琉球お爺いの綺談

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鎌倉三百年

宵闇鎌倉三百年06 元寇と倭寇

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 鎌倉の崩壊は、元寇という対外戦争の結果であった。対外戦闘は、領地のやりとりや権益の確保もなく、ひたすらに消費するだけの戦闘であった。領地や権益確保以外の戦闘経験が無い御家人達にとっては、目的の異なる軍勢の相手であった。
  また、鎌倉幕府の主力である弓騎兵は、御家人であり、緊急動員が可能な兵であったが、長期間戦闘を可能とするような支援体制は整えられていなかった。弓騎兵一人動員するのに、槍持や護衛を含め五人ほどの支援兵が必要であり、支援兵の大半は農民であり、農閑期でなければ動員し難い状況であった。
  二十貫の所領を持つ御家人の場合、御家人である弓騎兵一名、家人二名が常時動員可能な兵員であり、長期動員が可能な限界であった、無理をすれば所領から数名の百姓が動員されたが、彼らには彼らの仕事があり、長期間の動員では、次年度の年収に響く結果となった。糧食の徴発や輸送、戦場での葬いや穢れ祓いといった手配は、守護職の職務であった。備蓄米の確保や矢や食料の調達、僧侶や巫女の手配、荷役の手配を実施していた。しかしながら、鎌倉時代の抗争は、長くても1ヶ月程度であり、一年以上の動員を行ったのは、源平合戦くらいで、源平合戦時に兵粮の確保は至難の業であった。

  元寇後も元朝との国交が正常化されたわけでもなかったので、一万余の兵を博多と蝦夷へ同時に派遣し、鎮西探題と蝦夷探題として常駐させることは、鎌倉幕府の財政事情を急激に悪化させていった。
 特に博多は、元・高麗による襲撃を受けたこともあって、総守護職の命令で五万余の兵を博多に動員して、解散できずにいた。これに鎮西探題の一万が加わったのである。
 宋国が破れ、琉球に逃れた王子を、琉球王が皇帝と認めたことで、元との関係修復が困難な状況となった。琉球へ詰問を送った鎌倉からの使者に対して、琉球の尚真王は、為朝の娘婿の子孫であり、頼朝公から命じられた事実上の国外追放令である「外ツ国勝手次第」の継承権を主張し、宋国皇帝の支援を主張し、台湾島の台北に台宋国の建国を支援した。当時の日ノ本では、平安末期に水滸伝の英雄凌振が難波に亡命し、岳飛の子供達と共に、徽宗の子が、金国の娼館であった洗衣院を脱出し、亡命していたこともあって、伊豆八幡衆の為朝が、小笠原諸島に宋ヶ庄を設置して、祖先の霊廟を守るとしていた。結果的に、この宋国と日本の関係が、そのまま元との対決以外の選択肢を奪われることとなったのである。
 また、対馬や壱岐でおこなった元および高麗軍による略奪や虐殺は凄惨を極めたため、九州の御家人衆には、元朝への反撃を求める者まで、いたのである。



  蝦夷では、アイヌ部族の支援として、樺太から渡海をしないよう説得しつつ、樺太に城を築き、元軍との対峙する動きをとった。これは、元寇後も、継続し、海峡を挟んで睨み合う形となった。
  元寇後、肥前松浦党は、虐殺された妻子親族の復仇から、高麗から元朝の海岸線に対する襲撃と略奪を実行した。これが、倭寇の始まりと言われている。肥前松浦党は、ミヅチ衆を要する大船を主力とし、大筒を積んだ松浦大船の海戦能力は、当時、元軍の海戦能力を圧倒していた。三十艘程の船団を率いて、釜山や渤海湾沿岸一帯を強襲し、虐殺と略奪を行った松浦党は、元側からは倭寇と呼ばれて恐れられた。

  日ノ本の外交では、それぞれの地域に住む者達が、起こした行動の結果として、本国の外交に制約が入った。琉球王にしても、アイヌにしても、地方の長が、勝手に友好国の皇族救出や亡命受け入れを選択した結果、元から使節に対する対応が後手に回り、そのまま戦争にまで引き摺りこまれたのが元寇の原因もあった。
  戦後にしても、一万の御家人を博多と蝦夷に配置し続け、元からの攻撃に備える体制をとることとなった。亡命した宋国皇帝が鎌倉に来訪し、銭十万貫、金千両を鎌倉幕府からの朝貢に対する返礼として贈られたが、戦費を賄うにはほど遠い状況にあった。
  鎌倉幕府は、朝貢の返礼を受け取り、結果的に宋の皇族を匿って、元朝に対して使節派遣が難しく、使節を送ったものの、相手からは元朝の軍事偵察扱いされたという事態に拗れていた。結果として、蒙古帝国に対して鎌倉幕府は、一貫して対決姿勢で望まざるを得ない結果となったのである。



