家に帰りたい狩りゲー転移

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5章

(69)海出旅

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 腹部に大きな穴を開けた女性が、力なく四肢を投げ出している。辛うじて胸元は上下し、その生存を証明していたものに、両目からは光が失われようとしていた。

 レオハニーが呆然とその姿を見下ろしていると、背後から足音が近づいてきた。

 振り返ることなく、気配の主人の名を呼ぶ。

「リョーホ……」
「遅くなりました。レオハニーさん」

 傷を見せてください、と言われ、ノロノロと振り返る。すると、血の通った手のひらがレオハニーの右頬に触れた。 流れ込んでくる青白い光は、この数年、目をかけていた愛しい弟子を連想させる。それがあまりにも眩しく感じられ、つい目を背けたくなった。

「……すまない。手間をかけさせる」
「いえ、俺のほうこそ、戦闘は任せっきりでしたから」

 治療に集中しているのか、リョーホの声は強張っていた。『雷光』の光が強まるにつれ、ゆっくりと皮膚が再生し、暖かな血潮が頭へ巡っていくのが分かる。

 その感覚に身を任せながら、レオハニーは半ば寝ぼけた思考で、ポツポツと内心を吐露した。

「私としたことが、覚悟を決めたつもりで、全く心構えがなっていなかった。私が躊躇ってさえいなければ、もっと早くに決着をつけられたはずなのに」

 話し終えると、見た目以上に重い鉄の箱を持ち上げたような重みが、ずっしりと胸の辺りにぶら下がった。迂闊に発した浅はかな言い訳は、取り消そうにも口の中に戻ってはくれない。惨めさと恥ずかしさで、一生口を開きたくないとさえ思えてきた。

 だが目の前の青年は決して笑わなかった。
 
「……家族って、そういうものな気がします。憎もうとしても心の底から嫌いになれない。だから余計に嫌になる。でも、頭の片隅で考えるのを止められないんです」
「ああ、その通りだ」

 レオハニーが拗らせ続けてきた愛憎は、ベートと初めて会った時から何百年も腹の底に居座っていた。その愛憎は抱えている本人ですら気付かぬほど腐敗し、結局レオハニーの望む結果をもたらしてはくれなかった。今となっては、自分が何を望んでいたのかすら曖昧だ。

 レオハニーは、閉じた左目を通して瞼の裏を見た。暗く赤みがかった景色は記憶にない母胎の中を彷彿とさせる。対して右目は、『雷光』の輝きすら完治できぬほど真っ暗だった。試しに右目を開けようとしたが、瞼は細かく震えるだけで本来の機能を失っていた。ダアトで修復するまでもなく、もう取り戻せないのだと悟った。

 レオハニーは左目を開き、今にも泣きそうな表情で治療を続けるリョーホを見下ろした。

「リョーホ。治療はもういい」
「すみません、もう少しだけ──」
「私の右目と右耳はもう戻らない。ダアトで溶かされた部位は、君の『雷光』でも治せない」

 はっきり無駄だと告げると、リョーホは弱々しく光を消した。ぱったりと下されたリョーホの手のひらが、白くなるほど強く握りしめられる。

「……そんな」
「気に病むことはない。これは私が自ら課した戒めだと思ってくれ」
「……分かりました」

 納得できない、と顔に書いてリョーホは下唇を噛み締める。まるで不愉快な指示を出された柴犬のようだ。

「本当に気にしなくていい。君がいなければ、私はまだ過去と向き合う勇気も持てなかったよ」

 さぁ、君の仕事が残っている。

 そう言って背中を押すと、青年の黒々とした両目に、磨き上げたばかりの刃物のような光が差した。



 ・・・───・・・



 赤く染まった太陽は、すでに水平線の向こうへと沈んでいる。橙色は西の裏へと追いやられ、星も見えない暗闇が静謐な空を満たしていた。

 俺はレオハニーに背を向け、ボロ雑巾のように水面を漂うベートを見下ろした。

「まだ生きてるのか?」
「自我データをダアトで破壊して、不老不死の力を奪った。手を下さずとも、もう長くはないだろう」

 目を伏せながら淡々と告げたレオハニーに、俺は軽く目を見開く。

 考えてみれば、無機物から生命を生み出せるダアトなら、自我データの破壊も不可能ではないだろう。自我データと魂は似たような存在なのだから。

 ただ、結局俺は、自我データと魂の違いを明確に区分できていなかった。俺を利用した浦敷博士の実験で、自我データから魂が誕生することは証明された。だが、そんな証明をせずとも、NoDたちには生まれながらに魂があるように思えたのだ。

