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倒幕異聞
鎌倉崩壊異聞4 倒幕は、評議衆の権力争いに始まる
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倒幕の原動力は、土地争いを巡る裁判から、失われていく公平さにあった。
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幕府が御家人に味方し、横領を黙認するようになったことで、土地争いを巡る裁判は、公平さを失う結果となった。幕府が幕府として成立したのは、土地争いを当事者にとって、公平に裁くことにあった。律令体制が崩壊し、土地の権益を巡っては、多くの争いが生じて、朝廷は解決能力が無く、日本国内に叛乱を頻発させる結果となった。
鎌倉幕府が生まれ朝廷が権力を握れたのは、日本国内の叛乱を防ぎ、土地の権益をめぐる争いを裁く能力を有していたからである。
一度、傾いてしまったバランスは、元に戻ることは無い。裁判に発生した偏りを認めたことで、鎌倉幕府は偏りに歯止めがかからなくなった。土地争いを巡る裁判は、源氏の頭領が、評議衆全員が認めたことで、公平に裁く結果であったが、評議衆が贔屓や忖度するようになれば、有力御家人衆で集まった評議衆は、自分の傘下にある御家人衆に有利なように働くようになったのである。
御家人衆の中からも、土地争いを巡る裁判に対して、不満が生まれるようになってしまったのである。
評議衆内での権力闘争が、そのまま、権力抗争に巻き込まれた傘下の御家人衆にとって、武力抗争の発端になっていったのである。
最初に崩れたのは、最も裁決に不満が多く、「悪党」が跳梁跋扈していた畿内であった。
評議衆の三浦家と比企家は、三浦家には和田家と血縁関係にあり、比企家は北条家と血縁関係にあった。ともに六波羅探題を務め、「悪党」征伐を遂行していたが、「比企家」の頭領で探題を務めていた、比企定宗が「悪党」に討たれた。征伐した「悪党」の首を検分する中で、三浦家に縁戚を持つ、大和の御家人、川島兵衛が首となった。
本来であれば、警察業務で、強盗殺人犯を捕らえたというだけであったが、担当した警察官僚が死亡し、殺したのがライバルとなる警察官僚であったということで、揉めに揉めてしまったのである。三浦家は、川島兵衛の無罪を主張し、征伐そのものが道理に外れた行為と断定した。比企家は、頭領が死んだこともあり、川島だけでなく、三浦家に対しても謝罪を要求したのである。
結果的に両者の主張は、六波羅探題を分けて争う、抗争へと発展したのである。京洛の貴族は、抗争を受けて、荘園を取り戻すべく、互いに自家の荘園を横領している御家人の対抗側に働きかけることとなり、京洛の貴族も分かれて争い始めたのであった。幕府の介入は大江広道が使者となって六波羅に赴き、「三浦」「比企」両家の調整をしながらも、京洛貴族からの地頭による横領については、一切を幕府が関与しないという裁決を下したのである。
六波羅探題は、畿内を中心として地頭衆を支配下として、土地争いを裁くにあたって全権を握っており、困窮する御家人を擁護するために、横領をある程度認める有利な形で裁判を遂行していた。大和での抗争が起きてからは、幕府は貴族および寺社の所領として認めるのは、山城,大和,摂津,河内,和泉の五畿内として、諸国の地頭が管理を代行している荘園は、異国警護番役領として幕府管理の荘園とする決定を下した。
幕府は、全国の守護に対して、貴族が自分で管理する荘園の許認可については、守護の裁量に任せるとの通達を出した。結果として京洛の貴族は、地頭に荘園を奪われて、生活を維持できなくなるものが増加し、京洛を離れ、守護に荘園管理する権利を得て、自分で管理するために下向する貴族が増加していったのである。遥任を幕府が認めなかったため、京洛の貴族の三割が、自家で管理するために、地方へ下向したと記録された。
この決定は、貴族だけでなく、寺社領に対しても適応されたため、各地の寺社領は、寺院や社院が任官を派遣して、荘園管理をおこなうようになったのである。荘園管理を直接行うことで、地頭の横領を防ぐこととなり、各地で荘園管理を巡って、寺社と地頭との間で荘園管理を巡って争いが発生するようになったのである。
寺社と地頭との争いは、各地でいくつもの抗争が殺し合いに発展して、伽藍や本殿が焼かれていった。特に僧兵などの戦力を持っていた寺院は、地頭によって徹底的に狩り出され、本堂を含めた焼き討ちにあった場所も多く、各地で僧兵狩りが徹底的に実施された。僧兵狩りについては、畿内でも同じく実行され、延暦寺といった寺院でも、強訴に京洛の街に出ようとした僧兵を、六波羅探題の兵が射殺すといった事態となっていた。
