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第3章 日本へ、帰る

3.望みを叶える、代償

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 ミーシャが言った。

「信じて、くださったのですね。嬉しいです」

 窓は開いた。

 鍵が開いていたから。

 バルコニーへ出ると、柵の向こう側にミーシャがいて思わず、声をあげそうになってしまった。

 だって、宙に浮いていたから。

「しー……」

 ミーシャが人差し指を立てて、私が声をあげるのを制する。

「お静かに」

 そう言うミーシャに、私は頷いて答える。

「では、参りましょうか」

 ミーシャが右手を差し出して。

 私は、その手をとった。

 くすりとミーシャは笑う。

「しっかり、掴まっていてください」

 ぎゅっと握られた手。

 ぐいとミーシャに引っ張られて、その胸に抱き寄せらる。

 気がついたときにはすでに、私の身体は宙に浮くミーシャの腕の中にいた。

「下には見張りがいるので、このまま上から行きます。決して私から手を放さないように。いいですね?」

「……はい」

 しぼりだすように声を出して。

 自分が宙へ浮いているなんて、信じられない。

 ミーシャに掴まってはいるけれど……。

 ミーシャの身体は、ふわふわとバルコニーを離れて、それにつられて私の身体もミーシャと一緒にバルコニーから離れる。

 まるで、空を飛んでいるみたい。

 下を見ると、ぽつりぽつりと赤い光が動き回っているのが見える。

 見回りの人が持っている松明だと思う。

 かなり小さく見えているような気がするけど。

 もしかして、相当高いところにいるのではないだろうか。

 別に、高所恐怖症なわけではないけれど……。

 この手を放したら、どうなるんだろうなんて考えてしまう。

「放しても構いませんが、落ちますよ?」

「え……?」

 ミーシャの言葉に、顔を見上げるといつも通り笑っている。

 私の両手は必至でミーシャに掴まっているけれど、ミーシャの手は私の身体を支えるために軽く添えられているだけで。

 私がこの手を放したら本当に、落ちてしまうかもしれない……。

「は、放しません」

 ぎゅっと、両手に力を込める。

「賢明な判断です」

 くすくすと、ミーシャは笑う。

「下を見るよりも、上を見上げる方をお勧めしますよ。今夜は月が綺麗です」

 ミーシャが見上げる空。

 その視線を追うと、そこには綺麗な満月。

 いつもより、月を近くに感じる。

「気に入っていただけましたか?」

「きれい、です……」

 落ちる恐怖を忘れるくらいには。

「それはよかった。ですが、そろそろ下へ降ります。構いませんか?」

「はい」

 返事をすると、ふわりふわりゆっくりと目線が下がっていく。

 月が遠くなって。

 地面が近づいてくる。

 やっぱり、というべきか。

 かなり高いところを浮いていたのだと、地面までの距離でわかる。

 そして、降り立ったその場所は。

 なにか大きな、石でできた建物。

 少し、怖いと感じる建物の前。

 辺りに人は1人もいなくて、無人であるようなこの空気が恐ろしさを増しているように思う。

「さあ、参りましょう」

「え……」

 ここに、入るの……?