  鎌倉幕府は元寇後、鎮西探題の命として、「外ツ国勝手次第」を九州一円の水軍を保有する御家人衆や、瀬戸内の水軍衆に発行し、倭寇による中華から高麗の海岸に対する襲撃と掠奪を正当化させてしまった。
  元朝が内紛から衰弱し、貧民街で托鉢をしていた朱元璋が、倭寇の襲撃にあって、台湾に訪れていた時、台湾へ亡命していた宋国皇帝息女趙紫雲に気に入られて、朱元璋を夫として、中華王朝の復活を目指すこととなった。朱元璋にとっては、かつての中華皇帝の娘が妻となることで、貴族への抑えとなり、紫雲の子朱標を太子趙王とした。朱標は、大明国二代皇帝建文帝となった。
  紫雲は、戦にあって自ら矛を振るう程の武人であり、母皇后となり、明王朝が開かれて後宮に入っても、稽古を欠かさず、華美な振る舞い少なく、戦にあって先陣を切る程の豪傑でもあった。朱元璋の死後、母太后として朱標の後見となって、建文帝に叛く者は、貴族や親兄弟であっても、粛清を敢行した。

  元が倒れ、明国となったことで、日ノ本の対外政策が転換され、鎌倉幕府との日明貿易が再開されることとなった。この結果として、鎌倉幕府によって、「明国は、友邦国であって、外ツ国に非ず」と全国に通告され、私掠禁止令がだされた。
  私掠禁止と交易再開は、日明交易で収益をあげられるようになった、琉球の尚錬王によって、倭寇征伐が実施された。結果として、肥前松浦党、松浦維が最終的には、鎌倉幕府の手で処刑されることとなった。
  「外ツ国勝手次第」は、外交戦略の自由度を無くしたが、松浦維の処刑によって、「外ツ国」の範囲を決める権限は、琉球王ではなく、鎌倉幕府にあるとしたのである。これは、宋国や明国との関係から、東シナ海全域に勢力を拡大させていた琉球王への牽制という意味合いもあったとされる。
  倭寇として活動していたのは、琉球も同じであり、「外ツ国勝手次第」を最も拡大解釈して利用していたのも、琉球であった。
  同じ八幡衆である、伊豆、嵯峨、南方嵯峨、竜胆による圧力もあって、琉球王に対して、「外ツ国勝手次第」の「外ツ国」を決める権限は、日ノ本にあるという結論をだしたのである。

  元寇の失敗と後継者争いで国力を疲弊させた元を倒した、明国は建国の過程もあって、朱元璋の出した「解禁令」によって、海洋技術に後退が生じた。朱元璋の子建文帝は、「解禁令」を継続する一方で、海事取り扱いで軋轢が生じていた、琉球と台湾の調停をおこなった。琉球と台湾の調停を実行したのが、“調停者”鄭和であった。鄭和は、建文帝の名において万国海事法を定め、台湾と琉球間の争いを調停した。この「海事法」の発令と、建文帝による東南アジア諸国への使者派遣から、鄭和の大航海と呼ばれる、海事調停と朝貢を促す旅が始まったのである。
  琉球や台湾、呂宋といった東南アジアの国家間で生じる抗争の調停、海賊討伐による航路の安定が図られた。これは、日ノ本への訪問についても同じであり、母太后が亡くなり親政が始まった明国建文帝にとって、鄭和による調停の旅は、明国は「海禁令」を出しながらも、海洋治安維持という結果をもたらした。十一回の大航海によって、竜胆からマダカスカルまで、太平洋諸島からインド洋沿岸まで、明国建文帝の名で規定された「万国海事法」が施行され、15世紀前半の海は、平安の海と呼ばれた大航海時代が推進されたのである。



