琉球お爺いの綺談

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琉球お爺ぃ小話

戦国椿説景04 替銭に始まる手形決済

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 「なにわ」は、南北2里半10km東西1里半6kmの小さな町であったが、日ノ本最大の経済都市であり、名主20万を超える、巨大な消費都市でもあった。日に万を超える人が、「なにわ」を訪れて、万を超える人が出ていく。永禄2年1559年に関を越えたモノは、年間400万を超えていたが、「なにわ」の収益は、関銭2万4千貫であり、名主料2千4百貫であり、貫高5万貫の小大名であった。一貫=2石とすれば、10万石の大名である。

 名目上の収入は、10万石程度であるが、渡辺家の収入は、寄進料を担保に発行される定額手形にあった。寄進料は、坐摩や住吉などの社への寄進であり、杜湯の利用料を含め、庭場における氏子からの上納金が基本となっている。これら上納金は、社の金であり、渡辺家の収入ではない。

 史実の平安末期から鎌倉時代は、貨幣経済が浸透していく時期であったが、大陸での宋国が弱体化するにつれて、銅銭の輸入が追い付かず、深刻な貨幣不足が発生していった。特に、二帝が金国に連れ去られる、1126年の靖康の変では、宋帝国の先代皇帝徽宗と現皇帝欽宗が金国に連れ去られ、皇妃や皇后に妃嬪を含めた女達、皇帝の子女達、さらには宮廷の女官達が連れ去られ、女達は金国の娼婦として洗衣院に入れられた。

 高宗が南宋を興して、日本との交易が始まり、事件後であっても、宋国からの銭が大量に日本に流れ込んできて、日本の貨幣経済が始まるきっかけとなった。貨幣経済は、土地評価を銭で評価する、貫高制が始まり、土地の評価額が銭で定義されるようになった。

 しかしながら、貨幣経済が浸透する中で、銭の量が極端に増えるわけでもなく、限られた流通量から、替銭かえせんという制度が使われるようになった。替銭かえせんは、手形の意味だけでなく、借用証書の意味合いにも使われ、一時的に銭を融通するための借金証書でもあった。土地評価が貫高制に移行するのは、担保となる土地の評価額を査定した結果であった。

 銭流通量が少ないことから、商業を行うモノ達は、銭を代替えするモノが求められるようになった。また、銭一匁の価値が低く、商品の買い付けには、大量の銭が必要であったが、大量の銭は重く移動を阻害するので、商業流通の問題点として認識されていた。

 こういった状況から、替銭かえせんの制度は、商業流通上で利用される為替手形の意味合いを有するようになったのである。替銭かえせんは、室町時代に割符さいふと呼ばれるようになり、遠隔地間での銭のやり取りに使用するために整備されたモノである。

 替銭かえせんの発行は、遠隔地間の取引をおこなう信用が必要であり、日ノ本各地で取引を可能とする広域組織を有する必要があった。平安後期から一定の商業規模を有し、日ノ本各地に組織を有していた、伏見稲荷大社は、玉串料や御狐勧請、御狐燈籠勧請といった形で、日ノ本各地に眷属しんしの派遣業務を担っていた。公家や武家の中で、湯屋御厨造りが浸透し、御狐様を勧請するようになると、稲荷社の経済力は一気に増大していった。杜湯の利用料として寄進が銭6文であったことから、貨幣経済の浸透を必要とし、銭不足に悩む代表的な組織でもあった。

 杜湯では、銭不足を補うため、寄進料の返礼として、月札や年札を発行して対応を図った。日払いから、月払いや年払いに替えて、寄進料の対応を変えたのである。月末に寄進して、来月の杜湯利用を御札にして受け取り、年末に寄進して来年の杜湯利用を御札にして貰うことができるようになった。

