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37.破棄賛成
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温泉小屋、と言っても石造りでけっこうしっかりした建物に見えた。
「こんなとこでも、そんなに音が漏れるかな?」
何気ない疑問を口にする。
「小窓みたいにいくつか穴が空いてんだよ。ウチの村にもあったけど、とにかく妹どもが遅くってさ。早く出ろって声かけたりしたもんだ」
少し懐かしむように教えてくれたダンは、今度はリリスのほうに視線を向けた。
「あんたまでこっちに来るのか?」
「あら、天使に性別はありませんわよ!」
そうは言われても、女性にしか見えないあの天使の姿を目にした以上、どうしても抵抗を感じる。
「リリスはルルビィたちのところに行っててくれ」
聖者様も気になるのか、そう告げる。
「1日に2回もマリスと離れろとおっしゃいますの?!」
悲鳴のような声を上げるリリスに、マリスが寄り添った。
「私もそうしてほしいよ。よく分からないけれど、リリスがこちら側に入ることに何か穏やかでない気持ちになるから」
「…そう言われますと、わたくしもマリスが女性側に行くとしたら何だかモヤモヤしますわ」
性別はないと言っているけど、本人たちもあまり自覚がないだけで見た目に近い気持ちがあるらしい。
「分かりましたわ。でも早く出てきてくださいませね!」
そう言いながら、名残惜しそうにゆっくりと建物の反対側へ飛んでいく。
ダンはリリスの姿が見えなくなるのも待たずに男性側の入り口に進み、「早く行きましょう!」と僕たちを急かす。
よほど以前の体験を繰り返したくないらしい。
入り口には石板が掛けられていて、家名が5つ連ねられている。
そしてその一番上には「お客様御一行」と、割り込むように小さく書かれていた。
「こういう小さいところじゃ、使う日が輪番になってんだよ。場所によって違うけど、ここは今日の利用者を石板に書いてるみてぇだな」
共同浴場に初めて入る僕に、ダンが説明してくれる。
その間じっと石板を見ていた聖者様は、置いてあった布と石筆でいきなり「お客様御一行」を「聖者一行」に書き換えた。
「そんなことしたら、昨日みたいになりますよ?」
後から来た人たちがこれを見たら、すぐに村に広まるだろう。
今日はリベルのように話を広める人もいなくて、静かに過ごせると思ったのに。
「東部は国境がないし、他国から来る人間はほとんど首都を通るだろう。首都は治癒魔法が使える高位聖職者が多いから防波堤になると思って、流行り病のときは後回しにしたんだよ。それで結局来ないままだったからな」
確かに東部は他の地域に比べれば、病の流行り始めは緩やかだったらしい。だけどそれも一度感染が広がってしまえば止めようがなくて、最終的には他の地域と大差のない状態になったそうだ。
「俺はすっかり治癒専門の聖者みたいな扱いになったが、本来なら病人の有無にかかわらず、なるべく広い地域を回って人々と多く接するべきなんだよ。司祭の気遣いはありがたいが、俺の名前が人寄せになるなら使うさ」
そして僕たちに向かって振り返る。
「ルルビィは休ませるから、人が集まりすぎたら手伝ってくれ」
僕とダンは、顔を見合わせてから頷く。
首都に近くなるほど人が多くなるから、ルルビィさんみたいに人だかりをさばけるように、この辺りで慣れておいたほうがいいだろう。
だけどそんな僕たちの考えは、いろいろと早計だった。
まず、爪先をお湯に入れようとしたぐらいの段階で、女性側のほうから人の気配がしたことだ。
僕は反射的に遮音魔法をかけた。
「遮音しましたから、早く出ましょう!」
慌てて言ったけど、聖者様もダンもそれを聞いてむしろ安心したような様子だ。
「ここまで来たんだから、せめて肩まで浸かってみろ」
「温泉なんて滅多に入れねぇんだから。どうせ女性陣は服を脱ぐのも遅いって」
女性は支度が遅い、という言葉を信じてこんなに早く来たはずだけど。
