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始まりは縄文から
日ノ本経済 刺青は、縄文期が記録の始まりを示す
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交渉は、コミュニケーションの始まりでもあります。
日ノ本では、針突が持つ意匠に意味があると伝えています。縄文期には、このような針突の意匠を用いた、情報伝達手段があったと推定されます。後年、女性の風習として南西諸島に残っていますが、「魏志倭人伝」の記述にも、男女に関係なく、日ノ本では刺青の風習があったと推定されます。
今も、手をメモ替わりに使う人がいますが、記録という観点からすれば、自分自身の体に刻むというのは、記録方法の一つであり、簡単な刺青であれば、鉛筆で体を指せば、残った黒鉛が黒く残ります。
刺青は、入墨とも書くように、墨を人の皮膚の表層に埋め込む行為です。
刺青が上手い人は、一定の深さで色素が沈着しているが、下手であれば、深さが異なり、浅すぎると時間の経過によって、刺青が消えてしまうこともあるそうです。
奄美諸島から琉球諸島では、島によって刺青の文様が変わる。刺青の形状や配置から、所属を示すことができる。これもまた、コミュニケーションの一つであり、記録の方法であったのだと推定されます。
沖縄や奄美に伝わる、針突の風習は、女性を対象としていますが、縄文期は男女に関係なく、刺青の風習があったのではないでしょうか。また、北海道のアイヌにも、刺青の風習が残っています。
女性に刺青の風習が残されたのは、女性は、母となり、時代へ伝える伝統の守り手であったと推定されます。
黒曜石の取れない島の人々が、黒曜石を手に入れるためには、黒曜石を持っている人、取れる島と交易を行って手に入れる必要があります。また、海洋交易をおこなう場合は、目的地に辿り着けずに死ぬ可能性もあります。浜辺に死体で打ち上げられた時、埋葬にあたって、他の島人であれば、埋葬が変わることも想定されます。
日ノ本の場合は、祖霊を祀るが基本ですから、祖霊が祀られる地に帰るためにも、自分自身の体に、所属を刻んでおく必要があったと考えられます。
琉球における、針突文様を調べていると、日ノ本における記録の始まりは、自分自身と祖霊について記録することから始まったと考えられます。
コミュニケーションとは、相手に誤解をまねかないことが重要となります。手や腕に刻まれた文様を相手に見せて、自分自身と祖霊を伝えることで、コミュニケーションの手助けとなります。文様によって、自分の祖霊と相手の祖霊が、同じ血族といった内容を伝えることができるようになります。
文様の関連が強ければ、血筋が近く、関連が弱ければ、血筋が遠いことを意味します。
縄文期に海を移動する海洋部族は、刺青を使うと言う点で、ほぼ同じコミュニケーションをおこなっていた文化圏であったと推定されます。
自分自身と祖霊を語るのは、何も、海上交通だけではありません。武士が、名乗りを上げるように、旅人は、向かう村に害を及ぼさないことを示すためにも、自分自身の氏素性や正当性を相手に示す必要があります。
海民が、刺青で示すように、陸民も、刺青を刻んだのではないでしょうか。江戸末期の飛脚の写真で、全身に刺青をしている写真を見ると、飛脚という職であることを示すために、自分自身に刻んだのではないかと思います。まあ、江戸期は、刺青は競い合ったよう綺麗にそして派手になり、芸術的なまでに洗練される、ボディアートとなっていったようです。
交易のために旅をする者は、刺青という手段を使うことで、相手に対して、正当な交易人という立場のモノであることを示したのではないでしょうか。
参考資料
大城勝三「今帰仁村の針突(パジチ) -消えゆく習俗-」
粟国恭子著「針突・ハジチ」の文化と表象 : 手の記憶
山田淳人、上原守峰、惠原要、操利一、中村寿一共著「奄美群島の伝統文様の図形化と用途展開に関する研究」
日ノ本では、針突が持つ意匠に意味があると伝えています。縄文期には、このような針突の意匠を用いた、情報伝達手段があったと推定されます。後年、女性の風習として南西諸島に残っていますが、「魏志倭人伝」の記述にも、男女に関係なく、日ノ本では刺青の風習があったと推定されます。
今も、手をメモ替わりに使う人がいますが、記録という観点からすれば、自分自身の体に刻むというのは、記録方法の一つであり、簡単な刺青であれば、鉛筆で体を指せば、残った黒鉛が黒く残ります。
刺青は、入墨とも書くように、墨を人の皮膚の表層に埋め込む行為です。
刺青が上手い人は、一定の深さで色素が沈着しているが、下手であれば、深さが異なり、浅すぎると時間の経過によって、刺青が消えてしまうこともあるそうです。
奄美諸島から琉球諸島では、島によって刺青の文様が変わる。刺青の形状や配置から、所属を示すことができる。これもまた、コミュニケーションの一つであり、記録の方法であったのだと推定されます。
沖縄や奄美に伝わる、針突の風習は、女性を対象としていますが、縄文期は男女に関係なく、刺青の風習があったのではないでしょうか。また、北海道のアイヌにも、刺青の風習が残っています。
女性に刺青の風習が残されたのは、女性は、母となり、時代へ伝える伝統の守り手であったと推定されます。
黒曜石の取れない島の人々が、黒曜石を手に入れるためには、黒曜石を持っている人、取れる島と交易を行って手に入れる必要があります。また、海洋交易をおこなう場合は、目的地に辿り着けずに死ぬ可能性もあります。浜辺に死体で打ち上げられた時、埋葬にあたって、他の島人であれば、埋葬が変わることも想定されます。
日ノ本の場合は、祖霊を祀るが基本ですから、祖霊が祀られる地に帰るためにも、自分自身の体に、所属を刻んでおく必要があったと考えられます。
琉球における、針突文様を調べていると、日ノ本における記録の始まりは、自分自身と祖霊について記録することから始まったと考えられます。
コミュニケーションとは、相手に誤解をまねかないことが重要となります。手や腕に刻まれた文様を相手に見せて、自分自身と祖霊を伝えることで、コミュニケーションの手助けとなります。文様によって、自分の祖霊と相手の祖霊が、同じ血族といった内容を伝えることができるようになります。
文様の関連が強ければ、血筋が近く、関連が弱ければ、血筋が遠いことを意味します。
縄文期に海を移動する海洋部族は、刺青を使うと言う点で、ほぼ同じコミュニケーションをおこなっていた文化圏であったと推定されます。
自分自身と祖霊を語るのは、何も、海上交通だけではありません。武士が、名乗りを上げるように、旅人は、向かう村に害を及ぼさないことを示すためにも、自分自身の氏素性や正当性を相手に示す必要があります。
海民が、刺青で示すように、陸民も、刺青を刻んだのではないでしょうか。江戸末期の飛脚の写真で、全身に刺青をしている写真を見ると、飛脚という職であることを示すために、自分自身に刻んだのではないかと思います。まあ、江戸期は、刺青は競い合ったよう綺麗にそして派手になり、芸術的なまでに洗練される、ボディアートとなっていったようです。
交易のために旅をする者は、刺青という手段を使うことで、相手に対して、正当な交易人という立場のモノであることを示したのではないでしょうか。
参考資料
大城勝三「今帰仁村の針突(パジチ) -消えゆく習俗-」
粟国恭子著「針突・ハジチ」の文化と表象 : 手の記憶
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