215 / 511
昭和史の闇
権威と権力、軍事力 国際連盟は、コミュ障ニホンには難しい?
しおりを挟む
多くの日本人が、国際連盟を疑問視したのは、日本人にとっては、論議に慣れていないことにあった。個別交渉は、まだなんとかなるけど、全体の中での論理的な判断と発言は、コミュ障ニホンには難しいのであった。
新渡戸稲造が、国際連盟の事務局を担当したのは、コミュ障ニホン人ではなかったからである。当時の日本で、新渡戸稲造のような人は、かなり珍しい人である。また、相手に理解できる言葉で、説明できるくらいに、新渡戸は論理的でもあった。
アメリカに住むキリスト教徒が持つ、人種差別を遂行する心、倫理観の高さが、何故共存可能であるのかを分析して、新渡戸稲造が「日本の精神」について説明文としたのが、「BUSHIDO」である。「BUSHIDO」とは、実際の武士道を説明した文章ではなく、アメリカ人に武士道を理解してもらうために説明した文章である。日本人が、コミュニケーションというものを考えるのに、非常に素晴らしい教材だったりする。相手の立場や思考を忖度し、相手に合わせて文章を作成する能力、新渡戸先生の才能であったと思う。新渡戸先生は、政治的な能力ではなく、コミュニケーション能力の高さと度量の大きさを備えている方であったと、お爺ぃは判断している。
ラス・カサスの記した、「A Short Account of the Destruction of the Indies」に代表されるように、虐殺を実行したコンキスタドールも、告発したラスカサスも、キリスト教徒である。
おそらくは、明治期の日本人にとって、十字軍の発想やキリスト教の基盤については、理解できない感覚であった。お爺ぃ自身、聖書は旧約新約含めて、読み始めて40年以上になって、自分が日本的キリスト教徒であるという言い方はできるけれど、一般的なキリスト教徒からすれば、異端者だろうとも思っている。「東から太陽が昇って、西に太陽が沈む」これも神の奇蹟である。現象そのものが奇蹟なのではなく、現象から生み出される結果すべてが奇蹟なのである。何気ないこと、空気に酸素が含まれていて、酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出すといった、自然現象すべてが奇跡の結果である。
飯田耕一郎著のマンガ「邪学者姫野命シリーズ」の中で、万物は「神の欠片」という発想をしている。万物には、すべて「神の欠片」が宿っていて、「純粋な思惟」が存在するとしている。まぁ、神の視点からの論理分析のようなモノであろうか。
巫女という存在は、昔は、ノロやユタと同じ「祭祀の司」であったとされる。ヲナリ神は妹神で、エケリ神である兄の守護神という意味があるそうだ。欧州の関係性からすると、スペイン語圏におけるゴッドマザーとゴッドファーザーの関係に近い。日本の古典的な話では、刀自という表現に含まれた意味合いとなります。
「家を守るのが、男の仕事。家を支えるのが、女の仕事」
ジェンダーという考え方からすると、社会的・心理的な性別であり、医学的に割り当てられた肉体的な性別ということではない。男性社会の形成と女性社会の形成という意味でも、社会的・心理的な性別として意味合いとして捉える必要がある。直接表現の形が一般的なため、ジェンダーと言う考え方を基本とすると、非常に難しいかと思います。ケース・バイ・ケースで、できる限りの対応を求めることは、コストとして厳しいものということになります。やれと言う側は簡単ですが、対応する側にとっては、物凄く面倒なことなのです。
1920年頃の日本人は、海外の書籍を読んだりすることは可能であっても、SpeakingとHearingすることは困難であった。Readingへの偏りという考え方が、日本の英語にある。これは、日本国内の需要として、英文を読むことの必要性が、まずは求められたからである。日本に住んでいる場合、フランス語会話や英語会話を習得する必要が無いが、仏文や英文を理解する必要性は高かったのである。
当時の日本人が海外旅行した場合、基本的には、サバイバル言語になることが多い。お爺ぃも昔々、英語でやりとりをする場合に、FAXでやりとりをしたけれど、国際電話のやりとりはできなかったりします。これは、仕事で外国語を必要とする理由が、技術書や専門書を読んで理解することが多かったからである。今でも、技術関連では、外国語を読む必要の方が高く、会話での必要性は低かったからである。