大人が4人入れるかどうかという広さの温泉は、聖者様たちに言わせれば「確かに狭い」らしい。
だけど初めて入る僕には十分広く感じて、とりあえず端の方から遠慮がちに足を入れてみた。
「熱くないですか?!」
2人を見ると、平気な顔ですでに半身を浸らせている。
「血流が良くなるってマリスが言ってただろう。体温より熱くて当然だ」
確かにそうだった。
そして多分、その言葉でサリアもすぐにルルビィさんを連れて来たんだろう。
「そんなに急がなくても、もう体の感覚は大丈夫だと思います…」
ルルビィさんの声がする。
やっぱりサリアが急かしたらしい。服を脱ぐのも予想より早かったみたいで、ダンが少し焦った様子を見せた。
「走れるくらいにならないと、大丈夫とは言えませんわよ!」
「そうですよ、まだやっと普通に歩ける程度じゃないですか」
リリスの声も聞こえる。どうせなら急がなくていいと引き留めてほしかった。
聖者様は焦るでもなくそれを聞いている。
直接ルルビィさんに体の状態を聞けずにいたから、気になるんだろうけど。
「これじゃ盗み聞きみたいですよ」
そう言う僕の肩を押さえるようにして、強引に深く浸からせてくる。
「まあ、お前は初めての温泉を満喫してろ」
盗み聞きは承知の上らしい。
さっきまで聖者の務めを真面目に語っていたのに、ルルビィさんのことになると道徳を踏み倒す勢いになる。
気まずい話にならないといいんだけどと思いながら、僕も諦めて体の力を抜いた。
最初は熱いと感じていたお湯も、こうして肩まで浸かってみると確かに気持ちがいい。
そうしているうちに、湯船に入る水音も聞こえてきた。
こっちの音は聞こえていないはずだから、ルルビィさんも僕たちがいることに気づいてないのかもしれない。
「…実は私、最初から婚約破棄には賛成だったんですよ」
温泉の気持ちよさに油断していたら、いきなりサリアが別の意味で気まずい話を持ち出してきた。
「婚約破棄したって、同じ相手とまた婚約できない決まりはないんです。大体、教会での正式な婚約式をするなんて、家同士の関係を確約させておきたい人たちくらいですから。今のルルビィさんたちに、そこまでの拘束力は必要ないでしょう」
これは、サリアが昨夜話すつもりだったことだ。
ルルビィさんも再婚約ができることは知らなかったらしい。
「そう…なんですか……」
少し驚いたような声だったけど、喜んでいるわけでもなさそうだった。
「私も父が恋愛結婚主義じゃなかったら、物心つく前に婚約者がいたかもしれません。でも上の兄だけはどうしても断れなかったらしくて、家の付き合いでの婚約をしたんです。相手は6歳違いで私と同い年。婚約は10歳のときでした。去年結婚して義姉になったんですけど…」
サリアはそこで、ため息をついた。
「私には理解できなかったんですよ。2、3回会っただけの相手と婚約式をしたときから、義姉がずっと兄を運命の相手みたいな目で見ていたのが。でも実際結婚してみたらやっぱり理想とは違ったんでしょうね。我が家は宝石よりも本を好むような家だし、家族の会話は時事問題や専門的な話ばかりで。義姉が話に入ってこれなくなっていたのは分かっていたんですが、私たちも話し出すと止まらなくて」
それは昨夜のサリアを見ていれば簡単に想像がつく。しかも家族そろってとなると、後から嫁いできた人に止められるわけもない。
「義姉はきっと婚約とか結婚に憧れていて、兄がその相手になったから、好意を向けるべき相手だと認識したんじゃないかと思ったんです。聖者様が気にかかっているのもそこなんでしょうけど。だから一度白紙に戻せるものなら戻して、時間をかけてルルビィさん自身の気持ちを確認するのも悪いことじゃないと思うんですよ」
婚約したのが9歳だったと知ったときのサリアが、なんだか冷ややか目をしていたのが分かる気がした。
当事者の聖者様がルルビィさんに話そうとするとあまり上手く表現できていなかったように思うけど、第三者で似たような状況を見ていたサリアが言うと、スッと頭に入ってくる。
「私は…」
ルルビィさんの声は元気のないままだったけど、はっきりとした口調で語りだした。
「こんなとこでも、そんなに音が漏れるかな?」
何気ない疑問を口にする。
「小窓みたいにいくつか穴が空いてんだよ。ウチの村にもあったけど、とにかく妹どもが遅くってさ。早く出ろって声かけたりしたもんだ」
少し懐かしむように教えてくれたダンは、今度はリリスのほうに視線を向けた。
「あんたまでこっちに来るのか?」
「あら、天使に性別はありませんわよ!」
そうは言われても、女性にしか見えないあの天使の姿を目にした以上、どうしても抵抗を感じる。
「リリスはルルビィたちのところに行っててくれ」
聖者様も気になるのか、そう告げる。
「1日に2回もマリスと離れろとおっしゃいますの?!」
悲鳴のような声を上げるリリスに、マリスが寄り添った。
「私もそうしてほしいよ。よく分からないけれど、リリスがこちら側に入ることに何か穏やかでない気持ちになるから」
「…そう言われますと、わたくしもマリスが女性側に行くとしたら何だかモヤモヤしますわ」
性別はないと言っているけど、本人たちもあまり自覚がないだけで見た目に近い気持ちがあるらしい。
「分かりましたわ。でも早く出てきてくださいませね!」
そう言いながら、名残惜しそうにゆっくりと建物の反対側へ飛んでいく。
ダンはリリスの姿が見えなくなるのも待たずに男性側の入り口に進み、「早く行きましょう!」と僕たちを急かす。
よほど以前の体験を繰り返したくないらしい。
入り口には石板が掛けられていて、家名が5つ連ねられている。
そしてその一番上には「お客様御一行」と、割り込むように小さく書かれていた。
「こういう小さいところじゃ、使う日が輪番になってんだよ。場所によって違うけど、ここは今日の利用者を石板に書いてるみてぇだな」
共同浴場に初めて入る僕に、ダンが説明してくれる。
その間じっと石板を見ていた聖者様は、置いてあった布と石筆でいきなり「お客様御一行」を「聖者一行」に書き換えた。
「そんなことしたら、昨日みたいになりますよ?」
後から来た人たちがこれを見たら、すぐに村に広まるだろう。
今日はリベルのように話を広める人もいなくて、静かに過ごせると思ったのに。
「東部は国境がないし、他国から来る人間はほとんど首都を通るだろう。首都は治癒魔法が使える高位聖職者が多いから防波堤になると思って、流行り病のときは後回しにしたんだよ。それで結局来ないままだったからな」
確かに東部は他の地域に比べれば、病の流行り始めは緩やかだったらしい。だけどそれも一度感染が広がってしまえば止めようがなくて、最終的には他の地域と大差のない状態になったそうだ。
「俺はすっかり治癒専門の聖者みたいな扱いになったが、本来なら病人の有無にかかわらず、なるべく広い地域を回って人々と多く接するべきなんだよ。司祭の気遣いはありがたいが、俺の名前が人寄せになるなら使うさ」
そして僕たちに向かって振り返る。
「ルルビィは休ませるから、人が集まりすぎたら手伝ってくれ」
僕とダンは、顔を見合わせてから頷く。
首都に近くなるほど人が多くなるから、ルルビィさんみたいに人だかりをさばけるように、この辺りで慣れておいたほうがいいだろう。
だけどそんな僕たちの考えは、いろいろと早計だった。
まず、爪先をお湯に入れようとしたぐらいの段階で、女性側のほうから人の気配がしたことだ。
僕は反射的に遮音魔法をかけた。
「遮音しましたから、早く出ましょう!」
慌てて言ったけど、聖者様もダンもそれを聞いてむしろ安心したような様子だ。
「ここまで来たんだから、せめて肩まで浸かってみろ」
「温泉なんて滅多に入れねぇんだから。どうせ女性陣は服を脱ぐのも遅いって」
女性は支度が遅い、という言葉を信じてこんなに早く来たはずだけど。
大人が4人入れるかどうかという広さの温泉は、聖者様たちに言わせれば「確かに狭い」らしい。
だけど初めて入る僕には十分広く感じて、とりあえず端の方から遠慮がちに足を入れてみた。
「熱くないですか?!」
2人を見ると、平気な顔ですでに半身を浸らせている。
「血流が良くなるってマリスが言ってただろう。体温より熱くて当然だ」
確かにそうだった。
そして多分、その言葉でサリアもすぐにルルビィさんを連れて来たんだろう。
「そんなに急がなくても、もう体の感覚は大丈夫だと思います…」
ルルビィさんの声がする。
やっぱりサリアが急かしたらしい。服を脱ぐのも予想より早かったみたいで、ダンが少し焦った様子を見せた。
「走れるくらいにならないと、大丈夫とは言えませんわよ!」
「そうですよ、まだやっと普通に歩ける程度じゃないですか」
リリスの声も聞こえる。どうせなら急がなくていいと引き留めてほしかった。
聖者様は焦るでもなくそれを聞いている。
直接ルルビィさんに体の状態を聞けずにいたから、気になるんだろうけど。
「これじゃ盗み聞きみたいですよ」
そう言う僕の肩を押さえるようにして、強引に深く浸からせてくる。
「まあ、お前は初めての温泉を満喫してろ」
盗み聞きは承知の上らしい。
さっきまで聖者の務めを真面目に語っていたのに、ルルビィさんのことになると道徳を踏み倒す勢いになる。
気まずい話にならないといいんだけどと思いながら、僕も諦めて体の力を抜いた。
最初は熱いと感じていたお湯も、こうして肩まで浸かってみると確かに気持ちがいい。
そうしているうちに、湯船に入る水音も聞こえてきた。
こっちの音は聞こえていないはずだから、ルルビィさんも僕たちがいることに気づいてないのかもしれない。
「…実は私、最初から婚約破棄には賛成だったんですよ」
温泉の気持ちよさに油断していたら、いきなりサリアが別の意味で気まずい話を持ち出してきた。
「婚約破棄したって、同じ相手とまた婚約できない決まりはないんです。大体、教会での正式な婚約式をするなんて、家同士の関係を確約させておきたい人たちくらいですから。今のルルビィさんたちに、そこまでの拘束力は必要ないでしょう」
これは、サリアが昨夜話すつもりだったことだ。
ルルビィさんも再婚約ができることは知らなかったらしい。
「そう…なんですか……」
少し驚いたような声だったけど、喜んでいるわけでもなさそうだった。
「私も父が恋愛結婚主義じゃなかったら、物心つく前に婚約者がいたかもしれません。でも上の兄だけはどうしても断れなかったらしくて、家の付き合いでの婚約をしたんです。相手は6歳違いで私と同い年。婚約は10歳のときでした。去年結婚して義姉になったんですけど…」
サリアはそこで、ため息をついた。
「私には理解できなかったんですよ。2、3回会っただけの相手と婚約式をしたときから、義姉がずっと兄を運命の相手みたいな目で見ていたのが。でも実際結婚してみたらやっぱり理想とは違ったんでしょうね。我が家は宝石よりも本を好むような家だし、家族の会話は時事問題や専門的な話ばかりで。義姉が話に入ってこれなくなっていたのは分かっていたんですが、私たちも話し出すと止まらなくて」
それは昨夜のサリアを見ていれば簡単に想像がつく。しかも家族そろってとなると、後から嫁いできた人に止められるわけもない。
「義姉はきっと婚約とか結婚に憧れていて、兄がその相手になったから、好意を向けるべき相手だと認識したんじゃないかと思ったんです。聖者様が気にかかっているのもそこなんでしょうけど。だから一度白紙に戻せるものなら戻して、時間をかけてルルビィさん自身の気持ちを確認するのも悪いことじゃないと思うんですよ」
婚約したのが9歳だったと知ったときのサリアが、なんだか冷ややか目をしていたのが分かる気がした。
当事者の聖者様がルルビィさんに話そうとするとあまり上手く表現できていなかったように思うけど、第三者で似たような状況を見ていたサリアが言うと、スッと頭に入ってくる。
「私は…」
ルルビィさんの声は元気のないままだったけど、はっきりとした口調で語りだした。
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