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お爺の一考
遊動生活から定住生活へ
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遊動生活の問題は、定住生活者の接触によって表面化する。
南国の島に来て、遊動民だけど、誘導しなくても生きていける環境と出会う。つまり、年から年中、島の中で食べ物を採取でき、加工等を考えなくても魚を獲ったりすればご馳走となる。それを見た宣教師の方々は、彼らを「救う」ために活動を開始する。必要以上に働かず、食事が取れれば、昼寝をして、遊び歩く生活をおこなう行為そのものを悪と断じて、彼らを救うために行動を開始する。
これこそが、宣教師の極悪さなのである。彼らは、善意を持って、悪徳となる行動をもって、遊動生活者に強制したのである。
日本のように定住化が進んでいた国家では、それほど彼らの行動は異質とはならないが、遊動生活を一般的な生活形態としている人々にとって、特に、安定した遊動生活を送っている者達にとって、宣教師の、必要以上に働かない好意そのものを「悪徳」とすることが、遊動生活者にとっては、悪意ある行動となる。
生活の流れが、遊動から定住へ変わるのは、一つの大転換とも言える。
これは、どのような諸部族にとっても同じである。遊動から定住に変わることで、変化するのは、西田正規著「人類のなかの定住革命」の遊動する機能を参照すると、
(1)安全性・衛生管理
風雨や寒冷、酷暑に対して、異動することで、避けることができる。
ゴミや排泄物等を回避し、周囲の衛生管理、疫病等の蔓延を防ぐ。
(2)経済面
食料や水資源の枯渇を防ぎ、原材料確保し続けるため。
交易の実施や、他部族との共同漁や狩猟の実施(大型肉食獣対策、捕鯨活動など)
(3)社会面
構成員同士の不和解消や、他集団との緊張緩和、儀礼や祭礼。交易による情報交換
(4)生理面
肉体的心理的負荷や緊張の持続
(5)観念(心理)面
死体の発生と忌避や天災等の災いからの逃避
遊動生活を実施する理由は、次の島に冒険があるからとか、そこに山があるからという理由ならば、現在の島では冒険が終わったから、ここの山は登ったからという、なんとなくな理由での移動もあったそうです。
定住生活をしようとすると、遊動で得られていた機能を、定住の中で実施していかなければならなくなる。移動するだけで可能であった機能に対して、一定の作業量を追加することが必要となる。遊動者との交流というのは、そういった、相手の状況を受け入れることが重要であり、遊動者を定住者にすることが正しいことなのではない。
定住者になるための負荷は、非常に大きなものである。
上記に掲げた5機能を、定住によって、解消するためには、
1.ゴミや排泄物等の処理システムを構築し、風雨や酷暑、寒冷に対応できる住居を造り上げることが必要となる
2.食料や水資源、原材料等の継続的な確保と、共同漁や共同狩猟の実施、交易
3.構成員の不和解消、他集団との緊張緩和、儀礼や祭礼、交易等での情報交換
4.他集団が存在することによる緊張の持続確保、馴れ合いの排除
5.死体や穢れの祓い、天災等の災いからの逃避
社会システムの中へ実装する必要となる機能であり、この機能を実現するためには、様々な条件をクリアしていかなければならない。単に、食料を確保したから定住できるというものではない。遊動者が、定住することによるストレス解消は、ある程度の儀礼や祭礼として実施しなければならない。
穢れ衛生面の解消は、葬儀や祓いを実施するというのが必要となる。このためには、実施者の確保を必要とする。宵闇平安期のあやかしが、そういった分野を主な職種としているのはこのためである。人という評価を受けるかどうかは、個人によっての判断となり、忌避したいという心理面を定住するためにどのように解消していくかということとなる。
個人的に、宵闇の中で、宴と呼ばれるイベントを生じさせているのは、遊動者と定住者が受ける双方のストレス解消を一定の目的としている。また、大規模捕鯨による、冬季食料確保の一つとした場合、これを共同漁としての性質を持たせている。これは、山岳部における愛宕衆、山神衆、稲荷衆による祭礼、それぞれのぶつかりによる小競り合いや闘争によって、一定のストレス解消を実施する。部族間闘争もまた、宴による解消をはかる方法をとることで、戦争ではなく抗争であり、仕合とすることで、何人か死人が出ても、大量の重傷者をだしても、宴の中で起きた出来事として処理をおこなう。これもまた、遊動から定住への必要事項であろうと考えています。
異世界転生であっても、遊動者と定住者は、生きていくことに対して、本質が異なって生きることが要求されます。
理解し合えない部分について、無理やり自分達の観念や感覚を正しいと教えることはできません。
