水素の随筆

水素

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ハリネズミ

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「ハリネズミ引き取ってくれない?」会社の同僚に言われ1度は断ったはずの話。
僕の部屋には、1匹のハリネズミ。いつの間にか、そういつの間にかだ。
その同僚は2ヶ月前に会社を辞めた。なんでもバックパッカーとして世界を回るためだったらしい。

業務時間の中ではとても処理しきれなかった仕事を家に持ち込みパソコンを打ちながら、ハリネズミが眠る小さな小屋を見た。いつだって静かなものだ。
部屋に効かせている空調の方がよっぽど耳につく。
ハリネズミが僕の部屋に来てから姿を表すのはいつだって深夜にトイレへと起きてしまったときか、眠れず布団の上で天井を眺めながら自分という人間とか、その自堕落な人間のこれからについて考えを巡らせている時だ。
大抵は堂々巡り。人間の思考はその人間が持つ語彙と習慣的思考の中を何かの惑星みたいに廻り廻っているだけだ。隕石が衝突するか、引力が変化して近くの星にでもぶつからない限りは、永遠と同じところをグルグルとしているだけ。まるで犬の尻尾のようだ。

ハリネズミが小屋から出てくるとき、床材を踏む微かな音が聞こえる。掘れもしないのに何かを掘る音がして、僕はいつも行動のついでにそちらを見やる。

長い鼻先、背中のハリ。それだけ。特に何も思わなかった。餌をあげ、糞を取り、ハリネズミは眠る。人間と異なることなんてどこにもなかった。

ある日、寝支度を整えているときチャイムが鳴る。僕は誰かが決めたセリフをなぞるように
「こんな時間に誰だ……」とボヤきインターホンを除くとそこには見覚えのある顔が浮かんでいた。とても良いとは思えない画質。背景には眠らぬ街のネオンが汚い染みみたいに反射していた。

「何か飲む?」
僕はたまに才能の欠片もない小説家被れの人間が僕にセリフをあてているのではないか、と疑ってしまうほど、当たり障りのないことを言ってしまう。
大抵の人間の裏にはその物語を考えた下らない人間の思惑によって自動的にセリフを読み上げているだけなのではないだろうか?そういう愚かな集合体がつまり、人間というわけ。

「なんでもいい」

僕は今日はもう開けないと思っていた冷蔵庫をあけ、麦茶を運んだ。

「なにか飼ってるんだね、あの君が」

「はい麦茶しかなかった、というのは嘘であとはビールしかなかった」

「私ビールがよかったな」

「ビールは1つしかなかったんだよ」

「そして麦茶ってペットボトルのね、普通にグラスで出てくるかと思った」
それはどの物語の普通なんだろう、とぼんやり思った。

「それで何を飼ってるの?」
僕は小屋を眺めた。女の声が少し大きくて気になったのだ。ハリネズミは大きな音が嫌いで、その発信源が人間だった場合、敵だと認識するらしい。
もし仮に小屋で眠るハリネズミが彼女を敵だと認識しているなら、僕は頼もしいと思うだろう。