三井寺が六波羅を支援することで、延暦寺は一時的に六波羅探題の軍勢三千に包囲され、天台座主のとりなしで、京洛に僧兵を入れずとの取り決めがなされた。天台座主となられた大塔宮は、延暦寺山門に改めて殺生戒や色欲戒を破った僧兵や僧侶を含めて七十八名を六波羅探題に引き渡し、京洛に晒すこととなった。天台座主となられた大塔宮は、三井寺と六波羅を利用して、延暦寺における綱紀粛清を図ったのである。
各地の寺院襲撃や後醍醐陛下は鎌倉の横暴と六波羅に対して詰問したが、「道護りたる者の為」として天台座主の役儀によると抗論することで、父である陛下を逆にお諫めして、幕府側についたのであった。南都興福寺の僧兵は、施薬院の支援を受けて、地頭の手勢を蹴散らし、大和における寺領安堵を図っていた。各地の寺領や社領は、檀家や氏子の支援を受けた場合は、地頭の手勢を蹴散らして、所領安堵を図ることができた。
幕府側は、反撃を受けて敗れた場合は、行き過ぎた地頭の横領として裁き、地頭が伽藍を焼き払ってでも荘園を奪いたる時は、そのまま地頭の管理として認めたのである。
「鎌倉の御家人は、武家であり、武家の本領を守る戦に敗れたるは、一門一党の恥なり」
一所懸命と称される、武家にとっては、本領を守ることができて、初めて武家たる証となる。しかしながら、各地で頻発する抗争は、鎌倉幕府の統治能力を低下させるものであり、六波羅探題だけでなく、九州探題や奥州探題の裁量権については、高く引き上げられたのである。大宰府に異国警護番役を務めた九州探題和田貞盛は、兵を率いて九州各地を転戦し、地頭の横領を裁き九州の寺社領を整理し、各地で所領安堵を進め、博多から大宰府までの異国警護番役の役儀として、九州一円の御家人衆を交代で参加することで、御家人衆の負担を減らしつつ、すべての御家人が参加することを強制したのである。
和田貞盛は、本領が関東であり、博多や大宰府を含めた、九州探題の所領50万貫の収益を、1年交代で、異国警護番役を務める御家人衆へ、足高米としたのである。つまり、異国警護番役を務めた御家人に対して、所領ではなく扶持米とする奉公給与としたのである。
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評定衆の勢力争いは、徐々に面倒な抗争の種を、次々と生み出していったのである。
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倒幕の原動力は、土地争いを巡る裁判から、失われていく公平さにあった。
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幕府が御家人に味方し、横領を黙認するようになったことで、土地争いを巡る裁判は、公平さを失う結果となった。幕府が幕府として成立したのは、土地争いを当事者にとって、公平に裁くことにあった。律令体制が崩壊し、土地の権益を巡っては、多くの争いが生じて、朝廷は解決能力が無く、日本国内に叛乱を頻発させる結果となった。
鎌倉幕府が生まれ朝廷が権力を握れたのは、日本国内の叛乱を防ぎ、土地の権益をめぐる争いを裁く能力を有していたからである。
一度、傾いてしまったバランスは、元に戻ることは無い。裁判に発生した偏りを認めたことで、鎌倉幕府は偏りに歯止めがかからなくなった。土地争いを巡る裁判は、源氏の頭領が、評議衆全員が認めたことで、公平に裁く結果であったが、評議衆が贔屓や忖度するようになれば、有力御家人衆で集まった評議衆は、自分の傘下にある御家人衆に有利なように働くようになったのである。
御家人衆の中からも、土地争いを巡る裁判に対して、不満が生まれるようになってしまったのである。
評議衆内での権力闘争が、そのまま、権力抗争に巻き込まれた傘下の御家人衆にとって、武力抗争の発端になっていったのである。
最初に崩れたのは、最も裁決に不満が多く、「悪党」が跳梁跋扈していた畿内であった。
評議衆の三浦家と比企家は、三浦家には和田家と血縁関係にあり、比企家は北条家と血縁関係にあった。ともに六波羅探題を務め、「悪党」征伐を遂行していたが、「比企家」の頭領で探題を務めていた、比企定宗が「悪党」に討たれた。征伐した「悪党」の首を検分する中で、三浦家に縁戚を持つ、大和の御家人、川島兵衛が首となった。
本来であれば、警察業務で、強盗殺人犯を捕らえたというだけであったが、担当した警察官僚が死亡し、殺したのがライバルとなる警察官僚であったということで、揉めに揉めてしまったのである。三浦家は、川島兵衛の無罪を主張し、征伐そのものが道理に外れた行為と断定した。比企家は、頭領が死んだこともあり、川島だけでなく、三浦家に対しても謝罪を要求したのである。
