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倒幕異聞
鎌倉倒幕異聞2 北条家の隆盛と反発
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元寇以降の鎌倉幕府は、「悪党」の増加に対応するためもあって、各探題の指揮権を強化することとなった。
御家人とは、本質として土地を所領とする領主であり、有力御家人とは大地主のような存在であった。13世紀頃までの鎌倉幕府は、大地主でもある有力御家人の連合政権であり、連合政権の調停を評定衆がコンセンサス方式でおこなっていた。全員のコンセンサスが取れれば、将軍の採決を受けて、決定される形であり、評定衆が持つ拒否権は、非常に大きなものであった。
鎌倉時代の評定衆は、定員が決まっていたわけではなく、有力御家人の勢力争いから、十名から十五名くらいで変化した。また、人工島として築かれた和賀江島は将軍家直轄地であり、北条家傘下の水軍衆を主力とした、「鎌倉水軍衆」があって、将軍家の下で伊豆や南方島嶼地域の水軍衆を傘下として、日ノ本最強の水軍衆を構成していました。鎌倉幕府の財政が豊かであったのは、将軍直轄領からの税だけでなく、冊封体制下で宋との交易でもたらされる、莫大な財貨を財源としていました。特に宋国から流れる宋銭は、大量の銅地金と共にいったん和賀江島から鎌倉に入って、撰銭や改鋳を受けて、関東を中心に使われていました。南宋を介して、海外との通商の窓口が、北条家であったのです。北条家は、源平合戦後の西国統治にあたって、彦島を所領として、「鎌倉水軍衆」を派遣して根拠地として、西国の抑えとしていたのです。奥州征伐後は、十三湊もまた「鎌倉水軍」の根拠地となり、廻船航路の安定から日ノ本沿岸交易をも、鎌倉幕府の財源となっていったのです。
鎌倉幕府の権限は、関東を中心とした地方政権から、源平合戦や承久の乱などを経て、徐々に全国政権へと拡大していった組織であった。全国組織に拡大する中で、鎌倉との距離が問題になり、地域に探題を設置することで対応を図っていた。
源平合戦と承久の乱の後、京洛を中心として、探題が設置され、西国の地頭を統括する地位となり、地方行政の権限が集中していった。これは、御家人の土地争いを裁くために必要な権限を持つために、征夷大将軍という幕府を開く地位を必要とした鎌倉幕府の小型版ということになる。
探題の下には、奉行衆と呼ばれる地域の有力御家人があり、鎌倉幕府の評定衆と同じような権限を保有していた。元との国際関係が緊張する中で、幕府は鎮西探題を大宰府に派遣して、九州の御家人を束ねる権限を与えた。元寇後に奥州征伐が実施され、十三湊に奥州探題が設置され、奥州の権限が集中していったのである。
「悪党」征伐は、守護の仕事であったが、国境の枠内で収まらない「悪党」に対応するため、探題による派遣軍が、征伐部隊の中心となった。しかしながら、「悪党」の勢力が拡大すると、徐々に探題による派遣軍も手を焼くようになり、幕府から軍が派遣されることも多かったのである。
探題は、本来は臨時職であり、源平期に源範頼が鎮西将軍に任じられ、後に六波羅探題として常設された。九州大宰府に鎮西探題が設置されたのは、対外戦争への対応からであり、鎮西将軍の臨時職が常設化した形となった。鎮西探題の権限は、九州全域に及び、幕府と同等の権限を保有する組織となっていた。鎮西探題として九州の御家人衆を纏めた和田泰盛は、元寇を博多で撃退し、海上に逃げた高麗・元連合軍を鎌倉から派遣された北条貞時率いる彦島水軍衆を中心とし、松浦や山鹿といった水軍衆が撃破したのである。
元寇以降、九州の水軍衆は「外ツ國勝手次第」の免状を受けて、半島から大陸を暴れる倭寇となった。九州の水軍は、彦島の「鎌倉水軍」に率いられた場合は、公的な水軍であったが、九州近海や瀬戸内海の廻船航路は、各地域の水軍衆の権限であり、国内に対しては、収奪行為は認められず、「鎌倉水軍」の征伐対象であったが、「外ツ國勝手次第」の下で、海外に対しては好き勝手に行動する海賊でもあった。
奥州探題は、奥州征伐後の蝦夷から奥州にかけての治安維持が目的であったので、常設職として設置され、十三湊に探題府が設けられた。特に、蝦夷による大陸での収奪行為は、元を刺激するモノであり、鎌倉幕府としては許容できるモノではなかった。蝦夷の部族に対する武力介入についても、鎌倉幕府の奥州探題を設置した目的であった。蝦夷の部族に対しては、水軍衆での対応となり、鎌倉水軍が十三湊に派遣されて、対応する結果となった。
