琉球お爺いの綺談

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琉球お爺ぃ小話

戦国椿説景08 椿説の海外事情 太平洋編1 為朝の大航海

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  史実からの一番大きな違いは、弓張月の主役となった為朝が、太平洋の歴史そのものを変革したことである。

 平安末期に日ノ本を飛び出した、日ノ本最強のリアルチート源為朝は、相国平清盛、清和源氏の当主源頼朝から、「外ツ國勝手次第」の免状を受けて、日ノ本を飛び出し太平洋を渡ったのである。南方では、靖康の変で二帝を奪われた宋国の妻女が囚われた、洗衣院を襲って皇帝の娘達を救出した、水滸伝の英雄李俊達や岳飛の子らと南方海上で出逢い友誼を結んだ。嵯峨院に寄進された嵯峨諸島(史実の小笠原諸島)に宋国皇帝霊廟を建てて、祭祀を欽宗の子趙典が司ったのである。

 欽宗の娘、趙香雲は、為朝と共にハワイキに渡り、ハワイキにハワイ王国を築いた。李俊は、南方に渡って、ダバオに国を拓いて滸国国王となった。

 為朝は八幡衆の家祖となり、南に太平洋を渡って、島嶼に八幡衆の徴を刻み、東に太平洋を渡って、竜胆(史実のカナダ、ヴィクトリア)に町を拓いたのである。為朝が「外ツ国」に町を拓いたことで、日ノ本からの船が、太平洋を往来するようになったのである。黒潮から北太平洋海流を渡り、ハワイキを経由して竜胆に向かう廻船は、北方を廻って、千島列島を南下して日ノ本に還る航路を拓いた。



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 露天神社を起点とすると、東西にズレが生じることが確認されていた。露天神社の正午とのズレを図り、経度計測をおこなっていたのである。太陽を迎える東行きと、太陽を追いかける西行きでは、ズレが生じると確認されたのである。東に向かえば余り、西に向かえば不足する。
 一日が二十四寸727mmの内とすれば、日ノ本が東西一寸30.3mmの内にあって、南方嵯峨が最も東になり、一寸余りとされた。ハワイキが4寸6分、竜胆が6寸7分であった。このことから、露天神社から東に3寸の位置を経緯子午線の基準としたのである。台地を球体として、円周を太陽が巡るとすれば、一日かかることになる。太陽が一周うち、竜胆が二割五分を超えるとして、八等分の一割二分五厘の位置に基準となる子午線を引いたのである。

 先例に習い、「日出ル処ノ天子」より、ハワイキに向けて「日没ル処ノ天子」へ恙無きやとの文を贈るとし、ハワイキと日ノ本の間に基準となる子午線を引いたのである。

 日ノ本は、琉球の運天港で五分不足し、和賀江では三分近くの余りとされ、日ノ本の東西は、一寸の内に収まり、世界が24寸の内にあるとされた。時香盤は、練香を4尺8寸で設置でき、一日毎に追加していくことで、継続的に時刻の計測を可能としたのである。
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 八幡衆の拡大を支えたのは、海竜種のあやかしひとならざるもの、ミズチ衆である。

 ミヅチは、全長二丈超6m超体重百貫を超え375kg超となる、海竜種を本性とするあやかしひとならざるものである。人を乗せた状態で、時速10里40km/hを超える遊泳速度を誇り、八丈24m級大船を一日20里以上を曳航することができた。八幡衆の帆無八丈24m級と呼ばれる大船では、20名から30名のミヅチを乗せて、双竜曳や四竜曳と言われる形で、太平洋上を航行していた。一日に20里から30里80kmから120kmを曳航し、交代で長距離航行することも可能であった。

 為朝の嫡女一姫が、平清盛の嫡男重盛の八男平宗実と契りを交わし、源平合戦に決着をつけて、安徳天皇と三種の神器を持って、京洛へ帰還。宗実が駿河守となり、沼津を主上おかみへの寄進領とし、言仁を三嶋大社の司に迎えた。為朝嫡女一姫と宗実の子舜は、所領を失った平家衆を率い、一姫と共に運天港に上陸し、舜天王となって琉球八幡衆の礎を築いた。