結果的に両者の主張は、六波羅探題を分けて争う、抗争へと発展したのである。京洛の貴族は、抗争を受けて、荘園を取り戻すべく、互いに自家の荘園を横領している御家人の対抗側に働きかけることとなり、京洛の貴族も分かれて争い始めたのであった。幕府の介入は大江広道が使者となって六波羅に赴き、「三浦」「比企」両家の調整をしながらも、京洛貴族からの地頭による横領については、一切を幕府が関与しないという裁決を下したのである。
六波羅探題は、畿内を中心として地頭衆を支配下として、土地争いを裁くにあたって全権を握っており、困窮する御家人を擁護するために、横領をある程度認める有利な形で裁判を遂行していた。大和での抗争が起きてからは、幕府は貴族および寺社の所領として認めるのは、山城,大和,摂津,河内,和泉の五畿内として、諸国の地頭が管理を代行している荘園は、異国警護番役領として幕府管理の荘園とする決定を下した。
幕府は、全国の守護に対して、貴族が自分で管理する荘園の許認可については、守護の裁量に任せるとの通達を出した。結果として京洛の貴族は、地頭に荘園を奪われて、生活を維持できなくなるものが増加し、京洛を離れ、守護に荘園管理する権利を得て、自分で管理するために下向する貴族が増加していったのである。遥任を幕府が認めなかったため、京洛の貴族の三割が、自家で管理するために、地方へ下向したと記録された。
この決定は、貴族だけでなく、寺社領に対しても適応されたため、各地の寺社領は、寺院や社院が任官を派遣して、荘園管理をおこなうようになったのである。荘園管理を直接行うことで、地頭の横領を防ぐこととなり、各地で荘園管理を巡って、寺社と地頭との間で荘園管理を巡って争いが発生するようになったのである。
寺社と地頭との争いは、各地でいくつもの抗争が殺し合いに発展して、伽藍や本殿が焼かれていった。特に僧兵などの戦力を持っていた寺院は、地頭によって徹底的に狩り出され、本堂を含めた焼き討ちにあった場所も多く、各地で僧兵狩りが徹底的に実施された。僧兵狩りについては、畿内でも同じく実行され、延暦寺といった寺院でも、強訴に京洛の街に出ようとした僧兵を、六波羅探題の兵が射殺すといった事態となっていた。
三井寺が六波羅を支援することで、延暦寺は一時的に六波羅探題の軍勢三千に包囲され、天台座主のとりなしで、京洛に僧兵を入れずとの取り決めがなされた。天台座主となられた大塔宮は、延暦寺山門に改めて殺生戒や色欲戒を破った僧兵や僧侶を含めて七十八名を六波羅探題に引き渡し、京洛に晒すこととなった。天台座主となられた大塔宮は、三井寺と六波羅を利用して、延暦寺における綱紀粛清を図ったのである。
各地の寺院襲撃や後醍醐陛下は鎌倉の横暴と六波羅に対して詰問したが、「道護りたる者の為」として天台座主の役儀によると抗論することで、父である陛下を逆にお諫めして、幕府側についたのであった。南都興福寺の僧兵は、施薬院の支援を受けて、地頭の手勢を蹴散らし、大和における寺領安堵を図っていた。各地の寺領や社領は、檀家や氏子の支援を受けた場合は、地頭の手勢を蹴散らして、所領安堵を図ることができた。
幕府側は、反撃を受けて敗れた場合は、行き過ぎた地頭の横領として裁き、地頭が伽藍を焼き払ってでも荘園を奪いたる時は、そのまま地頭の管理として認めたのである。
「鎌倉の御家人は、武家であり、武家の本領を守る戦に敗れたるは、一門一党の恥なり」
一所懸命と称される、武家にとっては、本領を守ることができて、初めて武家たる証となる。しかしながら、各地で頻発する抗争は、鎌倉幕府の統治能力を低下させるものであり、六波羅探題だけでなく、九州探題や奥州探題の裁量権については、高く引き上げられたのである。大宰府に異国警護番役を務めた九州探題和田貞盛は、兵を率いて九州各地を転戦し、地頭の横領を裁き九州の寺社領を整理し、各地で所領安堵を進め、博多から大宰府までの異国警護番役の役儀として、九州一円の御家人衆を交代で参加することで、御家人衆の負担を減らしつつ、すべての御家人が参加することを強制したのである。
和田貞盛は、本領が関東であり、博多や大宰府を含めた、九州探題の所領50万貫の収益を、1年交代で、異国警護番役を務める御家人衆へ、足高米としたのである。つまり、異国警護番役を務めた御家人に対して、所領ではなく扶持米とする奉公給与としたのである。
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評定衆の勢力争いは、徐々に面倒な抗争の種を、次々と生み出していったのである。
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