 ミーシャは、ただ微笑んでいた。

 家に帰してくれると言ったミーシャ。

 だけど、私が帰ることとこの建物に入ることとどういう繋がりがあるのだろう。

 帰るために、どうしてここに入らなければならないのだろう……。

「どうか、しましたか?」

 動こうとしない私に、不審に思ったのかミーシャが聞いてきた。

「ここに、入るんですか……?」

 それは少し、怖いような気もして……。

 まるで、遊園地にあるお化け屋敷を目の前にたじろいでいるような、そんな気分。

「帰りたいのでしょう?」

 ミーシャは言う。

 その口ぶりで、帰るためにはこの中に入らなければならないのだと思い知らされる。

「やめにしますか?」

「入りますっ」

 怖いけど。

 入らないと、帰れないと言うのなら。

 入るしか、ない。

 中に入ると、やっぱりそこは少し不気味なところで……。

 長く続く通路は暗くて、冷たい。

 ミーシャが放つ光だけが頼りで、本当にこのまま進んで行って私はちゃんと帰れるのだろうか……。

 不安になる。

「怖いですか?」

 ミーシャに聞かれる。

「いつもは幾人か人がいて、明かりもあるのですが今日は人払いをしましたからね。誰もいない祭殿というのは少し寂しい気もしますね」

 寂しい。

 ミーシャは言った。

 でも、この暗さと冷たさは私にとっては怖い代物だ。

「少し、話をしましょうか」

「話……?」

 なにを、突然なんて思うけど。

 この暗闇を、沈黙して歩くよりは。

 気が紛れるかもしれないと話を聞くことにする。

「あなたがこの世界へ来たときのことを覚えていらっしゃいますか?」

 私がこの世界に来た日……。

 あの日は私の誕生日で、知らないうちに勝手に連れて来られて、気がつけば薄暗い場所で、たくさんの人に囲まれていた。

 そこには、ミーシャもいた。

「私は、昨日のことのように目に焼きついています」

 ミーシャの言葉を、私は黙って聞く。

「16年です。異世界、つまりあなたがここではない別の世界、地球と呼ばれる星の日本という国に生まれてから16年、私はずっとあなたを見守り続けていました」

 え……。

 聞いて少し後悔した。

 私は16年間、ずっとのぞきをされていたらしい……。

「ですが、私にできることはただ見ていることだけ。笑うあなたと喜びを分かち合うことも、悲しむあなたの涙を拭くことも私にはできない。何枚ものガラスを隔てた向こう側にいるあなた。手の届かないところにいるあなたを見続けるうちに、私の心はあなたに惹かれていった」

 暗い通路はまだ続く。

「そしてやっと、あなたに触れられる日がきた。一方的に私が見るだけでなく、あなたも私を見てくれる。あの日、私を見てくれたあなたはまるで、女神のようでした」

 どうして、そんなことを今話すのだろう。

 どうして、今更私を帰してくれるなんて……。

「さあ、着きましたよ」

 そこには、見覚えがある。

 明かりはなくて、記憶にあるものよりも暗いけど。

 ここは、私がこの世界に来たときに最初にいた場所だ。

「そこに、立ってください」

 ミーシャが示すのは、部屋の中央。

 床になにか、文字が書かれているようだけど、暗くてよく見えない。

 見えたとしても、私には読めないのだろうけど。

「あの……」

 1つだけ、聞いておきたいことがある。

「なんです?」

 ミーシャは、私と離れてどこかへ向かっている。

 部屋の端を、壁づたいに辿っているのかゆっくり歩く。

「どうして、私を帰してくれるんですか?」

 あんな話までしておいて。

『恋をしてしまったようです』

『まるで、女神のようでした』

 ミーシャの言葉が頭の中でぐるぐる回る。

「言ったでしょう? 私はあなたに恋をしてしまったんです」

 キラリ、とミーシャの手元でなにかが光った気がした。

「この世界にいる限り、あなたは陛下の運命の相手で私と結ばれることは決してありません。ですが」

 ミーシャが、こっちに振り向いた。

 1歩、1歩、近づいて来る。

「私があなたを、元の世界に帰してさしあげれば、あなたは私のことを忘れずにいてくださるでしょう?」

 ナイフ。

 ミーシャの手に、握られたもの。

 どうして、今、そんなものを……。

「なに、するの……?」

 くすりと、ミーシャは笑う。

「怯えないでください。これはあなたを傷つけるためのものではありませんから」

 ミーシャの笑みに、恐ろしさを覚える。

「……じゃあ、なんの、ために……」

 ミーシャは笑みを崩さない。

「こうするためですよ」

 ミーシャが、自分の腕を、自分の手で。

 切った。

 赤い血が。

 ミーシャの白い衣服が、赤く染まっていく。

「なんで……」

 どうしてそんなこと……。

 なんのために。

 どうして……。

 わけが、わからない……。

「考えてもみてください」

 ミーシャは穏やかに、話し始める。

「あなたを元の世界へ、異世界へ帰そうというのですよ? 国境をまたぐのとは違います。決して交わることのないはずの世界に、人1人渡らせようというのです。それなりの代償が、必要になるとは思いませんか?」

 代償。

 それはつまり。

 その血が必要だということ?

 それとも、その命が?