 杜湯の利用客は、稲荷の社に対して月末や年末に奉納される寄進料によって、月札や年札を受け取ることができるようになった。月札200文相当、年札二貫相当であり、稲束や絹疋といった寄進に対する返礼としても御札が使われるようになったのである。月札、年札は、期間中に杜湯の利用ができるため、札を日払いで貸し出すことも商売となった。杜湯の近くでは、月札や年札を転売するモノも、少なからず居たのである。偽物の販売もあったので、禁令が社から出されて、取締りが幾度となく行われた。このため月札や年札は、複数の木版を使って印刷され、違法な札が出回らないように精巧に作られるようになったのである。

 稲荷社は、各地に建てられていて、杜湯を設置しているところも多かったので、寄進料は、年々増えていったのである。伏見や坐摩といった大社では、寄進預けと呼ばれる形で、社に寄進料を預けて、預かり証を御札として受け取るようになった。預かり証の札を別の相手に渡すことで、銭を使わずに支払いを実施し、相手は預かり証を持って社に行って、預けた寄進を受け取ることができたのである。寄進預けの御札を受け取る社と、御札を寄進して返礼を銭や絹疋で受け取る社が異なっても対応できるようになったのである。結果として、寄進札を持って移動して、商品を買い取って、相手に寄進札を渡して支払いとする方法が定着するようになったのである。

 寄進預け札による取引は、京洛の伏見となにわの坐摩で行われるようになったのである。玉串料や勧請に杜湯といった、多くの収入源を有する、伏見や坐摩の氏子達は、多くの商取引を京洛となにわで行っていた。伏見の札が、坐摩で換金され、坐摩の札が伏見で換金されるようになり、なにわと京洛では、銭を移動させずに商取引ができるようになったのである。

 渡辺綱が発行した手形は、こういった坐摩と伏見の取引状況にのっかる形で発行され、坐摩の裏書きを受けることで、同等の価値を有する信用貨幣として流通したのである。綱の発行した札が為替手形と呼ばれるようになったのは、綱の手形が為替手形の札に記されたからである。三代弼からは、花押と呼ばれる本人の印章が使われるようになったが、手形という名称だけは残ったのである。

 綱が発行当初の為替手形は、大和川付け替え工事の費用捻出であり、綱の借用証書として発行された。借用証書の担保になったのが、坐摩と伏見の寄進料であり、綱は坐摩と伏見に莫大な借金をおこなって、坂田金太郎による大和川付け替え工事を遂行したのである。

 大和川付け替え工事は、平野川の大規模氾濫を防ぎ、田圃の開拓を進めることにあった。また、大和川の流域に墾田開発を進めたのである。大和川の付け替え工事が完了すると、河内湖の水量は大きく減少して、葦原が広がると共に、干拓が進めるようになったのである。2万貫程であった渡辺荘の収益は、5万貫に拡大するようになった。

 住吉では、石灰岩が瀬戸内を通って住吉に陸揚げされ、住吉に造られた漆喰窯で焼成され、白漆喰の生産が始まり、溜池や堤防工事による治水事業が、少しづつ始められるようになった。白漆喰を使って難波津の護岸工事も急速に進められ、渡辺津と呼ばれる川湊が造りあげられた。

 熊野大道の造成も始まり、八十島祀りに伴って、難波宮を整備し、生國魂大社の普請も始まった。八十島の祭祀は、人だけでなくあやかしひとならざるもの眷属しんしとして参列し、主上おかみの行幸も含めて、大規模な祭祀として実施されるようになった。

 八十島の祭祀は、京洛から主上おかみの行幸が、淀川を下り、渡辺津から上がって、熊野大道を南下し、難波宮に入り、生國魂の社から西に出て、瀬戸内の海に出たのである。祭祀の中で、主上おかみが生國魂の社から海岸へ行幸する道筋を浪花大道として整備をおこなったのである。記紀の時代は生國魂の社の傍に海岸がせまっていたが、一里離れるようになっていて、海岸での祭祀を実施するために、八十島社を建てたのである。後に八十島社を中心に浪花港が整備されるようになったのである。

 難波宮の整備は、三代弼の時代に、難波斎宮院の設置として結実し、斎宮院が難波宮に入ったのである。難波斎宮院によって、毎年春分と秋分に「彼岸会」の祭祀が奉納され、宮中での祭祀に合わせて、斎宮院による奉納となったのである。

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