 そして、目の前で死に絶えようとしているベートもまた、魂を燃やし尽くした後の人間にしか見えなかった。

  次に会った時、ベートには罵詈雑言を浴びせるつもりだった。だが、今までの狡猾さが影も形もない彼女を前にすると、形にしようとした言葉が次々と霧散していく。

 俺は諦めて深くため息をつき、ベートの側にしゃがみ込んだ。

「浦敷博士から聞いたよ。なんでお前、ゴモリー・リデルゴアに従ったんだ。どうして、博士たちを裏切ったんだ」

 長い、長い沈黙を置いて、掠れた声が唇の上を滑った。

「……裏切ったのは、博士のほうだよ」

 化粧のはげた一重の双眸が俺を見上げる。

「あたしたちずっと……現実世界で生きていけるって、信じてた。なのに、あたしたちの菌糸は、世界に受け入れられなかった。だから、仮想世界に逃げるって、博士が言い出したの。そんなの、約束と違うでしょ……」

 瞳の奥で燃え残った炭の黒が積もっている。禍々しい感情に反して、彼女の声は捨てられた子犬のようにか細かった。

「仮想世界じゃ、結婚できない。子供を産めない。愛し合うのも、殺し合うのもできない。全部全部、データのやり取りだけ。……そんなの、意味ない。欲しくないよ」

 一瞬、瞳の炭黒が日の出のように晴れ渡り、俺の顔を真っ直ぐと射抜いた。

「ねぇ……あたしたちは、人類を存続させたんだよ? 化け物と戦う力をあげたの。大勢の命を救ったの。ねぇ、新人類の功労者だよ……? どうして、生きていちゃダメだったの……?」
「…………」
「間違ってるよ……こんな世界。なんで戦争が起きたの。ずっと平和だったら、あたし……私……博士に、告白したかった……!」

 顔を覆って泣きじゃくるベート。俺は初めて彼女に同情した。

 仮想世界で、浦敷博士はベートが裏切った理由について深く言及しなかった。最初はベートに興味がないだけかとも思ったが、テララギのサーバーで襲撃を受けたと語った彼の表情を思い返すと、どうにも違和感を覚える。