英会話という授業があり、今は無い、LL教室まで整備しながら、英会話の修得度が低いのは、日本国内での必要性が低いからである。最近は、グローバルだからという理由も微妙で、日本に来る多くの観光客は、英語圏ではない地域から来られるので、英語が話せない人も多いのである。G〇〇gle翻訳と、中間日本語というやり方を用いると、G〇〇gle翻訳が可能な言語だとある程度は、翻訳が可能となる。結果として、翻訳ソフトを使って、文章を作成し、G〇〇gle翻訳とスマートフォンがあれば、発音を音声認識で確認もできるので、喋るのは時間をかければどうにかなる。日本人が難しいのは、ネイティブのヒアリングができないことと、日本の草書並みに読めない海外の直筆が読めないということになる。
英語ができないけど、英語の歌が歌えるのは、日本人くらいであろう。個人的に、日本の英語教育が、そんなに悪いとは思っていない。使わない言語を、覚えるつもりの無い相手に教えて、身に着けろというのも酷なことである。最近は、翻訳ソフトが発音までしてくれるし、Hearingも認識して文章表示してくれるようになっている。さらには、翻訳機まで販売されて、海外でも携帯の電波圏内であれば、使えるようになっているそうだ。つまりは、同時翻訳装置が生まれ、実用的に徐々になってきているということだ。
現実の会話能力については、これから徐々に必要性が低下していくと、日本国内については推定される。
明治期の日本では、コミュニケーション障害の大半は、この偏った仏語や英語のReadingの必要性の高さと、仏会話や英会話の必要性の無さにある。留学等の場合、相手が会話能力の低さを知っていれば、会話速度を調整してくれるが、授業等ではそうはいかないので、メモ書きして、後で必死に勉強するという形になる。本質としては、英語のHearingが身に着くのに、日本人はかなりの時間がかかることになる。
会議では、各国の首脳が、ネイティブを通常速度で話す前提で、会議が実際に行われる。これが、日本人にとっては、コミュ障の原因となっている。日本人で会話が可能な人間は限られるということになる。これは、南米や東欧圏でも同じであり、仏語と英語が可能で教養のある人間となると、大学教授とかが多くなるのである。各国の事務局は、そういった方々が多かったそうである。コミュニケーションの問題を問う前に、欧州や中国で、教養のある人間は、貴族であり金持ちであり、英語が喋れる段階で、マナー等の家庭教師が付けることが可能な、裕福な家庭出身であることであった。日本人は、会議の席でしか、会議に参加できず、会議の席で複数の人が話し合う状況でのHearing能力が低いという課題があった。
参考文献
新渡戸稲造著「国際聯盟とは如何なものか」 青空文庫
荒木博之 著「日本語が見えると、英語も見える」 中公新書
if昭和史では、新渡戸が長く国際連盟事務局を勤め、内田康哉と幣原喜重郎が長く外務大臣として参加することとなる。これは、二大政党制の実現をifで描いたからである。政友会の外務大臣が内田康哉であり、憲政党の外務大臣が幣原喜重郎となっている。新渡戸稲造を長期間の国際連盟事務局としたのは、お爺ぃからすると、他に対応可能な人間は、対応可能な人間が思いつかないからである。初代、国際連盟事務局長には、フランス駐在ロシア帝国大使として、ロシア帝国皇女タチアナ・ニコラエヴナを就任させた。
欧州大陸の貴族は、仏語の使える者が多く、欧州の公的なマナーについても、一般教養として身についている。日本の場合、非常に厄介なのは、樵が大統領になるとまで言わないが、欧米の一般的なマナーも怪しい人間が多くなることであった。相手をディナーに誘うというのにも、マナーに難点があるような人間が多いのが、昭和初期の日本の海外赴任者の実情であった。大正デモクラシーの結果でもあるが、多少の金があれば、庶民が大学に通えるようになり、そのまま官僚へと進む者も増えたのである。
元々、識字率が高く、普通では考えられないくらいに基礎学力が高い日本の場合、欧米流のマナーを知らなくても、英語のHealingができなくても、英語のReadingができて、Writingが可能な人間が多かったのである。だからと言って、海外で嫁を迎えるくらいに、相手国の一般的な事情を理解できる、日本人は非常に少なかったのである。
コミュニケーションとは、同じ言語を話しているからとれるというものではない、相手の常識と自分の常識の差異を認識し理解できることや、相手の国が持つ歴史などを理解できることが、コミュニケーションには必要なのである。
翻訳ソフトを上手く使用するには、「中間日本語」の考え方が必要と、お爺ぃは考えている。「中間日本語」とは、「外国語に移行可能な程度に最小限度整理された日本語」だそうだ。読んでみると、なるほどこれが英語で表現するのに良いステップになることがわかる。「中間日本語」を用いると、翻訳アプリを使って、多言語を扱うことも、だいぶ楽になることが理解できる。翻訳アプリで必要なのは、日本語の語彙力や表現力であり、相手の国の言語としての特徴や理解である。
