琉球お爺いの綺談

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昭和史の闇

権威と権力、軍事力 世界大戦の終焉、国際連盟への流れ

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 ロシア内政干渉戦争、国際連盟の設立
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 30年戦争後に築かれた、ウェストファリア体制は、人を人として扱う始まりであった。

 はじめての世界大戦は、人をモノのように消費し、莫大な犠牲を強いる、戦争となった。国家の総力を挙げて戦わなければならず、敗れることで、国土が荒廃しボロボロとなった国家が残された。

 国際社会では、様々な国際ルールの成立が望まれ、日本もまた、アメリカなどの移民先で生じる、有色人種への差別に苦い思いを繰り返していた。

 はじめての世界大戦が生じた後、二度と世界大戦を起こさないようにするにはという流れがあり、そこから国際連盟の設立と言う流れとなった。

 日本は、ヴェルサイユ講和会議の中で、人種差別の撤廃を求めたが、困ったことに人種差別を求めることが、内政干渉であった。自国の権益を護ることが前提となる、国際会議の中で、自国の権益を損なう結果となる交渉に応じる戦勝国は無い。

 史実の中で日本は、国際連盟を検討するにあたって、世界各国が、理想を描くと考えていた。そんなことは、在り得ないのだが、国際法を護ることで国難に立ち向かってきた日本にとっては、他国も国際法を護るモノだという考え方があった。しかしながら、アメリカは、国際法の枠外で在り、ロシアのように国際法を破って利用する連中も多かったのである。

参考資料
 倉山満 著 「国際法で読み解く世界史の真実」 電子版2016.11.10
 倉山満 著 「ウェストファリア体制」  電子版2019.11.7
 篠原初枝著 「国際連盟 -世界平和の夢と挫折-」 電子版2013.02.28

 ウィルソンの14箇条にしても、共産組織への対抗から生まれた理想主義的なモノで、列強が認めたものではない。アメリカ自身が海軍の増強を図りながら、軍縮を唱えるのは偽善であるという意見が、日本では論じられていた。アメリカはアメリカで、国際会議を多数決とすると、連合王国として多くの国家に影響を与える、イギリスが強くなりすぎることで、疑念があった。

 国際連盟は問題として、史実の中でアメリカが参加しなかったことが、理由としてあげられている。アメリカは、勝てる戦争をしたがって、大きく利益を得たがる、という点がある。しかしながら、アメリカという国家そのものは、理性的な面が強く、基本的に戦争で死者が出ることを嫌がる。

 南北戦争という内戦で、北軍220万、南軍100万が動員され、北軍36万の死者、南軍29万、市民を含めると、70万人以上の犠牲者がでている。第二次世界大戦の米軍が29万と言われ、朝鮮戦争14万、ベトナム戦争54万であった。アメリカが、戦死者数から厭戦気分になるのは、ベトナム戦争であることが良く分かる。
 アメリカが敗戦したと考えるのは、戦死者の数が50万を超えたあたりであると推定される。日本が本土分割を恐れず本土決戦に持ち込んだ場合、日本人数千万の死者と引き換えとして、アメリカやソビエトを敗退へ追い込むまで抵抗することも可能であったのは事実である。

 史実日本が、陛下の玉音放送によって救われたのは、今の日本に住むすべての人間にとっての事実である。




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 ロシア帝国の崩壊と、ソビエトの誕生は、自由主義諸国家にとって、大いにロシア帝国の遺産を漁りに侵攻する形となり、皇太子と皇女殿下達の救出は、新聞紙上を賑わせたのである。ロシア帝国の農奴解放と、自由主義社会浸透へ向けて、共産主義勢力との抗争が開始されたのである。

 アメリカ陸軍が、10万を動員し、ウラジオストクからシベリア鉄道を西進し、チタへと至る地域の解放を図り、日本が20万のシナ派遣軍を動員して、満洲を北上して満洲里からザバイカルを抜けてチタへと至る。イギリス連合王国は、ニコラエフスクからオーストラリア軍5万が、アムール川を遡上して、ハバロフスクへと至る。三者三様の権益確保を図った。