水軍については、九州では「外ツ國勝手次第」となり、蝦夷に対しては「鎌倉水軍」の征伐対象となったのである。これは、正面戦闘で、元や高麗軍を撃破できる九州の水軍衆と異なり、大陸との往来が簡単な樺太では、海が荒れて航海が困難な冬季に南下する元軍の相手は、蝦夷の諸部族ができず敗北を重ねるため、蝦夷の部族が北に移動する夏季に、十三湊の「鎌倉水軍」が蝦夷の部族を征伐するという流れになったのである。
西の九州では、半島や大陸への略奪戦闘を実行して、収奪を繰り返したため、港を焼かれ収奪を受けた高麗は国力が疲弊し、元軍の遠征は非常に難しい状況に追い込まれていった。
九州地域への宋国からの亡命者増加は、そのまま日本と元の関係を悪化させる結果となり、国交の修好は困難になっていったのです。元は、幾度か遠征を企図するものの、実行するまでには至らず、皇帝フビライが亡くなると、後継争いから徐々に国力を低下させていって、日本に遠征することはできませんでした。
九州および奥州に設置された、「異国警固番役」は、非常に金がかかる奉公であり、財政状況が悪化していた御家人にとっては、困窮を深める結果になったのでした。北条家は、将軍家が大陸交易が無くなって、収益が低下したのと違い、沿岸交易の権益を確保し、瀬戸内海を含めた廻船交易の収益が徐々に増加していったため、潤沢な財源が得られるようになりました。
困窮する御家人衆に対して、有利に立った北条家は、安達や比企といった有力な御家人衆を傘下に引き入れて、評定衆を統括するようになっていきます。特に、収奪的な要素が強かった奥州征伐は、御家人衆に対して新領を給与することもでき、幕府体制の再建を図ります。幕府財政は、悪化の一途を辿っていましたが、支配体制は、北条家を評定衆筆頭として君臨することで、強化されていったのです。
しかしながら、北条家の動きに対しては、反発する動きも生まれます。侍所を仕切っていた和田家は、異国警護番役で鎮西探題となり、元・高麗連合軍撃破で武功を上げた家柄でもあり、評議衆の三浦家とも縁戚であり、関東に広大な所領を持つ有力御家人の筆頭でもありました。
外ツ國の元から外征圧力が低下するにつれて、国内の軋轢が表面化していきます。畿内では、「悪党」が跳梁跋扈して、鎮定しても新たな「悪党」が生まれるという、非常に厄介な状況となっていました。京洛の貴族は、地頭の横領によって、徐々に遠国の荘園を失い、御家人よりも困窮を極めていたのです。
気位は高く、お金の無い京洛の貴族は、集まっては不平不満を言い募るようになったのです。後醍醐陛下は、こういった状況を鑑みて、倒幕の動きを始めるのです。
御家人とは、本質として土地を所領とする領主であり、有力御家人とは大地主のような存在であった。13世紀頃までの鎌倉幕府は、大地主でもある有力御家人の連合政権であり、連合政権の調停を評定衆がコンセンサス方式でおこなっていた。全員のコンセンサスが取れれば、将軍の採決を受けて、決定される形であり、評定衆が持つ拒否権は、非常に大きなものであった。
鎌倉時代の評定衆は、定員が決まっていたわけではなく、有力御家人の勢力争いから、十名から十五名くらいで変化した。また、人工島として築かれた和賀江島は将軍家直轄地であり、北条家傘下の水軍衆を主力とした、「鎌倉水軍衆」があって、将軍家の下で伊豆や南方島嶼地域の水軍衆を傘下として、日ノ本最強の水軍衆を構成していました。鎌倉幕府の財政が豊かであったのは、将軍直轄領からの税だけでなく、冊封体制下で宋との交易でもたらされる、莫大な財貨を財源としていました。特に宋国から流れる宋銭は、大量の銅地金と共にいったん和賀江島から鎌倉に入って、撰銭や改鋳を受けて、関東を中心に使われていました。南宋を介して、海外との通商の窓口が、北条家であったのです。北条家は、源平合戦後の西国統治にあたって、彦島を所領として、「鎌倉水軍衆」を派遣して根拠地として、西国の抑えとしていたのです。奥州征伐後は、十三湊もまた「鎌倉水軍」の根拠地となり、廻船航路の安定から日ノ本沿岸交易をも、鎌倉幕府の財源となっていったのです。
鎌倉幕府の権限は、関東を中心とした地方政権から、源平合戦や承久の乱などを経て、徐々に全国政権へと拡大していった組織であった。全国組織に拡大する中で、鎌倉との距離が問題になり、地域に探題を設置することで対応を図っていた。
源平合戦と承久の乱の後、京洛を中心として、探題が設置され、西国の地頭を統括する地位となり、地方行政の権限が集中していった。これは、御家人の土地争いを裁くために必要な権限を持つために、征夷大将軍という幕府を開く地位を必要とした鎌倉幕府の小型版ということになる。
探題の下には、奉行衆と呼ばれる地域の有力御家人があり、鎌倉幕府の評定衆と同じような権限を保有していた。元との国際関係が緊張する中で、幕府は鎮西探題を大宰府に派遣して、九州の御家人を束ねる権限を与えた。元寇後に奥州征伐が実施され、十三湊に奥州探題が設置され、奥州の権限が集中していったのである。