歴史を知るというのは、言葉を理解する上で、相手の考え方を知りやすくなることである。「ルビコン川を渡る」という言葉は、ローマ帝国の歴史と、ジュリアス・シーザーという人間を知ることができる。日本人が考えるとどうだろう、来年大河ドラマでやるそうだが、「敵は、本能寺にあり」という言葉が、状況としては良いかもしれない。成功した、「ルビコン川を渡る」、失敗した、「敵は、本能寺にあり」、だけれどもシーザーは暗殺され、光秀は天海となって江戸時代まで生き延びた伝説があるんですよ。そんな会話も、また面白いと思っていただけるのは、それぞれの歴史に思いを馳せて、ロマンを感じることができる人ということになります。
また、「敵は、本能寺にあり」という言葉は、翻訳ソフトでは「The enemy is in Honnoji」という表現をされる。お爺ぃは、実際に使う時には、「My Enemy is in Honnoji」と書くか、「Our Enemy is in Honoji」と書くかで悩む。光秀にとって、信長を敵とした時、「光秀の敵」なのか「明智の敵」さらには「誰かと同じ敵のために」なのかを考えてしまうからだ。
ギリシャ神話や北欧神話、ケルト神話といった神々の物語から、イエスのお話、アラビアンナイトにイソップ寓話、西遊記に三国志、水滸伝など、現在の日本に溢れかえるくらいに日本語で情報が満ち溢れている。しかも様々な漫画家や小説家が、日本語で題材として、様々なシチュエーションでいろんな作品を書き上げている。時には、歴史ifに真っ向から立ち向かって、水滸伝が歴史を変質させたり、名探偵は小学生となって、怪盗の孫は怪盗だったりする。神々は黄金の聖衣を纏い、女神を護る戦士となって、女神の敵と戦う。日本で、造り上げた世界が逆に、元の国で観客を集めるのも、日本の「強さ」であり「恐さ」である。
<<<<<>>>>>
こんな国は、世界中を探しても無く、日本人であることの特権でもあるのだろう。
<<<<<>>>>>
新渡戸稲造が、国際連盟の事務局を担当したのは、コミュ障ニホン人ではなかったからである。当時の日本で、新渡戸稲造のような人は、かなり珍しい人である。また、相手に理解できる言葉で、説明できるくらいに、新渡戸は論理的でもあった。
アメリカに住むキリスト教徒が持つ、人種差別を遂行する心、倫理観の高さが、何故共存可能であるのかを分析して、新渡戸稲造が「日本の精神」について説明文としたのが、「BUSHIDO」である。「BUSHIDO」とは、実際の武士道を説明した文章ではなく、アメリカ人に武士道を理解してもらうために説明した文章である。日本人が、コミュニケーションというものを考えるのに、非常に素晴らしい教材だったりする。相手の立場や思考を忖度し、相手に合わせて文章を作成する能力、新渡戸先生の才能であったと思う。新渡戸先生は、政治的な能力ではなく、コミュニケーション能力の高さと度量の大きさを備えている方であったと、お爺ぃは判断している。
ラス・カサスの記した、「A Short Account of the Destruction of the Indies」に代表されるように、虐殺を実行したコンキスタドールも、告発したラスカサスも、キリスト教徒である。
おそらくは、明治期の日本人にとって、十字軍の発想やキリスト教の基盤については、理解できない感覚であった。お爺ぃ自身、聖書は旧約新約含めて、読み始めて40年以上になって、自分が日本的キリスト教徒であるという言い方はできるけれど、一般的なキリスト教徒からすれば、異端者だろうとも思っている。「東から太陽が昇って、西に太陽が沈む」これも神の奇蹟である。現象そのものが奇蹟なのではなく、現象から生み出される結果すべてが奇蹟なのである。何気ないこと、空気に酸素が含まれていて、酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出すといった、自然現象すべてが奇跡の結果である。
飯田耕一郎著のマンガ「邪学者姫野命シリーズ」の中で、万物は「神の欠片」という発想をしている。万物には、すべて「神の欠片」が宿っていて、「純粋な思惟」が存在するとしている。まぁ、神の視点からの論理分析のようなモノであろうか。
巫女という存在は、昔は、ノロやユタと同じ「祭祀の司」であったとされる。ヲナリ神は妹神で、エケリ神である兄の守護神という意味があるそうだ。欧州の関係性からすると、スペイン語圏におけるゴッドマザーとゴッドファーザーの関係に近い。日本の古典的な話では、刀自という表現に含まれた意味合いとなります。
「家を守るのが、男の仕事。家を支えるのが、女の仕事」