  日ノ本の大航海時代は、十三世紀から十五世紀前半にかけて、八幡衆が太平洋に乗り出して、島々を開拓した大開拓時代と、十五世紀後半から始まるコンキスタドールを含めた西欧勢力との戦いを双方に刻む抗争の歴史となる。
  特に十七世紀初頭に、イロコイ連邦圏内に踏み込んだコンキスタドールが、掠奪するものが得られず、陰惨な虐殺を繰り返したことで、イロコイ連邦は、デーン王国を介して、ヴィンランドでのコンキスタドールの殲滅を宣言した。
  イスパニア艦隊への海賊行為が、イロコイ連邦によって正当化されたこと、ヴァイキング船が、櫂と帆を用いたロングシップから、十六世紀には縦帆仕様のスクナが登場し、イスパニアやポルトガル船を沈めていったのである。弓騎兵とミズチ衆の襲撃は、十五世紀の帆船にとっては、大きな脅威であった。五十メートル程の距離から舷側板をブチ抜いて沈めにかかる弓騎兵にとって、艦船は大きな的でしかなかった。また、衝角槌と呼ばれる、単騎で時速八十キロで航走するミヅチによる舷側への攻撃は一撃で三本マストの大型船を沈めることすらあったのである。
  太平洋を航行しようとする、イスパニアやポルトガル船にとっては、どこからともなく現れて、船を沈めて行く化け物のように思われていたのである。ポルトガル船は、北太平洋海域を、魔物の海と呼んで東シナ海を中心に活動していくこととなった。
  日ノ本が戦国期に入って、明国が海禁政策をとったことで、十六世紀の日ノ本は、海外への対応をほとんどできない状況にあった。イスパニア船やポルトガル船が日ノ本と交易を開始し、守護大名によっては、キリスト教に改宗する者がでたことで、奴隷売買が行われるようになり、狐や鬼、兎などのあやかしひとならざるものを捕らえて運ぼうとするイスパニア船やポルトガル船と、松浦党や渡辺党を中心とした各地の水軍衆との抗争が始まり、イスパニア船やポルトガル船を襲撃するようになった。
  日ノ本では、奴婢と呼ばれる奴隷制度は消滅していた公的にはなっているものの、家人という在り方や年季奉公という制度は、一種の契約奴隷制度に近いものがあった。
  ただ、神の眷属しんしである、あやかしひとならざるものは、その枠外にあり、人の制度で対応できる状況には無かった。結果として、イスパニア、ポルトガルといった旧教徒に対して、バテレン追放令が出されることとなった。新教徒であるイングランド、オランダが交易を許可されたのは、日ノ本の人間やあやかしひとならざるものに対して、人間と同じように扱ったか否かであった。

  前期の倭寇は、宋朝との関係上、元朝との関係を構築できない、結果的に元朝に対して、海賊行為を行うこととなる。明朝による北伐による中華再興と、台湾宋帝の娘との婚姻によって、大明国が成立した。これによって、倭寇による私掠行為が海賊行為となり、明国、琉球、日ノ本による倭寇征伐が開始され、戦国期の日ノ本が倭寇の温床ともなっていたが、征伐が開始された。
  後期の倭寇は、イスパニア、ポルトガルによる、東南アジアに対する侵略と掠奪に対するものであった。日ノ本の人間だけでなく、中華や東南アジアの人々、現地で妻子をなしたポルトガル、イスパニア人までが参加している、国際色豊かな倭寇でありました。後期倭寇の活動本質は、免状やそういったモノではなく、虐殺に対する反撃と自律自尊であるということが、海賊としての有り様にあったのだと考えられています。お宝を求めて、掠奪や戦闘をおこなうのではなく、虐殺と掠奪する相手の存在そのものが許せないことから、太平洋の倭寇が持っていた本質であったのだと思います。
  結果的に倭寇の活動が盛んであった、東南アジアでは、巨大な明国や日ノ本、琉球による支援もあって、イスパニアとポルトガルによる活動は、虐殺や掠奪よりも、交易と布教が優先されていました。特に居留地となった呂宋、澳門、マラッカ、インドネシアでは、布教が中心となり、イスパニア、ポルトガルの勢力圏でキリスト教が広がっていったのである。これは、日ノ本でも同じで、ザビエル、フロイス達による布教活動が、倭寇の中で、東南アジアから日ノ本一帯へ地盤を築いていったのでありました。

  倭寇の活動が少ない、ヴィンランド、カリブ海沿岸諸国家に対する掠奪と虐殺は、コンキスタドールによって、南に行くほどにやりたい放題に実行されていったのであります。倭寇後期は、ユカタン半島からメキシコ高原を中心として、コンキスタドールとの抗争が、ポテチカ商人であるヴァイキングとの抗争から始まりました。これが、イギリス、オランダ、デーンといった新興国による支援と私掠船団の出現から、敵味方が混沌とした、複雑怪奇な抗争へと発展していったということになります。
  北米=ヴィンランドと南米=グラン・エスパニョーラは、様々な交渉の中で別扱いとなっていったのでありました。結果、北米=ヴィンランドとの交易、南米=グラン・エスパニョーラの掠奪と虐殺となり、掠奪するものが減っていくに連れて、南米=グラン・エスパニョーラへの入植と開拓が進むという結果になったのです。
  欧州による略奪と虐殺の対象となった、アフリカの奴隷が、人口の大半を失った南米=グラン・エスパニョーラへ流れ込み、混沌とした状況を生み出していったのもまた事実であります。
  これは、イギリス、オランダといった国々にも影響し、同じように人口が激減したカリブ海沿岸諸国で、入植と奴隷の流入によって、開拓が始まったことによって、ヴィンランド全域に混沌が広がっていったということがあります。
  しかしながら当初、奴隷に反対していたのは、竜胆八幡衆であり、イロコイ連邦の足並みが揃わなかったことで、北米=ヴィンランドには、欧州の居留地が広がって行くこととなりました。黒人奴隷は、人口が激減した、ミシシッピ川沿いの農地で、ネイションズ農家の働き手として、上流のセントポール町から、ニューオリンズの町まで使われるようになった。ニューオリンズの町は、ネイションズ、イングランド、フランス、オランダ、ヴァイキングといった国が居留地を築いていました。
  ニューオリンズには、ヴァインキングが開いた港があり、上流のセントポールまでは、ロングシップでの行き来ができるようになっていた。ミシシッピ沿岸の町には、いくつかネイションズの砦が築かれていた。フランスやオランダ、イギリスの船が、アフリカから奴隷を運んで、ニューオリンズで売りさばいていた。ニューオリンズには、百万人ほどのネイションズを中心として、ヴァイキング、フランス、オランダ、イギリス人達の住まう町となっていった。黒人奴隷が、初期には三万人ほど住んでいたと推定されています。

  しかしながら、イロコイ連邦では、居住についての制限はないが、ヴィンランドの土地は、すべて連邦の所有物であるとしていて、個人や団体による土地の所有を認めていなかった。建物については、私有が認められるが、建物が建っている地面の所有権は一切認められないとされていました。土地から収穫したもの、得た収益は、イロコイ連邦へ一割を租税として納めなければならなかったのである。
  ヴィンランドにおける土地の所有権を巡っては、オランダやイングランドとの抗争が、継続的に生じていたが、ネイションズやヴァイキングとの戦いは、ミシシッピ川沿岸に集中していた。イングランドとフランスは、カリブ海の島に拠点を構えて、イスパニア船団への私掠船行為を繰り返していた。イスパニア戦列艦との戦になれば、ニューオリンズに逃げ込むことも多かった。ヴィンランドのネイションズは、イスパニアに対して殲滅宣言をしていたこともあって、イスパニア艦船に対しては、問答無用で沿岸砲台から砲撃して来るために、イスパニアの艦船は、ニューオリンズには近づけなかったのである。
  ネイションズは、八幡衆から購入した、大筒等の兵器類、ポテチカ商人であるヴィンランドから鋼の斧などの兵器類を購入しており、白漆喰による建設技術を導入して、ミシシッピ沿岸に、ローマンマウンドと呼ばれる小高い丘のような砦をいくつも築いていた。ミシシッピ沿岸では、黒人を使役した農耕生活を文化圏として形成していった。

  ミシシッピ川沿岸のネイションズは、ローマンマウンドの集合が、一つの部族を構成していて、数千人から一万人の人口を抱えていた。ニューオリンズ一帯には、数百のローマンマウンドが築かれ、ローマンマウンドの上には、白漆喰のロングハウスが築かれていました。ミシシッピ沿岸全体では、十六世紀初頭に住民の三割が死滅する打撃を受けたものの、十七世紀には、欧州人が売りに来る、黒人奴隷を使った大規模農耕地主が生まれて、ミシシッピ沿岸で、五百万以上のネイションズが暮らしていたと推定されています。
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