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第5章 ノースジブル領の危機

53.二人だけの世界

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「喜んで」

 差し出された公爵様の手に自分の手を重ねた。思えば公爵様とは何度か手を重ねたことはあったがこんなにも触れ合うこと初めてに近かった。

 公爵様は私の手をしっかりと握ると静かにステップを踏み始めた。王都に居た頃、ヴェンガルデン公爵は踊りが下手だから舞踏会にも参加しないと噂が流れていたがそれは全くの嘘のようだ。

 公爵様は私に息を合わせてリードしてくれているのが全身から伝わってくる。比べるわけではないが、クリスと踊る際はどうしても彼に合わせないと美しく踊ることは出来なかった。男性と踊る時はそれが当たり前なのかもしれないと感じていたが、今日でその価値観は変わってしまった。

「アリス嬢はダンスがお上手ですね」

 不意に公爵様が自分を見てそう微笑むので頬が紅くなる。そんな風に急に微笑まれたらどんな令嬢も彼に想いを寄せてしまうだろう。

「リ…公爵様もとてもお上手です。」
「…今何か言いかけましたか?」

 公爵様は不思議そうな顔で私を見た。私は先ほど『リヒト様』と呼びそうになってしまったことを隠すように首を横に振った。

「何でもありません!どうか忘れて下さい」
「いえ、私の聞き間違いでなければ私の名前を呼ぼうとしてくれていましたか?」

 真剣な瞳が私を見つめていた。公爵様は私に聞く前からおそらく分かっていたのだろう。

「申し訳ありません。不躾でした。以後気をつけます」
「いえ…お互い婚約を結ぶことに同意したのですから名前を呼び合うのは当然のことでしょう。私のことはどうぞ『リヒト』とお呼び下さい」
「それは!」

 緊張のあまりに大きな声を出してしまった。私が公爵様の名前を呼ぶと思うと胸の鼓動が速くなる。公爵様は年上で雲の上の存在だと思っていたから尚更だ。

「是非呼んで下さい。貴方の声で私の名を聞きたい」

 公爵様は私の気持ちにも気付かずにいつもとは違う柔らかな微笑みを私に向けた。少し前から思っていたが、私はこの顔に弱いようだった。私は恐る恐る口を開いた。

「リ…リヒ…ト…様!」

 私はリヒト様の顔を見れずに下を向いた時だった。私の体は宙に浮かび上がっていた。

「あ、なにを!」
「折角の可愛らしい顔が見えないので」

 先ほどとは違った真剣な顔でリヒト様は私の顔を覗いていた。そんな状態が暫く続いた後、私は音を上げた。

「あの、リヒト様!もう恥ずかしいので下ろして欲しいです…」
「ああ、申し訳なかった」

 リヒト様は私を地上に降ろすと口を開いた。

「こんなにも嬉しいものなのですね。愛しい人から名前を呼ばれるというのは」

 満足気なリヒト様の顔を見ながら私はすかさず彼に向かって言い返した。

「リヒト…様もですよ」
「え?」
「リヒト様も私のことは『アリス』とお呼び下さい。ずっと『アリス嬢』では婚約者として嫌ですから」
「それは」
「…私も頑張ったのですから次はリヒト様の番です」
「そうですか」

 リヒト様は一つ咳払いをすると照れているのか横を向きながら「ア」と単音を発した。私はわざと背伸びをしてリヒト様の顔に自分の顔を近づけた。

「ちゃんと私を見て呼んで下さい」
「貴方って人は…」

 リヒト様はそう言うと私の背に手を回しそっと自分に近づけた。想像以上にリヒト様の顔が近くて自分で行ったことを後悔した。

「アリス」
「…リヒト様」

 お互いの名を呼び合うと私とリヒト様は暫くそのまま見つめ合っていた。誰もいないホールには二人だけしかおらず、世界にはまるで私達しか居ないのではという感覚にさえ陥る。

 思えばこの時間がとても幸せだったことは後になって私達は知るのだった。

 
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