例えば、大量殺人は、世界中どこの国でもようやく、罪であるということで調整できるようになりましたが、大量の定義は規定できていません。これは、それぞれの国の中で、調整した中でようやく実現したことであり、国際交流の流れでようやく可能となった成果でもある。
ただ、そういった調整そのものを拒否するというのも選択であり、インド政府が諦めたように、相手が望まないことを押し付けることは、なんの意味も無いという結論となるべきである。
或る有名なコンサルタントが、南の島で、食う分だけを漁で獲り、後は寝て暮らすという、一般的な意味合いではグウタラな生活をしている人に向かって、もっと漁に出て魚を取るべきだという言い方をした。
「それで、何ができるね」
「そうすれば、余裕のある生活ができ、船を変える事で、もっとたくさんの魚を取ることもできる。さらに働いていけば、他人に漁をするのを委託して、自分では働かなくても良くなる」
「その後は、どうするんだい」
「そしたら、南の島とかで、のんびりと魚を獲ったり、、、」
結果で生じる最終目標が、今、実施していることと、変わらないというのが、遊動者の本質にあります。
必要以上に獲ってしまえば、魚がいなくなって獲れなくなるかも知れない。獲れなくなれば、定住している現在の生活を失うこととなる。それでは、意味が無い。必要以上に欲しないというのは、定住生活をしながら、遊動者のような生き方をする者にとっては、重要な要素となる。
南に住まう人間は、田芋やなんかを適当に育てて、魚を獲って、木々の実りを享受する。その結果として生活を継続することができる。この範囲内であれば、それほどの欲が生じない。腹いっぱい食べたいは、食料が余るまで生産することとなる。
リアルであっても、土地権利からの収益が、年間に二百万円(つまりは、年収二百万)となれば、働かなくても生活することは可能とした場合、働くことを選択しないというのも、一つの選択なのだろう。半年間の出稼ぎで、一日十二時間くらい勤務したとしても、三百万ほど稼いで残り半年を、南の島で悠々自適に生活されている方々もおられます。これもまた、ひとつの選択なのである。
別に、あくせく働くことそのものを、問題にすることそのものには、問題があるのである。
ニートだって、年収で二百万くらいがあれば、生きていくだけなら可能と言うのが、現実なのだろうし、それ以上は稼ぐほうが面倒だと思う方々であれば、それ以上は昼寝してネットで遊んでいれば良いということになる。
正直に言えば、年収があるのであれば、ニートというのは、悪いことではなく、働かなくても暮らせるんだということなのである。欧米でリタイアに成功した方々と同じであれば、ニートであっても問題が無いということになります。
南国の島に来て、遊動民だけど、誘導しなくても生きていける環境と出会う。つまり、年から年中、島の中で食べ物を採取でき、加工等を考えなくても魚を獲ったりすればご馳走となる。それを見た宣教師の方々は、彼らを「救う」ために活動を開始する。必要以上に働かず、食事が取れれば、昼寝をして、遊び歩く生活をおこなう行為そのものを悪と断じて、彼らを救うために行動を開始する。
これこそが、宣教師の極悪さなのである。彼らは、善意を持って、悪徳となる行動をもって、遊動生活者に強制したのである。
日本のように定住化が進んでいた国家では、それほど彼らの行動は異質とはならないが、遊動生活を一般的な生活形態としている人々にとって、特に、安定した遊動生活を送っている者達にとって、宣教師の、必要以上に働かない好意そのものを「悪徳」とすることが、遊動生活者にとっては、悪意ある行動となる。
生活の流れが、遊動から定住へ変わるのは、一つの大転換とも言える。
これは、どのような諸部族にとっても同じである。遊動から定住に変わることで、変化するのは、西田正規著「人類のなかの定住革命」の遊動する機能を参照すると、
(1)安全性・衛生管理
風雨や寒冷、酷暑に対して、異動することで、避けることができる。
ゴミや排泄物等を回避し、周囲の衛生管理、疫病等の蔓延を防ぐ。
(2)経済面
食料や水資源の枯渇を防ぎ、原材料確保し続けるため。
交易の実施や、他部族との共同漁や狩猟の実施(大型肉食獣対策、捕鯨活動など)
(3)社会面
構成員同士の不和解消や、他集団との緊張緩和、儀礼や祭礼。交易による情報交換
(4)生理面
肉体的心理的負荷や緊張の持続
(5)観念(心理)面
死体の発生と忌避や天災等の災いからの逃避
遊動生活を実施する理由は、次の島に冒険があるからとか、そこに山があるからという理由ならば、現在の島では冒険が終わったから、ここの山は登ったからという、なんとなくな理由での移動もあったそうです。
定住生活をしようとすると、遊動で得られていた機能を、定住の中で実施していかなければならなくなる。移動するだけで可能であった機能に対して、一定の作業量を追加することが必要となる。遊動者との交流というのは、そういった、相手の状況を受け入れることが重要であり、遊動者を定住者にすることが正しいことなのではない。
定住者になるための負荷は、非常に大きなものである。