 浦敷博士とベートの関係は、単なる同僚だけではないのでは。

 残念ながら、全てを聞き出す時間は残されていない。ベートはもう呼吸すら苦しそうだった。

 ふと、ベートの胸元に真っ白な魂のオーラが見えた気がした。歪んだベートの魂とは毛色が異なるそれは、俺の中に眠る『支配』の菌糸によく似ていた。

 呼ばれていると思った。俺は白い菌糸の光に従って、何の躊躇いもなくベートの手を取った。

「……最後に記憶を見させてもらうぞ」
 
 『支配』と『瞋恚』の菌糸を送り込むと、ベートの身体が激しく痙攣を始めた。同時に、俺の瞼の裏に他人の景色が浮かび始める。

 俺は自分の自我を見失わないよう、慎重に彼女の記憶へ潜り込んだ。



 脳裏にノイズが走り、とぎれとぎれの会話が聞こえてくる。

『……すれば、本当に現実世界に帰れるんですか?』
『……だ。……してもらえば、……せの計画より早く、人類は文明を取り戻せるだろう』

 次第に声が鮮明になり、自分の立っている場所も感知できるようになる。

 旧人類の文明世界──いや、仮想世界のオフィスらしき場所で、大柄の男と向かい合うベートがいた。

 遅れて、ベートの記憶から当時の細かな情報が流れ込んでくる。

 ここは中央サーバー。中央都市に隠された最初の仮想世界だ。この時はまだテララギのサーバーは閉鎖されておらず、別の仮想世界へ自由に渡ることが許されていたようだ。

 そして、彼女の前にいる大柄な男は、中央サーバー魂管理局の局長らしかった。

『これは浦敷博士も承知の計画だ。君に負担をかけたくないから黙っていただけだよ』

 二人の手元にはびっしりと文字が書かれた計画書が横たわっている。内容を見れば、それが終末の日を引き起こす予言書の一説だと一目で分かった。

 大柄な男はピエロのような笑顔を描きながら、ベートの耳元へ囁いた。

『博士にサプライズをしてあげよう。好きな人には喜んでほしい、だろう?』
『はい!』

 ベートは計画書を縮小し、白衣の中へ収納した。それから小躍りでもしそうな歩調で部屋を飛び出していく。

『身体が戻ったら、もう世界のことで悩まなくていい! またみんなで休暇をとって、海を見に行って……今度こそ、博士に好きって言う!』

 仮想世界に来たばかりの浦敷博士は、現実世界に残ったシモン博士と共にダアトの研究を始めていた。ベートは、研究に熱中する浦敷博士の邪魔をしたくなかった。

 浦敷博士と永遠に生きていられるのなら、一生告白できなくとも良いと諦めていた。だが、世界に平和を取り戻す唯一の方法が手元に舞い込んできた。しかも浦敷博士もこの計画に協力していると言うではないか。

 やはり浦敷博士も現実世界に戻りたかったのだ。だったら、その夢を叶えるのは自分でありたい。ただ浦敷博士に喜んで欲しい。

 純粋な思いを抱き続け、ベートは浦敷博士のパソコンをクラッキングした。

 そして、ダアトの研究をまんまと盗み出し、大柄な男へ嬉々として提出した。

 あとは、ダアトを使って肉体を生成し、現実世界で目覚めるだけ。大柄な男からは、明日の朝に中央サーバーの入り口で落ち合おう、と浦敷博士の伝言を貰った。

 空へ舞い上がってしまいそうな高揚感と共に、ベートは約束の場所へ降り立った。しかし待てど暮らせど浦敷博士はこない。中央サーバーのオンライン名簿にアクセスするも、そこには浦敷博士の名前がなかった。

『――博士? 浦敷博士? どうして中央サーバーに博士がいないんですか?』
『博士は寺田木の住民に監禁されているんだ』

 大柄な男が背後から笑いかけ、爪を剥がしたような小さなデバイスを差し出してくる。

『助けに行ってあげなさい。この薬が君を助けてくれるだろう!』

 ベートはそれを受け取り、テララギのサーバーで小さなデバイスを開けてしまった。デバイスの中から、小蠅のような小さなポリゴンが煙のように溢れ出し、テララギのサーバーを真っ黒に染め上げていく。小蠅もどきに触れてしまった人間は、悲鳴を上げながら倒れて動かなくなった。

 死屍累々の大通りを走り抜け、ベートは頬を赤らめながら輝かんばかりの笑みを浮かべていた。目尻には涙が滲み、手は真っ青になって震えている。腰が引けた駆け足はノロノロと遅く、少しでも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 長い時間をかけて、ベートは慣れ親しんだ研究所へ辿り着く。最下層のシェルターへ真っ直ぐ向かい、脱出ポットの前にいる彼を見つけた瞬間、思い切り呼びかけた。

『博士! 迎えに来ました! 他の人たちも一緒に中央サーバーへ! あそこなら安全です!』
『君は、自分が何をしたのか分かっているのか!?』

 肺を直接揺さぶられるような大喝だった。ベートは狼狽えながら、伸ばした手を中途半端に引っ込める。

『博士? どうして怒っているんですか……?』
『浦敷! 早くこっちに!』

 ミモナ博士に呼ばれ、浦敷博士は足早に脱出ポッドへと乗り込んだ。

 閉まりゆく分厚いハッチの隙間で、一瞬だけ浦敷博士の顔が大きく歪む。痛みを堪えるような、挫けそうになるような絶望がそこにはあった。

『君の事を、信じていたのに。もう俺たちに関わらないでくれ』

 完全にハッチが閉じられ、脱出ポッドが仮想世界から抹消される。直後、あちこちで隔壁が閉じられ、街中に感染区域リセットの警告音が響き渡った。

 研究所内の照明が真っ赤に染まり、ベートの視界から色彩が消え失せる。

『どうして……ミモナ博士のことばかり信じるの。私は全部、博士のために頑張ってきたのに……』

 隔壁で封鎖されたテララギのサーバーから帰還すると、例の大柄な男がベートを待っていた。魂が抜けたようにふらつくベートの肩に、男の手が紳士的に添えられる。

『私を、騙したの』
『いいや。あの女が君の博士を唆したんだよ。君は何も間違っていない。自信を持って』
『そう……だね。他の女がいるからだよ。そうだ、仮想世界に入った時に、博士の自我データが弄られちゃったんだ!』