 大陸は、アメリカにとっては、新たなるフロンティアとして喧伝され、チタまでの進撃を果たしたのである。

 フランスは、ブレスト=リトフスク条約に基づく、ウクライナへのドイツ侵攻を防ぐため、イタリアと共同で、ロシア白軍を支援し、キエフを占領しウクライナ共和国を建国し、ソビエトーウクライナ戦争へと突入したのである。

 オーストリアーハンガリーの継続戦闘能力喪失、ブルガリア、オスマントルコの戦線離脱、ドイツの戦意低下から、西部戦線で大正7年(1918年)11月11日の休戦協定休戦条約が締結され、第一次世界大戦の終焉が始まったのである。

 停戦から講和条約締結に時間がかかったのは、ウクライナーソビエト戦争、極東ロシア共和国建国と、極東ロシア-ソビエト戦争の継続からである。主敵がドイツから、共産ソビエトに移行したことで、ドイツおよび東欧諸国家に対して、共産主義勢力の台頭を防ぐ必要が生じた。

 ドイツにおけるストライキの発生や、軍による鎮圧行動など、共産主義勢力の浸透で、ドイツの共産化を防ぐ必要から、連合諸国家は講和条約の締結を進めたのである。

 アメリカのウィルソンを含めて、賠償金については消極的であったが、フランスが強行することを主張し、300億金マルクと武装解除および武器の引き渡しで妥結することとなった。これは、フランスが、駐仏ロシア大使館に訪れたタチアナ皇女殿下から、大陸におけるロシア帝国地下資源の権益を確保した結果でもあった。

 日本側の思惑は、国際連盟の設立は、国際平和の追求というよりは、大陸権益の確保にあった。特に、満洲における利害調整は、樺太の敷香へお連れした、皇太子殿下と摂政公オリガ皇女殿下との交渉で進められた。樺太の確保、満洲鉄道利権確保を必須として進められていた。

 しかしながら、日本は、駐仏ロシア大使となったタチアナ皇女殿下が、フランスやイギリスと交渉し、ロマノフ家に上手く大陸利権の分配調整を実施されてしまった。日本としては、占領地を分割統治することを想定していたが、タチアナ皇女殿下は、イギリス、フランスを動かすことで、旧ロシア帝国の資産はすべて、ロマノフ家の資産として継承することを承認させた。領地の統治については、極東ロシア共和国の東方、アイグン条約、北京条約でロシア領となった地域(満洲、沿海州、アムール川流域)について、新たに設立される国際機関に委託統治することを前提する形で調整に入ったのである。

 つまり、土地はすべて、「国際連盟」への委託統治地域であって、いかなる国家の所有権でも無い地域「特区」としたのである。厳密には、無地領主Landless Lordロマノフ家資産特別地区が、「特区」の名称である。

 「無地領主Landless Lord」という考え方を示して、資産の委託という形で、ロマノフ家の価値を残したのである。

 日本側としては、亡命政権の受け入れと、鉄道利権の確保については、遼陽から先、満洲全域を中心とし、奉天から満洲里、さらにザバイカル鉄道を経由してチタまでが、日本の権益範囲とされた。

 しかしながら、大正10年(1921年)当時は、第一次世界大戦後の不況と大陸への戦費拡大もあって、資金繰りに苦しんでいた。日本は、山東省の権益をアメリカへ1120万ドルで売却し、1ドル50円として5億6千万円となり、満洲に3億が資本投下することができたのである。1億6千万で「我田引鉄」と共に、国内の鉄道整備および機械、電気、建設土木を含めた、工兵学校の設立と、工廠の拡充を進めたのである。工廠の拡充は、エンジン等の新たな技術導入と、量産化を進めるための、技術支援体制の確立である。

 ロシアからの捕虜解放と難民受け入れを進め、遼東半島の産業基盤の拡充を中心として、満洲鉄道都市警備局を発展させていったのである。ロシア帝国軍捕虜の解放は、そのまま満洲鉄道都市警備局への雇い入れ拡大として進められたのである。

 「特区」の統治体制は、原敬が創案した、市長選挙と市民権の承認を基本とした、満洲鉄道都市警備計画に沿って進められた。奉天を中心とした北洋軍閥、斉斉哈爾を中心とする愛新覚羅一族、興安省を中心とする蒙古系馬賊、みっつの勢力が広がっていた。
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