上記に掲げた5機能を、定住によって、解消するためには、
1.ゴミや排泄物等の処理システムを構築し、風雨や酷暑、寒冷に対応できる住居を造り上げることが必要となる
2.食料や水資源、原材料等の継続的な確保と、共同漁や共同狩猟の実施、交易
3.構成員の不和解消、他集団との緊張緩和、儀礼や祭礼、交易等での情報交換
4.他集団が存在することによる緊張の持続確保、馴れ合いの排除
5.死体や穢れの祓い、天災等の災いからの逃避
社会システムの中へ実装する必要となる機能であり、この機能を実現するためには、様々な条件をクリアしていかなければならない。単に、食料を確保したから定住できるというものではない。遊動者が、定住することによるストレス解消は、ある程度の儀礼や祭礼として実施しなければならない。
穢れ衛生面の解消は、葬儀や祓いを実施するというのが必要となる。このためには、実施者の確保を必要とする。宵闇平安期のあやかしが、そういった分野を主な職種としているのはこのためである。人という評価を受けるかどうかは、個人によっての判断となり、忌避したいという心理面を定住するためにどのように解消していくかということとなる。
個人的に、宵闇の中で、宴と呼ばれるイベントを生じさせているのは、遊動者と定住者が受ける双方のストレス解消を一定の目的としている。また、大規模捕鯨による、冬季食料確保の一つとした場合、これを共同漁としての性質を持たせている。これは、山岳部における愛宕衆、山神衆、稲荷衆による祭礼、それぞれのぶつかりによる小競り合いや闘争によって、一定のストレス解消を実施する。部族間闘争もまた、宴による解消をはかる方法をとることで、戦争ではなく抗争であり、仕合とすることで、何人か死人が出ても、大量の重傷者をだしても、宴の中で起きた出来事として処理をおこなう。これもまた、遊動から定住への必要事項であろうと考えています。
異世界転生であっても、遊動者と定住者は、生きていくことに対して、本質が異なって生きることが要求されます。
理解し合えない部分について、無理やり自分達の観念や感覚を正しいと教えることはできません。
例えば、大量殺人は、世界中どこの国でもようやく、罪であるということで調整できるようになりましたが、大量の定義は規定できていません。これは、それぞれの国の中で、調整した中でようやく実現したことであり、国際交流の流れでようやく可能となった成果でもある。
ただ、そういった調整そのものを拒否するというのも選択であり、インド政府が諦めたように、相手が望まないことを押し付けることは、なんの意味も無いという結論となるべきである。
或る有名なコンサルタントが、南の島で、食う分だけを漁で獲り、後は寝て暮らすという、一般的な意味合いではグウタラな生活をしている人に向かって、もっと漁に出て魚を取るべきだという言い方をした。
「それで、何ができるね」
「そうすれば、余裕のある生活ができ、船を変える事で、もっとたくさんの魚を取ることもできる。さらに働いていけば、他人に漁をするのを委託して、自分では働かなくても良くなる」
「その後は、どうするんだい」
「そしたら、南の島とかで、のんびりと魚を獲ったり、、、」
結果で生じる最終目標が、今、実施していることと、変わらないというのが、遊動者の本質にあります。
必要以上に獲ってしまえば、魚がいなくなって獲れなくなるかも知れない。獲れなくなれば、定住している現在の生活を失うこととなる。それでは、意味が無い。必要以上に欲しないというのは、定住生活をしながら、遊動者のような生き方をする者にとっては、重要な要素となる。
南に住まう人間は、田芋やなんかを適当に育てて、魚を獲って、木々の実りを享受する。その結果として生活を継続することができる。この範囲内であれば、それほどの欲が生じない。腹いっぱい食べたいは、食料が余るまで生産することとなる。
リアルであっても、土地権利からの収益が、年間に二百万円(つまりは、年収二百万)となれば、働かなくても生活することは可能とした場合、働くことを選択しないというのも、一つの選択なのだろう。半年間の出稼ぎで、一日十二時間くらい勤務したとしても、三百万ほど稼いで残り半年を、南の島で悠々自適に生活されている方々もおられます。これもまた、ひとつの選択なのである。
別に、あくせく働くことそのものを、問題にすることそのものには、問題があるのである。
ニートだって、年収で二百万くらいがあれば、生きていくだけなら可能と言うのが、現実なのだろうし、それ以上は稼ぐほうが面倒だと思う方々であれば、それ以上は昼寝してネットで遊んでいれば良いということになる。
正直に言えば、年収があるのであれば、ニートというのは、悪いことではなく、働かなくても暮らせるんだということなのである。欧米でリタイアに成功した方々と同じであれば、ニートであっても問題が無いということになります。
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