僕にとってのこの女も敵に等しい。

「ハリネズミ」

「味気ない返答」

「もう寝るところだったんだよ、それで何の用事?」

「ねぇハリネズミってずっと小屋にいるわけ?出てこないの?見てみたい、かわいいんでしょ?」

「ハリネズミは人間に懐くわけじゃないんだ」

「つまらない生き物ね、君みたい」

こういう彼女の悪気のない嫌味を懐かしく思う自分がいた。
もしかしたら僕も人の事を言えたものではないが
彼女には人間とは異なる神経があるらしい。


「気、悪くした?ごめんね、君相手だとどうとでも言えちゃうのよね」


空調、ハリネズミが小屋の中で動く音、外から差し込む救急車のサイレン。
サイレンがなっている。


「最近は嫌ね、有名人が亡くなると毎日ずっとそのニュースばかり、バカの1つ覚えみたい、きっとニュース番組に携わる人間の知能は低いのよね」

「そうかもしれないね」

「それに殺人事件が起こっても、警察が犯人の動機を調べてるってそれっきりよ、それで?その動機はいつ発表されるのかな、って思う、テレビに出ている人間の半分は愚かね」


「そうかもしれないね」

彼女が黙った。必然的に部屋には沈黙が降りる。
彼女の表情が一抹の翳りを見せ僕を睨む。

「私、君にとって今迷惑?」

「極めてね、出来ればその半分まで飲んだペットボトルごと部屋から出ていってほしい」


「よく言ったね」

彼女は笑う。僕に近づいてキスをした。
僕は避けなかった。そのキスにあの頃ほど感情が動かなくなっていることが寂しく、同時に嬉しかった。
無感動に1つの動作を見ていた。
やっぱり物語みたいだな。こんな下手でありふれた動き方を巧みにやってのける彼女はフィクション。
君のその動作だってテレビに写ったら君は自分をバカっぽいと思うだろう。

「もう1回する?」

僕は首を縦にも横にもふらず、彼女が飲みかけの蓋の閉まっていないペットボトルを眺めた。汗をかいている。床についた僕の手に重ねた彼女の手も微かに汗をかいていた。
彼女は僕の首筋に3度軽いキスをして、また唇へと上がってくる。あの頃ほど艶のない唇に、化粧荒れした肌が月夜に暴かれている。

きっと僕もこの夜に透かされている。


「やっぱり帰る」
彼女は脱ぎかけた服を着直し、ペットボトルに残った麦茶を飲み干し立ち上がった。

その時、餌を求めてハリネズミが小屋から出てきた。のっそりと、何かを警戒するように。

「超かわいいね」

彼女はハリネズミに手を伸ばす。
しゅっ!しゅっ!と息を漏らし針の山になるハリネズミ。
これだけ怒ったところを僕は見たことがない。

「やっぱり可愛くない、君みたいに退屈な生き物だよ、絶滅してしまえばいいのにね、君も同じく」

「そうかもしれない」

「本当に帰る、二度とこない」

「うん、さようなら」

「さようなら、人殺しさん」

呪われろ、という一言を残して彼女は僕の家から消えた。消滅、消散。
月の光が、窓辺の何年も座っていない椅子を照らす。かつて彼女の恋人がこの椅子を気に入ってずっと座っていた。

そろそろ捨てなくてはな。

僕が殺してしまった。
彼女はおかしくなった。
そんなおかしくなった彼女を何度か抱いた。
彼女が望んだことだ。僕の童貞は初恋の人に捧げることができた、という皮肉。


ハリネズミが餌を食べている。
機嫌は直ったらしい。
僕は手を伸ばした。
一瞬警戒した素振りを見せるも、すぐに関心をなくし自分の生命を繋ぎ止めるために、餌入れに顔を入れて、なんの躊躇いもなく食べている。


食べ終わると、何もかも下らなかったというように、歩きだし小屋に戻ろうとする。
その前に僕の手の方へと近づいてきて匂いを嗅いだ。
そして噛み付いてきた。痛くはなかった。
手のひらにその小さな足を置いて登ってきた。

そんな力がある生物だとは思わなかった。
僕はそのまま持ち上げ自分の膝にのせた。

頬と腹を撫でた。想像以上に柔らかい。肉だ。
曇の中に逃れたはずの月が僕の膝を照らす。
その中に収まるハリネズミのハリが細かく月に反射して綺麗だった。
透き通っている。

僕は初めてハリネズミをかわいいと思った。
僕にハリネズミを押し付けて消えたバックパッカーは今、世界のどこにいるのだろう。

彼女はもう2度と僕の前に姿を表さないだろう……

月が沈んで朝が来る。
ハリネズミの頬を撫でる。

遠くでサイレンがなっている。
どうやらこちらに、近づいてくるようだ。
少しずつ、少しずつ……
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