「悪党」征伐は、守護の仕事であったが、国境の枠内で収まらない「悪党」に対応するため、探題による派遣軍が、征伐部隊の中心となった。しかしながら、「悪党」の勢力が拡大すると、徐々に探題による派遣軍も手を焼くようになり、幕府から軍が派遣されることも多かったのである。
探題は、本来は臨時職であり、源平期に源範頼が鎮西将軍に任じられ、後に六波羅探題として常設された。九州大宰府に鎮西探題が設置されたのは、対外戦争への対応からであり、鎮西将軍の臨時職が常設化した形となった。鎮西探題の権限は、九州全域に及び、幕府と同等の権限を保有する組織となっていた。鎮西探題として九州の御家人衆を纏めた和田泰盛は、元寇を博多で撃退し、海上に逃げた高麗・元連合軍を鎌倉から派遣された北条貞時率いる彦島水軍衆を中心とし、松浦や山鹿といった水軍衆が撃破したのである。
元寇以降、九州の水軍衆は「外ツ國勝手次第」の免状を受けて、半島から大陸を暴れる倭寇となった。九州の水軍は、彦島の「鎌倉水軍」に率いられた場合は、公的な水軍であったが、九州近海や瀬戸内海の廻船航路は、各地域の水軍衆の権限であり、国内に対しては、収奪行為は認められず、「鎌倉水軍」の征伐対象であったが、「外ツ國勝手次第」の下で、海外に対しては好き勝手に行動する海賊でもあった。
奥州探題は、奥州征伐後の蝦夷から奥州にかけての治安維持が目的であったので、常設職として設置され、十三湊に探題府が設けられた。特に、蝦夷による大陸での収奪行為は、元を刺激するモノであり、鎌倉幕府としては許容できるモノではなかった。蝦夷の部族に対する武力介入についても、鎌倉幕府の奥州探題を設置した目的であった。蝦夷の部族に対しては、水軍衆での対応となり、鎌倉水軍が十三湊に派遣されて、対応する結果となった。
水軍については、九州では「外ツ國勝手次第」となり、蝦夷に対しては「鎌倉水軍」の征伐対象となったのである。これは、正面戦闘で、元や高麗軍を撃破できる九州の水軍衆と異なり、大陸との往来が簡単な樺太では、海が荒れて航海が困難な冬季に南下する元軍の相手は、蝦夷の諸部族ができず敗北を重ねるため、蝦夷の部族が北に移動する夏季に、十三湊の「鎌倉水軍」が蝦夷の部族を征伐するという流れになったのである。
西の九州では、半島や大陸への略奪戦闘を実行して、収奪を繰り返したため、港を焼かれ収奪を受けた高麗は国力が疲弊し、元軍の遠征は非常に難しい状況に追い込まれていった。
九州地域への宋国からの亡命者増加は、そのまま日本と元の関係を悪化させる結果となり、国交の修好は困難になっていったのです。元は、幾度か遠征を企図するものの、実行するまでには至らず、皇帝フビライが亡くなると、後継争いから徐々に国力を低下させていって、日本に遠征することはできませんでした。
九州および奥州に設置された、「異国警固番役」は、非常に金がかかる奉公であり、財政状況が悪化していた御家人にとっては、困窮を深める結果になったのでした。北条家は、将軍家が大陸交易が無くなって、収益が低下したのと違い、沿岸交易の権益を確保し、瀬戸内海を含めた廻船交易の収益が徐々に増加していったため、潤沢な財源が得られるようになりました。
困窮する御家人衆に対して、有利に立った北条家は、安達や比企といった有力な御家人衆を傘下に引き入れて、評定衆を統括するようになっていきます。特に、収奪的な要素が強かった奥州征伐は、御家人衆に対して新領を給与することもでき、幕府体制の再建を図ります。幕府財政は、悪化の一途を辿っていましたが、支配体制は、北条家を評定衆筆頭として君臨することで、強化されていったのです。
しかしながら、北条家の動きに対しては、反発する動きも生まれます。侍所を仕切っていた和田家は、異国警護番役で鎮西探題となり、元・高麗連合軍撃破で武功を上げた家柄でもあり、評議衆の三浦家とも縁戚であり、関東に広大な所領を持つ有力御家人の筆頭でもありました。
外ツ國の元から外征圧力が低下するにつれて、国内の軋轢が表面化していきます。畿内では、「悪党」が跳梁跋扈して、鎮定しても新たな「悪党」が生まれるという、非常に厄介な状況となっていました。京洛の貴族は、地頭の横領によって、徐々に遠国の荘園を失い、御家人よりも困窮を極めていたのです。
気位は高く、お金の無い京洛の貴族は、集まっては不平不満を言い募るようになったのです。後醍醐陛下は、こういった状況を鑑みて、倒幕の動きを始めるのです。
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