Cのようには、うたえない。

水素

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屋台の連なりは、虚ろな夢か、現実か。(前)

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 靴紐を結び直し終えると、彼女の背中は人混みに溶けていくところだった。人が僕を避けていく。食べ物と香水と汗が混じった匂いが大気に充満しているのを感じた。
川の中で佇む岩はこんな気持ちかもしれない。漠然とそう感じる。

尚も彼女は人混みに馴染んでいく。
他人になっていくみたいだ、と感じたけれど、
僕らは他人だった。この場にいる人たちと比べれば
この場にいる人たちとは刹那的にすれ違うが
彼女とはもう少しだけ長くゆっくりすれ違っていった。という違いだけだ。
すぐに還元される感覚に違いはない。

振り返りもしない素敵な彼女の名前を呼ばないと、僕らはここで離散する。それも悪くない。
ただ下手な映画みたいに、最後に彼女の名前を叫んでみても面白いかもしれない。
驚く人混み、気分はモーゼ。
僕と僕に呼び止められた君だけが、こんな渦のなかで屹立していて、まるで初めて呼吸したかのように感動する。

名前が必要なのはこんな時だな、何かの締めくくりに、相応しいのだ。


誰もが軽そうな服を身に纏い、よくわからない言葉で賑やかに歩いていく。
そういえば、今朝、名前を聞こうとしたのだ。僕にとっては進歩だろうか。

 「着替えてくる」と微笑む彼女をベッドの中から見ていた。隣には君の形がまだ残っていて、少し窪んでいる。僕はそこに手を置く。気持ちの悪い温もりだった。人間がいたというその瞬間がもはや信じられなくなるくらい。

着替えてくるとバスルームに消えていった彼女。
シャワーの音が聞こえる。シャワーが止まる。牧歌的な鼻歌。
またシャワーが柔らかく、細く演出される。それを30分くらい繰り返してから彼女はでてきた。

その間僕は彼女の濡れた髪と、そこかしらから立ち上がる湯気を想像していた。

その瞬間彼女は何を考えていたのか。
ずっと遠くにある願望だろうか、
それとも脚色された過去を空想していたのだろうか。
おそらく、彼女の思考は現在ではないのだろうと思った。
それは僕がそうだからだろうか。

現在を認識するって、濃霧に包まれた中車を走らせるくらい掴みどころがないと思う。
だから、僕はいつも現在を考えず、少なくとも過去は思い出せなくて、未来なんて思うだけで頭痛がする。
何かを守るためのセキュリティが働いているのかもしれない。


「お待たせ」
「出てこれなくなったのかと思ったよ」
「え、どこから?」
「バスルーム」
彼女がタオルで頭を撫でながら、一瞬困惑した顔で笑ったのがわかった。

「あぁ、変な人、もし出られなかったら呑気に鼻歌なんて歌ってられないでしょう」

そこで、名前を聞こうと思ったけれど、彼女が濡れたタオルをソファに投げて、僕の隣に座ったところでそんな気持ちは消散した。
なんでもそうだ、まずは気持ちが消えて、次に言葉が縮小して、
最終的に伝達しあうことも表現することもなくなる。
おそらく、彼女の微笑みよりも早く失われる。

「ねぇ、祭りに行きましょう?お腹減っちゃった」


そして今に至る。
連なる屋台が巣で、この人混みが盲目的に行進する蟻のようだ。
彼女はグングンと歩いていく。
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