ジェンダーという考え方からすると、社会的・心理的な性別であり、医学的に割り当てられた肉体的な性別ということではない。男性社会の形成と女性社会の形成という意味でも、社会的・心理的な性別として意味合いとして捉える必要がある。直接表現の形が一般的なため、ジェンダーと言う考え方を基本とすると、非常に難しいかと思います。ケース・バイ・ケースで、できる限りの対応を求めることは、コストとして厳しいものということになります。やれと言う側は簡単ですが、対応する側にとっては、物凄く面倒なことなのです。
1920年頃の日本人は、海外の書籍を読んだりすることは可能であっても、SpeakingとHearingすることは困難であった。Readingへの偏りという考え方が、日本の英語にある。これは、日本国内の需要として、英文を読むことの必要性が、まずは求められたからである。日本に住んでいる場合、フランス語会話や英語会話を習得する必要が無いが、仏文や英文を理解する必要性は高かったのである。
当時の日本人が海外旅行した場合、基本的には、サバイバル言語になることが多い。お爺ぃも昔々、英語でやりとりをする場合に、FAXでやりとりをしたけれど、国際電話のやりとりはできなかったりします。これは、仕事で外国語を必要とする理由が、技術書や専門書を読んで理解することが多かったからである。今でも、技術関連では、外国語を読む必要の方が高く、会話での必要性は低かったからである。
英会話という授業があり、今は無い、LL教室まで整備しながら、英会話の修得度が低いのは、日本国内での必要性が低いからである。最近は、グローバルだからという理由も微妙で、日本に来る多くの観光客は、英語圏ではない地域から来られるので、英語が話せない人も多いのである。G〇〇gle翻訳と、中間日本語というやり方を用いると、G〇〇gle翻訳が可能な言語だとある程度は、翻訳が可能となる。結果として、翻訳ソフトを使って、文章を作成し、G〇〇gle翻訳とスマートフォンがあれば、発音を音声認識で確認もできるので、喋るのは時間をかければどうにかなる。日本人が難しいのは、ネイティブのヒアリングができないことと、日本の草書並みに読めない海外の直筆が読めないということになる。
英語ができないけど、英語の歌が歌えるのは、日本人くらいであろう。個人的に、日本の英語教育が、そんなに悪いとは思っていない。使わない言語を、覚えるつもりの無い相手に教えて、身に着けろというのも酷なことである。最近は、翻訳ソフトが発音までしてくれるし、Hearingも認識して文章表示してくれるようになっている。さらには、翻訳機まで販売されて、海外でも携帯の電波圏内であれば、使えるようになっているそうだ。つまりは、同時翻訳装置が生まれ、実用的に徐々になってきているということだ。
現実の会話能力については、これから徐々に必要性が低下していくと、日本国内については推定される。
明治期の日本では、コミュニケーション障害の大半は、この偏った仏語や英語のReadingの必要性の高さと、仏会話や英会話の必要性の無さにある。留学等の場合、相手が会話能力の低さを知っていれば、会話速度を調整してくれるが、授業等ではそうはいかないので、メモ書きして、後で必死に勉強するという形になる。本質としては、英語のHearingが身に着くのに、日本人はかなりの時間がかかることになる。
会議では、各国の首脳が、ネイティブを通常速度で話す前提で、会議が実際に行われる。これが、日本人にとっては、コミュ障の原因となっている。日本人で会話が可能な人間は限られるということになる。これは、南米や東欧圏でも同じであり、仏語と英語が可能で教養のある人間となると、大学教授とかが多くなるのである。各国の事務局は、そういった方々が多かったそうである。コミュニケーションの問題を問う前に、欧州や中国で、教養のある人間は、貴族であり金持ちであり、英語が喋れる段階で、マナー等の家庭教師が付けることが可能な、裕福な家庭出身であることであった。日本人は、会議の席でしか、会議に参加できず、会議の席で複数の人が話し合う状況でのHearing能力が低いという課題があった。
参考文献
新渡戸稲造著「国際聯盟とは如何なものか」 青空文庫
荒木博之 著「日本語が見えると、英語も見える」 中公新書
if昭和史では、新渡戸が長く国際連盟事務局を勤め、内田康哉と幣原喜重郎が長く外務大臣として参加することとなる。これは、二大政党制の実現をifで描いたからである。政友会の外務大臣が内田康哉であり、憲政党の外務大臣が幣原喜重郎となっている。新渡戸稲造を長期間の国際連盟事務局としたのは、お爺ぃからすると、他に対応可能な人間は、対応可能な人間が思いつかないからである。初代、国際連盟事務局長には、フランス駐在ロシア帝国大使として、ロシア帝国皇女タチアナ・ニコラエヴナを就任させた。