 亡命者の増加と共に、宋国との関係を深めていく日ノ本は、金を滅ぼした元との対決を深めていくこととなる。元との交渉を担当したのが、宋からの亡命者であったこともあり、元との交渉は決裂した。

 高麗・元の侵攻によって、対馬や壱岐で大量虐殺が実行され、殲滅戦の様相を呈した。鎌倉幕府は、決裂後に鎮西探題を彦島に設置を決定し、鎌倉水軍の参集を図った。朝廷に対しても上奏され、国家の一大事として、主上おかみより、朝敵征伐の詔勅が出されたことで、人だけでなくあやかしひとならざるものの支援を受けて、彦島に参集したのである。

 一度目の侵攻で、博多に上陸され、辛くも大宰府での迎撃が間に合い、高麗・元の連合軍を撃退することができた。しかしながら、これは外敵との戦であり、幕府は御家人に対して恩賞を与えることができず、銭金という一時金による恩賞の支払いとし、鎌倉幕府の財政を追い込むこととなった。一度目は、あやかしひとならざるものとの連携は上手くいかない面もあって、迎撃は辛くも成功という状況であった。

 二度目の侵攻は、南宋滅亡後であり、宋国の次は日ノ本となり、一回目と同じく外交交渉は決裂して、二度目の侵攻に対する防衛戦闘が行われた。二度目は、幕府による動員体制の確立と、彦島の鎮西探題府による指揮権確立によって、博多湾岸に築いた水城での迎撃に成功し、高麗・元連合軍の撃退に成功した。二度目は、ミヅチ衆と契りを交わした松浦党の御家人衆が大いに活躍し、海上での高麗・元の大船を次々と沈めたが、松浦党の本拠肥前を元軍の別動隊に襲撃され、一族郎党の大半を虐殺で失ったのである。以降、肥前松浦党を含めて九州の御家人衆は、鎌倉幕府から「外ツ國勝手次第」という私掠免状を受領し、半島から大陸を襲撃して荒らしまわる倭寇となった。

 鎮西探題による西域防衛、奥州探題による蝦夷の防衛は、鎌倉幕府の財政を破綻へと追い込んでいった。二度の対外戦争は、幕府財政を逼迫し、「情けなし」と将軍の愚痴が増鏡に記載される状況であった。有力御家人衆で構成される、評議衆は、御家人の窮乏を見過ごせず、徳政令の発布を試みたが、焼け石に水の状況にしかならなかった。

 対外戦争に対しては、挙国一致で困窮にあっても、幕府の命はなんとか保っていたが、元皇帝フビライが崩御すると、後継者の混乱から叛乱が発生した。鎌倉幕府は、倭寇による大規模な略奪を支援し、叛乱軍への武器供与を進め、元への対抗を図ったのである。

 大陸を離れ宋ヶ島に亡命し、皇帝の霊廟を護っていた、宋国帝室趙家の姫、馬姫が琉球八幡衆の仲介から、鎌倉幕府からの支援を受けて、叛乱軍首魁郭子興の養女となって、叛乱軍に身を投じて戦闘に参加した。戦場で活躍する中で、同じように戦闘に勝利していく朱元璋を見初めて、馬姫は朱元璋の妻となり、明建国後は馬太后となる。

 鎌倉幕府は、元に勝利し江南に基盤を築いたことを祝して、祝辞の使者を贈ったのである。祝辞の対象は、馬太后と夫の朱元璋に宛てであり、刀百振り槍百本銀百貫を贈ったのである。

 返礼は、皇太子朱標の名前で、銭五十万貫、絹十万疋が冊封された。鎌倉幕府は、明からの返礼を、元寇に功績のあった御家人衆に対して、銭三十万貫、絹六万疋が配布されたのである。しかしながら、この配布は、直接戦った九州の御家人衆に多く分配され、同様に動員が命じられた関東の御家人衆は、不満の残る結果となった。さらに、分配を巡っては、有力御家人同士でも争いとなり、抗争はそのまま御家人同士の戦闘に発展し、鎌倉幕府滅亡の引き金となった。

 朱元璋は、馬太后の意もあって、鎌倉幕府との対応に苦慮していたが、皇太孫の建文帝の代になると、鎌倉幕府が滅んでいたこともあり、中華正統の皇帝として勅使を発して、日本に朝貢を求めたのである。室町幕府は将軍足利義満の命により、応永6年1399年建文帝に対して、先例に基づいて文章を作成し、「日出ル処ノ天子ヨリ、日没スル処ノ天子二贈ル、恙ナキヤ」としたため、刀百振り槍百本銀百貫が贈られた。しかしながら、日ノ本からの大船十艘が仕立てられ、海を渡ると半島から大陸に向かって、そのまま襲撃と略奪を繰り返し、南京に到着して書と祝品刀百振り槍百本銀十貫を奉ると、銭五十万貫、絹六万疋、を受領して、日本へ還っていったのである。

 この時期の倭寇は、鎌倉幕府から「外ツ國勝手次第」を受けた御家人衆であり、元寇以来の倭寇であった。京洛に幕府を開いた足利幕府は、京洛を支配下に治めることで、日ノ本の外交を担っていた。明政府は、倭寇討伐を室町幕府に求め、足利義満は、今川了俊を鎮西探題に派遣して、九州鎮圧にあたった。今川了俊は、明との関係悪化を嫌う朝廷からの意向を受け、彦島を占拠する大内義弘を説得し、「外ツ國勝手次第」を受けた御家人衆の参集を命じた。集まった御家人に対して、倭寇停止の命は、主上おかみの御意思であると女房奉書を示し、「外ツ國勝手次第」の免状返納を命じた。従わなかった松浦党党首保を斬り、覚悟を示した了俊に対して、松浦党を中心として嵯峨源氏一門は反駁したが、主上おかみの意思ともいえる女房奉書を受けて、松浦党の所領安堵を含め、追加の所領を了俊に要求して、室町幕府から二万貫の加増を受け取ったのである。九州の国人衆にも所領加増を受け、「外ツ國勝手次第」の免状返納を受けた。

 日ノ本の倭寇は、急速に下火となり、日明交易は勘合符の発行によって、継続的に交易が可能となったのである。勘合符は、大内義隆の預かりとなり、日明貿易を通じて、大内氏は莫大な財を築いたのである。

 建文帝からの譲位を受けて、永楽帝が即位し、中華皇帝として、諸国家に外交圧力をかけるため、鄭和に十万の兵を乗せた船団を組織させて、彦島に圧力をかけさせた。大内義孝は、鄭和の大船団が、銭五十万貫、絹六万疋を運んだの受けて、足利義満への書状「日本国王に冊封ず」の書状を受け取ったのである。応永6年1399年第一回鄭和の大航海では、蘇州を出発して、日ノ本を経由して泉州に到着していることから、第一回鄭和の航海を福建省泉州出発としている。

 日ノ本の大船が八丈から十丈24mから30m級であったのに対して、鄭和のジャンク船は、超42丈126m超級の巨大船62隻を擁する大船団であり、大内義孝は応永6年1399年、足利義満に兄大内義弘を討たれており、明に対して徹底的に下手にでるようになったのである。

 鄭和の船団は、そのまま東南アジア諸国家を訪問し、ジャワ島のパレンバン寄港中には、東王の歓待を受けた鄭和は、西王から襲撃を受けて部下を失った。西王宮を攻めて、西王に賠償を命じた。鄭和の船団は、マラッカからセイロンに達して、各地で強権外交を進めて、アジア諸国家を朝貢国としていったのである。

  室町幕府は、朝貢と冊封を受けた形で、征夷大将軍に対して「日本国王」に冊封すという国書を、大内義孝から受取っており、明との関係が変化したことを示している。この「日本国王に冊封す」は、倭寇の征伐を行った鎮西探題今川了俊や朝廷も不服としていた。今川了俊は、大内義弘を討った義満に対しての疑念を持ったとされて、義満からは駿河守護職として、京洛から離されたのである。将軍位を義持に譲り、個人となった義満は、永楽帝へ使者を送り、朝貢と冊封を受けることで、莫大な富を得たのである。

 義満の死後、永楽帝から弔問使が送られ、将軍義持は父義満に対して、永楽帝からの「恭献」の諡を受けた。しかし、将軍義持は将軍位として明国の勅使を受けた応永18年1411年は追い返し、朝貢と冊封を拒絶した。大内氏によって、明国からの勘合符による勘合貿易は、応永18年1411年以降も継続された。
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