Cのようには、うたえない。

水素

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僕ら、ホテルを出ました。

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「きっとよ……」
 そんな彼女の声に僕は返事をしなかった。また会えるかどうか、僕にはわからない。きっと彼女だってそんな先のことは考えていないだろう。

 彼女から黒を基調とした名刺をもらったけれど、すぐに胸ポケットにしまった。しまう瞬間、ピンク色で名前らしい文字が書いてあるのが確認できたが、この場ですぐに彼女の名前が必要になるとは思えなかった。


 彼女はもう1度言った。

「またね、きっとよ」
 
 彼女は約束を求めているわけでも、思い出を求めているわけでもなく、ただ安っぽい言葉を待っている。
それは未来にも過去にもそして現在にさえも繋がらず灰色に、鈍く、輝いて、すぐに沈んで、もう2度と息を吹き返さない言葉。

つまり、とっくに死んでいる言葉。
だから僕は返事をしなかった。

 
 もしかしたら女って生き物は、いつだって死んだ言葉たちを待っているのかもしれない。一体、なんのために?

 僕はそのまま彼女の瞳を3秒だけ見つめてから背中を向けて歩き出す。

 もう夜は白け始めて遠くの空がかすかに光っている。埃っぽい大気が少しだけ気に障ったけれど、のがれられないと思えばすぐに諦めがつく。おそらく唯一僕の長所だろう。

 それから15分ほど歩いた。裏路地から大通りに出て、息をひそめる公園をショートカット。公園の中心に小さな時計台がボンヤリとしていたので、時間を確認した。

 大丈夫、まだ余裕だ。
ただゆっくり、タバコを吸えるほど時間の機嫌はよろしくない。

 公園を抜けて3つくらい信号も、その付近で眠る「何か」も無視して横断歩道を渡った。

 薄暗い明かりの中をまるで深海魚のように漂うタクシーが数台見えた。
顔色の悪い月が空で揺れている。

アーケードに入って、目的の店の前で立ち止まる。
シャッターが閉まっていて、張り紙が一枚。

『移動しました』

 移動先が書いていない気の利いた張り紙に僕は吹き出してしまった。これは何度見ても可笑しい。

 そして4回ノックした。シャッターが僕を焦らすようにゆっくりと上っていく。下からは青い光が漏れてくる。

どうやら、起きていたようだ。

 半分だけ開くと、中から低い声が聞こえた。

 「さっさと入れ」

 もしかしたら本当に寝ていたのかもしれない。たった今まで。

 僕は彼の期待にこたえるよう、身を屈めて中に入った。
 不機嫌にシャッターが落ちる。
その音で目が覚めた「何か」が複数いるのではないかと思えるほど。

「寝ていた?」
 僕は尋ねた。おそらく野暮だ。

 「いや……」
 後ろ髪を掻きながら欠伸をしている。
 「それより」彼は灰皿を事務机に置くと、退屈そうに不安そうにタバコを咥えた。
 
 「それより、どうだった、女は」

「どうだった、というのは?」

 「つまりだな、本物の人間みたいだったか、それとも……」

 僕もタバコを吸おうと思った。
タバコの箱と同じく胸ポケットに入れていた名刺が床に落ちたけれど、吸い終わるまで待ってもらう。

「なぁ、どうだったよ?」

 彼の質問にどう答えようか考えているとき、彼は僕が待たせている名刺を拾って、ぶっきらぼうに何かを読み上げだした。
名前だろうか?うまく聞き取れない。

 「むかし、ああいった女性と会ったことがある気がしたよ」

 「なるほどな、わかった、俺もお前と同じ感想だ」

 「僕と同じ女性だったってこと?」

 「そりゃ、違うヤツに決まっているさ、何人も同じ女がいたら困るだろう?お前とは別な女を紹介されたよ」

 どうして困るのか考えてみた。もしかしたら同じであると、自分という概念を維持できなくなるのかもしれない。それなら僕はきっと気が楽になるのに。

 ふと焦点を彼にあてると、彼は毛を刈られた間抜けな羊みたいな顔で僕を見ている。

 「なに?」

 「クローンか」
 何かを吐き出すような言い方だ。

 「僕?」

 「違う違う、あの女たち、いやこの街か、クローンで回る街だ」

 「僕らもクローンかもしれない」

 「俺たちはお袋の腹から雷みたいな叫び声と共に出てきたんだ、神様の次に神聖な存在だ、間違いない」

 彼は目を細めてから言葉を続けた。
 片手に持ったタバコの煙が目に入ったのかもしれない。

 「だから俺たちはこの街に人間として、仕事として派遣された、違うか?」

 「君の言う通りだ」つまり、それを僕に確認したいほど、動揺しているのか。

 彼は疲弊した表情を浮かべ、冷蔵庫から瓶ビールを持ってきた。どうみてもあまり冷えていなそうだ。
 それを慌てた素振りであおる。

 彼は人間。僕も人間。先ほどの彼女はクローン。
 彼は混乱しているようだが、僕には例え僕が、彼が、彼女がクローンであってもそれは小さな違いでしかないと思う。

 科学的なことはよくわからないが、ビニールハウスで人の手の中で育った植物か、人気のない山に管理された植物か、たったそれだけの違い。

 僕らはあらゆる物に監視されながら生きている。それが生物という前提だ。


 「そういえば、名前を聞いていいかな?」

 「俺の?もう4回は言った気がするけどな、仕事仲間の名前を覚えても損はないぞ」

 「得はあるの?」

 「今の所ないな、ここにもう1人派遣されるまで覚えないつもりか?まぁいい、自分の名前に飽きるまでは教えてやるよ」

彼が傾けた瓶が青い光に反射した。その瞬間全てが気のふれたものに見えた。
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