 ミーシャは穏やかに笑いながら、また自分の腕を傷つける。

「こうして私の血を使って」

 新たにできた傷口が、ミーシャの白い衣服を赤く染めて、その血が床へとしたたり落ちる。

「私の命を使って」

 また、ミーシャは自分の身体に新しい傷をつくる。

「私が私の血に染まるほど、あなたは私の姿を目に焼きつける。逸らすことは許しません。しっかりとその目に焼きつけて、一生、私を忘れないでいてください」

 私を見た、その目が。

 笑みを見せる、その表情が。

 とても恐ろしいと思った。

 狂気すらかんじるその姿に、目を逸らしたいと思うのに、逸らせない。

「さあ、次はどこに傷をつけましょう」

 ミーシャは笑う。

 楽しそうに。

 嬉しそうに。

 自分の身体を傷つける。

 どうして、私はここにいるのだろう。

 どうして、こうなってしまったのだろう。

 ミーシャが血に染まっていくのは。

 自分を傷つけているのは、私のせいだ。

 私が帰るための代償が、誰かを犠牲にすることならば。

 私は……。

「……やめて、ください」

 やっとのことで、声をしぼりだす。

 こんな光景、見たくない。

 気が、狂ってしまいそう。

「なぜです?」

 ピタリと、ミーシャの動きが止まった。

 でも、その表情は変わらず笑みを浮かべていて恐怖する。

「あなたはあんなにも、帰りたいと願っていたではありませんか」

 たしかに、帰りたいと言ったけど。

「あんなにも強く、故郷を想っていたではありませんか」

 お父さんとお母さんのところに帰りたいと、思っているけど。

「どうして、そんな顔をなさるんですか?」

 そう聞いてくるミーシャに、私は答えることができなくて……。

 きっと今、私はひどい顔をしているのだろう。

「帰れるのですよ? あんなにも乞い焦がれていた世界へ。笑ってください。あなたの望みが叶うのだから」

 また1つ。

 ミーシャが傷を増やす。

「ああ、でも」

 呟いて。

 ふと、ミーシャが虚空を見つめる。

「その恐怖に凍りつく表情も美しい。あなたのその表情は、私にしか見せていない顔ですね。陛下も知らない顔だ」

 恍惚とした表情を見せるミーシャに、さらに恐怖心が煽られる。

「そうやって、私に恐怖するほど、あなたの心には私が焼きついていく。なんて心地いい感覚でしょう」

 もう、ミーシャの衣服は血で赤く染まりきっている。

 ダラダラとしたたり落ちる血液が流れていく。

 流れて、不思議なほどスムーズになにか丸い円のような模様を形成していく。

 円の中心で、ミーシャは自分自身に傷をつけ続けて。

 こんなオカシナ空間にいるのに、しっかりと周りを観察できてしまっている私は。

 もう、どこかオカシクなってしまっているのかもしれない……。

 夢なら、早く覚めてほしい……。

「さあ、最後の仕上げです」

 ミーシャと、目が合う。

 血にまみれて、それでいて笑みを向けてくるミーシャ。

 その姿は、とても異様。

「どうぞ」

 そう言って、ミーシャはナイフの柄を私に向ける。

 血に染まる手と、ナイフ。

「このナイフで、私の胸を突いてください」

 え……。

 なにを……。

「あなたの手で。さあ」

 なにを言っているのか、理解できるまでに時間がかかった。

「ためらう必要などありません。これであなたは帰れるのです。私も、あなたの望みを叶えることができて嬉しいですよ」

 そっと、手を取られてナイフへと導かれる。

 血に染まるナイフの柄を握らされて、逃げられない。

「さあ」

 ゆっくりと、ナイフの切っ先がミーシャの胸へと向かっていく。

 イヤだ。

 イヤだ。

 イヤだ。

 イヤだと思うのに、ナイフを握らされた手に添えられたミーシャの手は、真っ直ぐにその胸へとナイフを向かわせる。

 あと、数センチで、届いてしまう……。

「……いや、です」

 声が、出た……。

 ピタリと、手が止まった。

「なぜです? せっかく、帰れるというのに」

 添えられた手は、放されない。

 たとえ、これで帰れるのだとしても。

「あなたの望みを叶えられるのならば、この命、投げ打っても構わないと、私が思っているのですよ?」

 たとえ、そうだったとしても。

「だれかの……だれかの命を奪ってまで、帰りたいとは思えません……」

 そこまでして帰りたいとは、思えない……。
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