 色を失ったベートの瞳に、じわじわと黒い霧のようなものが渦巻き出す。大柄な男はますます笑みを深め、ベートを強く抱き寄せた。

『改ざんされた記憶は、肉体に魂が戻ればすぐにでも復元できるよ。早く計画を進めなければ、浦敷博士はどんどん元の人格を失ってしまうだろうね』
『そんな……そんなこと絶対にさせません! あの女から必ず助け出さないと! 待っていてください浦敷博士! あたしが必ず助けますから!』

 チェーンが外れてもなお転がり落ちる自転車のように、ベートを構成する部品が次々に外れていく。振動しながらバラけていく破片が余りにもグロテスクだった。


「──!」

 全身からぶわりと鳥肌が立って、俺の意識が現実へ引きもどされる。

「あは、あはは!」

 笑い声に驚愕し、繋いでいたベートの手を放り捨てる。その手は中にうなぎを入れられたかのように、激しく水面を引っ掻き始めた。

「ひっ」

 見たこともない人間の動きに、俺は腰を抜かしながら後ずさった。

 数メートル離れてから、ようやく異様な光景の全体像が浮き彫りになった。心臓にバネが仕込まれているかのように、ベートの胴体が激しく飛び跳ねている。
 
「あは、あはは、やだもう、びっくりさせないでよ浦敷博士ったらこんなところにいた! あたし本当に心配したんだから! し、しししんぱい、しんぱい? あ、う? あぇ、e……eeeee――」

 人間とは思えない機械的な声を上げ、ベートの菌糸模様が激しく明滅する。不気味な光景に、俺は思わず口を押さえた。

 キィン、とこめかみを絞るような耳鳴りが限界まで膨れ上がった瞬間、菌糸模様の点滅がふつりと途切れる。

 ベートの呼吸が止まった。

 無意識に『瞋恚』を発動して、後悔した。生物には魂のオーラが、無機物にも輪郭が分かる程度の光があるはずなのに、ベートの体内は真っ黒だった。そこだけ影法師が居座り、あらゆる光の侵入を拒んでいる。

 彼女はきっと、この世の死に方ができなかったのだ。

 俺は両目をキツく閉じながら、胸元から迫り上がるえぐみを必死に抑え込んだ。呼吸が落ち着いてから、できるだけ影法師を見ないように立ち上がった。

 薄目になりながら足元を見ていると、傍らで赤い長髪が揺れるのが見えた。

「大丈夫か、リョーホ」
「ええ。レオハニーさんこそ、大丈夫ですか?」
「……あまり平気とは言えないが、それなりに見てきたからな」

 レオハニーは苦笑しながらぽんぽんと俺の頭を撫でると、流れるような動作で俺の手を引いた。彼女の手はかなり冷え切っていたが、逆に人間味があってほっとした。

「行こう、リョーホ。エトロたちが待っている」
「……はい」

 しばらくは何も考えたくない。だが俺の脳裏には、ベートから受け取ったもう一つの記憶がちらついていた。

 仮想世界にいる間、ベートはずっとささやかな思い出を反芻していた。親子のように手を繋ぐ三人の姿だ。幼い少女はレオナだろうか。誰かから借りた白衣を引きずって、自慢げに研究所の中を歩いている。その両脇には、微笑ましそうにレオナを見守る浦敷博士とベートがいた。

 ベート・ハーヴァーが最初から狂っていたのかは、誰にも分からない。中央都市にいる本人でさえ、もう判別がつかないだろう。

 意図せず手に入れてしまった彼女の幸せな思い出を、俺は墓場まで持っていくと決めた。

 紫紺に塗りつぶされた空を見上げると、北極星を取り囲む無数の星々が見渡せた。五百年前のうちに名も知らない星が消えては増え、その席を埋めてきたのだろう。

 ただ一つ変わらない北極星を見ていると、今日という日を無事に乗り切れたのだと、ようやく実感できた。
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