欧州大陸の貴族は、仏語の使える者が多く、欧州の公的なマナーについても、一般教養として身についている。日本の場合、非常に厄介なのは、樵が大統領になるとまで言わないが、欧米の一般的なマナーも怪しい人間が多くなることであった。相手をディナーに誘うというのにも、マナーに難点があるような人間が多いのが、昭和初期の日本の海外赴任者の実情であった。大正デモクラシーの結果でもあるが、多少の金があれば、庶民が大学に通えるようになり、そのまま官僚へと進む者も増えたのである。
元々、識字率が高く、普通では考えられないくらいに基礎学力が高い日本の場合、欧米流のマナーを知らなくても、英語のHealingができなくても、英語のReadingができて、Writingが可能な人間が多かったのである。だからと言って、海外で嫁を迎えるくらいに、相手国の一般的な事情を理解できる、日本人は非常に少なかったのである。
コミュニケーションとは、同じ言語を話しているからとれるというものではない、相手の常識と自分の常識の差異を認識し理解できることや、相手の国が持つ歴史などを理解できることが、コミュニケーションには必要なのである。
翻訳ソフトを上手く使用するには、「中間日本語」の考え方が必要と、お爺ぃは考えている。「中間日本語」とは、「外国語に移行可能な程度に最小限度整理された日本語」だそうだ。読んでみると、なるほどこれが英語で表現するのに良いステップになることがわかる。「中間日本語」を用いると、翻訳アプリを使って、多言語を扱うことも、だいぶ楽になることが理解できる。翻訳アプリで必要なのは、日本語の語彙力や表現力であり、相手の国の言語としての特徴や理解である。
歴史を知るというのは、言葉を理解する上で、相手の考え方を知りやすくなることである。「ルビコン川を渡る」という言葉は、ローマ帝国の歴史と、ジュリアス・シーザーという人間を知ることができる。日本人が考えるとどうだろう、来年大河ドラマでやるそうだが、「敵は、本能寺にあり」という言葉が、状況としては良いかもしれない。成功した、「ルビコン川を渡る」、失敗した、「敵は、本能寺にあり」、だけれどもシーザーは暗殺され、光秀は天海となって江戸時代まで生き延びた伝説があるんですよ。そんな会話も、また面白いと思っていただけるのは、それぞれの歴史に思いを馳せて、ロマンを感じることができる人ということになります。
また、「敵は、本能寺にあり」という言葉は、翻訳ソフトでは「The enemy is in Honnoji」という表現をされる。お爺ぃは、実際に使う時には、「My Enemy is in Honnoji」と書くか、「Our Enemy is in Honoji」と書くかで悩む。光秀にとって、信長を敵とした時、「光秀の敵」なのか「明智の敵」さらには「誰かと同じ敵のために」なのかを考えてしまうからだ。
ギリシャ神話や北欧神話、ケルト神話といった神々の物語から、イエスのお話、アラビアンナイトにイソップ寓話、西遊記に三国志、水滸伝など、現在の日本に溢れかえるくらいに日本語で情報が満ち溢れている。しかも様々な漫画家や小説家が、日本語で題材として、様々なシチュエーションでいろんな作品を書き上げている。時には、歴史ifに真っ向から立ち向かって、水滸伝が歴史を変質させたり、名探偵は小学生となって、怪盗の孫は怪盗だったりする。神々は黄金の聖衣を纏い、女神を護る戦士となって、女神の敵と戦う。日本で、造り上げた世界が逆に、元の国で観客を集めるのも、日本の「強さ」であり「恐さ」である。
<<<<<>>>>>
こんな国は、世界中を探しても無く、日本人であることの特権でもあるのだろう。
<<<<<>>>>>
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

こども病院の日常
moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。
18歳以下の子供が通う病院、
診療科はたくさんあります。
内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc…
ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。
恋愛要素などは一切ありません。
密着病院24時!的な感じです。
人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。
※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。
歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる