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お爺の一考
上町台地異聞04 熊野街道と四天王寺、最古の国道と言われる竹内街道
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今の京阪天満橋あたりが、渡辺津のあった場所で、仁徳陛下による、難波の堀江掘削事業で作られた、川湊である。古代の交易船は、難波の堀江を通過して、河内湖に入り、停泊したと記録されている。当時の難波港が、現在の高麗橋あたりであったと、比定されている。三韓征伐に始まり、仁徳期に至る時代は、紀元200年頃と言われている。大陸では、漢帝国の崩壊によって、動乱が生じていて、多くの亡命者が日本にやってきた時代でもあった。日本における、大規模な土木治水事業の確立は、こういった大陸から来たノウハウに依存している。
当時の海外交易を担当していたのが、鴻臚館であり、筑紫と畿内の双方にあったとされている。魏志倭人伝の卑弥呼が、筑紫であったか、畿内であったかが論争になるのは、当時の日ノ本には、二つの倭があったからである。二つの倭は、同じ日向の一族であり、二重王朝のような状況であった。筑紫と畿内の間には、「備」の国や「出雲」があり、共通の敵に対しては、連合を組んでいたと推定される。四道将軍やヤマトタケルによる征伐は、畿内による日本制覇であり、武力による制覇が完了したのは、筑紫を倒した、「筑紫磐井の乱」であり、西暦で527-528年ということになる。
西暦527-528年当時の日ノ本における軍隊は、大規模な治水事業と同じく、万単位の徴兵を実施し、米を兵糧の主として、移動させ相手の数倍の軍団を編成することにあった。当時の製鉄技術からして、武器の大半は棒や礫であり、鎧は木や皮であった。鉄剣を持った将軍が率い、相手の数倍の軍団を見せることで、戦わずして相手に勝利するのが、基本的な戦術であった。「筑紫磐井の乱」は、大規模な軍勢同士の戦闘であり、筑紫の敗北によって、畿内王権が日ノ本制覇における頂点に立ったことになる。この時期から、倭国から日本国に国名変更が始まり、日本国という表現が使われるようになっている。筑紫は、完全に滅亡したということではなく、直轄領である屯倉となった筑紫の豪族として君臨している。倭国の表現が、筑紫の表現であり、日本国の表現が畿内の表現となった。
この頃まで、畿内の対外拠点は、難波宮であった。王城は、纏向や橿原といった変遷があったが、対外拠点としては難波宮が使われていた。八十八島祭
渡辺津を起点として、熊野街道が南に造られて、四天王寺を経由して熊野へと繋がっていた。
難波宮が、建てられていた位置からすると、難波宮の西側に熊野街道があって、四天王寺を越えたあたりで、竹内街道が東西に横切っています。難波宮からは、南に向かって難波大道が造られたとされますが、熊野街道と平行にはしっていることになります。現在の谷町筋と上町筋であり、四天王寺の東西を通過しています。大泉緑地の南側に、堺市金岡神社があり、竹内街道が東西を繋ぐようにはしっています。難波大道は、金岡神社あたりまでを、繋ぐ大道として造られたようです。
竹内街道沿いには、最古の国道建設による土木工事跡として、磯長谷古墳群があります。
奈良盆地一体についても、雪解けの水によって、河川が増水し、一帯を水没させていたと考えられ、水位は夏に向かって上昇し、冬に向かって下降するという豊葦原中津国らしい水位変化をしていたと推定されます。奈良盆地一帯に、大きく葦原が広がっていて、墾田開発の中で、徐々に水田が広がっていったと考えられます。
奈良盆地の古墳群が、墾田開発と大規模治水土木工事跡と考えれば、大和川に河川が合流する一帯が、毎年のように氾濫していた地域であったと推定できる。
大和川は、かつては生駒山地を抜けて、柏原で北上し平野川となって、河内湖に注ぎ込んでいた。上町台地があることで、生駒山系から西に流れる川は、南から北に流れる形になり、河内湖を形成していました。北摂の山系から流れ込む、安威川や芥川をはじめとした河川群も、河内湖へ注ぎ込んでいます。つまり、河内湖一帯は、淀川だけでなく、錯綜した河川や流れ込む土砂によって、河内湖の形状は、季節や天候によって大きく変化する、水濠地帯であったと考えられます。
難波堀江の掘削によって、河内湖の水量が減ると、人が住みずらい湿地帯が広がることになります。現在の地図では、確認しにくいですが、国土地理院の大阪湾ゼロメートル地帯の地図を見ると、城東区を中心として、豊島区、東成区、鶴見区、旭区あたりは、河内湖のあった地域と推定されます。鶴見緑地あたりが島になっていたのかもしれません。
大阪城を冬に攻めた理由は、淀川水系の水位低下によって、大阪城に近接できたからと推定できます。水位が上昇する春から梅雨の時期は、大阪城の東側や西側は水没する可能性が高く、南側からしか近づけなかったと考えられます。上町台地は、現在は大阪城を北端として、東西三キロくらいで、南北に伸びる半島のような形状となっている。上町台地の南側は、江戸期に掘削され、大和川が流れている。上町台地の掘削事業は、奈良期にも試みられているが、和気清麻呂が失敗している。
都が奈良盆地の南から、氾濫地域の北側平城京へ移転すると、竹内街道は使い難くなり、四条畷を東西に移動する街道が拓かれていくことになります。
当時の海外交易を担当していたのが、鴻臚館であり、筑紫と畿内の双方にあったとされている。魏志倭人伝の卑弥呼が、筑紫であったか、畿内であったかが論争になるのは、当時の日ノ本には、二つの倭があったからである。二つの倭は、同じ日向の一族であり、二重王朝のような状況であった。筑紫と畿内の間には、「備」の国や「出雲」があり、共通の敵に対しては、連合を組んでいたと推定される。四道将軍やヤマトタケルによる征伐は、畿内による日本制覇であり、武力による制覇が完了したのは、筑紫を倒した、「筑紫磐井の乱」であり、西暦で527-528年ということになる。
西暦527-528年当時の日ノ本における軍隊は、大規模な治水事業と同じく、万単位の徴兵を実施し、米を兵糧の主として、移動させ相手の数倍の軍団を編成することにあった。当時の製鉄技術からして、武器の大半は棒や礫であり、鎧は木や皮であった。鉄剣を持った将軍が率い、相手の数倍の軍団を見せることで、戦わずして相手に勝利するのが、基本的な戦術であった。「筑紫磐井の乱」は、大規模な軍勢同士の戦闘であり、筑紫の敗北によって、畿内王権が日ノ本制覇における頂点に立ったことになる。この時期から、倭国から日本国に国名変更が始まり、日本国という表現が使われるようになっている。筑紫は、完全に滅亡したということではなく、直轄領である屯倉となった筑紫の豪族として君臨している。倭国の表現が、筑紫の表現であり、日本国の表現が畿内の表現となった。
この頃まで、畿内の対外拠点は、難波宮であった。王城は、纏向や橿原といった変遷があったが、対外拠点としては難波宮が使われていた。八十八島祭
渡辺津を起点として、熊野街道が南に造られて、四天王寺を経由して熊野へと繋がっていた。
難波宮が、建てられていた位置からすると、難波宮の西側に熊野街道があって、四天王寺を越えたあたりで、竹内街道が東西に横切っています。難波宮からは、南に向かって難波大道が造られたとされますが、熊野街道と平行にはしっていることになります。現在の谷町筋と上町筋であり、四天王寺の東西を通過しています。大泉緑地の南側に、堺市金岡神社があり、竹内街道が東西を繋ぐようにはしっています。難波大道は、金岡神社あたりまでを、繋ぐ大道として造られたようです。
竹内街道沿いには、最古の国道建設による土木工事跡として、磯長谷古墳群があります。
奈良盆地一体についても、雪解けの水によって、河川が増水し、一帯を水没させていたと考えられ、水位は夏に向かって上昇し、冬に向かって下降するという豊葦原中津国らしい水位変化をしていたと推定されます。奈良盆地一帯に、大きく葦原が広がっていて、墾田開発の中で、徐々に水田が広がっていったと考えられます。
奈良盆地の古墳群が、墾田開発と大規模治水土木工事跡と考えれば、大和川に河川が合流する一帯が、毎年のように氾濫していた地域であったと推定できる。
大和川は、かつては生駒山地を抜けて、柏原で北上し平野川となって、河内湖に注ぎ込んでいた。上町台地があることで、生駒山系から西に流れる川は、南から北に流れる形になり、河内湖を形成していました。北摂の山系から流れ込む、安威川や芥川をはじめとした河川群も、河内湖へ注ぎ込んでいます。つまり、河内湖一帯は、淀川だけでなく、錯綜した河川や流れ込む土砂によって、河内湖の形状は、季節や天候によって大きく変化する、水濠地帯であったと考えられます。
難波堀江の掘削によって、河内湖の水量が減ると、人が住みずらい湿地帯が広がることになります。現在の地図では、確認しにくいですが、国土地理院の大阪湾ゼロメートル地帯の地図を見ると、城東区を中心として、豊島区、東成区、鶴見区、旭区あたりは、河内湖のあった地域と推定されます。鶴見緑地あたりが島になっていたのかもしれません。
大阪城を冬に攻めた理由は、淀川水系の水位低下によって、大阪城に近接できたからと推定できます。水位が上昇する春から梅雨の時期は、大阪城の東側や西側は水没する可能性が高く、南側からしか近づけなかったと考えられます。上町台地は、現在は大阪城を北端として、東西三キロくらいで、南北に伸びる半島のような形状となっている。上町台地の南側は、江戸期に掘削され、大和川が流れている。上町台地の掘削事業は、奈良期にも試みられているが、和気清麻呂が失敗している。
都が奈良盆地の南から、氾濫地域の北側平城京へ移転すると、竹内街道は使い難くなり、四条畷を東西に移動する街道が拓かれていくことになります。
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