嗅いでそう答えたジジは、呆れ顔でミカエルに言い聞かせる。
「確かに、これらは虫除けには良く効く香油だ。
だけど、良い調合じゃあないね。お前さんらしくもない」
ジジの言葉に納得できないのか、まだべそをかいているミカエルに、リンネも困ったような表情で言う。
「そうですよ先生。あの、えっと、あー、あの、あの黒い虫だけだったらベチバーを焚くだけで十分です」
それを聞いて、ミカエルはぐっと口を結んで考える素振りを見せる。それから、ふたりの言い分に納得がいったのか、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で口を開いた。
「……朝早くからすまない……僕としたことが取り乱してしまったよ……」
手で顔を覆って反省するミカエルの背をジジが叩いて笑う。
「まぁ、誰にだってこわいもんはあるさ。
でも、体に障るようなことはしないでくれよな?」
ようやく落ち着いたミカエルからハンケチを受け取ったリンネもにこりと笑う。
「そうですよ師匠。でも、虫を追い払えたようで良かったです」
そうこうしている内に、窓の外が明るくなってきた。それを見て、ミカエルは恥ずかしそうに、困ったような笑顔を浮かべる。
「もうこんな時間になってしまったね、朝ご飯にしようか。畑の手入れをするにはもう時間が経ちすぎてしまったかな?」
ミカエルの言葉に、リンネはこう返す。
「朝ご飯を食べてすぐに畑をやれば、収穫は間に合いますよ。それより……」
ちらりとリンネから視線を送られたジジは、リンネが何を言わんとしてるのか察した様子で、苦笑いをしている。
「二度寝しようかと思ったけど、もうこんな時間じゃ今更寝れないなぁ」
「いや、あの、本当に心配かけてすまなかったね……」
欠伸をする動作を見せるジジに、ミカエルは申し訳なさそうに笑う。それから、朝食の準備をすると言うので、ジジとリンネは台所から離れ、いつものテーブルに着いて待つ事にした。
大量の香油を落とされた熱湯は鍋から捨てているようだ。水を鍋に入れる音、フライパンの上で油の跳ねる音、窯の中から漂ってくるパンの香り。台所から隔てる物の無い食卓には、その全てが伝わっていた。
「そういえば」
ふと、ジジが口を開く。
「なんで朝食はミカエルがいつも作るのかな? そう言う役割分担かい?」
その問いに、リンネは恥ずかしそうに答える。
「実は、ぼくは朝ってあまりお腹が空かなくて、それで、朝ご飯を少なくしてしまいがちなので、それで先生が」
「なるほどね。あいつもちゃんと先生してるって事か」
リンネの問いにジジが感心していると、外からなにやらざわめきが聞こえてきた。
不思議に思ったリンネがそっと玄関を開けると、そこには村人が何人も集まっている。
「えっ? 皆さんどうしたんですか?」
驚いたリンネがそう訊ねると、村人が口々に、何だか良い匂いがこの家から漂ってきたから。と言う。
台所に向かっているミカエルにもその声は聞こえたようで、玄関に向かってこう言った。
「みなさんご迷惑お掛けして申し訳無い。
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